Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    レタス畑で愛をささやけ
    ‐6‐




     それから数十分後、重厚な鳶色[とびいろ]のテーブルに着いて、純一はまたしても顔を赤くする。佐伯が言ったとおりに、表には『地元牛』と書かれた藍染ののぼりが出ていたが、店内は高級感が漂うしっとりとした雰囲気で、およそ『ステーキ屋』とは呼べそうにない。
     こんな店、あったんだ――。
     家を離れていたあいだにオープンしたと思われるが、地元には似つかわしくなく、いきなり都内に連れてこられたような浮遊感を覚える。
     向かいの席にゆったりと座る佐伯もいけなかった。バイクに乗るから下はデニムにしたのだろうけど、自分もそうしたのだけど、上は見覚えのないシャープな印象の黒いシャツで、店の雰囲気もあってか、いつもより格段に大人っぽく男くさく感じられる。それぞれにメニューを開いて、どれにしようか気軽に話しているつもりでも、目が合ってはドキッとするのだから、これでは本当にデートのようだ。ホストをしていたときに買った白いシャツを着てきたことを後悔したくなる。
    「どうした? やけにおとなしいな。先におごりと言われて遠慮したか?」
    「そうじゃ、ないけど……」
     目を覗き込むようにして言われ、ほとほと困った。そんなに近づかれると、視線を下げても佐伯の喉元とか鎖骨とかが、第二ボタンまで開いている襟の合間に見えてしまう。
    「やっぱりおとなしいじゃないか。いつもなら言い返してくるのに」
    「だって……しょうがないじゃん」
     自分でもわからないのだ。佐伯とふたりで食事するなんて今が初めてじゃないのに、場所が変わっただけで、どうしてここまで落ち着けなくなるのか。
     不慣れな雰囲気の店にいるせいじゃない。佐伯のせいだ。
    「ま、遠慮するな。せっかく来たんだから、がっつり食わないとな。俺はサーロインの二百グラムにしよう。おまえはどうする? サーロインじゃまだきつそうなら、フィレにするか?」
     ……あ。
     おもむろに顔を上げ、佐伯と目が合ってドクンと胸が鳴る。ドキドキと駆け出した。
    「ったく、マジどうしたんだよ? 目がまん丸だぞ? もう何も言わないから、好きなの頼め」
     呆れたようでも佐伯の笑顔がやさしいから、純一は思ったことを口にしてみる。
    「――じゃなくて。それ……『まだきつそう』って前も言ってたけど、それってさ」
     そこまで言ってみたものの、急に不安になって詰まってしまう。
    「ん? なんだ?」
    「うん……もしかして、心配してくれてんの?」
    「――え」
     佐伯はぽかんとする。純一は焦って言い募った。
    「だ、だって! 違うの? ホストしてたの知ってんだし、帰ってすぐのときは食欲なかったし、酒でやられてると思ったんじゃないの? だから、そうめんなら食えるかとか、コーヒーはどうだとか、訊いたんじゃないの? 今だって――」
     すっと人差し指を唇に当てられ、そこで声が途切れた。純一は大きく目を見開く。佐伯は、もう片方の手で頬杖をつき、目を細めてやわらかく笑っていた。
     な、に、……これ。
     ドキドキしすぎて胸が苦しくなる。佐伯の笑顔から目が離せない。明るく屈託がないのに、ひどく男くさく、妖しいオーラのようなものが感じられて――。
     ……すっげぇ、色気。
     思った途端、ボッと顔が熱くなった。唇に当てられた指を払うこともできない。
    「そう思うなら、黙って受け取っとけ。無理させてないなら、好きなもの食ってくれ」
    「……あんた」
     ようやく指が離れ、掠れた声が出た。胸を上ずらせて純一は言う。
    「あんたがホストやったら、ナンバーワンだ――」
     思うところがあったわけではなかった。するりと口から出ただけだ。
     佐伯の表情が、サッと強張る。眼差しが険しくなる。純一は慌てた。
    「ちょ、ちょっと思っただけだよ。ホストやったらいいとかじゃなくて、あんた農業やりたくてうちにいるんだし、そんなこと言わないって。けど、多並のおばちゃんに普通にあんなふうにして、今もそんなことするし、すげぇ色気あって、なんか、思っちゃって――」
    「くだらないな。仮定で話されても、仮定は仮定だ。本当にはどうなのかなんてわからない」
    「だから! 謝ってんじゃん。なんでそんなふうに言うんだよ、そんな言い方しなくても――」
     ニコッと佐伯が笑う。その笑顔にもドキッとして、純一は言葉を飲み込んだ。
