Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    レタス畑で愛をささやけ
    ‐9‐




     三


     朝日が斜めに射す広々とした農地に、純一は佐伯と入っていく。今は雑草が生い茂る休耕地だ。働き手が父親ひとりになってからは、荒れ地にしない程度に管理されていたにすぎない。くるぶしから膝あたりまでの丈の草に覆われ、ほのかに緑が香る。
    「うわー、どうすっかな。おっさんは、このまま耕せって言ったけど」
     向こうの雑木林までを見渡し、純一はこぼした。
    「そういうの、どうなんだ? 一般的にそうなのか?」
     後ろについてきた佐伯が言う。メモでも取りそうな口調に、頬がゆるむ。そうなってしまう自分がおかしくて、純一は身をかがめて土の様子を見ながら答える。
    「んー、収穫のあとはそのまま耕すけどな。キャベツとかだとさ、外の葉が畑に残ってるわけよ。そういうのは全部、土と混ざって肥料みたいになるわけ。――って、それは聞いた?」
     佐伯を振り仰ぐ体勢で目を向けたら、洗い立てのような日射しが佐伯を照らしていた。
     ……わ、やべ、こういうのも。
    「いや。俺は、きゅうりの支柱立てからやっただけだから」
     純一の胸中など気づこうともしないように、佐伯はいたって真面目に答える。
    「そっか。だったな。ま、いいや。おっさんに言われたとおりにしよう」
     春に菜の花を咲かせた跡が認められて、雑草の根はそれほどひどく張ってなさそうだった。そのように父親が管理していたからで、指示どおりに雑草ごとトラクターで耕すことにする。
    「なるほど。そうやって覚えてきたわけだ」
    「あ?」
     路肩に停めたトラクターに戻ろうとした足が止まった。
    「農作業。子どもの頃から自然に身についたって言ってたよな?」
    「うん――まあ」
    「なんだよ、まあ、って。なんでこんなことでも、いちいち照れるかな?」
     照れてはいなかったのに、笑ってそんなふうに言われると照れてしまう。
    「べ、べつに照れてなんか――」
     休耕地は本当に広い。隣接するよその畑までも遠く、見晴らして見える人影は、やっと人とわかる程度だ。
    「……なんで」
     そういうことをわかって佐伯がキスしてくるから、たまらなかった。遠目にはキスしていることも、男同士であることも見分けられない。
    「おまえが、欲しそうにするからだろ?」
     くすっと笑って、やさしい眼差しを注いでくる。それがくすぐったくて、本当はうれしいのに、つい言い返してしまう。
    「ほ、欲しそうなんて――」
    「あんまり、そんな目で俺を見るな。どうなっても知らないからな」
     そんなことを佐伯は言うのだが、純一を置いて離れていく。背を見せて、先にトラクターに向かう。
     ……なんだよ。
     初めてキスしてから数日が経つが、いまだに佐伯はキス以上のことをしてこない。しようとする素振りさえ、まったく見せない。キスしても甘い言葉を聞かせるでもなく、大概は今のように、すっと離れていく。
     どうなっても知らないからな、なんて言って。いつも、なんもしねえじゃん。
     佐伯の部屋でテレビを見ているときですら、そうだ。夜で、離れにふたりきりでいるのに、やわらかく唇を合わせるだけで離れていく。
     なんも言ってくれないし――。
     自分も言ってないのだからお互いさまなのだが、「好き」の一言も、まだ佐伯から聞いていなかった。
     ――キスはするのに。
     それを不満に思うなら自分から積極的に出ればいいのだろうが、どうしても気が引けてならない。「かわいくおねだりできるまでおあずけ」と言われたこともあるが、それ以前に佐伯とは絶対的な経験の差を感じる。掠めるほどの淡いキスですら、こなれた仕草でしてくるのだから、圧倒されるばかりだ。それでもキスのあとには、佐伯はいつもやさしい眼差しで見つめてきて、その表情で、その態度で、自分を好きと言ってくれているように感じられる。
     だから……べつに、いいんだけど。
     火照りそうになる顔の熱を払うように駆け足でトラクターに戻り、運転席に乗り込んだ佐伯に向かって言う。
    「あんたの練習なんだから、ここ全部、ひとりでやれよ」
     父親は収穫期が終わりに差しかかっているからと、ひとりできゅうりの出荷作業をしている。耕運は佐伯には今日が初めての作業で、本来なら父親が指導するところだが、純一は車の運転免許を持っていないのでひとりでは出荷ができず、こうなった。
    「はいはい」
     苦笑して、佐伯は顔を前に戻した。何をどうすればいいかは既に説明してある。エンジンがかかった。トラクターは、のたのたと休耕地に入っていく。純一は、トラクターの後ろについている作業機が忘れずに下ろされるか見届ける。
     ……ちゃんと、できてんな。
     ほぼまっすぐに向こうの雑木林まで進んでいった。端まで耕したら、作業機を上げて方向転換する。そうして、耕した横に沿って戻りながら新たに耕す。その繰り返しなのだが、佐伯はトラクターの操作自体が初めてで、それなりに苦労している様子だ。純一の家のトラクターは最新型にはほど遠いこともあって、雑草の広がる休耕地を走らせる感覚は、道路に比べて違うはずだった。
     オレは、道で運転したことないから、わかんないけどな。
     あ、と声が出た。耕している途中でトラクターが止まり、運転席から佐伯が顔を出して後ろを振り向く。純一は、鎌を手にして走って佐伯のところまで行く。
    「根が絡んだんだ。オレが取るから、後ろ上げて」
     佐伯が操作して、トラクターの作業機が上がる。純一の思ったとおりに、土を耕す何本もの刃のあいだに雑草の根が絡んでいた。それを取り除き、純一は運転席に回って言う。
    「こっちの林のほうは少し根を刈ったほうがよさそうだ。オレがやるから、このあたりまでで往復して、残りはあとで林に沿って耕してよ」
    「わかった」
     にっこりと返し、佐伯はトラクターの方向を変える。純一に向かって得意げに親指を立てて見せると、今度は農道に向かってのたのたと進んでいった。
     なに、今の。
     トラクターを運転して、佐伯が楽しそうでいるのがおかしい。自分には大したことではないのに、釣られてうきうきしてくる。
     ……そっか。ふたりで畑に出たのって、今日が初めてだったんだ。
     足元の雑草を見回して、根が深そうなところに鎌を入れていく作業にも自然と熱が入るようだった。ときおり顔を上げて佐伯がトラクターを操作する様子を見ると、そのたびに慣れて目に映り、作業機に根が絡んでも自分で取り除いていた。
     そうして雑草の根を刈り進め、落ち枝を見つけては雑木林に放り投げ、目に余る丈の雑草も刈っていくうちに、父親が土作りを終えた区域まで辿りついた。あとは、そろそろ戻ってきそうな佐伯に残りも耕してもらうだけだ。
     純一は腰を伸ばし、大きく息をつく。顔の汗を首にかけたタオルで拭った。身をかがめて、父親が休耕地から畑に変えた土を手に取ってみる。匂いを嗅ぎ、感触を確かめた。父親はこうして土の様子を知ることを思う。
     熟練、か。
     漠然と思った。生涯に渡って農業に従事することは自分にもできそうに思う。
     ……嫌いじゃないんだよな。
     送り盆にも父親とふたりで墓参りをした。そのときも帰りの軽トラックで少し話した。
    『東京にいたのか』
     どういう流れからだったか、言われて唐突に感じた。高校を卒業して就職した工場は埼玉県にあったから、そのあとのことを言われたのはわかった。
    『水商売までして、苦労したか』
     それに答えられることはなかった。そう言われる仕事をしていたと気づいたんだなと思った。
     佐伯を訪ねて女性が来たとき、最初は父親が応対したようだったから、父親もふたりの会話をどこかで聞いていたか、聞くつもりがなくても聞こえていたのかもしれない。それで、自分が東京にいたことも、ホストをしていたことも知ったのかもしれなかった。
    『働いた分の金はやるから。好きに使ったらいい』
     続けてそう言われて少しムッとしたのだが、その次に言われたことで何も言えなくなった。
    『どんな仕事にも苦労はある』
     ……だよな。
     農業にしても他の職業にしても苦労はあると、たったの二年間と言われる年月でも実際に働いてみて、自分でも思えるようになっていた。
     だから――。
     続けられるかどうかだろう。その仕事をすることが楽しいとか、何か喜びを見いだせるか、あるいは日常の一部として淡々とこなしていけるかだと思う。
     ……俊哉となら。
     そっと、指先で唇に触れる。さっきもキスされた。肩に手をかけて、さりげなく顔をかぶせるようにして。小さく音を立て、すぐに離れていくキスだった。
     指先で触れる唇から、熱く湿った吐息が溢れた。思い出しただけで、こんなにもときめく。
     佐伯が好きだ。いつ好きになったのか自分でもわからないけれど、そんなのはどうでもいい。だけど、わかる。一緒に出かけたときに佐伯が女性の視線を集めていると気づくと、どうして冷めた気分になったのか。相手はおばあちゃんに片足を突っ込んだような年齢なのに、佐伯が多並にやさしくするのを見て、どうしておもしろくなかったのか。そして、佐伯の前の仕事はホストだったのかもしれないと思ったとき、なぜ許せないとまで感じたのか。
     バカって言われても、しょうがないよな。
     挙句に、佐伯は男と寝るのかと、初対面の女性に詰め寄ったのだから。自分では気づかずに、そんなふうに、いろんな人に嫉妬していた。自分だけの佐伯でいてほしいと、無意識のうちに願っていた。
     でも――。
     キスをするようになる前から、佐伯の眼差しは自分に向けられていたように思う。それこそ、佐伯が言ったように、最初は暇つぶしの相手だったかもしれない。それでも、からかうようなことを言ってきたのも、ふざけたことを言われたのも、自分と正面から向き合ってくれていたからと思える。初めて会ったときから――だから、恋に落ちた。
     せつない思いが胸にひしめく。佐伯と、もっと深く、確かにつながりたいと心から願う。
    『かわいくおねだりできるまでおあずけだ』
     あれは、佐伯のやさしさと感じたけれど、もしかしたら違うのか。淡いキスを重ねるばかりで、いっそ奪われたいとまで思える自分が怖い。男との恋愛経験はないのに、初めてのキスのときも自分から舌を絡めて欲情した。そもそも恋愛経験自体が薄いのに、どうしてこんなふうになっているのか――佐伯に恋をして、自分は変わってしまったのか。
     でも……かわいくおねだりなんて、できない。
     思うだけで恥ずかしい。それは、つまり佐伯を誘惑することではないか。いったい何をどうすればいいのか、無理にも淫らな想像を浮かべてみるも、相手は佐伯で、あまりに手ごわい。
    「おい。ここは、横に行っちゃっていいんだな?」
    「へっ! う、うん!」
     純一は変な声が出て、慌ててトラクターの運転席の佐伯に顔を向ける。雑木林の前を残すだけで佐伯は耕運を終えていて、純一が恥ずかしい思いにふけっている間に背後まで来ていた。
    「なんだ、おまえ。その顔――」
     佐伯が眉を寄せて、苦笑するような、照れたような、曖昧な表情に顔を歪めるから、純一はさらに焦って言う。
    「あ、あとで堆肥入れて、もっと深く耕すから、今はどっち向きに掘ってもいい――」
    「だったな」
     フイと顔を前に戻して佐伯はトラクターを進めていく。後ろについた作業機を下ろし、純一が雑草の処理をした残りを耕していく。
     のたのたと離れていくその様子を見つめ、純一はホッと深い息をついた。やっぱり、自分はどうかしてしまっているらしい。
     その後、帰宅して朝食を終えてからも、普段とは違って純一は再び畑に出てきた。父親が先に土作りを終えていた区域でレタスの作付け準備を始める。つい先ほど佐伯が耕した区域は、堆肥を投入してさらに深く耕して数日をおくまで土作りが終わらない。そちらは、次の収穫に合わせて作付けをすることになっている。
     軽トラックの荷台から、うんしょと思わず声に漏らして純一は農業用資材を下ろす。『マルチ』と呼ばれるそれは、幅が一メートルほどある巨大なラップのようなものだ。ラップ同様に透明のものもあるが、純一が抱えたものは黒で、畝[うね]を覆って保護するために使われ、同時に地温の上昇を抑える効果と雑草を防ぐ効果がある。
     父親は先に来て、トラクターで畝を作り始めていた。土作りがされてよく耕された畑はふかふかだ。できあがった畝をはさんで佐伯と向かい合ってしゃがみ、端からマルチを広げていく。専用の作業機があればトラクターを使ってできるのだが、ないのだから手作業だ。
    「どうすっか。一気に広げてから端に土を乗せるんじゃなくて、一度にやってくか」
     なにげに口にして、佐伯に苦笑される。
    「俺に訊くなよ。先生が決めてください」
    「……誰が先生だよ」
     間の悪さにムスッとして言い返すが、こんなときにも佐伯の笑顔はくすぐったく、気を取り直して言う。
    「一度にやっちゃおう。つか、こんだけ広くちゃ何度も往復するほうがしんどいもんな」
     さっそく作業を始める。まずはマルチの端を畝の始まりにかぶせて、土を乗せて固定する。それから、それぞれにマルチの端を持って広げていき、ある程度のところでピンと伸ばして、それぞれに両端を土で固定していく。
    「これ、かなり腰にくるな」
     ほぼ中腰での移動が続き、しばらくして佐伯がつぶやいた。
    「んな、腹筋割れてるくせに、ジジくさいこと言うなって」
    「ジジくさいって……なんか、おまえに言われるとショック」
     意外なことを聞かされた気がして、純一は軽く目を瞠って上げる。吹き出しそうになった。
     信じらんね、マジ拗ねてるわけ?
    「よくわかんねえけど、コツとかあんじゃね? 筋肉の使い方っての?」
     それで言ってみたのに、今度は佐伯が軽く瞠った目を向けてきた。
    「――なに」
    「いや。さっきも思ったんだけど、畑にいるときのおまえって生き生きしてるな」
    「は? べつに、なんも変わんねえと思うけど?」
    「今のそれとか。微妙に、土地言葉。イントネーションが」
     う、と返事に詰まった。言われてみればそうかもしれない。なんだか恥ずかしくなる。
    「うわ、またこんなことで照れたわけ? おまえ、素直すぎるだろ」
    「あんたねえ……」
     自分でも赤くなるとわかる顔で睨みつけ、純一は唸った。
    「こら。そんなかわいい顔で睨むな」
     佐伯まで照れたようになって言い返してくる。
    「かわいい顔なんて……言うなよ」
     だけど、暗くつぶやいて純一は顔を伏せる。佐伯に言われたのに、なんか嫌だ。止まっていた手を動かし始める。マルチの端を土に埋めていく。
    「おい。そこ、怒るところか?」
     佐伯も再び手を動かし始めるのだが、怪訝そうに訊いてきた。
    「怒ってはないけど――」
    「なら、どうしたんだよ」
    「うん――」
     佐伯が浅く吐息を落とした。それが疲れたように耳に響き、純一は困ってしまう。
    「あのな。言いたくないことまで言えとは言わないけど、こっちはほめたつもりなんだから、そこんとこは聞かせろ」
    「……うん」
    「おい。だったら、なんで自分の父親を『おっさん』なんて呼ぶのか訊くぞ?」
     それにはギクッとした。佐伯が気に留めていたとは思いがけず、うっかり手が止まりそうになり、しかし手は止めない。意地悪だと突っぱねたくなるが、あきらめて口を開いた。
    「顔はー……言われると嫌なんだよ。……やたら、からかわれたから」
    「――は?」
     佐伯の手が止まった。だがすぐに、また動き始める。
    「からかわれるって、なんで?」
    「……女みたい、とか」
     間があいた。はーっ、と佐伯が溜め息をつく。
    「ガキって、本当にガキだな」
    「……なにそれ」
    「かわいいからいじめたくなる、ってやつ。あ、なんか妬けてきた」
    「はあっ?」
     変な声が出たところで、そこまでの作業が終わった。ふたりして立ち上がり、またマルチの両端をそれぞれ持って、歩いて広げていく。
    「おまえ、いじめられっ子って言うか、いじられっ子だったんだな。わかってなかったようだしさ」
    「なんだよ、それー」
    「それそれ。素直に反応しすぎ。さっきもだし、多並さんにちょぼちょぼ言われたときもマジに照れてたし。だから、余計にからかわれるって言うか――」
     ちょぼちょぼだなんて、思い出してまた恥ずかしくなる。このへんのおばちゃんは、ああいう下ネタを平気で口にする。
     純一が足を止めたので佐伯も止まった。そこからまた、マルチの両端を埋める作業が始まる。
     黙ってしゃがもうとして、純一は手を捕られた。気まずいまま、仕方なく佐伯に顔を上げる。
    「きれいだよ。かわいい顔されると、たまらない」
     まっすぐに見つめてきた眼差しは、やさしく穏やかで、艶めいていた。きゅんと胸が締めつけられ、純一はそっと視線をそらす。だけど目を戻して、改めて佐伯を見つめる。ときめいて、胸の高鳴りを感じる。
    「今の、ヤバかった」
     純一の手を引くようにしてしゃがみ、佐伯がひそかに漏らす。
    「マジ、抱きしめそうだった」
    「……え」
     聞かされて純一はうれしい。なのに、佐伯は言う。
    「しなかっただろ、安心しろ。向こうに、おやっさんがいるんだし」
     また、ぽんと頭に手を乗せられた。
    「けど、おまえ、やっぱりお母さん似なんだってな。多並さんから聞いた、て言うか、聞かされた」
     何事もなかったように作業を再開して、佐伯はそんなことを言い出した。
    「欣[きん]ちゃんは嫁が来ないのに四十過ぎてもちっとも焦らないで周りが心配してたけど、若くてとんでもない美人の嫁さんが来て、みんなびっくりだった、って話してた」
     多並の口調をまねられ、純一はくすっと笑うのだが、ひどく居心地が悪くなってくる。
     どことなく、佐伯が変だ。このタイミングで、どうしてこんな話を始めるのかもわからない。それに、母親を話題にされると、どうしても胸がふさがれる。一番痛いところを突かれるのではないかと不安になる。だけどやめてくれとは言えない。誰が相手でも、どうしてと、きっと返される。
    「おまえ、言ったよな? 三十過ぎてカノジョいないまま農家になったら嫁が来ないってさ。おやっさんは、四十過ぎても来たじゃないか。ま、おやっさんだからだろうけど」
    「え?」
     聞き流すつもりでいたのに、つい応えてしまった。佐伯が顔を上げてくる。
    「男惚れするだろ、おやっさん」
    「……そうか?」
    「するだろ。じゃなかったら、俺はここにいないって」
    「そうなんだ――」
     意外に思えた。佐伯が父親を信頼していることは感じ取っていたが、男惚れすると言うほどの気持ちがあるとは思わなかった。
    「おい。まさか、妬いたか?」
     ニヤッと言われ、驚いて言い返す。
    「あるわけないだろっ」
     そんな意味で佐伯が言ったわけではないことくらいわかる。農業者としての父親を尊敬しているとか、あこがれているとか、そういった意味だ。
     尊敬……できる、たぶん。
     農業をしている父親は尊敬できる。そう――母親もそうだった。
    『お父さんは、畑にいるときが一番カッコイイと思わない?』
     それを言ったときの明るい声、弾けるような笑顔、思い返せば、まるで少女のようだ。
    「おまえの母さん、結婚前はピアノの先生してたんだって?」
     ギクッとした。そんなことまで多並は佐伯に話したのかと、焦ってくる。
    「母屋にピアノあるのか?」
    「ない」
     捨て鉢に答えた。作業の手を休めずに、どうやって話を変えようかと思う。
    「そうなのか? 教えるほどのことをした人でも、忘れられるんだな――」
     忘れてなんかない――言ってしまいそうになって胸が締めつけられる。
     母親はピアノを忘れたわけではなかった。ひとりでいるところをふと見かけると、たとえば台所のテーブルをピアノに見立てて弾いていた。母親の耳には美しいメロディが聞こえていたに違いなく、子ども心にも話しかけてはいけない気がして、見なかったことにした。
    「にしても、おやっさん。見かけによらずって言うか、おやっさんらしいって言うか。多並さんに話されるとドラマ張りのラブロマンスに聞こえて、驚いたって言うか――おやっさんって、いぶし銀みたいな人に思えてたけど、不器用そうでも、決めるところはやっぱり決めるんだな」
     作業を続けながら、感心したように佐伯は口に漏らす。まさかそこまで多並は話したのかと、純一は背筋が冷たくなってくる。聞きたくない。だけど、佐伯は話すのか。止められない。
    「まだ米農家だったときに出入りしていた屋敷のお嬢さんだったんだってな。親に猛反対されて、勘当同然で嫁に来たって聞かされたよ。大恋愛だったんだな」
     やっぱり――。
     純一も多並から聞いたのだ。小学生だった。多並は母親のいる前で話し、母親は恥ずかしそうに笑っていた。でもそれで、母方の祖父母に会ったことがない理由がわかった。
    「マジ、おやっさんの覚悟って言うか、肝の据わり具合が――どうした?」
     純一のふさぐ様子にようやく気づいたようで、佐伯が顔を覗き込んでくる。
    「ちょっと……」
    「悪かった。こんな話、するんじゃなかったな、亡くなってまだ数年らしいのに」
    「べつに――」
     佐伯は悪くない。母親を話題にできない自分が悪い。そのことを佐伯は知らない。
     できるなら自分も佐伯に訊いてみたかった。兄弟はいるのかとか、やはり実家は東京なのかとか、どんなふうに暮らしてきたのかとか、訊けないのは自分が訊かれたくないからだ。
     どうして前の仕事に就いたのかも訊きたかった。スカウトされたとは聞いたけれど、それが一番訊きたいかもしれない。だけど佐伯は、前の仕事については以前『痛い腹』という言い方をした。たぶん自分も、そういうことなのだと思う。
    「ところでさ」
     急に明るい語調で話しかけられ、純一はギクッとする。暗くふさぎ込んでいたと気づいて、間の悪い思いで顔を上げた。ニヤッと佐伯が笑いかけてくる。
    「ちょぼちょぼって、本当なのか?」
    「なっ……!」
     佐伯のこういうところが信じられない。ボッと顔が赤くなるのが感じられ、手元の土をつかんで投げつけた。
    「ちょ、おい!」
     抗議の声を上げて佐伯は立ち上がるが、土を払いながら満面で笑っている。
    「ったく、ガキかよ」
     見下ろしてきた眼差しは、やわらかく温かった。
    「――ごめん」
     素直な気持ちが口に出る。だが、次に出かかった言葉に自分で恥ずかしくなる。
    「……なんだよ」
     見上げる先で佐伯までうろたえたようになった。
    「ん……だから、その……だったら、見せよ――」
     今みたいにからかわれたらどう答えたらいいか、佐伯に教えられたとおりに言ってみようとしたのだ。なのに、さえぎられた。
    「わかった、俺が悪かった! 無理に言うな、あおられる」
    「――え」
     本当に驚いた。佐伯が頬を引きつらせて照れている。ほのかに赤らんだようにも見える顔を伏せて、しゃがみ込んで作業の続きに戻る。
     マジ、で……?
     純一も恥ずかしくてならない。気ぜわしく手を動かし、またマルチの端を持って立ち上がるにも、佐伯に声をかけられなかった。
     あとはもう、黙々と作業が進んだ。真夏の太陽が上空に差しかかり、じりじりと暑かったけれど、それだけの理由ではなかった。
     やがて父親に呼ばれる。トラクターだから先に帰ると言われ、急いで残りの作業を終えた。そうして最後には、期待していたとおりに、純一は佐伯からやさしいキスをもらえた。


    つづく


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