Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    夏駆ける、きみ
    −3−



         三


        「集合!」
         体育の岩田のダミ声が、プールに響いた。
        「おい、琢己」
         誰もが見かけだけの早足でダラダラと集まっていく中で、繁が横から俺を小突く。
        「見ただろ?」
        「何を」
        「見てないのかよ。紺野、いい体してんのに」
        「まだ言ってんのかよー」
         呆れて、ため息が出た。
        「何の話?」
         靖男が後ろから顔を出してくる。
        「紺野の話。あいつ、見かけよりずっといい体してるって、靖男も思うだろ?」
        「――え?」
         靖男は一瞬ぽかんとして、それからムッとして繁に言う。
        「それってセクハラ」
        「はぁ? セクハラっておまえ、紺野は男だぞ?」
        「同じじゃん。て言うか、『いい体』言うなら、それは繁でしょ」
         口早に小声で言って、俺たちを追い越して先に行ってしまった。
        「……なんだ? あれ」
         靖男のほっそりとした背中を見て繁が言う。
        「いいんじゃね? おまえ、いい体なんだし」
         言ってやったら、繁はまんざらでもなさそうに横顔で笑った。……不気味だっての。
         体育の授業で水泳は今日が最後とあって、集合後は自由形五十メートルの計測が始まった。出席番号順に六人ずつ泳ぐ。スタート台の後ろに並ばされて順番を待つのだけど、紺野は転入生だから出席番号が最後で、俺よりも後ろの列にいる。
         振り向きたくなったのは、繁があんなこと言ったからだ。振り向いたって、体育座りで並んでるんじゃ、見えても顔だけなんだけど。
         気にしたってしょうがない、気にするのがおかしい――自分にそう言い聞かせて、日が過ぎるばかりだった。紺野に立ち入ったことは言えないし、麻生が気に入らなくたって、俺の憶測の範疇じゃ、やっぱり何も言えない。
        『紺野の、バカ!』
         道端であんなこと言っちゃったし。紺野は何も言ってこなかったけど、俺は余計に話しづらくなったよ――。
        『最近、なんか元気ないよな、おまえ』
         稽古で繁にドヤされることはもうなかったけど、思い出したようにそう言われている。
        『気のせいだろ』
         俺がそう答えているのは、もうすぐ夏休みだからだ。夏休みになって、紺野と顔を合わせる機会もなくなれば、そのうち気にならなくなるんじゃないかという……自分でも、消極的かつ情けないと思う理由からだった。
        「次!」
         岩田の号令が上がるたびに順番待ちの列は減っていく。計測が終わったやつらがプールサイドから飛ばす野次が騒々しい。
         自分の番が終わってプールから上がった。繁と靖男が一緒にいるのを見つけて歩み寄る。
        「繁、あんまり速くないんだね」
         靖男に言われて繁がムッとした顔になる。
        「重量級だから仕方ないんじゃね?」
         俺は笑いそうなのを堪えて言って、まだ水滴の垂れる体で繁の隣に座った。
        「つか、特別速いやつなんて、いないじゃん。うちの高校、水泳部ないし」
         だけど、繁が悔し紛れに言った声は、突然湧き上がった歓声に消えた。
        「うわ、すっげー、あれ誰?」
        「紺野だよ! マジ速っ」
         座っていたやつらが一斉に立ち上がった。プールのへりに群がって、口々に叫ぶ。
        「行け! 紺野!」
         俺も繁も靖男も、伸び上がってプールを見た。ちょうど紺野ひとりがターンをするところで、ほかのやつらを大きく引き離し、すぐにでもゴールしそうな勢いで泳いでいく。
        「は、速ぇ……」
         繁じゃないけど、開いた口が塞がらなくなった。呆気に取られて眺めるだけだ。
        「おぉぉっ」
         紺野がプールエンドにタッチした瞬間、まさに雄叫びが上がった。
        「すげぇよ、紺野!」
        「めちゃくちゃ速いじゃん!」
         プールから上がって、紺野はいきなり取り囲まれ、次々と質問を浴びせられる。
        「おまえ、なんでこんなに速いの?」
        「え……」
         興奮した誰かの声に、紺野は面食らうように答えた。
