二 「おはよう。ちゃんと起きられたな。起こしに行ったほうがいいのか、少し考えたぞ」 「ん――」 離れの広縁に出て、純一はあくびをこらえる。佐伯と鉢合わせになってそんなことを言われたが、眠気を残す頭には何も入ってこない。だらだらと母屋に向かう。 麦茶だけ飲んで外に出ると、日の出と共に鳴き始めた野鳥のさえずりに、もうアブラゼミの声が混ざって聞こえる。真夏の今は昇りたての太陽でも日射しに容赦はなく、それを忘れずに長袖と長ズボンを着てきてよかったと、うんざりと目をこすりながら思った。 父親と佐伯と三人で、収穫に使う機材を軽トラックに積み終える。父親ひとりが乗り込み、純一は家の前のきゅうり畑に歩き出した。佐伯もあとに続く。 農道に出て、父親が軽トラックを横付けにした向こうに回り、荷台からハサミとカゴを取り上げて畑に入っていく。 純一はさっそく端から歩き始め、収穫に適した実を選んでハサミで摘み取っていく。いまだ頭は眠気を残していても、子どもの頃から身についていた作業に間違いはなかった。 佐伯も、支柱を覆うきゅうりの壁の反対側で収穫を始めたが、純一に追いつけない。父親は、ひとつ向こうの畝でてきぱきと進めている。 そうして収穫したきゅうりは、市場に出す規格に適したものと、そうではないものとに選別して、別々のプラスチックコンテナに入れる。規格外のものでもJAの直販所などで販売してもらえるから、合わせて出荷に回す。コンテナを積み込んだ軽トラックには父親と佐伯が乗り、純一はまったく売り物にならないきゅうりを入れたカゴを持って家に戻った。 出荷を終えれば、時間に追われるようなことはない。父親と佐伯が帰ってくるまでに朝食を用意する。それもまた祖父母が他界してからは毎日のようにしていたことで、純一は自然と手が動いた。 朝食を三人で済ませ、父親と佐伯は畑の管理で再び出ていく。今はきゅうりを栽培しているだけで、佐伯を引き受ける前に父親がひとりで 朝食の後片づけをして、洗濯機を回し、離れの自分の部屋と広縁を掃除する。母屋の台所と廊下と広縁も掃除するのだが、どうしても部屋に入れない。家に戻ってから一週間近くになるが、納戸にしている部屋以外にはまだ一度も足を踏み入れていなかった。 そのことに父親は気づいているはずなのに一言も触れてこなくて、理由を知っているからと思えてならず、なおさら気が重くなって、ますます母屋の部屋に入れなくなっている。 実際、父親は佐伯と昼前に帰宅すると、昼食を終えてから母屋の部屋に掃除機をかけ始めた。掃除されていないと気づいたからにほかならず、それなのに純一に何か言うことはなかった。 真夏の昼下がりは特別なことがなければ休憩にあてる。佐伯も自室の掃除をして、あとは中で休んでいるようだった。純一も自室で扇風機を回してベッドに寝転ぶ。今はもう室内はあらかた片づいて、何をするということもない。 日の出と共に起きたのは本当に久しぶりで、いつ以来かと思う。起きられるのかと佐伯にからかわれたが、実のところ少し不安だった。父親に頭を下げて畑をやらせてくださいと頼み込んだ翌日に寝坊しては、あまりにバツが悪い。 以前そうしていたように、東の窓の雨戸を閉めずに寝たから起きられたように思う。畑でも、考える前に手と体が勝手に動いて、農作業がどれほど自分にしみついているのか思い知った。 佐伯に話したように、覚えようとして覚えたことではない。幼い頃から両親について回っているうちに、自然と経験して、知らずに蓄積された。数年離れたくらいでは、消えなかった。 『だったら、どうして家を出て就職したんだ?』 佐伯が疑問に思ったのも当然のように感じる。農業が嫌になって家を出たけれど、少なくとも母親が健在のうちは、好きでも嫌いでもなかったはずだ。 自分で、ちゃんとわかっていた。母親の死を境に農業が嫌になった。 母親は、純一が高校二年生に進級した春に急逝した。まだ四十六歳で、脳卒中で倒れたのもそのときが初めてで、原因もわからないまま、倒れた翌日に帰らぬ人となった。 純一は涙が止まらずに、周囲が葬儀で慌ただしくなっても、自分はどこか別の場所にいるように感じていた。そのときになって初めて母方の祖父母に会ったのだが、顔も覚えていない。 ただ、火葬場をあとにして、ごく近親のもので家に戻ってから客間で聞こえた罵声だけは、嫌になるくらいよく覚えている。 だから農家の嫁になんかなるなと、あれほど反対したんだ――。 