「何か飲むか?」 玄関からすぐに洗面所に入ると、松島は、廊下にいる鮎沢に鏡の中で問いかけた。 「いえ、今はもう十分です」 心なしか、鮎沢の頬はほんのりと染まっている。それが先ほどのワインのせいなのか、自宅に連れてきたせいなのか、松島にはもうどちらでもよかった。 ここまで歩いてくる間に、鮎沢はすっかり寡黙になっていた。松島もまた同じだった。 自分にならって手を洗った鮎沢にタオルを差し出し、廊下を挟んだ向かいの部屋に行く。戸を開け放して暗い中を奥まで進み、背の低いフロアスタンドをつけた。振り向けば、鮎沢は戸口に立ち尽くしている。 「これは……」 つぶやいて、声を飲み込んだ。 以前は客間にしていた六畳の和室だ。離婚してからは客などないが、未だにスタンドのほかに物はない。和紙のシェードを透かして、ぼやけた光が畳の上に広がっている。 ただ、今は中央に蒲団が延べられていた。駅へ鮎沢を迎えに行く前に敷いておいた。玄関脇のこの部屋より奥に、鮎沢を通す気にはなれなかった。 「今さら戸惑うか?」 松島は、あえてそう言った。 「どっちにしろ、おまえの出方次第だ」 意識して「おまえ」と呼び変えた。 「部長――」 思いがけず、鮎沢は頼りない足取りで部屋に踏み込んでくる。それでも間近まで来て、潤んだような瞳を向けてきた。 唐突に、胸に飛び込んでくる。 「……鮎沢」 松島は息が詰まりそうになった。やはり自分は、どこかで間違いを犯したかと振り返る。しかし、竹原をあのままにできるものではない。社内にいて、これ以上鮎沢に振り回されては仕事に影響が出ると判断したのだ。 受け止めた細く硬い体を持て余し、松島はためらう。抱きしめそうになる手を抑え、先に上着を脱がせた。薄暗い中にも白いドレスシャツの下に紅色の粒が淡く透けて見え、突如、別の感情が湧き立った。 しょせん、鮎沢はこうなのか。 「呆れるな」 疲れた溜め息が出た。口づける気になっていた自分が、果てしなく愚かに感じられた。 しかしそれも、今夜は必要だ。道化になる覚悟で、ここまで仕組んだ。 「部長――」 胸に手を添えて鮎沢が見上げてくる。口づけを請う仕草に苛立ちを覚えながらも、松島は応えてやろうとした。そのとき、呼び鈴が鳴る。 「悪い」 鮎沢に有無を言わせず、松島は離れた。奥のリビングに入り、インターフォンに出る。当然ながら来訪者は竹原で、玄関は開いているから勝手に上がってきてくれと言いつける。怪訝そうにしかめた顔がモニターから消えるのを見て、また溜め息が出た。 なぜ自分はこんな役を買って出ているのか。 鮎沢のせいと思いたい。だが、それだけではないことを自分でもう認めている。 キッチンに立ち寄り、冷蔵庫から麦茶を取り出すと、松島は苛立ちを鎮めるように喉に流し込んだ。すぐに和室に戻る。 鮎沢は、おとなしくそこにいた。畳に座り込み、ぼんやりとスタンドに目を向けていた。かたわらに上着がきちんと寄せられているのが目につき、松島は新たに苛立った。 駆け寄る勢いで鮎沢の手を取り、荒々しく蒲団に引き倒す。歓喜に染まる顔を目にして、唇にむしゃぶりついた。開かせて、舌を絡め捕る。背に巻きついてきた手を払おうとはしなかった。 戸は、開け放したままだ。玄関と廊下は明かりをつけてあるが、ほかは暗い。折しも、玄関の開く音が小さく聞こえた。松島部長、と竹原の戸惑った声を耳が拾う。 「ここだ」 組み敷いた鮎沢の体が瞬時に強張った。 「どうして……っ!」 悲痛な声を聞いて、ひそやかに松島は返す。 「竹原をダシにするからだろう?」 まるでスローモーションを見るように、鮎沢の目がゆっくりと大きく開いていった。 「俺に誠実を求めるなら、まず自分の誠意を見せるんだったな」 よほどショックだったのか、鮎沢は声もなくなる。その体を抱えて松島は身を起こした。そのまま戸口に向き直る。 「松島部長……なんですか、これ」 竹原は中に入りかけて、そこに呆然と突っ立っていた。