        「ずっとやってたから……」
        「前のガッコで水泳部だったとか?」
        「そ、そうだけど――」
        「もったいねえ〜」
        「大会、出ればいいのに!」
        「遅ぇよ、紺野もっと早く転校して来いよ〜」
         理不尽なことまで言われて、紺野は完全に引いている。
        「おまえら! ほら、整列しろ!」
         割って入ってそんなこと言っても、体育教師の岩田が一番興奮してるのは明らかだ。
         うちの高校に水泳部はないけど、大会には選抜メンバーで毎年出場している。誰かが、紺野に『もっと早く転校して来い』と言ったのはそのせいで、今年度のエントリーはもう締め切られたからだ。
        「そんなら、インハイ終わってから転校してくればよかったのに。こっちに来てなきゃ、向こうで出られたんじゃねえの?」
         岩田に促されながら整列する中で、誰かに言われて紺野は苦笑する。
        「インハイなんて、無理だよ」
        「今までの最高って、どのくらい?」
        「……県大会で、個人十位」
        「やっぱ、すげぇじゃん!」
        「ほらそこ! 黙ってやれ!」
         整理体操が始まっても、ざわついた雰囲気は収まりそうにない。
        「納得」
         繁の声が耳元で聞こえた。腕を振り上げて体を横に曲げたタイミングで言ったんだ。
        「だから紺野、いい体してんだな」
         俺も同感だけど呆れるよ。
        「繁、頭ぶつかる」
         言っても無視は当然で、繁は俺と話すのにちょうどいいから、わざと左右反対に体操している。
        「琢己もそう思うだろ?」
         やめてほしいから本音で答えた。
        「まあな」
        「なんだよ、まあな、って――」
         不満そうに言ったけど、繁は左右の動きをみんなに揃えた。
         俺は紺野に目を向ける。体を動かすたびに角度が変わって、何人かの後ろ姿の向こうに、ちらちらと見える。
         締まって、少しの無駄もない背中――繁は『いい体』と言ったけど、俺に言わせるなら……とてもきれいだ。
         水泳選手だったのなら柔軟性に富んでいるのも納得で、こんな整理体操でも、しなやかに動く。肩にはまだ水滴がついていて、夏の太陽を受けてキラキラ光る。
         やっぱり……とてもきれいだ。
         あまり日焼けしていないから、きっと、転校前は屋内プールで泳いでいたんだろう。県大会十位の記録を出せるくらいなんだから、校外のスイミング・クラブにも所属していたに違いない。
        「気をつけ! 礼!」
         授業が終わる。みんな、いつもならすぐにバラバラと更衣室に向かうのに、何人かは紺野を囲んで、また質問を浴びせる。
        「こっち来てから、どうしてんだよ?」
        「クラブとか、入ったのか?」
         俺はその場に立ったまま、紺野を見ていた。
        「今は、まだ考え中」
         答えながら紺野はスイミング・キャップを取る。頭を一振りして、髪を梳き上げた。
        「それ、ゼッテー、もったいないって!」
        「おまえ、今、帰宅部だろ?」
        「いいかげんにしろ、おまえら。次の授業に遅れるぞ」
         岩田の喝が入って、紺野を質問責めにしていたやつらは渋々と更衣室に向かった。岩田が紺野に近づいて言うのが聞こえる。
        「紺野。放課後来てくれ。話がしたい」
        「――はい」
         紺野はポツンとひとりになって、小さくため息をついた。
        「おい、琢己! 早く来いよ」
         先に歩き出していた繁が俺を呼んだ。紺野が俺に振り向く。真正面から目が合った。目を――離せなくなった。
         なんだろう……この気持ち。
         ズクッと胸が響いて、ドキドキが止まらなくなる。紺野も目をそらさずに、じっと俺を見ている。
         濡れた前髪が額に落ちていて、その陰から少し驚いたように俺を見ていたのが、なんだか眩しそうに変わって、恥ずかしそうな、照れたような表情になって、頬を――染め……たように見える。
         左目尻のきわの小さな泣きボクロ――。
         くらくらしそうだ。底抜けに明るい太陽の下で、水着姿の紺野をまともに見て――。
         繁の言う『いい体』は……すっきりと、ほどよく締まっていて、すんなりと伸びた脚、ヘソまで形がよくて、平たくてなめらかに見える胸、そこにある――。
