父親はやはりまだ帰宅してなくて、家を汚さないようにと万一のときにも簡単に掃除できそうな、床がビニールの台所に新聞紙を敷いて、純一の肩には納戸から引っ張り出したビニール風呂敷を巻きつけ、佐伯は手際よく純一の髪にヘアカラーの溶剤を塗った。 「あと二十分、そのまま動くなよ? そのあいだに風呂やってくるから」 風呂やってくる、とは掃除してくることに違いなく、佐伯は昨日もそう言っていた。台所にひとり残され、純一は眉間にしわを寄せる。もしかしなくても、佐伯は家事を一手に引き受けているのか。昨夜の夕食も今日の昼食も、佐伯が用意した。 納得がいかない。いくら住み込みの就農希望者でも、そこまでするなんて聞いたことがない。いや、父親が「里親」としての謝礼を受け取ってないなら、そのくらい佐伯がやって当然か。 あ――。 それを訊きたかったのだと思い出した。今なら佐伯に訊けそうな気がする。 しかし佐伯はなかなか戻ってこず、風呂掃除に二十分もかかるのかと思っていたら、台所の前を過ぎて玄関から出ていった。父親が不在だから、代わりに畑を見に行ったのか。 うーん……。 純一は唸ってしまう。佐伯が本当にはどういう人物なのか、一向につかめない。やたら気を遣われている感じは今日も続いていて、髪のこともそうだし、食事のこともそうだ。昨夜は、テレビのことまで気遣われた。佐伯の部屋で見るも何も、言われたままに先に風呂に入ったら眠気が襲ってきて、知らないうちにベッドで眠っていたのだから見なかったのだが、そこまで気遣われるのは、やはり自分がこの家の息子だからか。それにしては、ぞんざいにも扱われていると思う。佐伯が口を出してくるから相手にするのに、はぐらかされることが多い。 てことは、オレ――。 「おい、二十分経ったぞ。シャワーで流してこい。いいか、二回シャンプーするんだぞ」 耳に飛び込んできた声にカチンとした。間違いない、単に子ども扱いされているだけだ。 佐伯は純一の背後に回ってきて、肩を覆うビニール風呂敷の裾を持ち上げ、純一を椅子から立たせる。そうして追いたてるように風呂場に連れていった。 昨夜もそうだったが、純一は佐伯のものと思われるシャンプーとコンディショナーを臆面もなく使い、言われたとおりに髪を二回洗って風呂場を出た。ざっと乾かし、肩のビニール風呂敷を取る。着衣のままだったから楽だ。改めて洗面台の鏡に向かい、ドキッとした。 佐伯の指示どおりにした髪は、一目で気に入るほどよく似合っている。それが悔しい。 自分なりにスタイリングをして風呂場もビニール風呂敷も片づけて台所に戻る。佐伯が何か言ってくるかと思うと顔を合わせたくなかったが、台所に入らなければ離れにも行けない。 思ったとおり佐伯は台所にいて、根ごと引き抜かれた枝豆の山を前にテーブルに着いていた。 「終わったか? なら、今度は俺を手伝え」 しかし言ってきたことはそれだけで、純一は拍子抜けしてしまう。 「手伝うって――」 「髪、やってやったんだから、いいだろ? こっちに来て枝豆をむいてくれ」 オレが頼んだんじゃないのに――不承不承にも純一は従う。佐伯の向かいに座った。 「これ、どうするの?」 「枝豆ごはんにする」 葉もついたままの枝に伸ばしかけていた手が止まった。純一は怪訝そうに佐伯を見る。 「なんで――?」 よほど料理が得意なのか。以前は会社員だったと言ったが、会社員でも料理人だったのか。 「今朝も 苦笑してそんなことを言われても、聞きたいことは別だ。隣家の多並から枝豆をもらうなんて何年も前からの話で、母親が健在のときですら毎日でも塩ゆでにして食べていた。 「じゃなくてさ。枝豆ごはんの作り方なんて、知ってるんだ?」 佐伯がしていることを見て、純一も枝豆をもぐと実を出し、薄皮もむいて大鉢に入れる。 「今は、ネットにいくらでもレシピが出てるからな」 あっさり言われ、また純一は驚いてしまう。 「ネットって……ケータイでか? もしかして、パソコン持ってる?」 「ノーパソな。前の仕事で使ってたやつだけど、このあたり、モバイルでも意外に接続よくて」 そう言われても純一にはさっぱりだが、パソコンを持っていると聞かされて目を瞠った。 