Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    レタス畑で愛をささやけ
    ‐10‐




     翌日の朝を迎え、いよいよレタスの作付けが始まった。朝食を終えて三人で家を出る。苗は父親が種から育てた。庭の小さなビニールハウスから育苗[いくびょう]トレイごと次々と運び出して、軽トラックに積む。あとは、畑に着いたら畝[うね]を覆う黒いマルチに穴を開けて、一株ごと植え付ける作業だ。
    「純一。ちょっといいか」
     作付けを始めてしばらくしてから父親が声をかけてきた。
    「うん」
     佐伯にはこれも初めての作業で、どうしても遅れがちになり、かなり離れたところで苗を植え付けている。
    「おまえはどう思うか、やっぱり聞いておこうと思ってな。これだけの畑、ふたりで管理しきれると思うか」
     父親は、まだ耕しただけの区域まで見渡して言った。純一は違和感を覚える。父親らしくもない弱音を聞かされた気がする。
    「――ってさ。なんで、ふたり?」
     佐伯がいるのだから三人だ。
    「佐伯さんは、いずれ独立するだろう? レタスで休耕地も耕したが、終わってからもおまえとふたりでやっていけるかと思ってな」
     純一は浅く息を飲む。すっかり忘れていた。どうして忘れていられたのだろう。
     そうだった……俊哉はいなくなるんだ――。
    「どうだ? やっぱり無理そうか?」
    「う、ううん」
     表情を翳らせる父親を前に、動揺を隠せない。声を上ずらせながらも、どうにか答える。
    「ぜ、全部ってのは無理かもしれないけど。あまり手のかからない作物選んでなら、ふたりでもやってけると思う」
    「――そうか」
     父親は眉を寄せて渋い顔になる。曖昧にも、やっていけると答えたのに、どうしたことか。
    「――あのさ。オレ、今は出ていこうなんて思ってないんだけど」
     自分に家で農業を続ける気があるのかを聞きたかったのかと思い、そう言い直してみた。父親は、意外そうに見つめてくる。
    「……え? ち、違ったの?」
     先走ったことを言ってしまったかと、焦った。
    「いや、おまえが畑やってくれるなら、いいと思ってる。おまえがそれでいいなら――だがな、ふたりで、ここ全部使ってやっても、かなり厳しいことになっていてな」
     父親の話すことを聞いて、純一は、それまでにない不安を覚える。近年、農作物の市場価格が下がっていて、生産高を上げないと暮らしていけなくなりそうだと言う。
    「収穫が増えても、資材やら肥料やらで金がかかるなら赤字だ。一度に出回る量が増えれば、それでまた価格が下がる。金をかけないで収穫を増やすしかない。それには手をかけるしかない。おまえとふたりでやっても、ほとんど畑にいることになるな」
     そこまで言って、父親は口をつぐんだ。今にも溜め息をつきそうな様子に、純一は戸惑う。
     父親のこんな様子は初めて見たように思う。農業経営について自分に話したことも初めてだ。
     それってさ――。
     父親の胸中を思った。普段から言葉が少なくて何を考えているのかわかりにくい父親だが、今の父親の気持ちは伝わってきた。
    「けど、そんなこと言ったって――畑、やめる気ないんだろ? だったら、オレもやるよ」
    「純一……」
    「べ、べつに、ずっとやるとか、まだわかんないけど――て言うか、オレがどう思ってたって、オレには農業しかできないみたいな……つか、体が覚えてて農業ならできるみたいな――」
     うまく言えなかった。自分の今の気持ちを言葉にしてみたのだが、父親に伝わったか。
    「わかった」
     父親は静かに返してくる。
    「おまえがいいなら、それでいい。俺が死んだあとのことまで考えてない」
    「え!」
     何を言い出されたのかと焦った。純一は驚いて目を合わせるが、父親の表情は変わらない。
    「家も畑も、おまえの好きにしたらいいと思ってる」
     言葉が出なかった。父親がそんなことを考えていたとは、ただ驚かされるだけだ。
    「ま、今話すことでもなかったな。こんな時間食って、苗が弱る」