ニットにジーンズという軽装が、室内のおぼろな明かりに浮かび上がっている。 「言ってあったじゃないか。来ればわかると」 至って平坦に、松島は答えた。 「けど、これって――」 「私は聞いてない!」 羽交い絞めにする腕の中で、鮎沢が声を上げた。それは松島の耳に痛々しく響く。 「あんまりです、こんなっ……騙すなんて!」 だが、松島は鷹揚に言い返した。 「知らせたら、きみは対策を立てただろう? また出し抜かれては、元もなくなるからね」 「だとしても、こんなやり方って!」 首をひねって見上げてきた鮎沢に、冷たく目を細める。 「自分がしてきたことは棚上げか? 罠は、きみの得意じゃないか。このくらいしなければ、きみの裏をかけないだろう?」 鮎沢は、目を瞠る。大きく息を吸い、そのまま止めてしまったかのようだった。 「へえ……そういうことですか」 忍び笑いのように、竹原の声が低く流れてきた。戸口をふさいでいた大柄なシルエットが、悠然と近づいてくる。 「どうすんの、鮎沢? マジにピンチじゃん」 「来るな!」 正面に膝をついた竹原を鮎沢はねめつける。しかし、なんの効力もなかった。 「松島部長。こいつ、俺と取り引きしたんですよ」 「竹原っ!」 言い放ち、今度は飛びかかるかのようにするが、鮎沢にそれはできない。竹原が冷たく見返して、ニヤリと笑うのを松島は見た。 「あの写真、見せたんです」 竹原が目を合わせてくる。 「そしたらこいつ、今すぐ消せって言って。できないって言い返してやったら、代わりに俺と寝てもいいなんて言い出して」 「約束が違うっ……竹原――」 「は? おまえがそれ言う? 俺に抱かれる気なんか、なかったくせに」 「だから言っただろう?」 割って入って、松島は呆れて言う。 「あんな写真、なんの役にも立たない。鮎沢に見せたって、余計に振り回されるだけだ」 「そんなの、すぐわかりましたよ。ちょっと確かめてみただけです」 竹原は苦笑して返した。 「そうか。では、やはりコピーがあるな?」 「えっ」 声を上げて鮎沢が振り返る。その視線を受け止めて、松島は溜め息を抑えられなかった。 「どこまで愚かなんだ。まったく、きみらしくもない。少し考えればわかることじゃないか。だいたい、なぜ竹原と取り引きしたんだ。私が失脚させられるとでも思ったか? そんなことをして竹原にどんなメリットがある? 進行中のプロジェクトのトップが替われば、無駄な仕事が増えて自分の首を締めるようなものだぞ?」 きょとんとする竹原に向かって言う。 「どうせ失脚させるなら、プロジェクトの完了間近が一番いい。それで功績を横取りできるなら、なおさらいい。そうだろう?」 「え? ――あ、はい」 「だが、きみは功績を横取りできる立場にはない。残念だったな」 言って、ぐっと強く竹原をねめつければ、一瞬ののち、呆れたように笑った。 「ハッ、まいっちゃうな。やっぱ松島部長だ。わかりました、消しますから見ててください」 手早く携帯電話を取り出し、松島の目の前で操作する。二点の画像が即座に消去された。 「SDカードのこれだけで、パソコンとか、ほかのメモリには移してませんから」 そうしている間に鮎沢は押し黙り、松島の胸で脱力したようになっていた。それが自分にすがりついているように感じられ、松島はそっと目を移して眉をひそめる。 胸が痛み、声を引き締めた。 「で、竹原。どうしようか。やはり、一度は抱かないと気が済まないか?」 竹原は目を丸くし、鮎沢はビクッと体を震わせて怯えた眼差しを向けてくる。 「本気で言ってるんですか」 「本気だ」 淡々と竹原に答え、松島は意図して鮎沢の胸にある指を立て、そこの突起を引っかいた。 「あっ……」 仰け反った喉から濡れた声がこぼれ落ち、竹原の目の色が変わる。 「ひどい……、部長っ」 それには松島は応えなかった。ただ、鮎沢の体温を胸に感じる。 あの晩の記憶がよみがえる。