Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    不惑の果実
    ‐7‐




    『どんなに思っても、あなたには伝わらない』
     元妻の気持ちがわかると嶋田は言った。
     ――思っても伝わらないって……誰だって、そうじゃないか。
     元妻が本当にそう思っていたのなら、自分の気持ちは伝わっていたのかと問いたい。
     ……伝わってないだろう。
     離婚したいと言われたときは、寝耳に水の思いだった。それまで一度として、彼女から不平も不満も聞いた覚えがなかった。
     自分には不平も不満もなく、むしろ彼女を信頼しきっていたからこそ家のことも任せきりにできたわけで、彼女のことも自分なりに大切に考えていたつもりだった。
     しかし離婚を言い渡され、そうなってから彼女がどんな気持ちでいたのか知れて愕然としたけれど、彼女は恥じらいが強くプライドが高いことを思えば、そうなるまで鬱積させるしかできなかったことは容易に察せられた。
     離婚を決意して譲らない彼女を責める気持ちは湧かなかった。彼女の性格を見極めていながら、本当にはどんなことを望んでいたのか汲めなかった自分の不甲斐なさと引き受け、いっさい抗わずに同意した。
     今ならまだ人生をやり直せるとまで言われたのだ。自分との結婚は間違いだったと――。
    『志信さんは、誰でもよかったのよ』
     誰でもよかったとは今でも思っていない。三十七歳で課長職にも就いていながら未婚で実家にいる世間体など、自分は考えようともしていなかった。ただ漠然と、結婚してもしなくても、両親の老後は自分が見ることになるだろうと思っていた。見合いをしたのも、弟の結婚が決まったことで母親が強く勧めてきたからだが、彼女のような女性でなかったなら結婚しようとは思わなかった。
     初めての見合いではあったけれど、彼女の恥じらいの強さもプライドの高さも自分には好ましく、共感も大きかったから結婚を決めた。彼女が承諾しなかったならどうなっていたかを思えば、そこに熱情はなかったかもしれないが、大切に考えていたことに嘘はない。
    『どんなに思っても、あなたには伝わらない』
     そうだと思う。自分がどんな思いでいたかも彼女に伝わらなかった。それは、嶋田にも。嶋田の思いは自分に伝わっているということが、嶋田に伝わっていない。
     どんなに思っても伝わらない、なんて――。
     伝わらないと、嶋田に言われことがつらい。伝わらないはずがなかった。嶋田がどれほど率直で物怖じしない性格であろうと、前後の見境もなく同性の上司を押し倒したりしないことくらい、よくわかっている。
     唇を奪い、思いの丈を浴びせ、体まで求めてきた嶋田の情動は理解できていた。あの日を最後に、プライベートではもう会わないと自分が言ったから。嶋田は帰ろうとしたのに自分が引き止めたから。そのあとに偶然にも元妻と再び会い、尋常ではない仲と疑われて自分が激しく動揺したから。
     あの日を逃せば二度と自分に手が届かなくなると嶋田は言ったし、それは正しかった。だから血迷っていると思えた。どうして自分なのか、わからない。同性の、しかも上司の自分を、肉体の関係も含めて欲しがる熱情がどこから来るのか。
     まだ三十じゃないか……嶋田なら、女性のほうから放っておかないだろう?
