Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    レタス畑で愛をささやけ
    ‐11‐




     父親のぎっくり腰は、医者に言われたとおりに三日ほど安静にしていたら、ずいぶんとよくなった。ようやく入浴できるまでになり、しかし農作業はまだ控えるようにと言われて渋々と家でおとなしくしている。一日も早く畑に出たがっていることは傍目[はため]にも明らかで、再発すると繰り返すかもしれないと医者に言われなかったら、とっくにそうしていたと思える。
    「ったく、また何週間も畑に出られないんじゃ嫌だから医者の言うこと聞くってさ。どんだけ畑が好きなんだっての」
     ぶつぶつとこぼす純一を佐伯は笑って見ているだけだ。その眼差しがやさしくてくすぐったいから、純一は口を閉じてしまう。父親との関係が修復されつつあることを穏やかに見守られているようで、ひどく照れくさい。
     佐伯の胸で大泣きした翌日のことだった。風呂に入れない父親の背中を拭いていたときに、純一は気になっていたことをふと訊いてみた。
    『――あのさ。なんか、思い出したんだけど……農業やめるって言ったことがあるって、オレ、お母さんから聞いたことあるんだけど、そうなの?』
    『――ああ。一度だけあったかな』
     父親は前を向いたまま、小さく答えた。純一は手が止まりそうになり、しかしそうせずに、さらに尋ねた。
    『それってさ。もしかして、結婚するとき?』
     父親が答えるかどうかは疑問だった。その前の質問にも、すんなり答えらえるとは思っていなかった。
     だが、答えが返ってくる。
    『――そうだ』
     それを聞いて、胸が詰まった。じんわりと温かくなった。
    『そうなんだ――』
     それで会話は途切れ、なぜそんなことを訊くのかと、父親に問い返されることもなかった。父親は体をくの字にして横たわっていて、純一は背中を拭いていたから、互いに顔を見ることもなかった。
     だけど、あのときに言ってみればよかったと純一は思っている。お母さんが死んだのは、お父さんのせいじゃない――と。
     同じ痛みをもって、同じ負い目をもって、母親の死を境に背を向け合ってきたことに、遅くなってでも気づけてよかったと思う。気づかせてくれたのは佐伯だ。
     畑にいて、ふたりで農作業をしていても、佐伯が近くにいることを思うだけで胸がときめく。作付けしたレタスの株もとから雑草を抜いていてもそうなのだから、自分で呆れるほどだ。自分で呆れるほど、静かで穏やかな幸福に浸っていた。
     午後四時を過ぎて、夕暮れを予感させる風がそよいでくる。レタスは順調に育ち、ずいぶんと葉が増えて、黒いマルチに覆われた畝を爽やかな緑の帯に変え始めている。八月が終わろうとしていた。
    「んじゃ、灌水[かんすい]すっか」
     土の様子を見て、純一は佐伯に声をかけた。佐伯は向かいの畝から顔を上げてうなずき、草取りをしていた手を止める。
     軽トラックに戻り、ふたりでポンプと灌水チューブを下ろした。農道沿いの用水路は、この一帯が水田だったときの名残りで、近くの川から引いた水と、あたりの湧き水が一緒になって流れている。そこからポンプで水を汲み出し、接続したチューブで畑に水をまく。
     それぞれに、畝と畝の合間にチューブを引いた。チューブには小さな穴が一定の間隔で開いていて、ポンプで水を送るとそこから噴き出す仕組みだ。
    「よし、と」
     ポンプを動かして散水が始まり、純一は用水路のコンクリートのへりに腰を下ろした。その横に来て、佐伯は軽トラックに寄りかかる。
    「はー、なんつーか、こうしてるとのどかだよなあ」
     灌水が終わるまで二十分ほどかかる。その間にも草取りを進められるが、今は休憩だ。佐伯が荷台から水筒を取り上げるのを見て、純一は手を伸ばした。
    「オレのも取って」
     くすっと笑って、佐伯が手渡してくる。ふたりそろって、水筒の麦茶を飲んだ。
    「けど、そろそろ次の作付けだよな。苗がさ。やっぱ、お父さんが見ないとイマイチって言うか。ハウスで作るから、ビニール上げて中の調整するだろ? あれが微妙なんだよな」