「マジ、会社員だったんだ――」 「なんだ? 今度は料理人だったと思ったとか言うんじゃないだろうな?」 からかうような眼差しで見事に言い当てられ、純一は頬が染まる。ぼそっと言い返した。 「じゃあ、なんで農業やろうなんて思ったんだよ。会社員のほうがいいだろ?」 ぷちぷちと豆をむいていく手元を見つめて待つが、佐伯は答えてこない。焦れて顔を上げる。 「会社員のほうがいい、か。倒産されてホストまでしたおまえが言うか?」 「な……っ!」 ガタッと椅子を跳ねのけ、純一は立ち上がった。 「バカにすんな、ホストなめんじゃねえ!」 見下した言い方に腹が立つ。ホストは本当に大変な仕事だった。何も知らないくせに――喉までせり上がるが、本当にはどんな仕事か言いたくもない。だいたい、ホストをしていたことをどうして佐伯が知っているのか。当てずっぽうで言われたなら、なおさら腹立たしい。 しかし佐伯は、悠然と純一を見上げる。なだめようとする気配などなく、冷やかに言った。 「おまえが言うか? なめてたのは、おまえだろ?」 言われて純一は声も出ない。怒りにまかせてこの場を去るにも、全身がこわばって動かない。 佐伯は小さく息をつき、再び枝豆をむきながら静かに言う。 「おまえが就職した工場が倒産したことは、おやっさんも七月には知っていた。それなのに、おまえは帰ってこなくて連絡もなくて、ずっと心配してたんだ。やっと帰ってきたと思ったら、ひどい顔色でド派手なナリで、おやっさんじゃなくても今まで何してたんだと思ったぞ?」 「……だから、ホストかよ」 やっぱり当てずっぽうじゃねえかと、純一は悪態をつきそうで言えない。胸が詰まる。 「俺には見当ついたけどな。おやっさんは、そこまで思ってないんじゃないか? ま、座れ」 のろのろと純一は椅子を引き寄せて腰を戻す。自分が話す前から父親が工場の倒産を知っていたと、佐伯から聞かされたことがショックだった。 オレを心配してた、って……だったら、おっさんがオレのケータイにかけたらいいだろっ。 昨日のことが思い出される。まだ一晩しか経っていない。ありありと脳裏によみがえる。 『そんな……痩せて――』 自分を見て、父親は開口一番にそう言った。掠れて聞こえた声で。 だったら、なんで。 「失業してすぐにホストになったのか知らないが、一ヶ月も続かなかったんだから、なめてたと言われても仕方ないな? でも、そこで帰ってきたんだから、俺がほめてやる。歌舞伎町で働いてたならわかるだろうが、無一文になってからでも食っていける仕事はあるからな。帰る決心がつけたんだから、おやっさんが見込んでいるとおりだ」 佐伯は諭すように言ったが純一にはわからない。父親の見込みどおりとは、どういうことか。 「……て言うかさ。あんた――会社員してたって言うわりには、やたら詳しいな」 低く漏らし、純一はぐっと佐伯を睨み上げる。赤の他人に踏み荒らされた気分だ。佐伯の顔から、すっと表情が消えるのを見逃さなかった。重ねて言う。 「こんなとこまで来て、住み込みで農業やりたくなるほどヤバイ仕事してたんだ?」 もともと、そういう話だったはずだ。どこでそれたのか。 佐伯は、じっと純一の目を見つめてくる。純一も負けじと見つめ返す。視線が絡み、佐伯の気迫に純一が耐えられそうになくなったとき、ふと佐伯が目元をゆるめた。 「痛い腹を先に探ったのは、おまえだろ? どうなんだ? 俺と腹を割った仲になりたいか?」 純一は目が丸くなる。そこまで考えがあったわけじゃない。ただ――。 「今日、JAで働いてるヤツに会ったんだ。うちのおっさん、里親の登録もしてないし、謝礼も受け取ってないって聞いた。あんたとおっさんが、どうなってるか知りたかっただけだ」 正直な気持ちが声になった。佐伯は浅くうなずいて純一に答える。 「本気で農業やりたいなら、面倒見てもいいと言われた。朝六時までに来られるかって訊かれたから無理だと答えたら、こっちに住む気があるなら部屋を使ってもいいと言われたんだ」 「メシや風呂までやってるのは、だからか?」 