    「やっと元気出たか」
    「な、なんだよ……」
     切り替えの速さについていけない。開いたメニューを指して佐伯が言う。
    「どれにする? 決められないなら、俺が決めちゃうぞ?」
    「だ、ダメ! あんたと同じにする」
    「わかった」
     店員をアイコンタクトで呼ぶ佐伯を見つめ、ドキドキが止まらない。だけどまた、ふと思い当たる。
     やっと元気出たか、って――。
     今も気遣われていたのだ。そうとわかって、純一は胸がいっぱいになる。これまでにも気遣われていると感じる瞬間がたびたびあった。それは体調を崩していた自分を思いやってのことだったとしても、今の一言は違う。体調が戻っていることは、もう知っていたはずだ。
     あんた……やさしすぎるじゃん。
     一日が長く感じられて、暇を持て余しているから相手をしてくれと佐伯は言った。そうして腹を割ったつきあいができるようになれたらいいと。
     それなのに、自分はどうだったか。
     オレのこと、根は素直だなんて言って――。
     父親を指して懐が広いと佐伯は言ったが、佐伯のほうがよほど広く感じられる。この食事が本当にデートで、自分が女性だったなら、もう佐伯にベタ惚れだと思った。
     オーダーした品々が運ばれてきて、それぞれに食べ始めてからは、純一はなおさら浮遊するような感覚に漂った。佐伯はずっと穏やかな笑顔で、それがひどく心地いい。
    「どうだ、うまいか? 地元牛」
    「うまいよ、すごく」
    「そう言ってもらえるとありがたいな。ひとりで食いに来られるときもあったけど、わざわざそうしないでよかったと思える」
    「けど、オレにおごることになっちゃったじゃん。なんか、悪い。あんた、タダ働きなのに」
    「気にするな。金には当分困らないから。前の仕事で稼いだ分が、無駄なほど残ってる。こういうことに使えるなら、そのほうがずっといい」
     豪快に食事を進めながら、佐伯はさらりと言う。純一は、胸がじんとした。
    「だったら……また誘って。どこでもつきあうよ。今日は、ありがと」
     そんなふうにしか言えなくて、恥ずかしくなる。だけどフォークを止めて、まっすぐに佐伯に顔を上げた。
     え――。
     佐伯は大きく瞠った目で自分を見ていた。また誘ってなどと、ずうずうしいことを言ったから呆れられたか。いっそうの羞恥に染まり、純一は縮こまる。頬が熱くなってたまらないが、佐伯から目をそらせない。叱られるなら、ちゃんと謝りたい。
    「おまえ……そんな顔して、なんてこと言い出すんだ」
     しかし、急にうろたえたようにそう言われ、純一のほうが動揺してしまう。
    「そ、そんな顔って――」
    「ったく、言わせる気か? 俺の前で、ウブに恥じらってんじゃねーよ、バカ。どこでもつきあうなんて、簡単に言うな」
     目が点になってしまった。
     バ、バカって。
     佐伯らしくもない言い方をされ、その上、佐伯は照れているようなのだ。面食らってならない。何か言ったほうがいいのかどうか、ドギマギする。
    「いいから、ほら! 食えって。もたもたしてると、せっかくうまいのに冷めちゃうぞ」
    「う、うん」
     言われたままに食事に戻るが、佐伯が気になってならない。元どおりに豪快な食べっぷりを見せているが、まだ照れているようなのは気のせいか。
    「連れてってやるよ、どこへでも。て言うか、免許はおやっさんに頼み込んででも取ったほうがいいんじゃないか? このへん、車が使えないと不便すぎるだろ」
    「――うん」
    「ま、免許取ってもバイクには乗せてやるから、安心しろ」
    「うん!」
     いつもの会話に戻ったようで、ホッとした。だから自然と明るい返事が出て顔を上げたのに、佐伯は明らかに照れた顔になって、驚いたように見つめ返してくる。
    「おまえ……」
     言いかけて口をつぐんだ。あとはもう何も言わず、食事を平らげる。
     そのあいだも、純一はドキドキしてならなかった。佐伯は何を言いかけたのだろう。だけど訊けずにいて、それでも胸は温かくなるようで、食事はおいしく、ほのかな幸福に浸るうちに自分も食べ終えた。
     そうして店を出たあとも心地よい浮遊感は消えずにいて、バイクにまたがり佐伯に抱きついてからも消えなかった。
     風を切って走る爽快さが、ますます気分を高揚させる。ぎゅっと強く佐伯にしがみつけば、やっぱりいい匂いがした。


     お父さんは、畑にいるときが一番カッコイイと思わない――?
