Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    今宵、あなたに跪き
    ‐3‐



         翌日の昼休みになって、エレベーターを待つ数人の中に竹原を見つけた。松島はさりげなく背後に近づき、静かに声をかける。
        「きみもこれから昼食か?」
         竹原は怪訝そうに振り向き、それから驚いたように目を瞠った。まっすぐ見返してくる。
        「松島部長……」
        「よかったら、一緒に外に出ないか」
        「――はい」
         何を言われたか、わかった顔になる。松島は薄く笑んだ。推測は当たったというわけだ。やはり、会議室のドアを開けたのは竹原だ。しかも、これで鮎沢より先に手を回せるかもしれない。
         少し歩いた先にある小料理屋に向かった。ランチもおいしいと評判だが、少々値が張ることと、やはり距離的に離れていることで、そうそう社内の者とは居合わせない。
         それでも人目につきにくい奥のテーブルに席を取った。店員が来ると同時に、松島は日替わり定食を二人前注文する。もとから竹原にはおごるつもりで、すぐに話を切り出す。
        「写真を撮ったと思うのだが、見せてもらえるかな」
         いきなり核心をついたからか、竹原は一瞬うろたえた顔をした。だがスーツのポケットに手を差し入れ、おもむろに携帯電話を取り出した。
        「思ったようには撮れませんでした」
         テーブルの上で開いて見せ、ぼそっと言う。
        「ああ――そうだな」
         目を移し、松島も同意した。松島の前に、鮎沢が跪いている画像だ。
        「これ一枚か?」
        「いいえ」
         次いで、正面から松島を捉えた画像が現れる。それには、松島は笑ってしまった。
         スラックスのファスナーを上げようとしている瞬間だ。写っている人物が誰だかわかるように撮影したのか、ズームが足りなくて、ファスナーから覗いているものまでは見て取れない。
        「間抜けなもんだな」
         思わず口にして竹原を見れば、顔をうつむかせた陰で眉をひそめている。
        「……すみませんでした」
         こぼれ出た声を聞いて松島は軽く目を瞠る。さらりと言ってやった。
        「なぜ謝る?」
         途端に竹原は顔を上げ、目を合わせてきた。
        「なぜって……あたりまえじゃないですか。部長はなんとも思わないんですか?」
         松島は口元をほころばせる。竹原の、こういうところが好ましい。常識的で、率直だ。
        「べつに。隠し撮りされたことを言うなら、ごく一般的に気分のいいものではない。だが、それだけだ。きみが謝る理由を聞きたい」
        「部長――」
         消え入るように言って竹原は口をつぐむ。
         松島はテーブルの上で腕を組み替え、正面から竹原を見据えた。
        「写真を撮って、どうするつもりだった?」
         質問を変えられ、竹原は顔をしかめる。
        「きみが社内にバラ撒くとは考えられない。そんなことをしても、きみにメリットはないからな。私を脅そうにも無駄だと、きみならわかっているはずだ。となると、残る使い道はひとつ――」
        「松島部長」
         苦しそうに竹原がさえぎった。しかし松島は平然と続きを口にする。
        「そんなに鮎沢がいいか?」
         これを鮎沢に見せて詰め寄るなら、竹原は何かしら期待できるだろう。
        「それとは……少し違います」
         だが竹原はわずかに目を伏せて、絞り出すように漏らした。
        「……ほう?」
         松島は、ゆっくりと片眉を上げる。そこへ注文した定食が運ばれてきて、竹原にも食べるよう促した。
         箸を取り、竹原は言う。
        「けど――そう言われるなら、そうかも」
        「なるほど」
         松島は頷いて見せた。煮魚の身を箸でほぐしながら、目を合わせずに言う。
        「だが、そんなものを見せたくらいでは決着はつかないぞ?」
        「――え」
         竹原が顔を上げたとわかったが、そのまま続けた。