体の芯が滾る。 それは、互いに薄地のスラックスを穿いているのだから、鮎沢にも知れただろう。顔を背けた鮎沢の肩がヒクッと揺れた。 「松島部長――よくわからないんですけど、協力するって言うんですか?」 唇を噛んで鮎沢が振り返る。気づいても、松島は竹原を見ていた。 「鮎沢が、きみに約束したのだろう? 私はどちらにも加担するつもりはない」 「やめてください部長……お願いです――」 苦しそうに漏らす鮎沢に、松島は薄く笑いかけた。どうしてここまで残忍になれるのか、自分で不思議だった。 「そこまで嫌がることか? 竹原にも、きみは勃つのだろう? 言い出したのはきみなのだし、溜まってたなら好都合じゃないか」 あの日、会議室で耳にしたことをそっくりなぞって松島は言った。鮎沢の顔が引きつる。急に激しくなった鼓動が手に伝わってきた。 「へえ……」 顔を歪め、竹原は独り言のようにつぶやく。 「松島部長でも、そんなこと言うんだ。知らなかったな」 「やめましょう、部長。部長に傷がつく――」 喘ぐ鮎沢に、竹原が身を乗り出してくる。 「だからさ。それをおまえが言うか? 誰のせいだと思ってるんだよ」 鮎沢を挟んで松島を見上げてきた。 「捕まえててください。乱暴はしませんから」 「竹原っ!」 鮎沢の声が悲痛に響く。しかし松島は竹原に答えた。 「いや、私はすぐ手を離すぞ?」 「部長……っ」 叫んで鮎沢が振り向く。松島は痛そうに目を細めた。鮎沢の瞳には、涙が溜まっていた。 「……きみの出方次第だと言ったはずだ。どうするか、自分で決めるんだ」 ささやくように言って、手を離した。 「部長!」 腕を伸ばし、鮎沢はすがりついてこようとする。だがすぐに竹原に捕まり、蒲団に引き倒された。大きな体にのしかかられ、手足をばたつかせてもがくも、そう簡単には逃げられそうにない。 松島は壁際まで身を引き、その一部始終を目に映した。心が凍りつくようだった。鮎沢が抵抗するほど、竹原は躍起になって見えた。 「やめろ! 嫌だっ、こんな……どうしてっ」 繰り返し、鮎沢の声が響いてくる。それは竹原にではなく、自分に向かって叫んでいるに違いなかった。 ――鮎沢。 もう衣服は乱れ、竹原に全身で押さえ込まれて、いたるところをまさぐられている。首を激しく振ってキスは 竹原は宣言したとおりに、暴力は使っていない。だが力の差は歴然としていて、やがて鮎沢は力尽き、裸体をさらすことになるだろう。自分の見つめる中で、竹原の愛撫を受けて快感にむせぶのか。 それは、きっと、たとえようもなく ……まったく、自虐趣味だな。 松島は弱々しく自分を笑う。 だから……竹原でもいいなら、竹原に決めたらいいんだ。 「ああっ、嫌だ! 俺は――、俺は、部長がいいのに!」 松島は、おかしくてどうしようもなかった。 たぶん、鮎沢が竹原に色目を使ったのは、ここ最近のことだろう。そうして自分の気を引こうとしたのは既に明らかで、それを思うと無性にやるせなく、腹立たしくなる。 そこまでして俺が欲しいなら、そう言えばよかったんだ。 竹原を巻き込んだりするから、余計にややこしくなった。今後も竹原を利用するようなことがあっては、自分が居たたまれない。 本当は、わかっていた。鮎沢の意図するとおりに、自分はいくらでも竹原に嫉妬する。今も、焼き切れそうなほどジリジリしている。竹原にも色目を使うなら、鮎沢などいらない。もっと厳密に言うなら、自分以外の男の気を引こうとする鮎沢など欲しくないのだ。 いつのまにか芽生えた、どうしようもない独占欲だった。 愚かだよな――。 ひとは色恋に惑うと、こうも愚かになるのか。自分だけではない、鮎沢がそうだ。仕事では自在に押しも引きもするのに、ひとつのことしか目につかず、簡単なことがわからなくなり、こんな陳腐な罠に容易に 本当に、愚かだ。 昼に見た、鮎沢の顔が思い浮かんだ。自分に褒められてはじらう様子が、子どものようにあどけなかった。 