     気を取りなすように漏らし、離れていった。隣の畝で、純一よりずっと進んだ先で、作付けの続きに戻る。
     ――おっさん。
     ふらふらと純一はしゃがみ込んだ。目の前の黒いマルチに穴を開け、株の大きさに土を掘り、育苗トレイから苗をひとつ取って植え付ける。頭と体が別々に動いている。
    「おい。どうしたんだ?」
     佐伯の声を聞いて顔を上げた。畝の向こう側から、心配そうに見つめている。
    「おやっさんと、何かあったか?」
     話そうと思うのに、どこから話したらいいのかわからない。
     死んだら、なんて……なんでそんなこと……。
     佐伯の穏やかでやさしい目を見ていたら、じわりと胸が熱くなった。ああそうだ、あんたもいつかいなくなるんだ、思ったら鼻の奥がツンとした。
    「お、おい!」
     佐伯が慌てる。手を伸ばしてきて、目尻に触れる。
    「お、オレ……!」
     涙が滲んでいたなんて、佐伯に触れられてわかった。純一は咄嗟に顔を背ける。隣の畝で、育苗トレイを持ち上げようとしている父親が目に入った。作付けを終えた場所から次に移って、また作業を続けるからで、だが突然、父親はその場にうずくまる。
    「お、お父さん!」
     叫んで、純一は畝を一足飛びにした。
    「え、純一!」
     父親のもとへ駆けつける背中を佐伯の声が追ってくる。
    「お、お父さん! お父さん、どうしちゃったの!」
     すっかり取り乱して純一は父親を揺さぶる。だが父親は、ますますうずくまって低く唸る。
    「なんで……ヤだ! 死んじゃヤだ! ――きゅ、救急車!」
     だけどここは畑の真ん中だ。愕然としそうになりながら、それでも純一はあたふたとワークパンツのポケットを探り、ケータイを取り出そうとする。なのに、出てこなくて余計に焦りまくる。
    「おい! 落ち着け! おやっさん!」
     佐伯は父親の向こう側から顔を覗き込んで、力強く呼びかける。父親はまた低く唸り、よろよろと腰に手をやった。
    「――え?」
     一声漏らし、佐伯は乱暴に純一を押しのけた。純一が目をむく前で、しっかりとした語調で父親に話しかける。
    「腰か? 腰やられたんだな?」
     カクカクと父親がうなずいた。
    「な、なにっ? お父さん――」
     青ざめてわめく純一に佐伯は冷静に言う。
    「たぶん、ぎっくり腰だ」
     声もなかった。純一はぽかんと口を開け、へなへなと崩れる。あとは、佐伯がいたわるように父親に話しかけ、立てるかと問われて首を振った父親を背負うまでを呆然と見るだけだった。
    「おい!」
     父親を背負って歩き出してから、佐伯が振り向いて言う。
    「おやっさんが、まだ植えてない苗、片づけてくれって。俺はこのまま軽トラで病院行くから」
     純一は、まだ返事もできない。土にへたり込んだまま、佐伯を見るだけだ。
    「しっかしりしろって! ぎっくり腰なんて、寝てりゃ治るから!」
     そこまで言われて、やっとうなずけた。カクッと首が前へ倒れる。
    「本当に大丈夫だって! 死なねーよ!」
     いっそ明るく言い放たれ、ようやくホッとする。
    「はー……」
     深い安堵の溜め息が唇から漏れた。がっくりと肩が落ちる。
     だけど、今の一瞬の恐怖は本物だった。耐えがたい焦りに見舞われた。
     おっさんが、死ぬなんて――。
     直前にそんな話を聞かされたからにしても、突然うずくまった光景は、それとは関係なしに死を予感させた。
     ……オレ。
     咄嗟に口を突いた声は、「お父さん」と父親を呼んだ。そのあとも、何度もそう呼んだ。
     ……お父さん。
     今また胸のうちで唱え、涙が溢れ出る。ずっと、そう呼んでいたのだ。物心がついた頃から――母親が他界した、あの日まで。
     お父さん――。
     のろのろと純一は立ち上がり、畝と畝との合間のところどころに置かれていた育苗トレイを集め始める。軽トラックに積み直して持ち帰るにも、佐伯が父親を乗せていってしまったからないし、あったとしても自分は無免許だから運転できない。
     フッと、純一は弱々しく笑う。こんなときにも、父親は一番に畑が気にかかるのかと思うと同時に、苗を片づけろと言っても状況が判断できなくなっていたんだなと思う。