     男前と言って申し分のない外見の上に仕事の実績もあって、自分以外に知られていないにしても家事も難なくこなせて、何ごとにも率直で物怖じしない性格でありながら、箸を置くにもワインを選ぶにも、細やかさがうかがえる男だ。恋愛に関心の薄い自分にはわからないだけで、異動してからの三ヶ月間にも社内で嶋田に好意を寄せている女性がいるかもしれない。
     ……きっと、いるだろう。
     嶋田には、自分がどんな思いでいるかなど伝わらなくていいように思う。嶋田を一方的だとなじった自分を、お互いさまだと嶋田はいさめた。
     人間同士の関わりに一方的なんてない――そうだろう。思いが伝わらないと相手が思うなら、自分の思いも相手に伝わらない。
     嶋田を支えにしたくて、寄りかかりたくて、いっそ受け入れたいのにそうできない自分の気持ちなど、嶋田には伝わらない。
     むき出しの感情をぶつけてくる嶋田には。
     はっきり、ひとりは淋しかった。この歳になるまで、ひとりで暮らしたことがなかったのだ。土曜日なのに嶋田が来ないから淋しい。ずっと勝手に来ていたのだから、自分が何を言おうとまた来ればいいのに、もう来ないのだから。
     ……その程度の気持ちだ。どう言おうと。
     そのくせ体調を気遣ったりして、いまだにプライベートに口を出してきて、やめてほしかった。見限ったのなら、放っておいてほしい。見限られて当然だ。自分は、元妻に離婚を言い出されたときから何も変わっていない。ひとりで暮らしていけるようになるどころか、嶋田が来なくなって虚しさまで感じている。
     しょせん、ひとりでは暮らせないか。
     自分をあざ笑うのも疲れた。何をする気にもなれない。たぶんこうして、時間ばかりを費やして、自分は老いて朽ちていくのだ。
     四十にして惑わずなんて……誰が言ったんだ。
     嶋田が最後に来た土曜日が誕生日だった。過ぎてから気づいて、言いようのない思いを味わった。不惑の歳を迎えた日に、これまでにない惑いにおちいった。孔子が論語を書いたのは遥か昔で、今の時代にはそぐわないにしても、嶋田を受け入れて孤独を埋めるなど、決して自分に許せないことだった。
     翌週になって、岩瀬は、化粧品の直営店の販売員たちをねぎらう件について部長に話した。暦は十月に替わり、半期末決算で上げた報告書は既に経営陣に渡っている。
    「なかなか気の利いた提案じゃないか。言い出したのは嶋田くんか?」
     あたりまえに自分とは考えにくいと言われたのも同然で、鷹揚に笑う部長に岩瀬は薄く苦笑してうなずいた。
    「そういうことなら私も同席しないとな」
     しかし、まさかそう返されるとは思わずにいて、うっかり顔に出そうになった。
     ――いや。部長なら、当然か……?
    「となると、きみと嶋田くんとで、こちらは三人か。直営店のほうも、責任者の三人だな」
     それも思っていたこととは違って、岩瀬は軽く目を瞠ってしまう。
    「どうした? 差別化も必要だろう? 責任者は雇用形態から変えるべきという嶋田くんの意見には、私も賛成だ」
     う、と声を詰まらせそうになり、辛うじて浅くうなずいて返す。
     ――確かに。販売員の全員に参加を求めるより現実的だし、副次的効果も見込める。
    「しかし、お嬢さん方をもてなすのに飲み会はいただけないな。三対三で向かい合うのも気が引けるだろうから、円卓か。『新海飯店』に予約を取るよう、嶋田くんに言ってくれ。電話番号は知ってるな? 社内の会食では経費で落とせないし、お嬢さん方の分は私が持とう。きみたちまでは見切れないがな」
     ニヤリと笑って見せた部長と目を合わせ、ふと既視感を覚えた。
     ――あ。
     嶋田が時たま見せる、あのいたずらっぽい笑い方と似ている。岩瀬は、胸がすくような、逆に胸が詰まされるような、アンバランスな気持ちにさらわれた。
     私のようになりたい、私が憧れだったと聞いたけれど――。
     きっと嶋田は、自分のような道は辿らない。豪胆でいて細心な、部長のような器に思える。
    「ということで、いいだろうか?」