     ぎっくり腰の父親に代わって自分が管理するようになってから、苗の様子が変わったように感じていた。そのことをつい愚痴ってしまったわけで、佐伯がニヤッと笑うのが横目に見え、純一は間が悪くなる。
    「……んだよ。笑わなくたっていいじゃん」
     軽く睨みつけたら、まったく遠慮のない笑顔になった。
    「いや、悪い。つい――」
    「つい、って。なんだよ」
    「普通に『お父さん』と呼ぶようになったと思ってさ。それに、おまえも畑が好きなんだな」
    「は?」
     やわらかく見つめてきて佐伯は言う。
    「やっぱり親子だと思えるくらい、似てるよ、おまえとおやっさん。顔はそうでもないけど、口下手なところとか、性格が。嘘なんて言いそうになくて、信用できる」
    「な、なんだよ、いきなり――」
     純一は照れてうろたえるのに、佐伯は穏やかな微笑を崩さずに続ける。
    「農業が嫌で家を出てたって聞いたけど、戻ってからのおまえは、俺には少しもそう見えない。今はおやっさんの代わりに俺に教えているからだとしても、その前から、おまえ積極的だっただろ。自分じゃ気づかないのかもしれないけど、今だって先のことを考えてたじゃないか」
    「だって、それは――」
    「おやっさんができなくて任されてるから? 違うだろ? もっとうまく苗を作るにはどうしたらいいか、考えてただろ」
    「う」
     言われてみればそのとおりで、返す言葉がなかった。どうして佐伯にはわかるのだろう。顔が熱くなる。
    「もう、ずっと農業やればいいのに」
     浅い吐息交じりに言われた。
     純一は考え込んでしまう。父親とふたりで畑を管理しきれると思うかと尋ねられたとき、今はやめる気はないという程度の返事を父親にしたが、そのあとに父親から聞かされたことが気になる。
    「あんたは、ずっと農業やるわけ?」
     問い返してみた。佐伯がどう答えるか聞きたい。
    「そうきたか。ずっと、って言われると、まあ考えるな。まだ独立してやってるわけじゃないし、そうなってから嫌になることもあるかもしれないな」
     独立と聞かされてドキッとした。咄嗟に口走る。
    「あるかもよ」
     嫌な感情が胸に滲み出てくるのを抑えられない。父親から聞かされたことをそのまま話す。農業経営の現状は厳しいという話だ。
     それを聞いて佐伯がどう思うか。独立をためらうか、それとも農業に嫌気がさすか――。
    「価格が下がっていることは、出荷に行くとよくわかるな」
     佐伯は真顔になって応じてきた。純一も、せめてもの誠意で真剣になって返す。
    「だからレタスだけにするより、一度にいろいろ作ったほうがいいはずなんだ。どれか価格が下がっても、ほかでチャラになることもあるし。そういうの、お父さんはわかっているのに、なんでレタスだけにしたのかって――」
     佐伯がやりたがっていると知っていたからか。手本を見せて、ほかの一区域を佐伯ひとりに管理させるつもりだったとか――。
    「でも今は、JAを通さなくても販路があるだろ? おやっさんの作る野菜は、ほとんど有機栽培で農薬も最低限しか使わないから、市場[しじょう]に出すより個人販売したらいいと思う。飲食店と専売契約できたら安定も見込める。ネットで個人相手に通販している農家もあるけどな」
     一瞬、純一はぽかんとしてしまった。佐伯がそんなことを考えていたとは思っていなかった。
    「あんた……そういう農業やりたいの?」
    「まだわからない――て言うか、ひとりで作物育てられるようになるのが先だ。でも、おやっさんみたいな農業をやりたいと思ってる。ハウスより露地栽培が魅力だ」
     言い切って、にっこりと佐伯は破顔した。その笑顔がまぶしくて、純一は目を奪われる。
    「なんだ? そんな、カッコイイか?」
     ふざけたように佐伯は言ったのに、大きくうなずいて返した。
    「カッコイイよ、すごく」
     ギョッとしたように佐伯は目を瞠る。手で口を覆い、明らかに照れて視線をそらせる。
     な、なんで?