夕食のときには、はにかんだ表情を見せた。思い出すと、胸が甘くざわめく。 そして、この家に来てからの鮎沢――唐突に胸に飛び込まれ、自分は確かに受け止めたのに、抱きしめられなかった。あのときのためらいが、せつなく胸に迫る。 俺は……何をやっているんだ。 鮎沢を放してはならなかったのか。だが、こうでもしなければ、鮎沢が本心を打ち明けることはないと思ったのだ。 欲情をあおるでもなく、色欲をむき出しにするでもなく、ただ、純粋な思いを聞かせてほしかった。そうする前に諦めている鮎沢が、腹立たしかった。 仕事では、諦めるなんてないのに……それも仕方ないか。俺がそうさせたようなものだ。 「部長っ! あなたになら何をされてもいい、でもこんなのは嫌だ、俺は、あなたがいいんです――」 ハッと松島は顔を上げる。そうなって、自分がうな垂れていたと気づいた。 「もう、十分なんじゃないですか? 部長のほうがつらそうだ」 鮎沢の上から、身を起こして竹原が言った。あからさまに肩を落として息をつく。 「て言うか、いいかげん俺が萎えました」 鮎沢は、仰向けになって泣いていた。ぼやけた光を受けて、涙が頬を伝い落ちていく。 「……悪かった。あとは私が引き取ろう」 松島は、ほかに言いようがなかった。 「マジ、お願いしますよ」 竹原はゆらりと立ち上がり、疲れた顔を向けてきて苦笑する。 「決着ついたみたいだけど、結局、俺がハメられたんですよね? でも、なんて言うか、気が済みました。自分で驚いてます。今度また、ランチおごってください」 松島は何も言えなかった。自分が買って出たはずの道化役を竹原に負わせてしまった。 「鮎沢――」 見下ろして、竹原は静かに呼びかける。 「おまえさ。バカだな。仕事はできるのに――こういうことに俺を使うな。もう、使えないからな」 それは、むしろ松島の胸に響いた。なじると言うより、いたわる声音だった。 ひとつ息をつき、竹原はもう一度口を開く。 「もっと、うまくやれよ。おまえならできるだろ」 そして、部屋を出て行った。間をおかず、玄関のドアの音が小さく響いた。 静寂に包まれる。鮎沢は声を殺して泣いていた。涙に汚れた顔を隠す気力すら失われたのか、仰向けのまま、身じろぎもせずに天井を見つめている。 松島もまた、壁際にうずくまって動けなかった。鮎沢を見つめ、溜め息が出るばかりだ。 ――傲慢、か。 ふと、頭に浮かび上がった。何度、鮎沢に言われたかと思う。暗い笑いが込み上げて、それに運ばれてきた言葉が口をついた。 「……竹原に身を任せて、俺をあおることもできたのに。もう、できないな」 自分で信じられなかった。この状況で、鮎沢を見つめて、なぜそんなことが言えるのか。 ピクッと、鮎沢の手が蒲団の上で動く。細く長く息を吐き出し、唇がわずかに開いた。 「まだ、そんなこと言うんですか」 疲れ切った声が、低く流れ出る。 「ひどい人だ……俺を食事に誘って、自宅に連れ込んで、思いきり舞い上がらせておいて、突き落として――最後はそれですか」 松島はぐっと口をつぐみ、ただ鮎沢を見つめる。 「……俺の気持ちなんか、どう言ったって、あなたにわかるわけがない」 まぶたがそっと閉じられ、新しい涙が一筋、頬を伝い落ちた。 「ずっと、憧れてました。あなたに引き抜かれたと知って、どんなにうれしかったか。あなたの右腕となって働けるなら、それで十分だった」 手がシーツをきつく掴み、胸が大きく上下した。 「あなたが壊したんです。あのときの少女に涙ぐんだりしたから」 三月のあの日の、陽射しに満ちた明るい車内が松島の脳裏によみがえる。 「たまりませんでした。あなたが赤の他人に涙ぐまれるなんて、思ったこともなかった。あなたは行きずりの少女にも情を移せるのに、俺にはそうじゃない。俺は、赤の他人以下だ。絶望しました」 松島は口をこじ開ける。胸が強くきしんだ。 「あんなのは、安っぽい感情だ。