「そういうわけでもない。食いたいものは俺もおやっさんも勝手に買ってくるし、別々だったのが、いつのまにか今みたいになっただけだ。掃除も、母屋は台所と風呂場しかしていない。廊下の向こう側には一度も入ってない。俺は他人だからな。そこのけじめはつけてる」 それには納得がいった。父親の性格を考えると、佐伯にはぐらかされたとも思えなかった。目についた枝豆をもぐ。実を出して、薄皮をむく。 「おい。それでいいのか? 謝礼のことを聞いてないぞ?」 あ、と純一は慌てて佐伯に目を戻した。うっすらと笑っている。穏やかな目になっていた。 「話すから聞いておけ。お互い、すっきりしたほうがいいだろ? おやっさんと俺は個人的に契約したことにした。だから、おやっさんは俺の面倒を見てもどこからも謝礼が出ない。俺が払うと言ったら、いらないから俺にも金は払わないと言った。代わりに家賃はタダだ」 「――え」 純一は呆然と佐伯を見る。父親はともかく、佐伯はそれでいいのか。 「じゃ、あんたタダ働き――」 「あたりまえだ。今までの収穫は、おやっさんがひとりで作付けしたものだからな。いくら俺が手伝っていても教わることのほうが多いんだから、金なんてもらえない。むしろ払って当然で、家賃までタダなんて、おかしいくらいだ」 純一は黙り込む。佐伯の言うことはわかるが、佐伯にとって農業は、そうまでしてやりたいものなのか。 「俺は、おやっさんのそういった懐の広さに甘えさせてもらってる。もったいない話だ」 もったいない――佐伯は今朝もそう言っていた。 ……やっぱ、本気なんだ。本気で農業やりたいから、こんなこと言うんだ。 「で? おまえはどうするんだ? 帰ってきたんだから、おやっさん手伝うか?」 ギクッとして純一は目をそらす。少しだけ思いを巡らせ、観念して口を開いた。 「まだ、それは――」 佐伯にどう返されるか、思うと落ち着かない。また枝豆をもいで、むいていく。 「――そうか。どんな仕事にも苦労はあるからな。合う、合わないもあるし」 「そんなこと。農家の生まれじゃないから言うんだ」 つい口にして、純一は後悔する。思ったとおり、佐伯は先を促すように見つめてくる。あきらめて、続けて話した。 「生まれたときから家が農業やってたら、合うとか、合わないとか、考えない。オレは考えなかった。ガキの頃は畑で遊んで、少し大きくなったら収穫やって、その次は作付けして水やりして、草取りとか土作りとか、 「そうか。なら、俺も訊くぞ? だったら、どうして家を出て就職したんだ?」 「それは……言いたくない」 思い出すだけで、ぎゅっと胸が締めつけられる。押し潰されそうなほど苦しくなる。それでも純一は豆をむき続ける。佐伯も手を動かし続けている。もうすぐ終わりそうになっていた。 「なあ。俺はおまえと腹を割った仲になれたらいいと思ってるんだが、無理そうか?」 びっくりして純一は顔を上げた。佐伯が照れくさそうに笑っていることに二度びっくりする。 「言いたくないことまで言えとは言わない。タメ口で構わない」 「なんで――」 「そのほうがいいだろ? 毎日、朝早くて夜も早くて、だけど半端に時間あって、テレビ見て、ネットでレシピ検索してるだけじゃなあ。バイク走らせても遠くまでは行けないし」 「それって……あんた」 言いかけて、純一は眉が寄る。しかし、思い切って言ってやる。 「暇なだけじゃん」 「だな。ここに来てから一日が長くて」 ハハッと佐伯は軽く笑う。 「……オレは暇つぶしの相手かよ」 「相手してくれるか? 部屋は隣だし。出かけるときはバイクで送り迎えしてやるぞ?」 ニヤッと、いたずらっぽく見つめてきた。 「あんた――」 はっきり呆れた。子ども扱いされているように思えていたけど、実際そうだろうけど、佐伯のほうがよほど子どもみたいだ。 「オレに遊んでほしいのかよ」 フッと肩から力が抜ける。少しも悪びれない佐伯の笑顔につられるようにして、純一も顔がほころぶ。ふわりとした笑顔になった。 「いい顔だ」 佐伯こそ、やわらかないい笑顔になって、そんなことを言う。硬質な男っぽさを残したまま、深く広い温かみを感じさせる。 