Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    今宵、あなたに跪き
    ‐4‐




        「何か飲むか?」
         玄関からすぐに洗面所に入ると、松島は、廊下にいる鮎沢に鏡の中で問いかけた。
        「いえ、今はもう十分です」
         心なしか、鮎沢の頬はほんのりと染まっている。それが先ほどのワインのせいなのか、自宅に連れてきたせいなのか、松島にはもうどちらでもよかった。
         ここまで歩いてくる間に、鮎沢はすっかり寡黙になっていた。松島もまた同じだった。
         自分にならって手を洗った鮎沢にタオルを差し出し、廊下を挟んだ向かいの部屋に行く。戸を開け放して暗い中を奥まで進み、背の低いフロアスタンドをつけた。振り向けば、鮎沢は戸口に立ち尽くしている。
        「これは……」
         つぶやいて、声を飲み込んだ。
         以前は客間にしていた六畳の和室だ。離婚してからは客などないが、未だにスタンドのほかに物はない。和紙のシェードを透かして、ぼやけた光が畳の上に広がっている。
         ただ、今は中央に蒲団が延べられていた。駅へ鮎沢を迎えに行く前に敷いておいた。玄関脇のこの部屋より奥に、鮎沢を通す気にはなれなかった。
        「今さら戸惑うか?」
         松島は、あえてそう言った。
        「どっちにしろ、おまえの出方次第だ」
         意識して「おまえ」と呼び変えた。
        「部長――」
         思いがけず、鮎沢は頼りない足取りで部屋に踏み込んでくる。それでも間近まで来て、潤んだような瞳を向けてきた。
         唐突に、胸に飛び込んでくる。
        「……鮎沢」
         松島は息が詰まりそうになった。やはり自分は、どこかで間違いを犯したかと振り返る。しかし、竹原をあのままにできるものではない。社内にいて、これ以上鮎沢に振り回されては仕事に影響が出ると判断したのだ。
         受け止めた細く硬い体を持て余し、松島はためらう。抱きしめそうになる手を抑え、先に上着を脱がせた。薄暗い中にも白いドレスシャツの下に紅色の粒が淡く透けて見え、突如、別の感情が湧き立った。
         しょせん、鮎沢はこうなのか。
        「呆れるな」
         疲れた溜め息が出た。口づける気になっていた自分が、果てしなく愚かに感じられた。
         しかしそれも、今夜は必要だ。道化になる覚悟で、ここまで仕組んだ。
        「部長――」
         胸に手を添えて鮎沢が見上げてくる。口づけを請う仕草に苛立ちを覚えながらも、松島は応えてやろうとした。そのとき、呼び鈴が鳴る。
        「悪い」
         鮎沢に有無を言わせず、松島は離れた。奥のリビングに入り、インターフォンに出る。当然ながら来訪者は竹原で、玄関は開いているから勝手に上がってきてくれと言いつける。怪訝そうにしかめた顔がモニターから消えるのを見て、また溜め息が出た。
         なぜ自分はこんな役を買って出ているのか。
         鮎沢のせいと思いたい。だが、それだけではないことを自分でもう認めている。
         キッチンに立ち寄り、冷蔵庫から麦茶を取り出すと、松島は苛立ちを鎮めるように喉に流し込んだ。すぐに和室に戻る。
         鮎沢は、おとなしくそこにいた。畳に座り込み、ぼんやりとスタンドに目を向けていた。かたわらに上着がきちんと寄せられているのが目につき、松島は新たに苛立った。
         駆け寄る勢いで鮎沢の手を取り、荒々しく蒲団に引き倒す。歓喜に染まる顔を目にして、唇にむしゃぶりついた。開かせて、舌を絡め捕る。背に巻きついてきた手を払おうとはしなかった。
         戸は、開け放したままだ。玄関と廊下は明かりをつけてあるが、ほかは暗い。折しも、玄関の開く音が小さく聞こえた。松島部長、と竹原の戸惑った声を耳が拾う。
        「ここだ」
         組み敷いた鮎沢の体が瞬時に強張った。
        「どうして……っ!」
         悲痛な声を聞いて、ひそやかに松島は返す。
        「竹原をダシにするからだろう?」
         まるでスローモーションを見るように、鮎沢の目がゆっくりと大きく開いていった。
        「俺に誠実を求めるなら、まず自分の誠意を見せるんだったな」
         よほどショックだったのか、鮎沢は声もなくなる。その体を抱えて松島は身を起こした。そのまま戸口に向き直る。
        「松島部長……なんですか、これ」