     ……きっと、そんなもんなんだろうな。
     育苗トレイは、用水路の脇に並べて置いた。本当なら植え付けていたはずの苗だから、直射日光にさらされても問題ないだろう。機材は全部軽トラックから降ろしてあったから、作付けした苗にも、育苗トレイの苗にも、水をやった。
     そうしてから農道をひとりでとぼとぼと帰り始め、どうか父親がぎっくり腰で済みますようにと、心から願った。そして、佐伯がいてくれたよかったと、心から思った。


     夢の中で母親が笑う。あの言葉をまた聞かせる。
    『ねえ、純ちゃん。お父さんは、畑にいるときが一番カッコイイと思わない?』
     きらきら光る日射しの中で――真夏の畑で。
    『すごいよね、これも、これも、ぜーんぶ、お父さんが作ったんだよ? カッコイイよね?』
    『うん、すごい! カッコイイ!』
     まどろみながらも感じていた。目尻から涙が伝っていた。
    『それなのに、お父さん、やめるなんて言ったんだよ? お母さん、怒っちゃった』
     わざとらしく頬をふくらませた母親の顔が浮かぶ。少女みたいだ。
    『そうなの?』
    『でも、ずっと前ね。純ちゃんが生まれるより前』
     ベッドに身を投げ出し、純一は泣いていた。畑から家に戻り、しばらくは台所で父親と佐伯の帰宅を待っていたのだが、だんだんと耐えられなくなってしまった。家事をするとか、気を紛らわせることも思いつかずに、椅子にただ座っているだけでは、湧き上がるさまざまな思いに流されるだけだった。
     自室に引きこもり、それからもずいぶん時間が経ったように思う。涙は自然に流れてきて、その理由もわからず、知ろうともせず、ベッドから天井を見つめていた。正午を前に、あたりは静かで、アブラゼミの鳴き声も遠くから聞こえるようで、風が吹き抜けていくだけだった。
     父親が、もし大きな病気だったらどうしようと思った。ぎっくり腰だと言ったのは佐伯で、本当にそうかはわからない。早く帰ってきてほしいと思うのに、父親の帰宅が怖い。
     でも、戻ってこなかったら――。
     そのまま入院なんてことになったら、そんな大変な病気だったら――だが父親にそんな様子はまったくなかった。普段と同じに落ち着いて、てきぱきと働いていた。
     けど、俺が死んだらなんて言って――。
     それはたとえ話だ。わかるのに、いつになく弱音を漏らしていたことが気にかかる。
     だけどあれだって、これから畑を続けていくのにどうしたらいいかって話で――。
     そんなことを思い始めたら、きりがない。仮定と否定に揺れて、不安ばかりが残る。
     ……疲れた。
     目を閉じたら、畑にうずくまった父親の姿が浮かんだ。そこに、客間に倒れていた母親の姿が重なる。
     一瞬、息が止まった。胸が締めつけられて、鼓動が駆け出した。目尻から涙がこぼれた。
     ごめんなさい……お父さんまで死なないで。
     みんな、行ってしまうのか。自分が目を離している間に。いつまでも一緒にいてくれると油断している間に。
     オレ、出ていかない。ずっと畑やるから。
     佐伯にもいてほしい。これからも、ここにいてほしい。でも、独立を決めたら出ていくのか。
     ……キスしたのに。
     何度もキスするのに。やさしく抱きしめもするのに。好きと言葉にしないのは、いつか出ていくからか。
     嫌だ……そんなの。
     佐伯が欲しかった。どんなに怯えても佐伯のものにしてほしかった。だけど佐伯は、キスはしても、それより先のことはしない。それもまた、いつか出ていくからなのか。
     疲れた――。
     ベッドに横になると、つい眠ってしまう。わかっていて、横になってしまう。ここに帰ってきてから、ずっとそうだ。特別なことはない毎日なのに、いろんなことがありすぎて。
     不安を乗せて、時間が流れていた。浅くまどろんで、純一は溺れそうになっていた。
     庭に入ってくる軽トラックの音がした。ザッと乾いた土を鳴らす音と、エンジンが切れる音、間をおいて、ドアが開け閉めされる音。
     ハッとして純一は跳ね起きるも、ベッドから降りられない。首を伸ばして庭を見る。佐伯に支えられて父親が歩いてくる。