     急にそんなふうに照れられると、純一のほうが恥ずかしくなる。普段とのギャップがありすぎて、なんだか佐伯がかわいく見えてしまう。
    「つか、そろそろいいな」
     逃げるように立ち上がって純一はポンプを止めた。そそくさと畑の中に入り、灌水チューブを片づけ始める。佐伯も隣の畝の向こうに回って片づけ始めた。
     ……またキスしてくんのかな。
     されそうな気がする。自分がしそうになっていたくらいだ。きっとポンプも灌水チューブも軽トラックに積み終えたあたりでされると思う。
     そんなことを思って純一はドキドキしていたのに、佐伯は素通りだった。軽トラックに乗り込んでからは横顔が厳しくなったように感じられ、ちらちらと盗み見ているうちに純一は不安になってきた。
     いつもなら、絶対してくるのに。
     不意打ちを食らわされるようなキスを何度もされて、なんとなくタイミングがわかってきたように思えていたが、違ったか。
     実はムカついてるとか……真面目な話の途中で、あんなふうになったから。
     自分の気持ちは、佐伯には手に取るようにわかるらしいが、佐伯の気持ちは自分にはわかりにくい。
     なんか……いろいろダメかも。
     軽く落ち込んでマイナス思考のスパイラルにはまりかけたとき、フロントガラスの向こうに派手な車が見えてびっくりした。家はもう視界に入っていて、車は手前の空き地に停まっている。目の覚めるような青のクーペで、純一にもわかるベンツだ。このへんではまず見かけない。
     佐伯も当然気づいたようで、前を過ぎるとき、チラッと視線を投げた。チッと、忌々しそうに舌打ちする。
     ……え。
     嫌な予感がした。これは、あのときに似ている。あの女性が突然やってきたときに――。
     予感は的中だったらしく、佐伯は軽トラックを納屋に入れると足早に門を出ていった。少し迷ったが純一もあとに続く。
     塀を回って車が目に入ると、中から若い男が出てきた。すらりとした痩身[そうしん]で、淡いグリーンのスーツを着ている。長めの茶色い髪を揺らしてドアを閉めると、こちらに向いて車にもたれた。顔が見えて、佐伯の背後から純一は声を上げる。
    「ひ、ヒカルっ? なんでっ?」
     佐伯が勢いよく振り向く。目をむいて純一を見つめてくる。
    「えっ? だって、あれ『ローズクオーツ』のヒカル――」
     そこまで口にして、純一はようやく理解した。あの女性が言っていた『ヒカル』は、今そこにいる、純一も顔だけ知っていた『ヒカル』なのだ。
     ……え。てことは――。
     そろそろと佐伯の顔をうかがった。恐ろしい眼差しで見据えられる。
    「知り合いだったのか?」
     純一は思いきり首を振る。たまたま顔と名前を知っていたにすぎない。新宿のホストクラブ『ローズクオーツ』のヒカルは、自店で売上ナンバーワンをキープしているだけでなく、他店にまで知られる凄腕のホストだ。そう聞かされて、自分は知らないと同居していた先輩ホストに言ったらバカにされて、悔しくて『ローズクオーツ』まで見に行ったからよく覚えている。
    「久しぶり、俊哉」
     涼やかな声が俊哉と呼んで、焦って純一は顔を向けた。ヒカルのもとへと佐伯が歩み寄っていく。数歩手前で立ち止まった。
    「ごめん。来ちゃった」
     まるで悪びれる様子もなく、ヒカルは佐伯を見つめてにっこりとする。
     な……っ。
     ショックだった。さすがナンバーワンホストと言っていいのか、純一でもドキッとする顔を見せた。純一が働いていた店にはいなかったタイプで、すっきりと整った顔は清楚な和風美人を思わせ、それなのに滴[したた]るほどの色気に毒が混ざって感じられる。