         ギクッとして、思わず手で口を塞いだ。紺野が大きく目を見張る。ぽかんと開く唇――厚みがあって、やわらかそうで……。
        「……琢己?」
         不思議そうに呼びかけられて、ハッとなった。慌てて背を向ける。紺野から逃げるように更衣室に急ぐ。顔が熱い。
         俺……どうなってんだよ……。
         手で隠すべきは口ではなく、場違いに疼いた股間だったなんて――。
        「おっと!」
         更衣室の前で、中から出てきた麻生とぶつかりそうになった。
        「おまえ――」
         つぶやいて顔を上げ、麻生は俺に目を見張る。
        「次……芸術だぞ? 書道の安斉、遅刻にうるさいんじゃなかったか?」
         言いながら表情を整え、俺の肩を手の甲で軽くはたいて離れていったんだけど。
         目が、笑ってた。メガネの奥で――『勃ってんぞ』って。
         ……くっそぅ。
         ムカついたけど、こんなことで追うんじゃ余計にみっともないし――次の書道の安斉は、マジに遅刻に厳しいんだ……。


         放課後になって教室がざわついているのは『紺野の意外な事実』の余波もあったけど、もうすぐ夏休みだからだ。
        「なんだよ夏休みも部活ばっかなの、おまえ」
         繁の席に来ているやつが声高に言うのが聞こえた。夏休みの練習計画は繁の思いどおりに決まったから、まったくそのとおりだ。
        「繁、ちょっとコレ見ろよ」
         水曜日で部活がないもんだから、たむろし始める。当然、靖男も来ていて、ほかのやつらと一緒に繁の机に身を乗り出した。
        「おわ、すっげ……」
         繁の浮ついた声がする。
        「琢己、とぼけてないで、おまえも見ろよ」
        「いいよ、俺は」
         どうせまた『やりてえ』だとか始まるのを思うと、チラ見さえ気が進まなかった。プールであんなふうになったあとじゃ……なおさらじゃん――。
         繁とは反対側の、右隣の席は空っぽだ。きっと、紺野は岩田のところに行ったんだろう。
        「これなんか、すっげー、クルよな」
         少しの遠慮もない声が耳につく。その横で鞄に教科書なんかを詰めていると、なんだか虚しくなってきた。
        「……はあ〜」
         特大のため息が出てしまったよ――。
        「わ、琢己暗〜い」
         靖男の声が聞こえて。
        「けど、これはちょっと顔がいまいち」
         ぜんぜん関係ない繁の声が聞こえて。
        「そうか? おまえ、ホント、メンクイな」
         それに答える誰かの声が聞こえて。
        「だってよー、これだったら紺野のほうが、よっぽどいくね?」
        「お? 繁、紺野で脳内変換?」
        「やっぱ、おまえメンクイ――」
        「紺野襲うなよ、繁」
         能天気な声が立て続けに聞こえ、俺はいきなりブチ切れた。
        「ふざけてんじゃねえ、繁! 紺野は男だぞ、キモイこと言うな!」
         言い捨てた途端、ガッと誰かに肩を掴まれた。強引に振り向かされ、ピシャッと平手を食らう。
        「こ、紺野?」
         なんで――。
        「イッテェ! 靖男、なんで殴るんだよ!」
        「自分の胸に聞け! セクハラバカ!」
        「待てよ、おい!」
         何が起こってるんだ……。
         靖男が教室を飛び出していく。繁が慌てて追っていく。繁の席にいたやつらは、一様にぽかんとなって、紺野は真正面から俺を睨みつけていて――。
         紺野のくっきりとした目が、俺をきつく見下ろしたまま、じわっと潤んだ。厚みのある唇が小刻みに震え出して――。
        「こ、んの……?」
         俺が声を出した瞬間、紺野まで教室を飛び出した。追っていいのかどうなのか、俺……また紺野にあんな顔させて――。
        「てっ」
         バコッと頭を叩かれて振り向いた。ファイルを片手に、麻生が呆れきった顔で突っ立っている。
        「おまえ、つくづくバカ」
        「なにすんだよ、麻生!」
        「なんで、追わないんだよ」
        「うっ――」
        「ちょっと来い」
         俺を無理やり立たせて、俺の腕を引いて、麻生は俺を廊下に連れ出す。
        「なんであんなこと言うんだ」