        「追い払う程度では、すぐまた寄って来る。まあ、なんだ。虫みたいなものか」
         たとえるなら蝶か。目につくところでひらひら舞い飛ぶから、気が削がれて、うるさい。いっそ捕まえようとすれば、するりと逃げる。
         竹原には、鮎沢はそんなふうに感じられているに違いない。
        「二度と寄りつけないほど徹底的に遠ざけるか、本腰を入れて完全に捕まえるかしないと、同じことの繰り返しだ」
         竹原が軽く息を飲んだとわかった。
        「そうする気があるなら、きみもうちに来るといい」
         言ってから顔を上げ、目を丸くしている男にゆったりと笑いかけた。
        「うちに、って……どういう――」
        「今度の週末、鮎沢が来る。鮎沢に三つ巴にされていると、わかっているんだろう?」
         それには絶句したようで、竹原はぽかんと口を開けた。目をしばたたかせ、何度か口を閉じたり開いたりする。
        「それって……え? けど部長は、去年離婚して――じゃなくて。なら、部長が離婚されたのって……もしかして、そういう――」
        「おいおい。飛躍しすぎだ」
         苦笑して松島は漬け物を箸に取る。ぽいと口に放り込み、悠長に咀嚼してから、改めて竹原と目を合わせた。
        「離婚したのは、そんな大層な理由からじゃない。構ってやらなかったから、妻に愛想を尽かされただけだ」
         自分で言ったことに、松島は胸のうちで深く頷く。まったくもって、そのとおりだった。
         もともと自分は他人を愛せる人間ではないらしい。結婚を決めたときにも妻を深く愛していたかを考えると、自分で疑わしく思える。
         あの当時、自分と結婚したそうな女は妻のほかにも何人かいた。いわゆる社内結婚で、自分は身近にいた何人かの中から、しとやかで節度のある女を選んだに過ぎない。熱烈な感情を向けてくる者は、それに見合うものを自分に求めるようで息苦しく感じられた。
         仕事がおもしろく、打ち込んで多忙だったから、家庭は淡々とあってほしいと無意識にも願っていたようだ。妻から離婚を切り出されたときも唐突に感じた。それまでに、そんな素振りすら窺えていなかった。それこそが妻の示した離婚の理由で、言い出したら聞かない頑固さや、熱い感情が妻にもあったとは、そのときになって初めて知った。
         そして、そのときにはもう、妻にはほかに思いを寄せる男がいたのだ。多くを語らずに、離婚届書に判を押した。
        「それなら――」
         食事を進めながら竹原は言う。
        「部長のほうこそ、そんなに鮎沢がいいんですか? 再婚を考えるよりも?」
        「いや。きみと同じかな。それとは少し違う」
         もし鮎沢が女だったら、一番に遠ざけたいタイプだ。あの晩のように、押し切って先に既成事実を作ろうとされるなら、二度と目もくれない。
         ……だが鮎沢とは、それで寝たんだよな。
         ならば、鮎沢が男だから、自分は応じたのか。そうなったあとも気にかけているのは、やはり鮎沢が男だからか。おかしな話だ。
         松島も食事を進めながら、他人事のように言い足した。
        「なんにしろ、リスクは回避する主義でね。特に職場のトラブルの種は見過ごせない。影響が出る前に摘み取る。それだけの話だ」
        「でしたら――」
         ふと顔を上げて、竹原は眉をひそめた。
        「わざわざ部長の家を使わせてもらわなくても、会議室とか、社内で――」
        「決着をつけると? 仕事上のことでもないのに?」
         松島は鼻で笑った。竹原が部長宅に、それも直属の上司でもない自分の家に来ることを躊躇する気持ちはわかる。そもそも、こんなプライベートな話をするのはこれが初めてだ。
        「でも」
         しかし竹原は声を詰まらせ、いっそう眉を寄せて言い返してくる。
        「そこまでする必要はないんじゃ――こんなこと言ったら気を悪くされるかもしれないけど、部長と張り合う気はないって言うか、俺は……いいですから」
         それを聞いて松島は箸を置いた。あまりに安直な物言いだ。竹原らしくない。正面から、まっすぐに目を合わせる。
        「わかってないな。きみが身を引いて終わる話なら、私から先にそう言っている。だが、違うだろう? きみがどう思っていようと、鮎沢が挑発してくるのだろう?」