     余裕の笑みで部長席から見上げられ、岩瀬はかしこまって一礼した。日取りは嶋田に調整を任せ、部長はそれに合わせると言った。自分も当然それに従うことになる。
     嶋田には、その日の終業時間が過ぎてから伝えた。あまり周囲に知られたくないと思うのは、こういった気遣いを自分が得意としないせいだと思う。
    「――え? 部長も、ですか?」
     課長席の前に立ち、嶋田は心もち目を丸くする。自分にも意外なら嶋田にも意外で当然だったかと、岩瀬は浅く息を落とした。
    「部長のお人柄は、だいたいでも、もう見当がついただろう?」
     つい言ってしまったのは、嶋田が異動してまだ三ヶ月だからにほかならない。
    「まあ……はい。と言うか、中華なんですね? 部長が負担してくださるということですが、コースで予約を取っていいのでしょうか?」
    「それも任せる。参加者に好みを訊いてくれても構わない。とりあえず、いつになってもいいと言われたが、やはり金曜日が無難だろう。直営店は忙しそうで申し訳ないが」
     部長会が定例で開かれる金曜日なら、まず間違いなく部長は退社後の都合がつきやすいはずで、だからそう伝えた。
    「責任者だけということなら、シフトを調整すれば曜日は関係ないはずです。ただ、ほかの販売員たちに――いえ。大丈夫です」
     ニコッと、邪気のない笑顔を返され、岩瀬は胸がつかえそうになった。やはり嶋田には部長に通じるものがある――そう感じた。
    「――わかった。では調整がつくようなら、次の金曜日にしよう」
    「承知しました、ありがとうございます」
     深々と頭を下げて、嶋田は席に戻っていく。
     ありがとう、と言われたって……私は何もしていない――。
     毅然とした後ろ姿を目に映し、ひそかに息をついた。そうなって、変に緊張していたと気づく。
     今の話も仕事の範疇に違いないのに、相手が嶋田だと、無意識にも構えてしまうのか。
     ……そんなこと。
     できるなら、自分は参加したくなかった。どんな名目の会食でも、嶋田と同席と思うと気が引ける。
     仕事を離れてまで嶋田のそばにいたくない。想像するだけで息苦しくなる。慰労会なのだから仕事と言えなくもないが、少人数の上に部長も同席では、黙って過ごしてはいられない。
     ビジネストークならいくらでも臨機応変にこなせる自信があるが、今回はそうはいかないだろう。二十代の女性三人を相手に、いわば機嫌を取りつつ、今後を見定めるわけだ。この三ヶ月間の業績をねぎらい、感謝を示し、さらに尽力するよう促して、反応をうかがう。
     私自身が意欲を失っているというのに――。
     ただ一言、やりにくい。普段から彼女たちに接している嶋田と、高みの見物とも言える部長とに挟まれて、実質的に自分が場を取り持つことになるだろう。それが負担に感じられるのも、嶋田がいると思うからだ。
     先週の課内会議のあと、あんな、口論とも取れる言い合いをしたのに、嶋田にはなんの変化も見られなかった。いっそ頑なに感じられるのは、たぶん自分の心情のせいで、嶋田は普段どおりに熱心に仕事をこなしている。
    『どんなに思っても、あなたには伝わらない』
     それを言った嶋田の声音が、まだはっきりと耳に残っていた。心が芯から凍てつくような響きだった。
     嶋田は、本当に自分を見限ったのか。もう振り向くことはないのか。やはり、その程度の気持ちだったのか――。
     岩瀬は、思わず頭を振る。自分が今どこにいるのか、それを思って深く息を継ぐ。肩を小さく回して、コリをほぐすふうを装った。心を乱していることを誰にも察知されたくなかった。嶋田にも――。
     嶋田を目に映し、胸がざわめくことに耐えられない。毅然として見え、恨めしく感じる自分をわかりたくない。
     嶋田にも心を乱していてほしいのか。自分と同じように。仕事の話をしていても、目が合えば平静を失ってほしいのか。そうと自分にわかる素振りを見せてほしいのか。
     一方的なんてない、お互いさまだと嶋田が言ったんだ。
     それをどれほどの気持ちで思い返すのか、岩瀬はわかっていなかった。自分ばかりが心を乱していると思えてならない理由を考えたくなかった。嶋田を遠ざけたのは、ほかならない自分であるのだから。