         竹原は中に入りかけて、そこに呆然と突っ立っていた。ニットにジーンズという軽装が、室内のおぼろな明かりに浮かび上がっている。
        「言ってあったじゃないか。来ればわかると」
         至って平坦に、松島は答えた。
        「けど、これって――」
        「私は聞いてない!」
         羽交い絞めにする腕の中で、鮎沢が声を上げた。それは松島の耳に痛々しく響く。
        「あんまりです、こんなっ……騙すなんて!」
         だが、松島は鷹揚に言い返した。
        「知らせたら、きみは対策を立てただろう? また出し抜かれては、元もなくなるからね」
        「だとしても、こんなやり方って!」
         首をひねって見上げてきた鮎沢に、冷たく目を細める。
        「自分がしてきたことは棚上げか? 罠は、きみの得意じゃないか。このくらいしなければ、きみの裏をかけないだろう?」
         鮎沢は、目を瞠る。大きく息を吸い、そのまま止めてしまったかのようだった。
        「へえ……そういうことですか」
         忍び笑いのように、竹原の声が低く流れてきた。戸口をふさいでいた大柄なシルエットが、悠然と近づいてくる。
        「どうすんの、鮎沢? マジにピンチじゃん」
        「来るな!」
         正面に膝をついた竹原を鮎沢はねめつける。しかし、なんの効力もなかった。
        「松島部長。こいつ、俺と取り引きしたんですよ」
        「竹原っ!」
         言い放ち、今度は飛びかかるかのようにするが、鮎沢にそれはできない。竹原が冷たく見返して、ニヤリと笑うのを松島は見た。
        「あの写真、見せたんです」
         竹原が目を合わせてくる。
        「そしたらこいつ、今すぐ消せって言って。できないって言い返してやったら、代わりに俺と寝てもいいなんて言い出して」
        「約束が違うっ……竹原――」
        「は? おまえがそれ言う? 俺に抱かれる気なんか、なかったくせに」
        「だから言っただろう?」
         割って入って、松島は呆れて言う。
        「あんな写真、なんの役にも立たない。鮎沢に見せたって、余計に振り回されるだけだ」
        「そんなの、すぐわかりましたよ。ちょっと確かめてみただけです」
         竹原は苦笑して返した。
        「そうか。では、やはりコピーがあるな?」
        「えっ」
         声を上げて鮎沢が振り返る。その視線を受け止めて、松島は溜め息を抑えられなかった。
        「どこまで愚かなんだ。まったく、きみらしくもない。少し考えればわかることじゃないか。だいたい、なぜ竹原と取り引きしたんだ。私が失脚させられるとでも思ったか? そんなことをして竹原にどんなメリットがある? 進行中のプロジェクトのトップが替われば、無駄な仕事が増えて自分の首を締めるようなものだぞ?」
         きょとんとする竹原に向かって言う。
        「どうせ失脚させるなら、プロジェクトの完了間近が一番いい。それで功績を横取りできるなら、なおさらいい。そうだろう?」
        「え? ――あ、はい」
        「だが、きみは功績を横取りできる立場にはない。残念だったな」
         言って、ぐっと強く竹原をねめつければ、一瞬ののち、呆れたように笑った。
        「ハッ、まいっちゃうな。やっぱ松島部長だ。わかりました、消しますから見ててください」
         手早く携帯電話を取り出し、松島の目の前で操作する。二点の画像が即座に消去された。
        「SDカードのこれだけで、パソコンとか、ほかのメモリには移してませんから」
         そうしている間に鮎沢は押し黙り、松島の胸で脱力したようになっていた。それが自分にすがりついているように感じられ、松島はそっと目を移して眉をひそめる。
         胸が痛み、声を引き締めた。
        「で、竹原。どうしようか。やはり、一度は抱かないと気が済まないか?」
         竹原は目を丸くし、鮎沢はビクッと体を震わせて怯えた眼差しを向けてくる。
        「本気で言ってるんですか」
        「本気だ」
         淡々と竹原に答え、松島は意図して鮎沢の胸にある指を立て、そこの突起を引っかいた。
        「あっ……」
         仰け反った喉から濡れた声がこぼれ落ち、竹原の目の色が変わる。
        「ひどい……、部長っ」
         それには松島は応えなかった。ただ、鮎沢の体温を胸に感じる。
         あの晩の記憶がよみがえる。体の芯が滾る。