     し、知らなかった――。
     以前見たときとは、がらりと印象が違う。あのときは鋭利な冷たさが際立ったのに、本人の気持ち次第でこうも変わるのか。なんだか負けた気がした。いや、負けを言うなら、とっくにそうだろう。過去にヒカルと寝たことを佐伯は否定しなかった。
     俊哉……あんなヒカルを抱いたんだ――。
     ぎゅっと胸が締めつけられる。きりきりと絞られるように痛んでくる。
    「――おまえな。来ちゃった、じゃないだろ?」
     心もち佐伯の声音がやわらかい。純一は、冷水を浴びせられたように感じる。
    「だって、しょうがないじゃない。あの女がうるさくてさ――」
    「ったく、『あの女』じゃないだろ。ちゃんと芳江[よしえ]さんと言え」
    「うわ、まだ言う? もう関係ないくせに」
     ふわりとヒカルがほほ笑む。純一など眼中にないように。
     居たたまれない。何をしたくて佐伯を追ってきたのか自分でもわからない。前の仕事に戻るように説得されてしまうと思ったのか。つい先ほど農業への夢を語った佐伯が、戻るとは思えないのに。女性が来たときも、きっぱり断っていた。
     けど……なんか、冷たかったから。
     不安に駆られて純一は佐伯の背中を見つめる。ヒカルが元恋人でも、とっくに切れていると聞かされたけれど、それならなぜ、そんな相手がこんなところにまで来ているのか。
     でも、キスしてくれるし――。
     キスだけだ。『かわいくおねだりできるまでおあずけ』と言われたきり、キスより先のことは何もされていない。
     オレが、かわいくおねだりできないから?
     だけど佐伯にその気があるなら、いくらでも先に進むチャンスはあったはずだ。もとから、自分にはその気がないということか。
     だ、だって。ヒカルとつきあってたなら、オレなんて。
     どう考えても物足りなさそうだ。『おあずけ』と言ったのは、はぐらかすつもりだったのか。
     わ、わかんない……っ。
     何が事実で、どれが自分の思い込みなのか、純一は混乱してくる。
    「芳江さんに言われて来ただけなら、もういいだろ? て言うか、おまえなら適当に言ってごまかせたのに、わざわざ本当に来るなんて、そっちに驚きだ」
    「ひどいな。俊哉に会いたかったからに決まってる」
     ツンと顎を突き出し、ヒカルは拗ねて見せる。臆面もなく媚態をさらすその度胸に、純一は目をむいた。頭から思いきり殴られたように感じる。
    「やめとけ。嘘ばかり言ってると、自分で本心がわからなくなるぞ」
    「よく言う。あの女に嘘ついてここに来たことにすればよかったって、言ったばかりなのに」
    「――ヒカル」
     佐伯から、すっと目をそらした横顔が見えた。純一は強張った顔で眉をひそめる。弱々しく、淋しそうに感じられたが、それも作為的にしたのか。
     ……じゃないだろ、あれ。
     新たな焦りが生まれる。ヒカルは本当に佐伯に会いたくて来たのかもしれない。離れ離れになっても忘れられないとか、そんな理由で。
     佐伯の片手が上がる。ぽんと、ヒカルの頭に乗った。純一は息が止まりそうになる。
    「いいから、もう帰れ。ここまで来ても俺と話すことなんてないだろ? 俺にもない」
    「じゃあ、キスして」
     頭にあった手を払い、ヒカルは勝気な眼差しでまっすぐに佐伯を見る。
    「最後の思い出もくれないでホテルに置き去りにして、殺してやりたいくらい」
    「恥かかせた俺を追ってきたことのほうが、恥だと思うぞ?」
    「俊哉になら、いくらでも恥ずかしいとこ見せられる」