         それには、さすがにムッとしたらしい。鮎沢の誘惑に勝てるわけがないと、言ってやったようなものだ。
        「じゃあ、どうするって言うんです」
         投げやりに返してきた竹原に、松島は意地悪く苦笑する。
        「きみたちを家に呼びつけて、私が話し合いで解決するとでも思っているのか?」
        「え……?」
         竹原はきょとんとする。松島は表情を緩め、視線を下げた。
        「まあ、うちに来てみたらいい。どうすれば決着がつくか、わかるから」
        「――はい」
         腑に落ちない顔で口をつぐみ、そうして竹原は定食を平らげていく。それを上目で一瞥し、それからは松島も特に何を言うでもなく昼食を終えた。


         金曜日は朝から慌しくなった。例のファッションビルのイメージモデルに起用したタレントのひとりが、写真週刊誌の一面を飾ったからだ。
         その週刊誌は鮎沢が持ち込んで松島に見せた。松島と内々に対策を講じ、ほかの社員が気づくころには解決するためだ。
        「確かに、これはまずいな」
         部長席にいて、デスクの陰で週刊誌を広げ、松島は苦い顔になる。
         そこにはショッピングを楽しむ若い男女の写真が見開きで掲載されていた。だが問題は左隅の写真で、ちょうどビルから出てきたふたりが写されていて、その場所がどこなのか明らかに特定できることだ。
        「記事にも目を通しましたが、やはり、男のほうがターゲットですね。デビュー目前の二世タレントとお忍びデートと、はっきり書かれてますから、自分から売ったのでしょう」
        「まったく、どこがお忍びなんだ。落ち目の芸能人は、何でもやってくれるよなあ」
         ひそやかに話す鮎沢に松島も小声で返し、呆れて週刊誌を閉じると、デスクの引き出しに放り込んだ。
        「お嬢さんのほうもデビューに先駆けて話題になって、よかっただろうよ。売り出し方を変えるだけで逆に一儲けだ。だが、うちではもう使えん。向こうの手落ちだ、この契約は破棄して次を決めるぞ」
        「はい」
        「会議室に移る。ひとまず、候補に上がってたやつらのファイルを持ってきてくれ」
         席を立ち、松島は先にオフィスを出て行く。腹立たしいこと、この上なかった。
         問題になった彼女との契約こそ、一番に苦労したのだ。デビューに際しての演出に一役買ってやったと言ってもいい。それなのに、小娘の浅はかな行動で泡と消えた。
         彼女と、その母親である女優をふたり一組で起用してこそ、宣伝効果が期待できたのだ。話題性も事欠かないし、母と娘で仲むつまじくショッピングを楽しむ様子を広告の主体にすれば、幅広い年齢層を購買客に取り込めると目論んだ。
         それゆえ、娘がデビューするらしいという不確かな情報を元にしてでも、母親の事務所に話を持ちかけて交渉に臨んだ。公表前の事実を認めさせると同時に、娘のデビュー時の印象操作も計れると、相手側にもメリットがあることを言い含め、腹を探り合いながらどうにか契約に至ったのだ。
         思い返して松島は歯噛みする。母親の女優が実力派でクリーンなイメージが強いから、娘の管理も行き届いていると自分は思い込んでいたようだ。
         俺も、まだまだ甘いってことか。
         当の本人にはスキャンダルと言うほどのことではないにしても、写真を撮られた場所が悪かった。よりによって、ライバル社がマネジメントした複合商業施設なのだ。悔しいことに、華々しくオープンした当初から現在に至るまで、少しも客足が衰えていない。それは、リサーチの数字が明確に打ち出している。
         それゆえ、あの写真一枚で、ライバル社の印象が彼女に定着したと言っても過言ではない。そんなタレントはイメージモデルに使えない。発表前だったことが、せめてもの救いか。
         どのみち、反省はあとからでも遅くない。裁量が試される事態には違いなく、松島は会議室に入ると、ドアを閉めずに奥の席に着いて鮎沢を待った。
        「お待たせしました」
         ほどなくして鮎沢が現れ、落ち着いた様子でドアを閉めて歩み寄ってきた。
         隣に立たれ、松島は一瞬、怯むような感覚を覚える。頭をよぎったのは、先日の一件だ。今また、会議室に鮎沢とふたりきりになっている。