         俺を窓際に引き寄せると、小声で言った。
        「あんなことって……どれのことだよっ」
         なんか、急にムラムラと苛立ってきた。
        「キモイって言っただろ。紺野が戻ってきたのに気づかなかったにしても、そんなふうに言えば紺野が傷つくの、わからないのか?」
         冷静な声で低く言われ、余計に苛立つ。
        「じゃあ、おまえは平気なのかよ! 繁のやつ、エロモデルの顔、紺野に置き換えるって言ったんだぞ!」
         思わず手が出て、麻生の胸倉を掴んでいた。勢いで、メガネの奥の目を睨みつける。
        「紺野がオカズにされそうなの、俺が黙って聞いてられるわけないだろ!」
        「……え」
         麻生は大きく目を見張る。まじまじと俺を見る。
        「待てよ、琢己――落ち着いて話そう」
        「そっちが吹っかけてきたんじゃねえか!」
        「わかった、それは謝る。だから、な?」
         俺は気まずく手を離した。麻生はシャツの胸を軽く払って、メガネを直す。
        「それって……つまり、琢己は紺野の名誉のために言ったって、そういうことだな?」
        「あたりまえだ」
         速攻で答えた俺と目を合わせ、麻生は思いきり息を吐いた。
        「――なんだよ」
        「いや……なんて言うか」
         俺を見る麻生の目が、哀れむように変わる。
        「間が悪いって言うか、不器用って言うか」
        「何が言いたいんだよ」
        「おまえ――マジにわかってないのか?」
        「だから訊いてんだろ!」
         麻生はすっと姿勢を正し、やたら真剣な顔になる。
        「おまえさ。紺野がオカズにされたら、どうして嫌なんだ?」
        「んなの、決まってんじゃん――」
        「どういうふうに?」
        「嫌だろ、フツーに!」
         ふうん、と麻生はつぶやいて、疑うようにチラッと俺を見た。改まって、言う。
        「けど、紺野には、そうは聞こえてないぞ」
        「――え?」
        「男をオカズにするなんてキモイ、って聞こえたんだよ」
         ……ショックだ。そんなつもりで言ったんじゃないのに――。
        「紺野なら、傷ついて当然だろう? それは、わかるよな?」
         麻生は、黙り込んだ俺を冷ややかに見る。
        「紺野の気持ち、もっと考えてやれよ」
         けど、それにはカチンときた。
        「そこまで言うなら、俺にも言わせろ」
        「え?」
        「紺野振り回すの、やめろよな」
         きっぱり言い渡してやったのに、麻生はきょとんとした顔になった。
        「カノジョいるなら、紺野に無駄な期待させんな」
        「琢己……なに言ってる?」
         それには本気で驚いた。まさか、麻生が気づいてないなんて――。
        「生徒会の仕事手伝わせて引っぱり回すな、って言ってんだよ。紺野、役員じゃないんだし。やさしい顔見せて利用すんな、っての。惚れられてるの逆手に取るなんて、おまえが信じらんねえ」
        「待てよ琢己。どうしたら、そうなるんだ?」
        「自分がやってることだろ!」
        「それ……マジ?」
         途端にガックリと肩を落とし、麻生は額に手を当てて下を向く。
        「なんかもう……笑っちゃっていいのか」
        「いいわけないだろ!」
        「鈍いくせに、そんなところに気を回してたなんて――」
         つぶやくと、顔を上げて俺を見た。
        「なんかおまえ、かわいっぽくて、好きだ」
        「はぁっ?」
         俺にはちっとも通じてないのに、麻生はどう見ても笑い出しそうなのを堪え、振り向いて廊下の先に目を向ける。
        「そうなら、こんな話なんかしないで、すぐに追わせるんだった」
        「なに言ってんのか、ぜんぜん見えねえ」
        「……もしかして、プールのときのアレも」
         言いかけて、プッと小さく吹き出した。
        「だから、なんだってんだよ、麻生!」
        「琢己」
         俺に目を戻してきて、真顔になって言う。
        「ハッキリ言ってやる。紺野は、俺になんか惚れてない」
        「……え」
         なら――今までの、あんなことや、こんなことは……何だったんだよ? 