     それが、グサッと純一の胸に突き刺さった。佐伯がどう返すか、怯える目で見つめる。
     チッ、と舌打ちが聞こえた。佐伯の手がヒカルの顎をつかみ、顔を上向かせる。
    「だ、ダメ!」
     純一は飛び出す。なりふり構わない勢いで、佐伯をヒカルから引き離す。
    「あんた、コイツと切れてるって、言ったじゃん! だったら、ダメ! 絶対、ダメ!」
    「……純一」
     佐伯は軽く瞠った目で見下ろしてきた。
    「だって、あんた……オレにキスしてんだろ!」
     言い切って、純一は真っ赤になる。丸くなった佐伯の目を見つめて消えてしまいたいほどの羞恥に襲われるが、そらさない。
    「うわー……必死」
     棒読みするようにヒカルが言った。しかし佐伯は純一を見つめていて、フッと笑う。
    「だったな。――悪かった」
     ぽんと頭に手を乗せられ、純一はビクッとした。いつもは温かくなる胸が凍りつく。
    「へぇー……あの女が言ってたことって、マジなんだ」
     冷めた声で漏らし、ヒカルは車のドアを開けた。
    「最低。泥臭くなった俊哉なんて、ただのオヤジだ」
     乗り込んで、バンと乱暴にドアを閉めた。あとは目を向けてくることも一度もなく、急発進させて去っていった。
     純一は呆然としてならない。背後で、佐伯が小さく笑いを漏らす。ケラケラと笑い出した。
    「あんた……」
     途端に、カッとなった。自分でもわけのわからない怒りに沸いて、笑っている佐伯を残して歩き出した。すぐに早足になり、走り出して、最後はダッシュで離れの広縁から自分の部屋に駆け込んだ。ぴしゃりと障子を閉じて、ベッドに身を投げ出す。
     変なふうに鼓動が乱れていた。走ったからではない、怒りと不安に胸が渦巻き、どうかしてしまいそうに思える。
     ――笑うなんて!
     佐伯の気持ちがわからない、信じられない。
     アイツにキスしようとした……っ!
     見たくなかった。佐伯と寝た『ヒカル』が、あのヒカルだったなんて知りたくなかった。
     オレ、ぜんぜん負けてるし!
     どうして佐伯についていってしまったのだろう。置いていかれるようだったから――それだけの気持ちだ。前も佐伯を呼び戻しに人が来たから、また来たのかと不安だっただけだ。こんなふうに打ちのめされるなんて思わなかった。佐伯が信じられなくなるなんて思わなかった。
     これじゃ、いなくならなくたって、同じじゃん!
     自分は、いったい何だったのかと思う。佐伯にとって。
     初めてキスをもらえたときの甘美な気持ち、そのあとも何度もキスされて、ずっとときめいていた。自分からは積極的になれなかったけれど、それだって佐伯が好きだからで、呆れられたり笑われたりしたくなかったから、かわいくおねだりなんて、できそうになかったから――。
     なのに、なんだよっ! 笑うし! アイツにも、あんな……。
     ぽんと、ヒカルの頭に佐伯の手が乗ったことが一番の衝撃だ。あんなことをするのは自分にだけだと思っていた。自分だけがもらえる、特別なことだと思っていた。
     頭に手を乗せて、じっと自分を見つめる眼差しのやさしさ、温かさ。あれすらも、誰にでもできることなのか。キスさえも。たまにでもホストをしたことがあると言ったのだから、そんなことは佐伯には簡単か。これまでにもらったやさしさも思いやりも、佐伯には恋愛感情とは別のところにあったのか。
     嫌だ! そんなの――。
     だけど、そう考えれば説明がつく。キスはしても、それより先のことはする素振りさえないことも。『好き』と言ってくれないことも。
     あんまりだよっ!