         バカバカしい。
         思うが、鮎沢が身をかがめてきて、やわらかな匂いを感じ取った。鮎沢の腕が回り込み、目の前の長机にファイルが開かれる。記憶にある匂いだが、フレグランスのたぐいではなかった。鮎沢の肌の匂いだった。
        「代替に、このふたりはどうでしょう」
         鮎沢は仕事の顔を崩すことなく、ファイルの上にさりげなく紙を滑らせてくる。見るからにウェブページをプリントアウトしたもので二枚あった。目を引きつけられ、松島は瞬時に意識が切り替わる。
        「これは――」
         一枚目にある写真は男で、若年層の女性を中心に、人気の高いモデルだ。眉をひそめて二枚目を取り上げ、松島は浅く息を飲んだ。
        「このふたり、親子だったのか」
        「はい。公然にはしていても、それほど知られていない点で話題性が高いと思います」
         驚きを隠さず、鮎沢を見上げる。口元で薄く笑んで返された。
        「母と娘を起用すると決めたコンセプトにも反さないでしょう。むしろ息子と母を起用することで、親の情よりも子が親を思いやる情が前面に出ますから、元のイメージモデルより大きな宣伝効果が期待できると思います」
         松島は思案する。息子のほうはモデルだからスケジュールさえ押さえられれば問題なく使えるだろう。しかし母親は元宝塚女優だ。
         今も舞台で活躍していて人気が衰えないものの、テレビなどのメディアへの露出はほとんどない。だからこそ起用できればことさら話題性は高くなるだろうが、本人が了承するか。露出が少ない理由が本人の意思となると、交渉が難しくなる。
         イメージモデルの起用に失敗は許されない。向こうが駄目だったからこちらを当たった、などという噂が流れたら宣伝効果が薄れるし、業界での今後の仕事がしにくくなる。だから当初のタレントを起用するときにも、ほかは当たらなかった。今度は本当に代替なのだから、なおさら慎重に進める必要がある。
         しかし、即決せねばならない。プロジェクトの半ばを過ぎてイメージモデルをすげ替えるなど、本来ならあってはならない話だ。
        「落とせるか?」
         再び鮎沢を見上げ、松島はそう言った。
        「落としますよ、なんとしてでも」
         きっぱりとした返事を聞いた。
        「そうか――」
         最終的には自分が契約に臨むことになる。まずは、鮎沢が相手側の事務所に打診して、交渉に移せるかどうかだ。
        「このふたり、いつ目をつけたんだ? 候補を挙げた会議のときには出てなかったな?」
         それには、かしこまって鮎沢は答える。
        「申し訳ありません。母と娘という前提で進められていたので、あのときは私も思いつきませんでした。決まってから、息子と母でもいけるのではないかと思い、自分の興味で探した結果です」
        「なるほど」
         やはり鮎沢だな、と思った。そんなふうに、日頃から仕事の可能性を広げている。
         何より、この案はベストだ。棄却した候補の中から選び直すのでは妥協案になることは必至で、それを回避しただけでなく、発想の転換によって当初の案より優れている。
         このふたりを起用できれば、息子と母親のそれぞれのファン層に宣伝効果が高いことは当初の目論見どおりだが、それに加えて、購買客に想定してなかった若年層の男性も取り込める可能性が生じる。要は、憧れの女優のように自分も息子と出かけてみたい、という欲求を母親のファンに引き起こす余地がある。
        「では、まず息子から口説いてくれ。母親から攻めるほうが効率的だが、わかるな?」
        「はい。息子のほうにはタレント活動を広げる動きが見られますから、息子を先に決めて親を口説いてもらうのもいいかと思います」
        「ありうるな。母親が親バカなら話が早い」
         冗談めかして言い、松島はニヤリと鮎沢に笑いかけた。鮎沢は軽く目を瞠り、かすかに頬を染めたように見えたが、すぐにファイルごと二枚の紙も取り上げて一礼する。
        「では、すぐに取りかかります」
         言うなり、身を翻して会議室を出て行った。
         松島は、ふと思ってしまう。もしかしたら鮎沢は、仕事中にも、今のような反応を以前から自分の言動に示していたのかもしれない。
         溜め息が出た。