    「お父さん!」
     咄嗟に叫んでいた。慌てて広縁に出る。
    「大丈夫だ、やっぱり、ぎっくり腰だった」
     佐伯が声を張り上げて答えた。ふたりでゆっくりと玄関に向かってくる。純一は急いで玄関に回った。先に中から開けて、ふたりを迎える。
    「とにかく安静にしろってことで、三日くらいは寝てなくちゃダメだそうだ。でも歩けるから、二週間程度で治るだろうって言われた」
     父親が玄関を上がるのを手伝いながら佐伯は説明する。
    「てことで、おやっさんの布団、運んできてくれないか。客間か仏間に敷いたほうがいいだろう。そのほうが台所に近いし、呼ばれたときすぐわかるから」
    「――え」
     純一は息を飲んでしまう。自分がやらなくてはならないか。部屋に入らなくてはならないか。
    「いや、いい。純一、悪いが俺の部屋に敷いてくれ」
    「でも、おやっさん。しばらく動けないんだから。トイレまでの距離もそれほど変わらないし、客間か仏間のほうが――」
    「いや、いいんだ」
     佐伯は納得のいかない様子ながらも口を閉じる。玄関から上がった体勢で、ひとまず廊下に落ち着いた父親を支え、頼むと純一を目で促した。
    「――わかった」
     ひとつ呼吸を整え、純一は部屋を突っ切らずに広縁をぐるりと回って父親の部屋に行く。
     大丈夫、ここなら入れる。
     記憶にあるとおりの、こざっぱりと整えられた室内だった。押し入れを開けて、畳に布団を敷く。北の窓を開け、客間に続く南のふすまも開けて風の通りをよくしようとしたが、寸前で手が止まってしまった。閉まったままにして、来たときと同じように西側のふすまから抜けて広縁を回り、玄関に戻る。
    「敷けたか? おまえも手伝ってくれ。片側だけ支えるより歩きやすいだろ」
     佐伯に言われて、父親の横に回る。せえの、と佐伯の声に合わせて三人で立ち上がった。
     しかし、佐伯が仏間に入っていこうとして純一の足は止まる。怪訝そうに顔を向けられた。
    「なにやってんだ、行くぞ」
     答えられない。仏間を前にして、今までにないほど全身が硬直する。それが伝わったのか、父親が言う。
    「俊哉。広縁から回ろう」
    「けど、部屋を突っ切っていくほうが早いでしょう」
    「いや、いいんだ」
     やっぱり、知ってる――。
     自分が仏間と客間に入れなくなっていることも、その理由も、やはり父親は知っていたのだ。
    「……こんなときなのに」
     不服そうに佐伯はつぶやき、しかし向きを変えて三人で広縁を回って父親の部屋に入った。父親を布団に寝かせる。
    「薬と水、持ってきておきますから」
     佐伯が客間に続くふすまを開けた。驚いて、純一は顔を伏せる。ぴたりと佐伯の足が止まるのが目に映った。だがすぐに客間に入っていく。
     動悸がする。胸が苦しい。
    「純一」
     父親に呼ばれて、ビクッと肩が震えた。そろそろと振り返る。
    「苗は畑か? あとで構わんから、佐伯さんと取りに行ってくれないか」
    「水は、やっといたから……」
     声も震えていた。父親は浅くうなずいて返した。
    「今行ってきますよ」
     客間から入ってきて佐伯が言った。父親の枕元に、盆に載せた水差しとコップと薬を置く。
    「昼飯も用意できたら運んできますから、ゆっくり休んでください。――行こう、純一」
     背を見せて、佐伯は客間に入っていく。純一は西側のふすまから広縁に出ようとした。
    「頼んだぞ、純一」
     父親に背後から言われた。足が止まる。今の言葉に込められた父親の気持ちを感じた。
    「大丈夫。作付けからだから、だいたいわかる。わからなかったら訊くし」
     背中で答えた。申し訳ない気持ちでいっぱいで、父親を見られなかった。
     佐伯がもう軽トラックに乗り込んでいると気づき、広縁を駆けて玄関から飛び出る。助手席のドアを開けて急いで乗り込むが、チラッと、怒っているように横目で睨まれた。
     昼時で、畑まで農道を行っても、どこにも人影はなかった。車窓からぬるい風が吹き込んで純一の細い髪を乱したが、胸は淋しくふさがれていた。