     それでも大切に扱われていたとは思う。二年余り離れていた家に戻って、確執を残していた父親しかいなかったなら、たったの一ヶ月で自分はここまで変われなかった。不調を訴えていた体も、ささくれだっていた心も、佐伯が癒してくれた。農業に戻るきっかけになったのも、佐伯だ。父親との関係の修復すら、佐伯がいてくれたからできたのだと思う。
     知らずと爪を噛んでいた。気づいても純一はやめられない。胸が潰れそうで耐えられない。
     ……バカだ、オレ。
     すっかり心を奪われて、同性に惚れたためらいもなかった。抱かれたくて、抱かれることに怯えたのも、単に佐伯の全裸を見てしまったからで、それだって浅ましい理由で――。
     あんなデカチン、ヒカルには突っ込んだのかよ。
     ずるい、と思う。なんでヒカルはよくて自分はダメなのか。かわいくおねだりできなくたって、自分はこんなにも佐伯が好きなのに。
    『俊哉になら、いくらでも恥ずかしいとこ見せられる』
     思い出して悔しくなる。容姿も色気も圧倒的にヒカルに負けているけど、佐伯が好きな気持ちだけは負けた気がしない。
     アイツ、最後の思い出ももらえなかった、って言ってた――。
    「純一」
     障子の向こうから呼ばれた。佐伯だ。
    「開けてくれないか。――頼むから」
     純一は跳ね起き、しかしすぐには動けない。少しの間があく。
    「……俺が悪かった。謝る。誰ともキスしないから。安心しろ、機嫌直してくれ」
    「なら!」
     それを聞いてベッドから飛び降り、勢いよく障子を開けた。佐伯を引っ張り込む。
    「喰ってよ! かわいくおねだりできなくても、して!」
     言い切って、ぎゅっと胸が締めつけられる。熱くなる顔で、しっかりと佐伯を見つめる。
    「純一……」
     吐息交じりに漏らし、純一を見つめて佐伯は目を細めた。ためらうように手が上がり、指先で、そっと頬に触れてくる。
    「――そんな、言うな」
     たまらなくなるだろ、耳元でささやいて聞かせ、唇を滑らせてきた。
    「だ、ダメ!」
     両腕を突っぱねて純一は佐伯を押しやる。
    「なんで――」
     本当に意外だと、そんな顔で佐伯は見つめてきた。
    「き、キスはいらない! キスなんて――」
    「……おい」
     佐伯の手が頭に伸びてきて、それも純一は払った。佐伯はこれ以上にないほど目を見開き、唖然とした表情になる。
    「だ、だって!」
     純一は胸が詰まってならない。今もやわらかく自分に触れてくる佐伯が信じられない。
    「そ、そんな、ヒカルにもしたことなんて、いらない!」
    「純一――」
     佐伯の顔が大きく歪む。うろたえたような表情を見せる。思い切って、純一は言う。
    「オレ、最後の思い出が欲しい。ヒカルはもらえなかったって言うんだから、オレにはくれ!」
     必死だった。そう言うのが精一杯だった。
     それなのに、佐伯はすっと眉をひそめる。いきなり脱力して、ハァッと吐息を落とした。
    「……おまえなあ」
     唸るように漏らし、ギッと純一を見据えてきた。
    「なんで、別れる前提になってんだよ」
    「え」
     一瞬、飲み込めなかった。ぽかんとして、純一は佐伯を見つめ返す。
    「ったく、かわいくおねだりしてきたかと思えば、別れる気満々かよっ」
     荒っぽく髪をかき上げ、横に背けた顔で、チッと舌打ちした。そうして鋭い眼差しを戻してきて、佐伯は吐き捨てるように言う。
    「俺がどんだけ我慢してきたと思ってんだ! おまえなんてなあ、喰おうと思えばいつだって喰えたんだ! それをわざわざ喰わないできたって言うのに――」
    「なんで我慢なんかすんだよ! 喰えばよかったじゃん!」
     純一はとにかく必死で、思いつくままに言い返す。
    「喰えるかバカ。ビビりまくりで、抱いて泣かれたんじゃ、こっちが泣けるってーの」
    「な、泣かないもん! したかったんだから!」
    「うるせー、何もわかってないくせに」
    「わ、わかってるし!」
    「バカ言うな。おまえみたいなウブ、腹くくれないまま俺に抱かれたら、メロメロになってヤることしか考えなくなるに決まってる」
    「な……っ!」
     あまりの言い様に純一は絶句しそうになった。しかし、それを上回る言葉を投げつけられ、真っ赤になる。