        「もうひとつ教えてやるよ。紺野が生徒会の仕事を手伝ってくれる理由」
         キラッとメガネを光らせ、口元で笑った。
        「自転車置き場が見えるから」
         ……それって、どういう――。
        「あいつが見かけよりもずっと情熱的なのは、本当だ」
         何も返せなくなった俺の肩を、さっきみたいに手の甲で軽くはたいた。
        「おまえも『歩夢』って呼んでやればいい。あのときは無駄に煽って悪かった」
         あのとき――? 煽った? 俺を?
        「俺はこれから生徒会だから」
         麻生はファイルをちらつかせて、俺に背を向ける。
        「あ、そうだ」
         けど、すぐに足を止め、ファイルの中から何か取り出した。
        「これ、やるよ」
        「って、麻生……」
         手渡されたものに目を移して、マジにビビった。麻生は笑いを堪えながら返してくる。
        「あいつ、情熱的だし。おまえもそうみたいだから――なんて言うか、たしなみ?」
         いや……だとしても、いきなりコレは――何も声が出ないうちに、麻生の後ろ姿は遠くなっていく。
         マジかよ、麻生……。
        『まだだよ』
         あいつ、嘘ついてたんだ――こんなもの、持ち歩いてるなんて。つか、なんで生徒会のファイルに入ってたんだよ? じゃなくて、俺にこんなもの渡して、なに考えてんだよ!
        『あいつ、情熱的だし。おまえもそうみたいだから』
         それは、おまえなんじゃねえの、麻生!
         ハッとして手の中のものを急いでポケットにしまった。心臓がバクバクする。麻生からゴムもらっちゃうなんて……顔が、熱い――。


         部活停止の水曜日の放課後――俺は、ざわめきの残る校舎の中をさまよう。帰宅するやつらと廊下ですれ違い、紺野を探す。
         どうして平手を食らわされたのか――麻生に言われなかったら、きっとわからなかった。
         俺って、マジ鈍い――。
         だけど、今は落ち込んでる場合じゃない。早く紺野を見つけて、速攻で謝りたい。そんなつもりで言ったんじゃないって、誤解を解いて許してもらいたい。
         じゃなかったら、俺。
        「……くっそぅ」
         今になって気づくなんて。麻生に言われて気づくなんて。紺野が気になってならなくて、なのに、思うように話せなかったのは、紺野に嫌われたくなかったからで――俺、余計なこと言っちゃうから……って、小学生かよ。
         ビクついてないで、俺からもっとたくさん話せばよかったんだ。誤解されても、ひとつひとつきちんと解いていけば、もっとずっと近くなれていたに違いないのに――。
         もう、嫌でもわかる。俺は、紺野に嫌われたくなかっただけじゃない、俺を好きでいてほしかったんだ。俺が紺野を好きだから――。
        「もう、二度目はないからな!」
         階段を降りる先から聞こえた声に、ハッと顔を上げた。
        「わかってるよ、だから謝ってんじゃん」
         靖男と繁――。
        「なら、ケーキ五個」
        「え? そんなんでいいのか?」
        「……七個にしたいわけ?」
        「五個でいいです、文句ないです」
        「このあと、すぐだからな」
        「って……今日、寄っていい――」
        「あ、琢己」
         階段を降りきった角で、鉢合わせになった。なんだか気まずい。
        「琢己?」
         靖男に続いて繁にも呼ばれたけど、俺は背を向けた。何がどうなってたにしても、もう仲直りできたならいいじゃん。今は俺のほうが大変なわけで――。
         けど……なんだよ、今の会話。うらやましくて笑える。繁と靖男はケーキ五個でカタがつくんだから、いいよな。
         紺野は、どこにいるんだろう――。
         まさか……今もそこに紺野がいるとは思いたくないけど……靴を履き替えて外に出た。
         自転車置き場の陰から、生徒会室をそっと覗く。――いない。麻生に気づかれる前に離れた。ほかにこれと言った心当たりのないまま、校舎の角を曲がった。
         部室棟の前を過ぎて、体育館から続く道場の手前に出る。ここで右に折れて中庭に入れば、外から向こうの校舎に行けるわけで――。
         ふと、視界の隅に映った影に足が止まった。校舎に外付けになっている非常階段――その二階へ続く踊り場に、紺野はいた。