     農道の路肩に軽トラックを停めて、用水路の脇に置いてあった育苗トレイを荷台に積み込む。そうしているあいだも、そもそも軽トラックに乗り込んだときから、佐伯はずっと不機嫌そうに口を閉ざしていた。
     機材も積み終えて、純一は助手席側のドアに回ろうとする。いきなり腕を引かれた。
    「おい。いつまで黙ってるんだ」
     畑を前に、軽トラックの車体に背中を押しつけられた。佐伯は目の前に立ち、鋭く見下ろしてくる。
    「いつまでって……」
     純一は何を言われたのかわからない。それに今は、頭がうまく働かない。
    「言わないなら、言いたくなくても言わせるぞ。いいのか?」
    「だから……それって、なに」
     日射しが熱い。日当たりのいい畑は容赦なく真夏の太陽にさらされ、盆を過ぎてもじりじりと肌が焼ける。アブラゼミが鳴いている。佐伯の顔が、逆光の陰で大きく歪む。
    「――そうか。なら、訊くぞ。おまえ、どうして母屋の部屋に入れない? 家に戻ってからずっと、半月が過ぎたってのに一度も入ってないだろ? 盆の用意もおやっさんがひとりでやってた。自分の母親が亡くなってるっていうのに仏壇に向かおうともしないって、どういうことだ? それに、おやっさんが何も言わないってのもわからない。自分の父親を『おっさん』なんて呼んで、よほど仲が悪いのかと思ってたらそうでもなくて、何があったんだ?」
     一度にそれだけの言葉を投げつけられ、純一は胸が潰れそうになる。プイと顔を背けた。そうしなければ、涙が噴き出しそうだった。
    「純一……」
     淋しそうに佐伯が言う。
    「俺は居候だから、おやっさんとおまえのことに口を出す気はなかった。だけど限界だ。もう、赤の他人じゃいられない。何に苦しんでる? 俺が知りたいんだ。おまえのことを話してくれ」
     ぐっと胸が詰まる。真摯に耳に響いた言葉に耐えられない。
    「……言われたんだ。お母さんが死んだのは、オレのせいじゃないって」
     少しの間があいた。視界の隅で、佐伯の眉がぎゅっと寄る。
    「悪い、もう少し話してくれ。それじゃわからない」
    「だから!」
     急激に込み上がった感情を純一は吐き出す。もはや自分ひとりの胸に納めていられない。
    「お母さんが倒れたとき、オレは家にいたんだ! でも、オレは離れにいて、お母さんは客間で倒れて、ずっと……ずっと! どのくらいかわからない、お父さんが畑から帰ってくるまで、ずっと! 気がつかなかったんだ!」
     ぶわっと涙が溢れた。キッと佐伯を見据えて、さらに言う。
    「倒れてすぐだったら助かったかもしれない、気がついてオレが救急車呼んでたら――けど、オレ、そのとき部屋でゲームしてたんだ! お母さんが死にそうだったのに知らなくて――」
    「……純一」
     両手で顔を覆い、純一は泣く。涙を止める気も起こらずに、佐伯の前で泣く。
    「だから……言われたんだ。お母さんが死んだのは、オレのせいじゃないって……火葬場から帰るときに……車の中でお父さんに言われた。お父さん、お骨持ってて……ぎゅって抱きしめた」
     あのときの父親の横顔や、白い布で包まれた箱や、それを胸に強く抱き寄せた腕の動きまで、ありありと脳裏に浮かんだ。
     純一は、ずるずると崩れ落ちる。土の上に尻を突き、がっくりとうな垂れて泣き続ける。
    「オレのせいじゃない、って……オレのせいだってことじゃん。オレのせいじゃないって思うなら、言わないだろ?」
     佐伯は前にいて、動かない。突っ立ったまま、見下ろしているように感じる。
    「それっきりで……次の日から畑に出て。火葬場から戻って家で言われてたのに。農家の嫁にならなかったら死ななかったのに、って。丈夫じゃなかったのに畑やって……なのに、なんですぐ畑なんだよ! 信じらんねえよ! なんだよ、あのおっさん!」
    「純一」
     ぎゅっと肩をつかまれた。佐伯はしゃがんで顔を覗き込んでくる。
    「わかった。わかったから」
     しっかりと、温かい声で言われたから、純一はまた顔を背けてしまう。荒っぽく涙を拭った。
    「けどな。いいか?」
     目も向けずにいるのに、佐伯は語りかけてくる。