母方の祖父母が父親に言ったに違いなかった。まさか亡くなってしまうなんて思うはずもなかった、親を残してこんなにも早く逝くなんて親不幸にもほどがある――そんな声も聞こえた。 母親がもともと丈夫でないことは純一も聞かされていたが、純一から見れば、母親は普通に家事も農作業もこなしていた。それがいけなかったのか。だとしたら、なぜ母親は両親の猛烈な反対を受けても、農家の父親のもとに嫁いだのだろう。父親もまた、母親が丈夫でないことを知っていたのに、なぜ母親が農作業まですることを止めなかったのか。 そんな疑問が湧いて純一は悶々としていたのに、父親は葬儀の翌日から畑に戻った。それが純一には、とんでもないことに感じられ、どうしても受け入れられなかった。 頭ではわかっていたのだ。農業は、生きたものを相手にする。こちらの都合で放っておけば、取り返しがつかなくなる。何より、農作業を怠れば自分たちの生活が危ぶまれる。 だけど、こんなときにも父親は畑を忘れないのかと、そう思えてならなかった。母親の死は、父親にとって畑を忘れるほど悲しい出来事ではなかったのかと――。 純一は、浅いまどろみにうなされる。自室のベッドに横たわり、扇風機の風を感じながら、額に嫌な汗をかき、眉間にしわを刻む。見るともなしに夢を見ていた。母親が笑う。 『お母さん、純ちゃんはひとりっ子にしちゃったけど、野菜は毎年たくさんできてうれしいわ』 あれは、いつだったろう。小学生のときか。いんげんを摘む母親の細く美しい指が浮かぶ。 『ねえ、純ちゃん。お父さんは、畑にいるときが一番カッコイイと思わない?』 ひらりと、母親の弾けるような笑顔が脳裏にきらめいた。初夏の太陽よりまぶしい――。 ハッと純一は目を開く。動悸が激しいことに驚いた。今見たのは夢だ。しかし実際にあったことを夢に見たのではないか。 「おい、起きてるか?」 開け放しの障子から佐伯が顔を覗かせた。ビクッとして純一は身を起こす。 「夕飯と風呂をどうするか訊きに来たんだが――俺がやるか」 「オレは、どっちでも……」 まだ動悸が鎮まらず、純一はぎくしゃくと答える。 「どっちでも、か」 「や、オレがやるよ。あんた、おっさんとまた畑に行くんだろ?」 佐伯に呆れられたようで、慌てて言い直した。 「んー、でも三食作らせるってのもな。飯だけ炊いといてもらうか。風呂はやってくれないか? おやっさん、畑から戻るとすぐ入るだろ?」 「わかった」 「これからちょっと買い物に行くが、おまえも乗ってくか?」 佐伯は照れくさそうな苦笑を浮かべ、そんなことを言う。佐伯に抱きついてバイクに乗ったことを思い出し、純一はなんだか顔が熱くなるようだ。 「いい。金ないし、行ったってすることないから」 「だったな」 ハハッと笑って、佐伯は障子を離れていった。純一は肩で息をつく。 なんか、疲れた……。 中途半端に眠ってしまったからだろうか。――あんな夢を見たからだろうか。 よいしょ、と声に漏らしてベッドを出て、忘れないうちに風呂掃除を済ませる。佐伯のものと思われるシャンプーとコンディショナーが目に入り、黙って使ってちゃ悪いなと思った。 そうしてさらに数日が経つ頃には、三人三様に一日の過ごし方が自然と決まった。日の出と共に始まる収穫作業は三人でやり、出荷には父親と佐伯のふたりが行く。朝食と昼食は純一が用意して、夕食は佐伯が作る。自分が使う部屋の掃除はそれぞれ自分でやって、風呂の掃除は純一が、ほかは日によって佐伯がしたり純一がしたり、状況によってはしない日もある。 洗濯も、朝のうちに家にいる純一が自然とすることになったのだが、少しばかり困っていた。男三人分の洗濯だから、分けるのも面倒で一度にまとめて洗濯機に突っ込んで回しているのだが、佐伯のパンツがたまに派手すぎるのだ。農業をするのに、なんでこんなパンツを穿いているんだと言いたくなるような、ビキニなのかブーメランなのか、色も黒だったり赤だったり、Tバックだったり、とにかく、なんじゃこれはと赤面してしまう代物が混ざっている。 父親と佐伯のふたりでいたときは、佐伯が洗濯をしていたらしいことにもうなずけた。あんなもの、父親が見たら腰を抜かす。でも、干してあるところを既に見ているかもしれない。 「……マジ、ありえねえ」 今日もまた、ものすごく細い黒だった。こんなに小さくて、体格のいい佐伯の尻が収まるのかと余計な心配をしたくなる。