         一番上の段に座り込んで、立てた膝に腕を組んで、顔をうずめている。普段なら部活で騒がしい場所だけど、今は閑散として、ほかに誰もいない。
         すぐに紺野のところまで行こうとして、気が引けた。紺野はコンクリートの手すりの陰にいて、弱い風に吹かれている。トップの長めの髪が組んだ腕にかかって、揺れている。
         いきなり何かしようものなら、壊れてしまいそうに見えた。壊したくない。
         俺は、話しかける言葉を探しながら、一段目にそっと足を置く。静かに、紺野を驚かさないように、ゆっくりと近づいた。
         あと数段というところで、紺野が顔を上げた。俺を見て、目を大きく開く。
        「……なんで」
         そう言ったきり逃げてしまうように思えて、俺は咄嗟に伸ばした手で紺野の腕を掴んだ。
        「た、くみ――」
         俺を見上げる目が怯えて揺れる。涙はまだ引いてなかったのか、潤んで光っていて――。
        「ごめん……」
         じっと俺を見つめたまま、消え入りそうな声で言った。
        「いきなり、ひっぱたいて。わけ、わかんなくて――怒ってるよね」
         俺は、紺野の腕を掴んだまま――固まった。
         まさか、紺野から謝られるなんて……。
        「なんかもう……いっぱいになっちゃって。琢己を困らせないって、決めていたのに――」
         これは違うだろ、謝るのは俺だろ――そう思うのに声が出ない。よく考えて言葉を選ばないと、また、紺野を傷つけてしまう――。
        「もう、オシマイだ。みんなの前で、琢己をひっぱたいちゃったんだから。なんで抑えられなかったんだろ……最初からわかってたのに……琢己は、男なんて気持ち悪いって――」
         ……最初、から?
         あまりにも意外なことを聞かされて、頭の中が真っ白になる。すぐに訊き返したいのに、声はますます出てこない。
        「こんなことになるなら、せめて、ちゃんと伝えておけばよかった。そうしたら、きれいに諦められたのに――」
         震える声で言って、紺野は顔を背ける。閉じた目尻から涙がこぼれた。小さな泣きボクロ――。
        「……待って……くれよ」
         やっと出てきた俺の声も震えていた。
        「俺……いつ、そんなこと言った?」
        「――え?」
         紺野は涙に濡れた目で視線を流してくる。
        「だから、男なんて気持ち悪いって……俺、言ったか?」
        「言ったじゃん、さっき!」
         途端に顔を戻してきて、真正面から目を合わせた。
        「最初にも、言った! 食堂で。ぼくは普通じゃないから、隠せって!」
         紺野は唇を噛んで、食い入るように俺を見上げている。眼差しは真剣そのもので、俺をなじるというより、悲痛に訴えてくるようだ。
         あれは、そんなつもりで言ったんじゃない。だけど紺野には、そんなふうに聞こえてたなんて――。
        「……マジ?」
         紺野は答えない。目もそらさない。
         涙を堪えているのは疑いようもなく、俺に向けて大きく見開いている目は、今にも溢れ出しそうで――。
        「あっ……た、琢己?」
         紺野の戸惑う声は、耳元で聞いた。ほかに、どうにもできなかった。俺は、膝をついて紺野を抱きしめる。知らないうちに、何度も言葉で傷つけてしまったのを謝りたくて、そんな俺を許してほしくて……ただ、きつく抱きしめた。
        「……琢己」
         震える吐息で、紺野が俺を呼ぶ。熱く湿った声が耳に響いて、胸の底に落ちてきた。
        「俺のほうこそ……ごめん」
         俺は、苦しくてたまらない胸のうちを吐き出す。
        「さっきは、どうしてもガマンできなかった。繁が、あんな、女の代わりにするみたいに、紺野のこと言ったから」
        「……え」
         目を向けなくてもわかる。紺野は、小さく息を飲んで、目を見張っている。
        「それに……俺が最初に、あんなふうに言ったのは――」
         俺は言葉を探す。だけど、やっぱりうまくいかなくて、思ったことをそのまま声にした。
        「あのときの紺野が泣きそうだったから……みんなに知られたら、また泣きそうになるんじゃないかって……そう思ったら、誰にも言わないほうがいいんじゃないか、って――」
        「琢己」