    「おまえの母さんが亡くなったのは、誰のせいでもない。本当にそうなんだから、よく考えてみろ。それに、悪いが……俺には、おやっさんの気持ちがわかるように思える」
    「……なんだよ」
     諭[さと]すように聞かされ、もっともなことを言われたと頭ではわかるのに、感情が追いつかない。
    「じゃあ、あんたも葬式終わったら、すぐ畑に出るって言うのかよ! そんな大事かよ! 畑がなかったら、死ななかったかもしれないんだぞ!」
    「違う、純一」
     肩をつかむ力が強くなる。佐伯は、無理にも目を合わせてこようとする。
    「おやっさんは、畑で泣いたんだ。きっと、畑でしか泣けなかったんだ。おまえが部屋にいて助けられなかったのと同じで、おやっさんは畑にいて助けられなかった。それをたぶん後悔している。だから、おまえのせいじゃないって言ったんだと思う」
     強い眼差しを浴びて、純一は返す言葉に詰まる。佐伯の気持ちが伝わる。深い思いやりが。
    「……なら、あのおっさんのせいだって言うのかよ? んなわけ、ねえじゃん。だって――お父さんは、畑にいたんだ。気がつきたくたって、できない――」
     また涙が溢れる。口を押さえて、純一は嗚咽をこらえる。
    「だから、それは、おまえも同じなんだって」
     佐伯の声が、やさしく耳に響いた。
    「おまえが後悔しているとわかったから、おやっさんは言ったんだろう。同じ気持ちだったから。まったく逆に取られるなんて思わなかったんだろうな。どうしようもない」
     ぽんと頭に手が乗った。じわりとゆるみ、純一の胸は温かくなっていく。
    「それにな。おまえの母さん。嫌々、畑やってたのか? 農業が嫌なのに嫁に来たのか?」
     ……あ。
     ドキッとした。それは、考えてもみなかったことだ。家事のほかに農作業までしていたから早世したのだと思い込んでいた。でも、自分でそう思ったのではない。客間から聞こえた罵声が、そう言っていたから――。
    『ねえ、純ちゃん。お父さんは、畑にいるときが一番カッコイイと思わない?』
     今また、母親の明るい声が脳裏に響く。
    『お母さん、純ちゃんはひとりっ子にしちゃったけど、野菜は毎年たくさんできてうれしいわ』
     胸が引きちぎれそうだった。一息に涙が溢れ出て、止まらなくなる。声が詰まっても、純一は言わずにいられない。
    「ち、違う……そんな、ない! お母さん、カッコイイって――お父さんは、畑にいるときが一番カッコイイって! 言ってた……何回も。野菜、たくさんできて、うれしいって……」
     なんでこんな簡単なことがわからなかったのだろうと思う。多並が佐伯にまで話してしまったくらいに、母親が嫁いできた経緯は近所に知れているほどで、だから佐伯が言ったように、それほどの大恋愛だったわけで、母親は農業をくるめて父親を愛していたわけで――。
    「お、オレ、バカだった……っ!」
     早世してしまったけれど、母親は幸せだった。父親といたあいだ、ずっと――でなければ、あんな笑顔ばかり思い出せるはずがない。
    「純一――」
     肩をつかんでいた手が離れ、震える純一をそっと包んだ。佐伯の匂いをいっぱいに吸い込み、純一は佐伯の胸に崩れる。
    「今は、泣きな。俺がおやっさんの代わりになるから――好きなだけ、泣きな」
     耳元で甘くささやかれ、純一は声を上げて泣く。どうしてこの男は、ここまで自分の気持ちがわかるのだろう。
     あのとき、母親が他界したとき、泣けて泣けてどうしようもなかったとき、本当は父親にも一緒に泣いてほしかったなんて、今言われてわかった。畑に出ていく背中が恨めしく感じられたのも、誰もいなくなった家に取り残されるようだったから――。
     置いていかないで。
     純一は佐伯にすがりつく。白いTシャツの胸のあたりをぎゅっと両手でつかみ、額をこすりつける。
     この男が好きだ、たまらなく好きだ――俊哉!
     あやすように背中をさすられ、そうなっても涙が止まらなかった。離れたくなくて、どうしても離れたくなくて、だけどその気持ちを伝える言葉がなかったから、涙が止まるまで佐伯にしがみついていた。


    つづく


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