庭の畑の横の物干しで、洗濯ハンガーのピンチにはさむにも、ついつい危険なものを持つみたいに指先でつまむようになってしまい、それでいて顔が熱くなるのだから、自分でも何がしたいのかわからない。こんなもの穿かないでくれとは、ものがものだけに口にするのも恥ずかしい。隣家とのあいだに空き地があってよかったと思ってしまう。 「よーう、純ちゃーん」 その隣家の 「おばちゃん……」 「帰ってきたって聞いたのに、ぜんぜん顔見ないから、見に来た。洗濯もの干してたんか?」 にこにこと言いながら庭を突っ切って来る。その後ろには佐伯の姿も見えて、純一は慌てて自分から歩み寄った。間違ってもカゴの中の洗濯ものまで多並に見られたくない。 「はぁー、見違えちゃって。東京行ってたんだっけ?」 父親と同年代の多並は、長袖のシャツにもんぺという典型的な女性の農作業姿でいる。後ろ首まですっぽり覆う帽子はツバも広くて、その陰から丸くて小さい目が純一を見上げて笑った。 「すっかり、べっぴんさんだねぇ。あら違うか、男だからイケメンさんだわよ」 アハハと屈託なく肩を叩いてくる。純一は曖昧に笑って返すしかできなくて、助けを求めるように佐伯に目を向けるのだが、佐伯はきょとんと突っ立っているだけだ。 ったく、畑はどうしたんだよ、多並のおばちゃん連れてくんなよ! 苦手というほどではないが、純一は多並に弱い。生まれたときから知られているからか。 「農家の長男坊が垢ぬけちゃって。肌もつるつるだよ。髭も薄いし、下もちょぼちょぼかい」 「お、おばちゃん!」 頬を撫でさすられ、裏返った声が出る。 「やめてよ、そういうの。ちょぼちょぼとかさぁ……」 「て言うか、そうなのか?」 佐伯が横から口を出してきて、よりによって真顔でそんなことを言う。 「バ……ッ!」 「純ちゃんは、すぐ照れるねぇ。変わらないよぉ」 穏やかに目を細める多並には構わず、純一は顔を赤くして佐伯を睨んだ。 「つか、あんた、なんで帰ってきてんだよっ。うちのおっさんはっ?」 「ああ、そうだった。JAに行った。 「……わかったよ」 純一がムスッとする前で、多並はまだにこにこと言う。立ち去る気はないらしい。 「けど、純ちゃんが帰ってきて、これで 聞かされたことに、すっと純一は胸が冷えた。あらぬ方向に話が流される前に、干し終えていない洗濯ものを気にしつ、相槌を打って自分から話題を振る。 「おばちゃん、いい男が好きだもんね。ほら、なんとかっていう外国の俳優、今もファンなの?」 案の定、多並は小さな目をキラキラさせて話に乗ってくる。 「ファンも何も、このあいだなんて、成田空港まで見に行っちゃったわよぉ」 来日すればニュースになる超人気俳優だ。あの群衆の中にいたのかと、純一は吐息をつく。 「元気だね、おばちゃん。そんなにいい男が好きなら、そこのあげようか?」 家に入るでもなく、代わりに洗濯ものを干してくれるでもなく、自分と多並を見ているだけの佐伯を顎で指した。 「やだもう、純ちゃん! うまいこと言っちゃって、おばちゃんをからかわないでよぉ」 バシッと多並に腕を叩かれる。佐伯に嫌味のつもりで言ったことに多並が本気で照れたように返してきて、純一は目を丸くした。 「あんないい男が家にいたら、おばちゃん、血圧上がっちゃうじゃない」 ……そういうことかよ。 毎日のように多並から枝豆をもらっていると佐伯から聞いたが、これはどうも隣家だからという理由だけではなく、枝豆を手渡されるのも、父親ではなくて佐伯なのだろう。 「ならさ、おばちゃん。今度は枝豆じゃなくてトウモロコシがいいな」 「ま、そうだったんかい?」 「いやいやいや、そんなことないですから」 また佐伯が口を出してきて、今度は多並の横にすっと立った。体を傾け、小柄な多並の耳に唇を寄せるようにする。 「いつも枝豆おいしく食べさせてもらってますよ。昨日もありがとうございました」 ことさら艶のある低音で言い、さりげなく多並の腰に手を回した。いたわるようなやさしさで体の向きを変えさせる。 「弾けそうに丸い実で、甘みがあって、本当においしいです。やっぱり朝採りが最高ですね」 そうして門の外へと歩み出した。あまりに自然な一連の動作に、純一はあんぐりしてしまう。佐伯は多並をエスコートしているとしか言いようがなく、還暦前後の多並が、恥じらう乙女のような顔を佐伯に向けていることにも度肝を抜かれた気分だ。 あんの野郎ぉ……っ! 結局そのまま門の外に消えるまで見送ってしまった。