     ギクッとして純一は跳ね起きる。まただ。夢の中で、母親の弾けるような笑顔がきらめいた。
     ――なんで。
     この夢を初めて見た日から、昼食のあとについうとうとすると、同じ夢を見るようになっていた。夜は見ないのだから不思議でならない。そして毎回、ギクッとして目が覚めると、全身に嫌な汗をかいている。真夏の昼間に扇風機ひとつでうたた寝しているのだから汗をかくのも当然なのだが、嫌な感じがしてならない。動悸がすることも不安を駆り立てた。
    「純一」
     呼ばれた声にビクッとする。振り向けば、開け放しの障子から佐伯が入ってきた。
    「うなされてたみたいだが、大丈夫か?」
     心配そうに顔を覗かれ、ふわっと頬が熱くなる。純一と呼ばれたことに気づいて、そっと目をそらした。別の動悸がしてくる。
    「俺の気のせいじゃなければ、ここんとこ、昼寝のたびにうなされてないか?」
    「へ、平気。暑かっただけだから」
     佐伯が気づいていたと知って、余計に頬が熱くなった。顔を伏せてベッドを降りる。
    「シャワー浴びてくる」
     佐伯を置いて自室を出ていこうとして呼び止められた。
    「おい。本当はどこか悪いなんてことはないよな?」
    「ないよ。つか、あんたに嘘ついたって意味ないじゃん。そんな気もないし」
    「ならいいが――急に朝型の生活に変えたから、今ごろ疲れが出てるのかもしれないな。ほとんど毎日、昼に寝てるだろ? そんなで夜眠れてるのか?」
    「大丈夫」
     振り向いて、ちゃんと目を合わせて言う。
    「心配してくれて、ありがと。体の調子が悪いなんて、今はぜんぜんないから。たぶん、あんたの言ったとおりだと思う。帰ってくるまで完全夜型だったから」
     フッと佐伯は頬をゆるめた。ぽん、と純一の頭に手を乗せる。
    「ま、無理すんな。暑くて夜眠れないようなら俺に言え」
    「うん。じゃ、シャワー浴びてくるから」
    「ああ。さっぱりしてこい」
     広縁から母屋に入ったところで、あれ、と思った。
     暑くて眠れないなら言え、って。言ったって、なんにもならないじゃん。
     寒くて眠れないなら一緒に寝るとかもあるけど――そこまで思って、カッと顔が熱くなった。
     なに考えてんの、オレ! バカじゃん!