あの子にも失礼な話だ。誰にも欲しがられるようなものじゃない」 「いいえ」 喘いで鮎沢は続ける。 「あれは、あなたのやさしさでした。あなたがいくら安っぽいと言っても、あのやさしさが俺は欲しかった」 松島は、深い溜め息を落とす。どうにも、やるせない。うつむいて髪をかき上げ、その手で額を支えた。 「同情にもならない気持ちだぞ? 俺に哀れまれたかったとでも言うのか?」 「いけませんか」 きっぱりと言って、鮎沢は顔を向けてきた。濡れた瞳で、まっすぐに視線を寄越してくる。 「この気持ちをあなたに伝えたって、 「鮎沢――」 鮎沢を見つめて松島は目を細める。胸が苦しかった。ざわざわと感情が波立っていく。 「責めているんじゃないんです」 再び天井を見上げて、鮎沢は言う。 「あんなふうに俺を抱かせて、後悔させたと思いました。あの朝、先に帰れと言われて、居たたまれませんでした。でも、どうしても忘れられなくて。抱いてもらえたら欲が出て。もう抱いてもらえないまでも、あと一度でも情けをかけてもらえるならと――そう思ったんです」 松島は喘ぐ。喘いでいた。 「今さら、きれいごとを言うな。今日も俺の気を引こうとしたんだ。俺に抱かれたい、それだけじゃないか。あと一度でも抱いたら、次もまた抱かせるつもりだった。違うか?」 返事はなかった。昂ぶりそうになる感情を深く息を吐き出して抑える。 「俺は、あんなふうにでも抱いたんだがな」 「――わかってます。あなたのやさしさだ」 だが、それには抑え切れなかった。苛立ちを隠さずに、声を荒げる。 「違うだろう? やさしさだけで男を抱けると、本当に思っているのか?」 ヒクッと、鮎沢の肩が揺れた。そろそろと目を戻してくる。 「男を抱いたくらいでは何も変わらないなんて、嘘だ。これまでの過去が、全部ひっくり返った」 「部長……」 「わかってないのは、おまえだ。俺が、どんな気持ちで抱いたと思っているんだ!」 目を瞠り、鮎沢は怯えたようになる。 「あのときだって、勝算があって俺を誘惑したんだ。ああ俺は、まんまとおまえに欲情した。おまえは、そんなものしか欲しがらなかったじゃないか!」 止まらなかった。どうにもならない感情が大きなうねりとなって押し寄せ、松島を飲み込む。 「そんなに抱かれたいなら、抱いてやる!」 鮎沢に飛びかかり、既にはだけていたシャツを忌々しく取り払った。片手で肩を押さえつけ、乱暴にベルトを解く。 「ああ、ひどい!」 鮎沢は叫ぶが、そんな言葉にも歓喜が滲んでいた。松島は逆上に近く、荒々しく鮎沢をうつ伏せに返し、下着ごとスラックスを引き降ろして尻をむく。 鮎沢の背を押さえつける腕を突っ張った。片手で、もつれそうになりながらスラックスの前を開いた。 そうして、猛り狂う自身を無理にも鮎沢の狭間にねじ込む。 「ああ、硬い……っ、うれしい――」 「本当にバカだ、愚か過ぎる! こんなものが、うれしいかっ」 だが、いきなりの挿入がやすやすとかなうはずもなく、劣情の先走りを鮎沢に塗りつけるだけだった。 「うれしいです、とても……」 シーツにしがみつき、鮎沢は甘くささやく。 「あたりまえです、あなたにならどんなふうに抱かれても、うれしいに決まってる――」 うっとりとした声音に嗚咽が混ざってくる。 「好きなんです、それほど……わかってください――」 鮎沢は突っ伏した。肩が小刻みに震える。 松島は動きが止まっていた。胸の底まで、急速に冷えていく。換わって、言い知れない思いが込み上げてきた。自分こそが泣きたくなる。 「――来い!」 言い放ち、鮎沢の手を取った。強引に引き起こす。 「な……っ」 うろたえる鮎沢に、目も向けずに返す。 「こんなとこで、おまえを抱けるか!」 猛然と部屋を出た。鮎沢が足をもつれさせようと、決して手を放さなかった。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |