Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    レタス畑で愛をささやけ
    ‐3‐




     翌日の朝になって純一は慌てた。目が覚めるとすっかり明るくなっていて、いつもそうするように枕元に置いてあったケータイで時刻を見た途端、九時を過ぎていることよりもケータイを解約し忘れたと気づいて跳ね起きた。
     くっそ、昨日しようと思ってたのに。また駅まで行くのかよ。
     極貧状態ではケータイなんて持っていられない。月々の支払いだけで、あっという間に底をつく。家に帰ってきたのだから高校のときの友人とは家の電話で連絡がつくし、ほかにメールをやり取りする相手も今はいなくて、ケータイがなくても十分やっていける。
     手早く着替えて、ひとまず台所にこっそり顔を出す。思ったとおり誰もいない。農家の朝は早く、夏は日の出の時刻には畑に出て収穫と出荷を済ませ、それから家に戻って食事をして、また畑に出て午前中いっぱい農作業をする。父親と佐伯が朝食に戻ってから再び畑に出たのは明らかで、純一の茶碗と箸だけテーブルに出ていた。
     炊飯器を開けてごはんが残っているとわかっても、食べる気になれない。冷蔵庫から麦茶を出す。飲みながらふと気づき、手にあったケータイで、駅より近いところにケータイショップがないか調べた。このへんは自家用車で移動するのが普通だからバスは恐ろしく本数が少ないし、自転車では駅まで遠すぎて、近場で済ませられるならそのほうがいいに決まっていた。
     て言うか、自転車。
     まさか処分されたかと焦って納屋に行く。高校の通学に使っていた自転車は埃まみれになりながらもちゃんとあった。そのへんからボロ布を取って適当に払い、表に出そうとしてトラクターの陰の大型バイクが目につく。なんだか負けた気分になるのはなぜだろう。
     すぐに家を出ようとして庭の畑が目に入り、自転車を止めた。露地栽培しているトマトが、とんでもなくおいしそうに見える。食べ頃の実を選んでもいで、畑の脇に流れる裏の竹林の湧き水ですすぎ、かぷっと食いついた。うまい。市販のトマトはハウス栽培のものがほとんどで、この味を知っていると、父親が好んで自家用にトマトを露地栽培する気持ちがわかるのだから困る。
     困るってことも、ないんだろうけど――。
    「純一くん?」
     佐伯の声がして、ビクッとした。なんでいちいち驚くんだと、半ば自分に嫌気を覚えながら顔を向けた。
    「出かける――」
     言いかけて、佐伯は吹き出す。しっかり純一を見てゲラゲラ笑う。
    「なんだよぉ」
     トマトの残りを飲み込み、ぶすっと純一は言い返すが、佐伯の笑いは止まらない。
    「いや、農家の息子だな、って」
     そんなことを言われても純一は眉が寄るだけだ。何を今さらとしか思えず、どうでもよくて、濡れていた手を振って乾かす。忘れないうちに早く出かけようと自転車にまたがった。
    「どこまで行くんだ? 車の免許は持ってないのか?」
     笑いを残した顔で佐伯が訊いてくる。頭に巻いていたタオルをほどいて顔を拭き、汗のしみた白いTシャツの裾をパタパタとあおぐ。下はカーキ色のワークパンツに長靴で、まるっきり農作業の服装なのに、ちらちらと目に入る腹筋が硬く締まって見え、純一は顔を背けた。
    「どうだっていいだろ。あんたに関係ないし」
    「まあ、そうだな。でも昼のことがあるからな」
    「……昼には帰るよ」
     ぼそっと純一はうつむいて答え、しかし納屋に足を向けた佐伯を思わず呼び止める。
    「なあ! あんた、マジに農業やんの?」
    「――そうだが」
     佐伯は振り向き、怪訝そうに純一を見る。
    「なんで、そんなこと訊く?」
     あの独特の気迫が強く滲み出ているようで、純一は返す言葉に詰まった。
    「なんで、って……もったいないみたいに、思えたから――」
     佐伯はきょとんとした目になる。それから、すっと淋しそうな表情に変わった。
    「俺が農業をやって、もったいないなんてあるか。俺には、おまえのお父さんに農業を教えてもらえていることのほうが、よほどもったいない」
     その声が冷ややかに聞こえ、純一は眉をひそめる。
    「――え?」
     意味が飲み込めず戸惑うも、佐伯は納屋へ行ってしまった。仕方なく、自転車をこぎ出す。
     家の前の農道から国道に出れば、行き交う車も多く、民家も商店も次第に多く目に入ってくる。やがて二十分も走った頃、JAの営業所の先に大型のショッピングセンターが見えてきて、目指すケータイショップはその中にあった。
     クーラーの利いた店内に入り、汗で火照った体が心地よく冷やされたのも束の間、いざ解約しようとしたら、電話機本体の分割払いが残っているから解約しても支払わなければならないと説明された。愕然としてもいられず、勧められて契約内容の見直しと変更をするに留めた。
    「はー……どうすっかなー……」
     喉がカラカラで、外に出てから自販機の前に立ったはいいが、今後のことを考えると飲み物ひとつ買うことすらためらわれるのだから情けない。しょんぼりと中に戻って、冷水機で喉を潤した。通路脇のベンチが目に入り、腰を下ろす。
     けど、髪だけはどうにかしないとな――。
     また溜め息が出て、がっくりとうな垂れる。いっそのこと、千円カットで丸刈りにするか。
    「――あれ? 純一? 鈴木純一だよな?」
     不意に呼ばれ、驚いて顔を上げた。JAの制服を着た若い男が目に飛び込んでくる。
    「宇都木[うつぎ]――」
     向こうも驚いた顔になって、通路の先から駆け寄ってきた。
    「なんでいるんだよ? 仕事は? 夏休み? て言うか、すげえ頭だなー。怒られないか?」
     続けざまに言われ、純一は曖昧に笑うしかできない。だが隠してもしょうがないことだし、宇都木は高校のときの同級生だし、正直に話すことにした。
    「夏休みじゃなくてさ、家に戻ったんだ。就職した工場、倒産しちゃって――」
    「倒産っ?」
     声を裏返らせて宇都木は目をむく。隣に腰を下ろしてきた。
    「じゃあなに無職? 家に戻ったんなら畑やるわけ?」
    「ってわけでもなくて――つか、どっかいいとこない? とりあえずバイトでもいいからさ」
    「……マジかよ」
     黒縁メガネをかけた丸顔が、真剣な表情になって純一を見つめた。言いにくそうに口を開く。
    「今は、このへんでもあまり仕事ないよ。学生が夏休みだから、バイトもどうだろうな」
    「コンビニの深夜とかでもいいんだけどな」
    「よくないって。今もヤバイの来るらしいし。三年のとき斎藤が殴られたの、忘れたのか?」
     純一は何も返せない。宇都木は高校を卒業してJAに就職し、このショッピングセンターの近くの営業所で働いている。地域のことに詳しいに違いなく、きっと聞いたとおりなのだろう。
    「家に戻ったんなら畑やりなよ。人手が増えたんだしさ。ずっとおじさんがひとりでやってたけど、男三人なら休耕地も使って前みたくできるんだし、生産量も上がって――」
    「ちょ、待てって。おまえ、アイツのこと知ってんの? アイツってJA通してるわけ?」
     畑をやれと言われたことよりも、宇都木が佐伯を知っていそうなことが引っかかった。
    「え? アイツって、佐伯さんだろ? まだ名前も知らないとか? いつ帰ってきたんだよ?」
     怪訝そうに問い返され、慌てて言い加える。
    「昨日、帰ったんだよ。名前は聞いた。でもなんで、あんなヤツがうちにいるんだ? うちのおっさん、里親とかしないタイプだろ?」
    「そこは聞いてないのか?」
    「うん」
     宇都木は急に困ったようになる。気まずそうに目をそらした。
    「あ、もしかして時間ないとか? だったら、夜に電話――」
    「うん――少しなら、まだ大丈夫なんだけどさ。写真取りに来ただけだから――」
     言いながら目を戻してきた。小さく吐息をつく。
    「本当ならおじさんから聞いてほしいよ。でも、まだ『おっさん』なんて呼んでるんじゃな」
     言われて声を詰まらせる純一に、眉を八の字にして薄く笑い、ぼそぼそと話し始めた。
    「佐伯さん、五月の中頃にいきなり来てさ。農業やりたいけど雇ってくれるところあるかって」
     窓口にいた宇都木に無愛想に話しかけてきたそうで、宇都木は困ったと言う。そのときには就農希望者の公募はなかったし、「里親」に登録しているどの農家も受け入れを締め切っていたので、事情を話して一旦は断ったのだと言う。
    「それにさ。これ言っちゃマズイけど、見た目が怖いって言うか。黒いライダースーツ着てて、本気で農業やりたいのかわからない感じで、里親に空きがあっても紹介しにくい雰囲気でさ」
     そんなやり取りに気づいてか、上司が出てきて応対を替わろうとしたら、それまで隣の窓口にいた純一の父親が話しかけてきたそうだ。
    「マジ焦ったよ。きゅうりの支柱これから立てるから手伝え、ってさ。佐伯さん、連れてった」
    「マジでっ?」
     純一も驚いてならない。あの父親がそんなことをしたとは、事実でも信じられない気分だ。
     ぜんぜん性格違うだろ。そんな適当に、アイツ家に入れたのかよ。
     その場で上司が引きとめたのだが、純一の父親は笑って受け流したと言う。「里親」になったなら登録するように、後日、上司からも宇都木からも言ったのだが断られ、それでは「里親」農家への謝礼が支払えないと説明してもいらないと返されたと言う。
    「JAは何も知らないことにしていいって言うんだ。おじさんと佐伯さんが個人的に交渉して契約したみたいなことでいいって。ほかの就農希望者を受け入れる気はないからってさ。そこまで言われちゃしょうがないかってことになってるんだけど、いつのまにか佐伯さん住み込んでるし、ずっと気になってたんだ。俺も、おじさんには訊けなくてさ」
     力なく苦笑して宇都木は純一に顔を向けてきた。純一は咄嗟に言って返す。
    「それなら大丈夫だよ。アイツ、なんか馴染んでるし。おっさんも、俊哉って呼んでるし」
    「マジでかっ?」
     宇都木が心底困ったようでいるから軽く返しただけのことに、思いきり目をむかれた。
    「そっかー。いや、よかったよ、うん。はー、なんかホッとした〜」
     気に病んでいたことはわかるが、そこまで宇都木に安心されると、純一としてはもやもやとした気分になる。
     よかった、ってさ。宇都木はそうだろうけど、オレはどうなんだよ。畑やればいいって言うけど、アイツいるんだし――。
     思って、ハッとする。父親は「里親」としての謝礼を受け取っていないと宇都木は言った。
    「ちょ、ワリィ。オレ、もう帰るわ。なんか、いろいろ聞かせてくれてありがとな」
    「お、おう。おまえもおじさんと仲良くやれよ? 電話するから今度はちゃんと会おうぜ」
     ああ、と答え、純一は急いでショッピングセンターを出る。自転車にまたがると、一目散に家に帰った。
    「ただいま!」
     玄関を開けた勢いで、つい口を衝いて出た。台所から佐伯が顔を出し、間の悪い思いをする。
    「おかえり――って、あれ? 髪を切りに行ったんじゃないのか?」
    「んなことより、うちのおっさん! どこにいる?」
     あたりまえのようにおかえりと返され、どうにも恥ずかしい。佐伯に言われる筋合いはない。
    「まだ畑にいるかもしれないが、関さんに将棋に誘われて、昼はいらないって言ってたぞ」
    「マジでっ?」
     畑が隣同士の関とは将棋が趣味の仲間で、昼食にも誘われたなら、まず夕方まで帰ってこない。純一は取って返し、自転車にまたがると、家の前のきゅうり畑から順に見晴らして、今は休耕地になっている端まで父親の姿を探した。その先に続く関の畑も見晴らす。
    「だめだ、いねえ」
     佐伯を引き受けたときに、どのような取り決めをしたのか父親に訊きたかった。そんなことは、さすがに他人の家では訊けない。純一はよろよろと自転車をこいで、来た道を戻る。
     つか……だったら、アイツに訊くか?
     むしろ佐伯のほうが訊きやすい気はする。しかし本当のことを話すだろうか。
    「もう、いなかったか」
     汗だくになって家に帰り、手と顔を洗うついでに洗面台で頭にも水を浴びて、純一が台所に入ると、佐伯はそれだけを言って鍋の乗ったコンロの火をつけた。冷蔵庫を開けて純一が麦茶を飲む横で、そうめんをゆで始める。
    「そうめんなら食えるだろ?」
    「――うん」
    「ほかに食いたいものあるなら出していいからな」
     ムッとして純一は佐伯を見る。言われた以上のことが感じられるが、気のせいか。
     だが、それならと庭の畑からトマトときゅうりを取ってきて、佐伯も昨夜の肉じゃがの残りをテーブルに出し、大鉢に盛られたそうめんをはさんで、ふたりで食べ始める。
    「――それ。そのきゅうり、切ったりしないのか?」
    「いいんだよ、いちいちうっせえな」
     居心地の悪いままに言って返し、純一はきゅうりにかじりついて端を取り除き、バリバリと食べる。
    「……何もつけないんだ」
    「このまま食いたい気分なの。味噌つけるときも塩つけるときもあるって。そんな見るな」
     トマトも丸かじりにして、そうめんも食べる。野菜そのものの味がおいしくて、食が進んだ。
    「髪、どうするんだ? おまえが出かけたの、おやっさんも知ってるぞ?」
     肉じゃがの残りを平らげて佐伯が訊いてきた。
    「しょうがねえんだよ。ケータイ解約しに行ったのに、できなかったし、金ねえし。染めんのあきらめて、黒いとこ伸びてから千円カットに行くって、おっさんにも言う」
    「そんなに金がないのか?」
     佐伯はそうめんを食べながら、軽く瞠った目を上げてきた。純一はイライラと答える。
    「うっせえな。だから、しょうがねえって言ってんだろ」
     少し考えるそぶりをする。そうしてから、さらりと純一に言った。
    「このあと時間あるな? 連れてってやるから、カットだけしてこい。帰りにカラー買って、家で染めよう」
    「は? 連れてってやるって、なに? 家で染めよう、って」
     一方的な押しつけにしか聞こえず、思わず箸を止めて純一は問い返した。
    「また自転車で行かせたんじゃ大変だしな。それに、黒より明るい色が似合うだろ、おまえ」
     またもやさらりと言われ、あんぐりと佐伯を見つめる。
     似合うって……なんなの、コイツ!
     顔が熱くなる。平気な顔で佐伯が恥ずかしいことを言うからだ。慌ててそうめんをすすった。きゅうりもトマトも全部食べた。席を立って、使った食器を流しで洗う。だんだんと、佐伯に子ども扱いされている気分になってくる。
    「やっぱ、いい。オレひとりで行く。言ったとおりにするし」
    「自分で染めたことあるのか?」
     隣に来て佐伯も洗いものを始めた。
    「ないけど、誰だってできるから売ってんだろ? そのくらい、やる」
     うつむいたままムスッと言ったら、ぽんと頭に手を置かれた。ぐりぐりと撫でられる。
    「失敗したら同じことになるのに? 手伝ってやるって言ってんだから、遠慮なく甘えとけ」
    「だ、誰が遠慮なんか!」
     焦って振り向いたら目が合って、純一はまた顔が熱くなる。佐伯は穏やかな眼差しでやわらかくほほ笑んでいた。
    「なら、今から行こう。遠慮なんてないんだろ?」
     くすっと笑って言われ、しかしからかわれた感じはしない。純一は上目づかいに佐伯を睨み、ムッと押し黙る。
     なに考えてんだよ、コイツ……けど、べつにいいか。おっさんに言われなくて済むし。
     申し合わせたわけでもないのに、それからは互いに無言になって洗いものを終え、純一は佐伯が離れに行っている間に広縁を回って母屋の戸締りをした。先に玄関を出る。
     ――う。
     遅れて出てきた佐伯に目を丸くした。体にフィットした黒いTシャツと、味のあるデニムに着替えている。玄関の鍵をかけるので背を向けられると、広い肩から引き締まった腰にかけて、がっしりとした体がなだらかな逆三角形を描いているとよくわかり、すらりと長い脚も、目に焼きつきそうで純一は背けずにいられない。
     くっそぅ……カッコイイじゃねえの。
     思って爪を噛みそうになるが、それより顔が火照るようで居たたまれなかった。
    「行こうか」
     そんな純一の様子になど少しも気づかないのか、佐伯は目もくれずに納屋に入る。バイクを押して出てきた。ひらりと先にまたがり、純一にヘルメットを差し出す。
    「ほら、こっち来い」
     言われるまま佐伯に寄り、純一は黙ってヘルメットをかぶせられる。
    「乗りな」
     佐伯もヘルメットをかぶり、もたもたと後部座席にまたがる純一に振り向いた。
    「ダメだ、そんなんじゃ。もっと俺に腕を回して、そう、しっかりつかまって」
     バイクに乗るのは初めてのこともあるが、そうまで言われても純一は何も言い返せない。
     ったく、なんでだよ……ちくしょう!
    「よし、行くぞ。絶対に放すなよ!」
     ブルン、とエンジンがかかり、純一にも低い振動が伝わると、ボウンと一吼えしたバイクに体が後ろに持っていかれそうになった。
    「わ!」
     バイクは走り出し、門で一時停車したのち、畑の中をまっすぐに伸びる農道を駆けていく。風を切って疾走する初めての感覚に、純一は必死の思いで佐伯の背にぴたりと胸を押しつけた。だけど、気分が高揚する。しがみつく佐伯の体は屈強で、頼もしく感じられ、安心する。
    「おい! 平気か!」
     国道に出る前の一時停車で叫んで訊かれた。
    「平気!」
     同じように叫んで返し、大きく息をついてドキドキする胸をなだめた。
     国道に出てからもバイクは軽快に飛ばす。純一は周囲に目を向ける余裕ができて、車に乗って見る景色の流れとは違い、次々と現れる景色に飛び込んでいくような感覚を楽しむ。素肌が風に吹かれて心地いい。しがみつく広い背に、頭ごと身を委ねる。
     ……あ。
     佐伯から、いい匂いがした。洗濯に使った洗剤の残り香に思えたが、違う。もっと清涼感があって、すっと胸にしみる感じだ。いっそうドキドキするようで、また頬が熱くなる。
     自転車だと二十分かかる距離が純一にはあっという間に感じられた。ショッピングセンターに着いても高揚感が抜けず、一階の千円カットの店の前で先にバイクを降ろされても地に足がつかない感じで、純一はふらふらと中に入っていく。
     待たされもせずに鏡の前の席に案内された。髪に櫛を入れられながら、どのくらい切りますかと訊かれ、少し迷って答えようとしたら別の声が先に答えた。
    「サイドは耳にかかる程度で、バックは首が隠れるくらい。トップとフロントは気持ち長めで、レイヤーに仕上げてシャギーも入れて」
     鏡の中に佐伯を見て、純一は大きく目を瞠る。このときまで佐伯が来ていたことに気づいていなかった。美容師は佐伯に言われたことを鵜呑みにしたようで、さっそくハサミを入れ始める。純一はもう何も言う気になれなかった。佐伯の指示したとおりで、べつにいいように思う。
    「うん。さっぱりしたな」
     千円カットだから短時間で終わり、純一が支払いする横に来て佐伯は満足そうに言う。
    「次は買い物だ」
     何を買うとまでは言わなかったが尋ねるまでもない。佐伯は先に立って、二軒隣のドラッグストアに入っていく。純一も続いた。
    「やっぱ、モカかな」
     ヘアカラーの並ぶ棚の前に来て、またしても佐伯が率先して選び始める。純一は呆れた。
    「さっきから、なんなのあんた。前は美容師だったとか? オレの髪も染めるって言うし」
    「違う。だったらカットも俺が――それはないか。美容師辞めて来たならハサミもないしな」
     ヘアカラーの小箱を両手に持って、純一には目も向けずに言う。
    「そういうもん?」
    「そういうもんだろ。それまでやってたことからすっぱり足洗って、新しいこと始めるなら」
     やはり目を向けてくるでもなくあっさり言われ、しかし純一はギクッとする。
     足洗う、って――。
    「なら、なにしてたの?」
     問いかける声に、力が入った。
    「会社員だ」
     答えても、佐伯はまだヘアカラー選びに気を取られている。
    「会社員って……構成員もそう言うよな」
     独り言のつもりで純一はつぶやいていた。隣で小さく吹き出す声がして、焦って目を向ける。
    「なんだそれ。ま、わからないでもないけど、そこまでヤバイ会社員はやったことないぞ?」
     しっかりと目を合わせて笑って言われ、純一は真っ赤になる。
    「もう、それでいいよそれで! 帰る!」
     佐伯の手にずっとあった小箱をひったくり、純一はレジに向かった。
    「おい、それは俺が払うから」
    「なんでー」
    「カラーは予定外だろ? 俺が言い出したんだから、俺が払って当然だ」
    「わけわかんね」
     ふてくされる純一を押しやって支払いを済ませ、佐伯はまた笑顔を向けてきた。
    「ここに来たときは、いつも奥の喫茶店でコーヒー飲んで帰るんだが、どうする?」
    「はぁ?」
    「わざわざ出直してきたのに急いで帰ることもないだろ?」
    「じゃなくて――」
     なんであんたとコーヒー飲まなくちゃならないんだよと言い返したいのに、先を越される。