     広東料理の『新海飯店』は銀座にあって、慰労会の当日、岩瀬は経営企画部長とふたりでオフィスを出て向かった。
     嶋田は直帰扱いで三時頃から銀座店に行っていて、そこの責任者が早番で五時に上がるのに合わせてほかのふたりともどこかで落ち合い、その足で三人を店に案内すると言っていた。
    「やあ、そろってるね。お待たせして申し訳ない」
     案の定、嶋田のほうが先に着いていて、部長が声をかける前に、テーブルから気づいて立ち上がった。女性三人も慌てたように立ち上がり、嶋田が部長に椅子を引く様子に困惑したようになる。それを岩瀬が作った笑顔でいなし、彼女たちが席に戻るに合わせて自分も着席した。
     部長はさっそく飲み物のメニューを開き、女性たちに向けて、何がいいか気さくな笑顔で尋ねる。
    「紹興酒と杏露酒だ」
     言われて、前菜を運んできた店員に嶋田が注文を取りつけるが、あわせてジャスミン茶とソーダも頼んだ。
     岩瀬はターンテーブルを回して女性たちの前に前菜を持っていきながら、内心でそっと息をつく。部長はオフィスを出る前から上機嫌で、この会食が楽しみだと実際に口にしていた。今も率先して女性三人に飲み物を訊いたくらいで、もてなす気で満々だ。嶋田も同様で、『杏露酒』と言われただけで、割るためのジャスミン茶とソーダも注文する気の配りようを見せた。
     当の三人は心もち面食らっているようでも、委縮するほどではなさそうだ。個室では肩苦しくなるからと、嶋田があえて普通席の一番奥のテーブルを予約で押さえたが、そうするまでもなかったかもしれない。お先にいただきますと、ひとりがにっこりと部長に告げ、順に前菜を小皿に取り始めた。
     飲み物が運ばれてきて、それぞれの好みでグラスが行き渡り、乾杯がされた。嶋田が、部長から紹介を始める。全員と面識があるのは嶋田ひとりで、各店舗の責任者同士も今日が初対面だ。
     この三ヶ月間の業績のねぎらいは、部長の口からはっきりと伝えられた。責任者三人は、はにかむようになりながらも満足そうな笑顔で応えた。今後のいっそうの尽力を期待すると言われたときには、瞳を輝かせるような表情さえ見せた。
     料理は滞りなく運ばれてきて、それぞれに楽しむうちに会話もはずみ、直営店の責任者の集まりらしく、秋の新商品の売れ筋の話題で盛り上がりを見せる。
    「新宿店では、そうなんですか? うちでは、リップだと二〇三番が今一番売れてるかな」
    「え、二〇三番? うちは四九五番ですよ? 銀座店とも新宿店とも違う――」
    「通販では、どっちも売れてるみたいですね」
    「そうなんですか?」
     嶋田もさりげなく加わり、部長もほがらかな笑顔で会話に入ってくる。
    「通販は、購買層が広いからな」
    「やはり直営店には、立地などの条件の違いで購買層にかたよりが出ますから」
     ひとりだけ黙ってはいられないように思え、岩瀬も淡々と言い添えた。
    「それだと、やっぱり銀座店と新宿店のほうが、年齢が高めとか?」
    「年齢よりも、会社員が多いとか学生が多いとかじゃないの?」
    「渋谷店は、そっちの影響のほうが強いかな」
     岩瀬のあとにも会話は続き、嶋田はすんなりと溶け込んで話す。そういった様子を部長はにこやかに眺め、紹興酒のグラスを空けた。気づいて岩瀬が注ぎ、自分にも注ぎ返される。
     ……ま、こんなものか。
     場を取り持つのは自分の役目と思っていたが、むしろ出る幕がないようだ。部長につきあって紹興酒の杯を重ね、一緒になって静観する。
     改めて考えるまでもなく、直営店の販売員なら外交的で快活であって当然だろう。今は緊張もすっかり解けたようで、会話も料理も杏露酒も、大いに楽しんで見える。
     心なしか、彼女たちの嶋田に向けられる視線が熱い。彼女たちは独身で、嶋田がどんな男かを思えば当然と言えば当然だが、こうして目の当たりにしていると、なんとも言えない気分になってくる。
     一般的に化粧品会社で言うなら美容部員に相当するにふさわしく、彼女たちは三人とも化粧が丁寧で、身だしなみも今日の席に合わせて正し、好印象の上に実際に美人だ。