「おまえは、きっとお母さん似なんだな。その髪、よく似合ってるよ。言ってよかった」 また頬が熱くなる。そんな恥ずかしいことを佐伯は豆をむきながらさらりと言うから――。 「でも……まだ、腹を割った仲になるかなんて、わからないんだからな!」 照れくささを隠して、純一も豆をむく。残りは、あとわずかだ。 「またそれか? なるさ。俺もおまえも、そうなりたいって思ってるんだから」 「言ってろ、バカ」 佐伯は楽しそうに笑う。目を細めて純一を見る。それがくすぐったくて純一は目をそらすが、口元がゆるんでならなかった。 夕方になって父親は帰宅すると、台所にいた純一を見て、わずかに目を瞠った。 「さっぱりしたじゃないか」 それだけを言って純一に包みを渡し、台所を出ていった。純一は渡された包みを見下ろして言葉もない。中を見なくてもわかる、刺身だ。鮮魚専門店の『魚よし』はスーパーのレジ袋のようなものは使わずに、つるっとした白い紙にトレーごと包むだけだから一目でわかる。 「おやっさん、なに買ってきたんだ?」 夕食の支度を始めようとしていた佐伯が横から覗き込んできた。 「――刺身」 純一が呆然とするのも仕方なく、『魚よし』の刺身は特別なときにしか食卓に出ないものだ。 「刺身か。枝豆ごはんとなら、合うかな? どこで買ったんだ、この包み――」 言いながら、佐伯はこともなげに純一の手から包みを取り上げ、まな板の横で開く。 「ずいぶん上等じゃないか――」 つぶやくように漏らして、それきり何も言わなかった。 夕食の時間になって、純一は出されたものの味を噛みしめる。枝豆ごはんも、たまねぎと卵の味噌汁もとてもおいしく、刺身は胸にしみるほどおいしかった。 おっさんも……バカなのかもな――。 なぜ『魚よし』の刺身を買ってきたのかと思う。わかるから、たまらなかった。 その翌日から、純一は仕事を探しに出かけた。家の近くでは、ほぼ宇都木から聞いたとおりの状況だった。駅の近くでもほとんど変わらず、試しに隣の駅まで行ってもみたが状況は同じだった。職種も勤務形態も不問にすれば、雇用があるにはある。だけど、どうしても思い切れなかった。二度の失業の経験が、安易な就職をためらわせた。それに、たとえ希望にかなった就職ができても、もう寮などに入る気はまったく起こらず、だが自分でアパートを借りるなら相当先になる。それまで家から通うのか。佐伯が父親を手伝う様子をはた目に見ながら――。 数日後、純一は夕食のあとに父親を呼び止めた。まだ佐伯が台所にいたが、構わなかった。 「おっさん。頼みがある。オレを畑で使ってくれないか」 「純一――」 父親は席に着き直して、改めて正面から見つめてきた。真剣な眼差しだった。 「ずっとやれるかどうかは、わからない。けど、今は――オレに家の畑をやらせてください」 たまらない思いで純一は頭を下げる。今さら何を言っているんだと、怒鳴られる覚悟だった。 しばしの間があく。父親の声は聞こえてこない。そっと純一が顔を上げたら、父親はじっと自分を見ていた。目が合って、静かに言われる。 「ずいぶん顔色がよくなったな。――好きにしたらいい」 父親は席を立つが、純一は声も出ない。大きく目を瞠り、台所を出ていく父親をただ見送る。 そうなって、視界に佐伯が映った。流しの前から振り向いて、純一を見ていた。無言で注がれる穏やかな眼差しは、よかったな、と言っているようで、純一はしかめ面になってしまう。 「なんだ、その顔は」 佐伯は大股で歩み寄ってきて、テーブルをはさんだ向こうから純一の頭をぐりぐりと撫でる。 「バカ、やめろって!」 こんなときに、そんなふうにされたら困るではないか。 「なんだよ、バカって。そっちこそ、朝起きられるのか? ――明日から、よろしくな」 「もう……っ」 やっぱりダメだった。佐伯の手を払えもせず、純一はうつむく。ぎゅっと目を閉じて、目尻に涙が滲むのをこらえる。どうしようもなく、胸がいっぱいだった。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:あんずいろ