    「そんだけ、いい思いさせてやるってんだよ」
    「えっ!」
    「どうだ? 一発ヤられて捨てられていいのか? 『最後の思い出』なんて、そんなもんだぞ?」
     ニヤリと佐伯は得意げに笑う。純一は圧倒されかけ、バクバクとうるさい心臓に逆らって、ずっと言えなかった本音をまき散らす。
    「け、けど! あんた、そのうち出ていくくせに! 前の仕事に戻らなくたって、独立したら出ていくんだろっ! だったら、何回ヤったって――思い出にするしかないじゃん……」
     自分の口から飛び出た言葉に傷ついた。うな垂れて、佐伯のつぶやきを聞く。
    「あー……めんどくせ」
    「め、めんどくさい?」
     この期に及んで、あんまりだと思った。顔が青ざめていくのが自分でわかる。
    「だから、めんどくせーっての」
    「なら、オレ……」
    「それがめんどくせー、つってんの!」
     ショックだ。泣きそうになりながら、純一は佐伯を見上げる。
    「あー……ったく、もう!」
     佐伯は苛立たしそうに言い捨てる。それなのに手のひらで口を覆い、目だけ横に向けて、頬をほのかに染めたようになる。
    「こういうのが嫌んなって前の仕事から足洗ったのに。ごねるガキのお守[も]りなんて、やってらんねえってのに、くっそぅ……おまえだと、かわいいって――」
     ハァッと、また溜め息をついて純一に目を戻してくる。
    「たまんねえよ、マジ。帰ってきたときはド派手なナリで、青ざめた顔しやがって、そのくせおやっさんに立てついて、どんだけクソガキのバカ息子かと思ったのに、これなんだから」
     困ったように薄く笑い、眼差しをやわらげた。
    「ったく。親子ゲンカ聞かされるなんて冗談じゃねえって、こっちが気を遣えば素直に懐[なつ]きやがって。腹割ったつきあいするって、ここまでする気はなかったっての。こっちの身も少しは考えろ。ホストやってたなんて、何かの間違いじゃないかってくらいウブだし。おやっさんに、マジ大事にされてるし。おやっさんは、ああいう人だし。肩身狭いって。据え膳されたって、つまみ喰いもできねえ。世話になってる人の大事なひとり息子じゃ、俺が腹くくらなくちゃならないって……わかってないだろ?」
     ぜんぜんわからない。聞かされたこと、すべて。
     ぽかんとする純一に、佐伯はさらに言う。
    「かと思えば、あっさりヒカル追い返すんだから、笑えるってーの。あいつ追い返すのに、俺がどんだけ気を遣ったかもわかってないだろ? おまえ、まるっきりバカだ。ヒカルから俺を奪い取ったことも、わかってないんだろ」
    「――え?」
     それには声が出た。
     ヒカルから奪い取った――?
    「だーかーら。おまえに負けたから、しっぽ巻いて逃げたんだろ、ヒカル」
     純一は唖然としてしまう。ひたすらに、佐伯をただ見つめる。
    「……やっぱ、わかってなかったんだな。こっちは、ほれぼれしたのに」
     がっくりと肩を落とし、佐伯はいきなり、ぐりぐりと純一の頭を撫で回した。
    「いいから、キスさせろ。俺に抱かれる気だったなら、そのくらいさせろ」
     ふわっと、純一は顔が熱くなる。今さらのように胸がドキドキしてくる。わずかにもうなずく。
     顎に指を添えられ、少しだけ顔を上向かせられた。佐伯はかぶさるように顔を近づけてきて、しっとりと唇を重ねる。閉じている純一の唇を舌でつついて、開くように促した。
     純一は、ためらいながらも応える。唇を薄く開き、割って入ってきた佐伯の舌に、たっぷりとなぶられる。鮮やかな快感が背筋を駆け抜けた。胸が熱く染まり、膝からもどこからも力が抜ける。佐伯のたくましい腕にすがった。
    「……最後の思い出なんか、やらないからな。生々しい記憶なら、くれてやる」
     耳に吹き込まれた低い響きに、全身がゾクッとした。目を丸くして佐伯を見つめる。佐伯は真顔だ。
    「とりあえず、夕飯だ。ぼやぼやしてたら、おやっさんが作っちまいそうだ。立ち仕事はまだヤバイだろ。おまえは風呂やってくれ」
     日常との落差にめまいがする。それでも浅くうなずいて、純一は佐伯から離れた。先に部屋を出ていく広い背中を見つめる。甘酸っぱく、胸が締めつけられた。


    つづく


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