     そもそも嶋田とは日頃から接しているわけで、信頼もあって当然だし、親密にもなるだろう。だからこそ三ヶ月間で業績を伸ばすこともできたのだろうし、何も悪いことはない。
     そう思うのに岩瀬は胸が翳っていく。ふと店内の様子を目に映せば、ほぼ満席で、どのテーブルも楽しそうな雰囲気に包まれていた。
    「あの、こんなときに言ってもいいのか……」
     コースの最後の杏仁豆腐が運ばれてきて、責任者のひとりが遠慮がちに口を開いた。
    「季節ごとの新商品のテスターなんですけど、今より早く回してもらえませんか」
     誰に言ったらいいのかと迷うように視線を泳がせ、結局は嶋田に顔を向けた。
    「テスターは、通販と同様に扱いを始めると引き継いだので、今回はそうしたんですけど」
     質問に答えるようにしながら、嶋田は岩瀬と部長に向き直る。
    「それは、配布用の試供品だな? それとは別に、店頭で試せるものが早くほしいということかな?」
     岩瀬が受けて、最初の質問をした責任者に問い返した。
    「はい。発売と同時より、もっと早くお客さまに試してもらえれば、発売日から売れると思うんです」
     神妙な顔つきになって答えた彼女に、ほかのふたりも真剣に同意する。
    「うちも、新商品の出足は毎回いまひとつです。通販でも発売前は試供品を出さないことは知ってますが、直営店は通りがかりに立ち寄ってくださるお客さまもいるので、通販とは別にしてもいいと思うんですけど――」
    「通販も利用されてる方でも、店頭で試してみたいとよく言われます。通販の試供品は、何か買わないともらえないからって」
    「なるほど」
     部長が大きくうなずいて返した。
    「そういうことなら、私がどうにかしよう」
    「――え。部長さんが?」
     三人三様に驚いた顔になり、急に改まって、それぞれに頭を下げる。
    「すみません、こんなときに!」
    「直接いきなり言って、すみません」
    「いやいやいや、仕事に熱心なら大歓迎だよ。今後も、こういった意見があれば嶋田くんに言ってくれるかな。私にも伝わるから」
     鷹揚に笑う部長に恐縮し、そろって嶋田に申し訳なさそうな目を向ける。嶋田は薄く苦笑しながらも、はっきりうなずいて返した。
     ……なるほどな。
     飛び越し決済とも言えることをやってのけてくれた三人だが、彼女たちの待遇を雇用形態から変えるべきと嶋田が意見を出した背景に納得した。自分にも意見が求められるなら賛成できると思う反面、胸がまた翳っていく。
    「こちらこそ悪かったな。これまで、意見を言える機会がなかったのだろう? それに今さらだが、金曜日に呼び立てて悪かった」
    「――え」
     言われた三人もだが、依然として鷹揚な笑みをたたえる部長に、嶋田も岩瀬も目を丸くした。
    「金曜日はプライベートで忙しいだろう?」
     ことさら軽い口調で部長が言うのを聞いて、岩瀬はうろたえそうになる。一歩取り違えば、セクハラまがいの発言だ。
     しかし女性三人は、恥ずかしそうにかしこまった。
    「大丈夫です、べつに予定なんてなかったし」
    「わたしも」
    「おいしかったし、楽しかったです、本当に」
    「そうか? なら、最後まで楽しんでいってくれ」
     部長は、まだ残っている杏仁豆腐の大鉢を彼女たちの前に回す。そうする陰で、嶋田にクレジットカードを手渡した。嶋田から店員に、そのカードと伝票が渡される。
    「岩瀬くんも楽しめたか?」
     唐突に隣から言われ、驚いた。部長と目を合わせ、岩瀬の鼓動は不安定に揺れる。
    「――はい。もちろんです」
     そんなにも自分は仏頂面でいたかと焦った。
    「私も、こういった会合は楽しかったよ。若いみなさんは、いいな。久々に現場の雰囲気を味わったと言うか――」
     岩瀬に返せる言葉はなく、部長のグラスに紹興酒を注ぐ。そうしたら、わずかに残った分をすべて自分に注がれてしまった。
     ……私は若くはないんだが。
     嶋田が、テーブルに隠れて部長にカードを返すと共に、無言でサインを求めた。それに気づいて女性のひとりが隣から嶋田をつつく。