         それは、互いに薄地のスラックスを穿いているのだから、鮎沢にも知れただろう。顔を背けた鮎沢の肩がヒクッと揺れた。
        「松島部長――よくわからないんですけど、協力するって言うんですか?」
         唇を噛んで鮎沢が振り返る。気づいても、松島は竹原を見ていた。
        「鮎沢が、きみに約束したのだろう? 私はどちらにも加担するつもりはない」
        「やめてください部長……お願いです――」
         苦しそうに漏らす鮎沢に、松島は薄く笑いかけた。どうしてここまで残忍になれるのか、自分で不思議だった。
        「そこまで嫌がることか? 竹原にも、きみは勃つのだろう? 言い出したのはきみなのだし、溜まってたなら好都合じゃないか」
         あの日、会議室で耳にしたことをそっくりなぞって松島は言った。鮎沢の顔が引きつる。急に激しくなった鼓動が手に伝わってきた。
        「へえ……」
         顔を歪め、竹原は独り言のようにつぶやく。
        「松島部長でも、そんなこと言うんだ。知らなかったな」
        「やめましょう、部長。部長に傷がつく――」
         喘ぐ鮎沢に、竹原が身を乗り出してくる。
        「だからさ。それをおまえが言うか? 誰のせいだと思ってるんだよ」
         鮎沢を挟んで松島を見上げてきた。
        「捕まえててください。乱暴はしませんから」
        「竹原っ!」
         鮎沢の声が悲痛に響く。しかし松島は竹原に答えた。
        「いや、私はすぐ手を離すぞ?」
        「部長……っ」
         叫んで鮎沢が振り向く。松島は痛そうに目を細めた。鮎沢の瞳には、涙が溜まっていた。
        「……きみの出方次第だと言ったはずだ。どうするか、自分で決めるんだ」
         ささやくように言って、手を離した。
        「部長!」
         腕を伸ばし、鮎沢はすがりついてこようとする。だがすぐに竹原に捕まり、蒲団に引き倒された。大きな体にのしかかられ、手足をばたつかせてもがくも、そう簡単には逃げられそうにない。
         松島は壁際まで身を引き、その一部始終を目に映した。心が凍りつくようだった。鮎沢が抵抗するほど、竹原は躍起になって見えた。
        「やめろ! 嫌だっ、こんな……どうしてっ」
         繰り返し、鮎沢の声が響いてくる。それは竹原にではなく、自分に向かって叫んでいるに違いなかった。
         ――鮎沢。
         もう衣服は乱れ、竹原に全身で押さえ込まれて、いたるところをまさぐられている。首を激しく振ってキスは逃[のが]れているが、それも時間の問題だろう。
         竹原は宣言したとおりに、暴力は使っていない。だが力の差は歴然としていて、やがて鮎沢は力尽き、裸体をさらすことになるだろう。自分の見つめる中で、竹原の愛撫を受けて快感にむせぶのか。
         それは、きっと、たとえようもなく香[かぐわ]しい。
         ……まったく、自虐趣味だな。
         松島は弱々しく自分を笑う。
         だから……竹原でもいいなら、竹原に決めたらいいんだ。
        「ああっ、嫌だ! 俺は――、俺は、部長がいいのに!」
         松島は、おかしくてどうしようもなかった。
         たぶん、鮎沢が竹原に色目を使ったのは、ここ最近のことだろう。そうして自分の気を引こうとしたのは既に明らかで、それを思うと無性にやるせなく、腹立たしくなる。
         そこまでして俺が欲しいなら、そう言えばよかったんだ。
         竹原を巻き込んだりするから、余計にややこしくなった。今後も竹原を利用するようなことがあっては、自分が居たたまれない。
         本当は、わかっていた。鮎沢の意図するとおりに、自分はいくらでも竹原に嫉妬する。今も、焼き切れそうなほどジリジリしている。竹原にも色目を使うなら、鮎沢などいらない。もっと厳密に言うなら、自分以外の男の気を引こうとする鮎沢など欲しくないのだ。
         いつのまにか芽生えた、どうしようもない独占欲だった。
         愚かだよな――。
         ひとは色恋に惑うと、こうも愚かになるのか。自分だけではない、鮎沢がそうだ。仕事では自在に押しも引きもするのに、ひとつのことしか目につかず、簡単なことがわからなくなり、こんな陳腐な罠に容易に陥[おちい]る。
         本当に、愚かだ。
         昼に見た、鮎沢の顔が思い浮かんだ。自分に褒められてはじらう様子が、子どものようにあどけなかった。
         夕食のときには、はにかんだ表情を見せた。思い出すと、胸が甘くざわめく。
         そして、この家に来てからの鮎沢――唐突に胸に飛び込まれ、自分は確かに受け止めたのに、抱きしめられなかった。あのときのためらいが、せつなく胸に迫る。
         俺は……何をやっているんだ。
         鮎沢を放してはならなかったのか。だが、こうでもしなければ、鮎沢が本心を打ち明けることはないと思ったのだ。
         欲情をあおるでもなく、色欲をむき出しにするでもなく、ただ、純粋な思いを聞かせてほしかった。そうする前に諦めている鮎沢が、腹立たしかった。
         仕事では、諦めるなんてないのに……それも仕方ないか。俺がそうさせたようなものだ。
        「部長っ! あなたになら何をされてもいい、でもこんなのは嫌だ、俺は、あなたがいいんです――」
         ハッと松島は顔を上げる。そうなって、自分がうな垂れていたと気づいた。
        「もう、十分なんじゃないですか? 部長のほうがつらそうだ」
         鮎沢の上から、身を起こして竹原が言った。あからさまに肩を落として息をつく。
        「て言うか、いいかげん俺が萎えました」
         鮎沢は、仰向けになって泣いていた。ぼやけた光を受けて、涙が頬を伝い落ちていく。
        「……悪かった。あとは私が引き取ろう」
         松島は、ほかに言いようがなかった。
        「マジ、お願いしますよ」
         竹原はゆらりと立ち上がり、疲れた顔を向けてきて苦笑する。
        「決着ついたみたいだけど、結局、俺がハメられたんですよね? でも、なんて言うか、気が済みました。自分で驚いてます。今度また、ランチおごってください」
         松島は何も言えなかった。自分が買って出たはずの道化役を竹原に負わせてしまった。
        「鮎沢――」
         見下ろして、竹原は静かに呼びかける。
        「おまえさ。バカだな。仕事はできるのに――こういうことに俺を使うな。もう、使えないからな」
         それは、むしろ松島の胸に響いた。なじると言うより、いたわる声音だった。
         ひとつ息をつき、竹原はもう一度口を開く。
        「もっと、うまくやれよ。おまえならできるだろ」
         そして、部屋を出て行った。間をおかず、玄関のドアの音が小さく響いた。
         静寂に包まれる。鮎沢は声を殺して泣いていた。涙に汚れた顔を隠す気力すら失われたのか、仰向けのまま、身じろぎもせずに天井を見つめている。
         松島もまた、壁際にうずくまって動けなかった。鮎沢を見つめ、溜め息が出るばかりだ。
         ――傲慢、か。
         ふと、頭に浮かび上がった。何度、鮎沢に言われたかと思う。暗い笑いが込み上げて、それに運ばれてきた言葉が口をついた。
        「……竹原に身を任せて、俺をあおることもできたのに。もう、できないな」
         自分で信じられなかった。この状況で、鮎沢を見つめて、なぜそんなことが言えるのか。
         ピクッと、鮎沢の手が蒲団の上で動く。細く長く息を吐き出し、唇がわずかに開いた。
        「まだ、そんなこと言うんですか」
         疲れ切った声が、低く流れ出る。
        「ひどい人だ……俺を食事に誘って、自宅に連れ込んで、思いきり舞い上がらせておいて、突き落として――最後はそれですか」
         松島はぐっと口をつぐみ、ただ鮎沢を見つめる。
        「……俺の気持ちなんか、どう言ったって、あなたにわかるわけがない」
         まぶたがそっと閉じられ、新しい涙が一筋、頬を伝い落ちた。
        「ずっと、憧れてました。あなたに引き抜かれたと知って、どんなにうれしかったか。あなたの右腕となって働けるなら、それで十分だった」
         手がシーツをきつく掴み、胸が大きく上下した。
        「あなたが壊したんです。あのときの少女に涙ぐんだりしたから」
         三月のあの日の、陽射しに満ちた明るい車内が松島の脳裏によみがえる。
        「たまりませんでした。あなたが赤の他人に涙ぐまれるなんて、思ったこともなかった。あなたは行きずりの少女にも情を移せるのに、俺にはそうじゃない。俺は、赤の他人以下だ。絶望しました」
         松島は口をこじ開ける。胸が強くきしんだ。
        「あんなのは、安っぽい感情だ。あの子にも失礼な話だ。誰にも欲しがられるようなものじゃない」
        「いいえ」
         喘いで鮎沢は続ける。
        「あれは、あなたのやさしさでした。あなたがいくら安っぽいと言っても、あのやさしさが俺は欲しかった」
         松島は、深い溜め息を落とす。どうにも、やるせない。うつむいて髪をかき上げ、その手で額を支えた。
        「同情にもならない気持ちだぞ? 俺に哀れまれたかったとでも言うのか?」
        「いけませんか」
         きっぱりと言って、鮎沢は顔を向けてきた。濡れた瞳で、まっすぐに視線を寄越してくる。
        「この気持ちをあなたに伝えたって、体[てい]よく断られただけだ。気持ちだけありがたく受け取っておく、なんて言われたら、俺はどうなるんです? 打ち明けても何ももらえずに、何もなかった顔で、それからもあなたに仕えるんですか? だったら哀れみでも何でも、あなたに抱いてもらえるなら、そのほうが、ずっといいでしょう!」
        「鮎沢――」
         鮎沢を見つめて松島は目を細める。胸が苦しかった。ざわざわと感情が波立っていく。
        「責めているんじゃないんです」
         再び天井を見上げて、鮎沢は言う。
        「あんなふうに俺を抱かせて、後悔させたと思いました。あの朝、先に帰れと言われて、居たたまれませんでした。でも、どうしても忘れられなくて。抱いてもらえたら欲が出て。もう抱いてもらえないまでも、あと一度でも情けをかけてもらえるならと――そう思ったんです」
         松島は喘ぐ。喘いでいた。
        「今さら、きれいごとを言うな。今日も俺の気を引こうとしたんだ。俺に抱かれたい、それだけじゃないか。あと一度でも抱いたら、次もまた抱かせるつもりだった。違うか?」
         返事はなかった。昂ぶりそうになる感情を深く息を吐き出して抑える。
        「俺は、あんなふうにでも抱いたんだがな」
        「――わかってます。あなたのやさしさだ」
         だが、それには抑え切れなかった。苛立ちを隠さずに、声を荒げる。
        「違うだろう? やさしさだけで男を抱けると、本当に思っているのか?」
         ヒクッと、鮎沢の肩が揺れた。そろそろと目を戻してくる。
        「男を抱いたくらいでは何も変わらないなんて、嘘だ。これまでの過去が、全部ひっくり返った」
        「部長……」
        「わかってないのは、おまえだ。俺が、どんな気持ちで抱いたと思っているんだ!」
         目を瞠り、鮎沢は怯えたようになる。
        「あのときだって、勝算があって俺を誘惑したんだ。ああ俺は、まんまとおまえに欲情した。おまえは、そんなものしか欲しがらなかったじゃないか!」
         止まらなかった。どうにもならない感情が大きなうねりとなって押し寄せ、松島を飲み込む。
        「そんなに抱かれたいなら、抱いてやる!」
         鮎沢に飛びかかり、既にはだけていたシャツを忌々しく取り払った。片手で肩を押さえつけ、乱暴にベルトを解く。
        「ああ、ひどい!」
         鮎沢は叫ぶが、そんな言葉にも歓喜が滲んでいた。松島は逆上に近く、荒々しく鮎沢をうつ伏せに返し、下着ごとスラックスを引き降ろして尻をむく。
         鮎沢の背を押さえつける腕を突っ張った。片手で、もつれそうになりながらスラックスの前を開いた。
         そうして、猛り狂う自身を無理にも鮎沢の狭間にねじ込む。
        「ああ、硬い……っ、うれしい――」
        「本当にバカだ、愚か過ぎる! こんなものが、うれしいかっ」
         だが、いきなりの挿入がやすやすとかなうはずもなく、劣情の先走りを鮎沢に塗りつけるだけだった。
        「うれしいです、とても……」
         シーツにしがみつき、鮎沢は甘くささやく。
        「あたりまえです、あなたにならどんなふうに抱かれても、うれしいに決まってる――」
         うっとりとした声音に嗚咽が混ざってくる。
        「好きなんです、それほど……わかってください――」
         鮎沢は突っ伏した。肩が小刻みに震える。
         松島は動きが止まっていた。胸の底まで、急速に冷えていく。換わって、言い知れない思いが込み上げてきた。自分こそが泣きたくなる。
        「――来い!」
         言い放ち、鮎沢の手を取った。強引に引き起こす。
        「な……っ」
         うろたえる鮎沢に、目も向けずに返す。
        「こんなとこで、おまえを抱けるか!」
         猛然と部屋を出た。鮎沢が足をもつれさせようと、決して手を放さなかった。


        つづく


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