         搾り出したような声を上げて、紺野は俺にしがみついてくる。
        「ありがとう……これで、やっと言える」
         俺の肩に顔をうずめ、ほうっと深いため息をついた。
        「琢己が好きだ……初めて目が合ったときから……離せなくなった」
        「マジ……?」
         思わず、言ってしまった。
         だって――最初から目が合えばそらして、そっぽを向いて、普通に話せるようになってからも、まともに目が合ったことなんて一度も……今日のプールでは、合ったんだった。けど、俺からそらして――。
         思い出して……顔が、熱くなる。
        「なら、自転車置き場が見えるから、生徒会の仕事手伝ってたのって……」
         麻生に言われたことが急に思い当たって、また何も考えずに言ってしまった。
        「やだな……」
         だけど、紺野は顔をうずめたまま、恥ずかしそうに言う。
        「史明……言っちゃったんだ」
        「それ、どういうことだよ?」
         紺野が照れた声で麻生を『史明』と言うのを聞いて、ムッとなった。
        「史明は最初から気がついてたんだ――」
        「麻生を『史明』って呼ぶなよ」
         声が重なって、互いにビクッとした。俺がそろそろと放すのに合わせ、紺野が顔を上げてくる。きょとんと見つめられて、居心地が悪い。
        「だから……なんで麻生が『史明』なんだよ。麻生を名前で呼ぶやつなんて、いないのに」
        「……気になってたの?」
         答えられなくて、俺は目をそらした。
        「マジ――?」
        「しょうがねえだろ」
         たまらなくなって、俺は立ち上がる。驚いたように紺野も立ち上がって、丸くなった目を俺に向けてくる。
        「琢己……もしかして、勘違いしてた?」
        「知らねえよ」
         ぶっきらぼうに言い捨てて、階段を降り始める。紺野は慌ててついてくる。
        「え、だって……なんで?」
        「生徒会の仕事手伝ったの、一度や二度じゃないだろ」
        「だから、それは――」
         紺野は口ごもる。俺はスタスタと先を行く。
         ……マジ、しょうがねえじゃん。こんなとき、どうするのが一番いいかなんて、わかんねえよ――。
        「史明は――」
         言いかけて、紺野は慌てて言い直す。
        「麻生は似てるんだ、前の高校で、一番仲よかったやつに」
         俺は何も言えないから黙ってるのに、紺野は足早に並んできて、急き込んで話す。
        「だから、初めて見たとき、本当にビックリした。最初の日に、席に行く途中で気がついて……それでなくても、いろいろドキドキしてたのに、ヤバかったくらい」
         俺は、顔を伏せてしまう。あれは、そんなことだったなんて。口元が緩む。紺野がこんな、必死になって話してくれるなんて――。
        「そんなに似てるのか?」
         言ってやったら、速攻で返してきた。
        「もう、マジ似! 今度、写真見せようか?」
        「そいつも優等生だったとか?」
        「そう」
         答えてから、あ、と声を漏らして続けた。
        「もしかして、そのせいかな? 優等生って、誰も似たような感じとか?」
        「かもな」
         目が合って、互いにプッと吹き出した。
        「紺野」
         校舎に入って靴を履き替えながら俺は言う。
        「俺……おまえとこんなふうに話したいって、ずっと思ってた」
        「ぼくも」
         すぐに答えてくれた紺野の声が胸に染みる。じんと熱くなった。
         会話が途切れて、互いに押し黙ったまま教室に向かった。ひどく緊張する。人影の消えた廊下を行きながら、俺は口を開いた。
        「今日の体育のとき、おまえ……すっげー、カッコよかった。きれいで……くらくらした」
         紺野は黙っている。俺は、何も返してもらえないのが気恥ずかしくて、並んで歩く紺野に目も向けられずに言う。
        「こっちで、クラブには入ったのか? 向こうでは、やってたんだろ?」
        「それ……さっき、岩田先生にも言われた」
        「うん」
         ボソッと返されたのは意外で、言葉が続かなくなった。俺、また余計なことを――?
        「県大会十位って微妙で……前の高校でいろいろあって、続けるのためらってたんだけど」
         だけど紺野はそう返してきた。俺は、それだけのことからでも察しがつく。誰にも伸び悩む時期は必ずあって、そのときの周囲からの期待と、自分の意志との折り合いがうまくつかないと……くじけそうになる――。
        「岩田先生に励まされちゃったよ。メンタルケアに力入れてるスイミング・クラブ紹介するから、続けたらどうか、って」
        「え?」
         紺野を見れば、横顔ではにかんでいる。
        「それに……」
         小声で言って、静かに息をついた。
        「本当は、もう、その気になっていたんだ。琢己が剣道しているの、見てたら――」
         顔を上げて、前を見て言う。
        「さっきの場所から剣道場、見えるんだよ。知らなかったでしょ?」
         チラッと俺に視線を流した。ドキッとする。
        「夏だからなのかな……いつも高窓が開いていて。威勢のいい声が聞こえて、竹刀の打ち合う音が聞こえて、動き回る琢己が見えた」
         教室に着いて中に入る。もう、誰もいない。
        「カッコいいのは琢己だ。普段もそうだけど、剣道している琢己は、もっとカッコいい」
        「紺野……」
         それぞれの席の前で足が止まった。
        「ずっと琢己を見ていた。教室でも、さっきの場所からも、生徒会室からも」
        「紺野、俺は――」
         どうしても、声が詰まる。ここまで言われているのに、本音を吐き出すのは苦しくて、言ってしまったら止まらなくなりそうで――。
         だけど俺は、紺野と向き合った。まっすぐに目を見て、言う。
        「麻生におまえを取られたみたいで……ずっと、つらかった」
        「……琢己?」
         息を飲み、紺野は目を見張る。
        「おまえが麻生を『史明』って呼ぶのを聞くと苦しくて……その理由がわからなくて……おまえ、俺と話すとき表情硬いし、マジに目が合うとそらすし――」
         ひがみっぽいことばかりが口から出てきて、なおさら声が詰まりそうになる。
        「……避けられてると……思ってたんだ。俺、余計なこと言って傷つけたし」
        「違うんだ、琢己」
         紺野は、すっと一歩、俺に寄った。
        「ぼくは、琢己を困らせたくなかった――」
         目の前で吐息を落とし、俺の胸を熱くする声を出す。
        「目をそらしたのは……目が合うと、見とれちゃうから――」
         俺の目をまっすぐに見上げて話す。
        「琢己は、こういうのは、ぜんぜん受け付けないんだって、思ってたから――」
         もう、限界だった。くっきりとした紺野の目に釘づけになる。小さな泣きボクロに引き寄せられる。
         二度と泣かせたくない――それが、俺にできるなら。
        「あ……」
         俺は、紺野の左目尻の泣きボクロに触れた。触れた指先が震える、胸も震える――いっそ、泣き出してしまいたくなる。
        「琢己……いいの?」
         紺野の声が、せつなく胸に響いた。何が、とは――訊かなかった。
        「……バカ」
         紺野を思いきり抱きしめる。胸がぴたりと合わさって――紺野と俺は男同士で、あいだに挟まるものが何もないのは当然で……それが、心地よくて――紺野のせわしない鼓動が伝わってきて、俺の鼓動も跳ね上がった。
         気持ちが暴走する。もう、止まらない――。
        「……ん」
         今まで、ごめん。そんなに想ってくれてたなんて、少しも気づいてなくて、ごめん――。
        「た、くみ……」
         夢中になってキスをして、息苦しくなって少し離して、合間に甘いささやきで呼ばれて――どうしようもなくなる。
         この次はどうすればいいのか、とか――でも紺野の腕は俺の首に絡まっていて、ずっと、そうしていてほしくて――やっぱり、泣けてくる。うれしくて、せつなくて、もどかしくて……そんな、気持ち――。
        「たく、み」
         真っ赤になった顔で、紺野が俺を上目づかいに見る。
        「本気……なんだ」
         俺の股間に腰をすり寄せた。
        「うれしい……」
        「――いいのかよ」
         戸惑うのは、今度は俺で――紺野を抱きしめて、キスして、こんな硬くしてんのに――。
        「だって、ぼくも……」
         伸び上がって、重ねたりするから――。
        「知らないぞ……どうなっても」
         また、何も考えないうちに本音が出る。
        「琢己となら……好きだ」
         ぎゅっと、抱きつかれた。紺野は俺の肩で、熱い吐息を落とす。
        「マジに俺……何も知らないんだからな」
         言い捨てたのは、照れも本音も、両方からだった。


        つづく


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    素材:KOBEYA