    「わたしたちの分は――」
    「なんだ? 言ってなかったのか?」
     耳ざとく部長に問われ、嶋田は困った顔で薄く笑う。
    「すみません。みなさんには部長がごちそうしてくださいました」
    「スマートじゃないな。きみらしくもない」
     ありがとうございますと、女性三人から口々に言われ、部長は嶋田に苦笑して見せるが悪い気はしないようだ。紹興酒のグラスをあおり、にっこりと言う。
    「さて、引き上げようか」
     その間に岩瀬も紹興酒を飲み干し、部長のあとを継いで閉会を告げた。それとなく互いに礼をしてテーブルを離れる。
     連れ立って店の出口前のレジまで来て部長が足を止めた。
    「そうだ。ほかの販売員のみなさんに、店にひとつずつ焼き菓子でもどうかな?」
     振り向いて岩瀬が言われ、同意しかけたら、女性三人がそれぞれに慌てて手を振った。
    「うちは、もうもらってます」
    「うちも。嶋田さんから」
    「え? うちもです」
    「そうなのか?」
     部長に問われ、嶋田は困りきった顔で笑う。
    「ええと……すみません。出しゃばりました」
    「何を言うんだ」
     バンと豪快に嶋田の背を叩き、押すようにして部長は店を出ていく。
     岩瀬は、身の置き場のない思いに駆られた。自分は何をしていたのだろうと、今日ここに来て何をしたのだろうと、そんな気持ちで胸がひしめく。背後で、女性三人がひそひそと交わす声にも責め立てられるようだった。
     しかし、路上に出て六人がそろうと、女性たちは明るい笑顔で言う。
    「もしよろしければ、このあとカラオケどうですか?」
    「部長さんも、ぜひ」
     大胆にも、ひとりが部長の腕を捕った。
    「うれしい誘いだな」
     にこやかに笑いかけられ、部長もにっこりと返す。
    「嶋田さんは?」
    「課長さんも」
    「私は――」
     岩瀬は口ごもる。この流れで断ることはできないと頭で考えるが、もはや気持ちが追いつかなかった。
    「大変恐縮ですが、今日はこれで――」
    「岩瀬課長」
     部長に向かって言ったつもりが、嶋田が顔を覗き込んできて、心臓が止まるかと思った。今日、初めて目が合ったように思う。いや、そうだ。会食中も一度も目が合わなかった。
    「ずいぶん顔色が悪く見えますけど、大丈夫ですか?」
     それなのに、そんなことを言ってくる。
    「ご自宅まで送りましょうか」
    「何を言っているんだ、きみは」
     だから、ついカッとなった声が出た。嶋田は目を丸くするが、部長は呆れたように笑う。
    「嶋田くんは来なさい。岩瀬くんは……本当に顔色が悪そうだな。これじゃ無理は言えん」
    「――申し訳ありません」
    「謝るほどのことじゃない。私たちは楽しんでくるから、きみは帰って寝なさい」
     その一言が、ぐさりと胸に突き刺さった。部長は口元で笑んでいても、目が笑っていない。嶋田が痛々しそうに見つめてくる眼差しも、わずらわしいだけだった。
    「では行こうか。このあたりは、きみのほうが詳しいかな?」
     銀座店の責任者にふざけた調子で話しかけ、戸惑いを見せていた女性三人を部長は穏やかな笑顔で包み込むようにして歩き出す。それを横目に、岩瀬は小さく嶋田に言い切った。
    「行ってくれ」
    「わかってます、でも――」
    「部長を頼む」
     ほかに言いようがなかった。本来なら自分の役目でも嶋田に委ねるしかない。だがそれも、今の状況では怪しいものだ。
     既に用なしと思える自分をあわれむ気にも、叱咤する気にもなれなかった。とにかく今は、一秒でも早く自宅に帰りたかった。
     きつく睨みつければ、嶋田は失望したように顔を歪ませて身をひるがえす。岩瀬も踵を返すが、その一瞬に嶋田が振り向いたように感じた。
     だが、それを確かめることはない。たとえそうだったとしても、嶋田はもう部長に追いついて、背を見せているに違いなかった。


    つづく


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