我に返って純一は再び洗濯ものを干し始めるのだが、また佐伯の派手なパンツを手にして、顔が熱くなってかなわなかった。 「ほら。マジにトウモロコシくれちゃったぞ」 佐伯は多並を家まで送ってきたらしく、台所のテーブルでぶすっと頬杖をついていた純一の目の前に、袋いっぱいのトウモロコシをドサッと置いた。正面に立ち、横柄に見下ろしてくる。 「洗濯ものは干せたようだな」 「決まってんだろ」 プイと純一はそっぽを向く。なんだかおもしろくない。昼食の用意もしていない。 「なにふてくされてんだ? 長話につきあわされたからか? 俺が助け舟出してやったのに、おまえが気づかなかったからだろ?」 「いつ出したよ?」 じろっと横目で佐伯を睨む。バカみたいに突っ立ってただけじゃん、と内心で毒づく。 「ちょぼちょぼの話のとき。『そうなのか?』って、突っ込んでやっただろうが」 「なっ!」 あれのどこが助け舟だったと言うのか。逆に追い込まれたようなものだ。 「ん? わからないか? ああいうときは切り返せばいいんだ。『見るか?』って言えば、たいがいは引くからな」 「んなの、おばちゃんに言えるか!」 「そうか? 向こうが先に言い出したんだから冗談で通じると思うぞ?」 多並はそうかもしれないが、そんなことを口にしたら自分が恥ずかしい。純一は頬をひきつらせて、ほのかに赤くなる。どうして佐伯は、こうも恥ずかしいことが言えるのだろう。 それなのに、佐伯はじっくりと検分するように、顎に手を当てて純一を見つめてきた。 「……なるほどな。隣の人だけあって、おまえのことよく知ってるみたいだな。『純ちゃんは、すぐ照れるねぇ』――言ってたよな?」 「……うっせえな」 多並の口調をまねて言われ、純一はしっかり顔が赤くなる。佐伯は眉を跳ね上げた。 「ちょ、なんだよ。やっぱ、根は素直じゃないか。ひねくれたこと言うが、あれも照れか?」 まさに図星で、カッとなって純一は言い返す。 「あんたが恥ずかしいことばっか言うからだろ!」 「そうか?」 「さっきだって多並のおばちゃんに砂吐きそうなこと言ってたじゃん! 口説いてるみたいで、ビビったぞ! つか、あれ! なんなの、あのパンツ。農業やるなら、腹まであるやつ穿けよ! ケツまで出して、冬場は死ぬぞ! おっさんなんか、冬は 勢いづいてパンツのことまで言ってしまい、純一は恥ずかしくてならないのに、佐伯は少しもへこたれない。 「え。おまえも冬は股引きなのか?」 しれっと、そんなことまで口にする。 「オレはジャージだ、ジャージ! ズボンの下に穿くの、って、股引きはおっさんの話だろ!」 「だな。……てことは、俺は冬になってもまだいていいんだ?」 ぐ、と声に詰まった。純一は目を泳がせて顔を背ける。佐伯がおもしろそうに笑っているのが感じられて、悔しくてならない。 くっそぅ……なんでそういうことになるんだよっ。 佐伯に冬までいていいなんて言ったつもりはない。どうしてこうも都合よく受け取れるのか。 「おい。肉、食いたくないか?」 「はぁっ?」 唐突に話を変えられ、顔をしかめて振り向いた。 「おやっさん帰ってこないし、もう昼だし。駅の近くのステーキ屋、バイクで通るたびに気になってたんだ。のぼりに『地元牛』って書いてあるんだぞ? 『地元牛』だぞ?」 「あんた……」 「食ってみたくなるだろ? おやっさん、ステーキ食うかわからないし」 なぜだか真顔で力説する。純一は呆れた。 「ま、うちのおっさんは、タタキは好きだけどな。ステーキは家で食ったことないかも」 「じゃあ、行こう。俺のおごりだ。それならいいだろ?」 「あんたなあ……」 そりゃオレは金がないけど――口まで出かかって、ふと思い当たった。千円カットに行った帰りと同じだ。くすっと純一は笑う。 「それって、あんたが食いたいだけだろ? いいよ、つきあってやるよ。オレも、肉食いたいし」 くすくすと笑いながら立ち上がった。ひとりで行けばいいじゃん、とも言えたのに、そんなふうに言う気にならなかったのが自分でもおかしい。 「よし、着替えてこいよ。短パンじゃ入れないような店だから、ちゃんと選べよ?」 農作業姿の佐伯に楽しそうに言われ、純一はニヤリと言い返してやる。 「あんたもな」 「あたりまえだ。デートだしな」 さらりとかわされ、ぐうの つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:あんずいろ