    「コーヒーはまだつらいなら、ほかにもいろいろあるぞ?」
    「んなこと、オレだって知ってるって! 地元バカにすんな」
    「なら、行こう」
     佐伯に腕を捕られてショッピングセンター内の通路を歩き始める。両側に連なる店を何軒か過ぎてから、純一はハッと気づいた。ニヤリと口元で意地悪く笑う。
     なんだ……コイツが寄り道したいだけじゃん。
     そう思えば、いい気分だった。さっきから女性とすれ違うたびに視線を感じている。小学生からおばちゃんまで年齢に関係ない。佐伯が人目を引いているのは明らかで、いたずら心から腕を捕らえている佐伯の腕に、逆に抱きついてやった。
    「な、あんたが行きたいだけだろ? オレにつきあえって? これって、デート?」
     どうせ軽くあしらうに違いないと思ったのに、佐伯は目をむいて見下ろしてくる。頬を引きつらせて、サッと前に戻した。横顔が照れたように歪む。
     ――え。
     純一のほうが照れくさくなり、そろそろと佐伯の腕から離れた。並んで歩く間隔を開ける。
     ふたりが入った喫茶店は、ショッピングセンターの裏手に面した壁が一面のガラス張りで、広々とした畑が見渡せる。その横の席を佐伯が選んで向かい合って座った。佐伯はブレンドを頼み、純一は迷ってアイスココアにした。コーヒーは好きだが、飲む気になれなかった。
     そう言えばコイツ、さっきオレに、コーヒーはまだつらいかとか言ったな――?
     それぞれに頼んだものが運ばれたときになって純一は気づく。昼食のときも、そうめんなら食べられるかと訊かれた。怪訝に思って向かいでコーヒーを飲む佐伯に目を上げるが、同時に店内の様子が視界に映った。
     テーブルは半分ほど埋まっていて、ほとんどが女性客だ。斜め向かいには、純一と同年代の若い女性が三人いて、ちらちらと目を向けてきては互いにはにかむように話している。
     へぇー……。
     純一には見慣れた光景だった。ホストクラブでホスト選びに迷う一見の女性客たちと同じだ。
    「あんた、モテモテだな」
    「まあな」
     またからかってやるつもりだったのに、今度はさらりとかわされてしまった。
    「こっち来ちゃって、カノジョとかどうしてんの」
     長い脚を高く組み、テーブルに片肘をついて余裕でコーヒーを飲む男をやり込めたくなる。
    「問題ない、いないから。こっちで作る気もないし、心配するな」
     しかし、ゆったりと笑いかけられて言われ、逆にドギマギさせられる。
    「し、心配なんて、べつに――」
     純一は悔しくてならない。この笑顔は反則だ。特に今は、洗練された大人の男を感じさせる服装でいて、農作業の服装でいるときに見せられるよりも格段に威力がある。
     威力って……なんの威力だよ、くっそぅ。
    「け、けど。三十過ぎてカノジョいないまま農業なんか始めたんじゃ、もう嫁は来ないな」
     鼻をあかせられそうなことが言えて、フフンと純一は得意になって佐伯に目を戻す。
    「おい……」
     なのに、佐伯に動揺は見られず、脱力したように声を漏らして純一を睨みつけてきた。
    「誰が三十過ぎだって? 俺はそんな老け顔か? まだ二十七だ、アラサーとも言わせないぞ」
    「えっ」
     純一が動揺してしまった。佐伯に睨まれて気迫に勝てるわけがなく、何も言えなくなる。
    「ったく、それでタメ口なんだからな。さっきは構成員とか言うし」
     佐伯は苛立たしそうにコーヒーを飲み干し、頬杖をついてそっぽを向く。だがそれは外見に反して、かえって子どもじみて純一の目に映った。拗ねたように見えるが、そうなのか。
     チラッと横目を向けてきて、純一がギクッとするのを見計らったかのようにいきなり言う。
    「ほら、もう行くぞ。帰って、することあるんだから」
    「さっきと言ってること、ちげーじゃん!」
    「知るか。おまえも飲み終わったんだから、いいだろ」
     そんなふうに仏頂面で言いながらも、佐伯はしっかり純一の分もまとめて会計を済ませる。あとは来たときと同じようにバイクに乗って、純一は佐伯にしがみついて家に帰った。


    つづく


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