         垣間見た一瞬の表情が、せつなく胸に響いた。自分が、ひどく粗野に感じられた。
         常に冷静であろうとも、仕事に集中を欠かずとも、鮎沢にも、ふとした折に心が揺れることがあっておかしくない。
         ましてや――ここと決めたときには涼しい顔を捨てて、感情を燃え立たせるのだから。
         自分は、鮎沢の何を見ていたのかと思う。有能な部下に違いない。だが、鮎沢もまた、ひとりの人間なのだ。


         それからは目まぐるしかった。鮎沢が交渉の手はずを整えるあいだに、松島は、当初のイメージモデルとの契約を破棄する手続きに入った。ひととおりの落ち着きを見たのは、翌日の土曜日の午後になってからだ。
         てこずったのは契約破棄で、相手側が今回の件を自らの過失と認めようとせず、結局は松島が単身で赴き、金曜日の午後いっぱいを費やして話をまとめた。
         新しく起用を決めた先との交渉は、期待を裏切られることなく、息子のほうはスムーズに運んだ。むしろ、渡りに船とでも言うような反応を得られ、向こうの事務所からも母親の交渉に当たると言い出したほどで、鮎沢の情報どおりにタレント活動を広げようとしていたらしい。
         そうして土曜日の午前に松島は鮎沢と共に母親の事務所に出向き、契約に至った。息子の事務所が、息子の今後を考えてくれるならぜひ受けてくれと母親を説得したところが大きかったようだが、交渉はあくまでビジネスライクに進んだ。予算を超える契約金を提示されたが、当初のイメージモデルとの契約破棄に当たって先方に違約金を払わせることに成功していたので、問題なかった。
         正午を過ぎて、松島は鮎沢と並んで駅へと戻っていく。予定外の休日勤務になったが、緊急の事態を脱した達成感があった。
        「ご苦労だったな、鮎沢」
         自然と、ねぎらいの言葉が口をつく。
        「ここまで早く片づいたのは、きみの尽力が大きい」
         足取りも自然とゆったりとして、隣を行く鮎沢に松島は穏やかな目を向けた。
        「いいえ。私は私にできることをしただけで、部長の手腕に改めて感服しました」
         だが、鮎沢は通り一遍等の返事を聞かせただけで、横顔ではじらう。松島には、鮎沢がはじらって見えた。
         ――どうしたんだ?
         仕事の緊張が解けたとも違う、いつにない、心もとない風情だ。
        「謙遜するな。危機管理意識は誇っていいぞ。私を上回っている」
         言えば、そっと息をつく。
        「たまたまです。朝の電車の中で、あの週刊誌の釣り広告が目に留まっただけです」
        「そこで終わるか終わらないかが意識の違いだろう? 褒めているんだから素直に喜べ」
         そろそろと鮎沢は顔を向けてくる。困ったような、うれしそうな、曖昧な表情を見せた。
         ――なんだ、子どもみたいじゃないか。
         かすかにも、胸が甘く波立った。松島は戸惑い、気まずく口元を歪ませる。
        「ありがとうございます……」
         消え入るように言った鮎沢に即座に返した。
        「私は一度帰るから、きみもそうしなさい。スーツの必要はないから、着替えてくるといい」
        「部長――」
         見る間に鮎沢は目を丸くする。
        「忘れてたか? 今日は土曜日だぞ?」
         途端に、うろたえたようになる。それとなく目をそらした。松島は気づかない素振りで、淡々と続ける。
        「六時に、私の家の最寄り駅まで来てくれ。大したねぎらいにもならないが、夕食をご馳走しよう」
        「――ありがとうございます」
         行く先に目を向けて、鮎沢はそうつぶやいただけだった。だが、夕食のあとにも予定が組まれていることも伝わったと、強張った頬を淡く染める横顔が答えていた。
         鮎沢とは改札を入ったところで別れ、松島はホームへの階段を下りながら携帯電話を取り出した。竹原に宛てて、メールを送信した。アドレスは、あの昼食の際に聞き出しておいた。
         常務に経過報告を入れるのは帰宅してからで十分だった。今回の件では慌てさせられたが、事態はすべてうまく運んでいる。そうでも思わなければ、やるせなかった。


         鮎沢が時間に遅れるはずもなく、松島は駅の改札に鮎沢を見つけると、その足で近くのビストロに向かった。騒がしい雑踏を離れて路地に折れる。四月半ばの日の入りは早く、すっかり夜になっていた。
        「居心地のよさそうな店ですね。部長はよくいらっしゃるんですか?」
        「いや、初めてだ」
         リザーブされていたテーブルに案内され、向かい合って席に着く。
        「――え?」
         少し驚いたように鮎沢が顔を上げた。松島は、鮎沢が期待する返事を聞かせる。
        「今日は、きみを誘ったからね。近所にいい店がないか、探したんだ」
         何も答えられなくなったように鮎沢は視線を下げる。その先に、ワインリストを差し出した。
        「好きなものを選ぶといい。今日のコースを頼んである。メインは手長エビのポアレだそうだ」
        「部長……」
         ここまで鮎沢がうろたえるとは意外だった。
         いかにもデートに使うような店に連れてくればそれなりに動じることもあるかと思い、わざとそうしたのだが、これでは後悔したくなる。思えば、駅で落ち合ったときから持ち前の覇気が感じられない。今はまるで、借りてきた猫のようだ。
         自身の意地の悪さをあざけり、しかし松島は鮎沢に目を捕らわれる。仕事を離れて鮎沢を見るのは初めてだった。もちろんのこと、プライベートで食事をするのも初めてだ。
        「私が選んでいいんですか?」
        「そう言ったが?」
         にっこりと笑いかければ、はにかんで見せた。
        「では、シャブリを」
         ひそやかに、そう答えた。不覚にも胸がざわめく。
         美しい男なのだ。改めて、そう思う。
         あの晩、着衣を解いていく姿に色気を感じたことを思い出した。まさか、次にあんな事態が待ち受けていようとは露とも思ってなかったのに、あの時点で、自分は鮎沢に色気を感じたのだ。
         まったく、いいように手玉に取られたよな。
         そんなふうに、悪意的に解釈せずには落ち着けない。一度なりとも抱いたからか、そのつもりで鮎沢を見るなら、いっそう当てられるようだ。
         スーツの必要はないと伝えたにも、鮎沢は春物の麻のジャケットを着て、その下に白いドレスシャツを合わせてきた。鮎沢らしく、涼やかで清潔感に溢れた装いなのに、どことなく艶かしい。
         出掛けにシャワーを浴びてきたのか、髪は洗いたてのように、しっとりと黒く目に映る。優美なラインを描く首筋に目が留まり、肌の匂いが立ち上るように感じた。
         俺も大概だな。
         しかし、注文したワインが運ばれてきて、それとなくグラスを合わせたあとも、食事を進めながら結局は仕事の話に終始したあいだも、松島の視線は鮎沢から離れなかった。
         グラスを取り上げる仕草も、ナイフやフォークを操る手の動きも、実に品がいい。食器を無駄に汚さずに食べ終えていくさまも堂に入っている。
         そんなことには以前から気づいていたが、ある感情をもって見るなら、別の意味を生む。欲情をむき出しにすれば、はしたない言葉を並べ立てる鮎沢が思い浮かんで、目眩のような感覚を味わった。
         だから、決着をつけなければならないのは、誰よりも自分だった。そのために今日、鮎沢を呼んだ。揺らぎそうになる自身を奮い立たせる。段取りに抜かりはない。
         料理は期待した以上で、松島は満足だった。最後のコーヒーを飲み干して席を離れる。
         先に会計を済ませ、化粧室に入るとすぐに携帯電話を取り出した。再び、竹原にメールする。間をおかず、通話に変えて返信される。
        「――そうだ。最寄り駅からタクシーを使うなら、マンションの名前を言うだけで通じる。そう、五〇二だ。歩いても迷う場所ではないがな。――わかった。では、あとで」
         携帯電話を閉じて、胸が痛むようだった。だが、どんな感情からそうなるのか、考えたくない気持ちのほうが強い。
         竹原には、八時ごろに来られるかと、昼に送ったメールで打診してあった。そして今、間違いなくやってくるとわかった。それだけのことだ。
         テーブルに戻り、鮎沢を伴って店を出る。夜気は温かく、花の香りを孕[はら]んでいるように感じられた。  


        つづく


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