     誰に見られているわけでもないのに、逃げる勢いで台所から廊下に出た。仏間から出てきた父親と鉢合わせになる。
    「――純一。急いでるのか」
    「えっ。あ、なに?」
     あたふたと答えた。怪訝そうに見つめられ、父親を前に慌てることはないと、息を鎮める。
    「用がないなら――」
     言いかけて、父親は口をつぐむ。少し考えるようにして、再び開いた。
    「今から墓に行くんだが、おまえも行かないか」
     ――あ。
     すっと背筋が冷えた。つい、仏間に視線が行く。開いたふすまの陰に盆灯篭[ぼんとうろう]が見えた。
    「おまえ……帰ってから、一度も仏壇に線香あげてないだろう」
     ビクッとして、しかし純一は視線を戻せない。目を奪われたように盆灯篭を見つめ、父親の声を聞く。
    「今日は迎え盆だ。せめて母さんを迎えに行ってくれ」
     責める響きはどこにもなかった。祖父母が他界してからも十年も経っていないのに、せめて母さんをと言われ、胸が詰まる。
    「……わかった」
     消え入るように答えた。
    「汗で気持ち悪いから着替えてくる。すぐ行くから」
     父親の顔を見られなかった。離れに戻って、佐伯が部屋から視線を投げてきたと気づいたが、構わずに自室に入って着替えを済ませた。
     父親とふたりで軽トラックに乗り、墓に向かう。純一の家の墓は、寺や一般の墓地などではなく、近隣の数軒の墓と一緒に、畑の広がる一角にある。近づくと、まだ青い空に線香の煙が細くたなびくのが幾筋か見えた。
     低いブロック塀で囲まれた中に入り、父親は顔見知りに会うと会釈を交わして墓に向かっていく。そのあとに純一は続き、胸がふさぐままにうな垂れた。
     互いに一言も発さず、墓の掃除を終える。父親が用意してきた花を供え、線香に火をつけた。純一にも渡す。先に父親が線香をあげ、手を合わせた。入れ替わって純一も同じようにする。
     ……お母さん。ごめんなさい――。
     心に浮かんだ言葉はそれだけで、それが悲しくて目尻に涙が滲んだ。昼寝のまどろみで見た母親の笑顔が思い出される。
    『お父さんは、畑にいるときが一番カッコイイと思わない?』
     確かに、言われたことがあるのだ。それも一度きりじゃない。忘れていただけ――違うだろう。忘れたつもりになっていた。忘れようとしていた。自分がどう答えたかも覚えているから。
    「純一。帰ろう」
    「……うん」
     ふらりと墓の前から降りて、来たときと同じに純一は父親に続く。父親の手には、火の灯された盆提灯[ぼんちょうちん]があった。それを軽トラックに乗って手渡される。家まで消えないように持つ。
    「まだ畑はしんどいか」
     軽トラックを走らせて父親が訊いてきた。
    「しんどいことはないけど……」
    「佐伯さんには慣れたんだろう?」
     言われて、ドキッとした。うろたえそうになりながら答える。
    「慣れたよ」
    「そうか」
     それきり車内は静かになる。開いた車窓からアブラゼミの声が聞こえる。しばらく外を眺め、ぬるい風を頬に受けながら純一は口を開いた。
    「なあ……オレの高校のときの同級生、JAにいるだろ? 宇都木ってヤツ」
    「ああ、いるな」
    「アイツから聞いたんだけどさ。その……佐伯さん、うちに来てんのに里親になってないって? なんで?」
     まだ父親からは聞いていなかった。佐伯から聞いたきりだ。
     間があって、父親が答える。
    「俺は、里親になったつもりはない。佐伯さんが農業やりたいと言うから連れてきただけだ」
    「なんで、その……佐伯さんはいいわけ?」
     佐伯と名字で呼び慣れていないから、口にしようとすると妙な違和感があって詰まる。
    「……なんでだろうな。たまたま居合わせたからかな。ああいう目をした男は、やると決めたことはとことんやるからな」
     それに返せる言葉はなかった。だけど、わかる気がした。佐伯はそういう男だと思う。
    「だが、続くかどうかは別だ。とことんやって、思ってたのと違ってたとか飽きたとかあるだろう。そうなったら引くのも早い。やめると決めたら、きれいさっぱり足を洗うだろうからな」
     ギクッとした。それは、佐伯自身が言っていたことではなかったか。
     そうだ。あのときだ。前は美容師だったのかって訊いたら、違うって言って――。
     新しい仕事を始めるなら、それまでの仕事からすっぱり足を洗って当然と言ったのだ。思い出して、すっと胸の底が冷たくなる。じっとしていられない気持ちになる。
     それは、続いて父親から聞かされた言葉で決定づけられた。
    「俺は、いついなくなってもおかしくないと思ってる。そう思えないと、ああいう男の面倒を見るのはしんどいだろう。だから俺が引き受けたらいいと思った。それだけだ」
     いついなくなってもおかしくない、って――。
     冷たくなっていた胸の底が、ずっしりと重くなる。次第にそれが固まって、硬く小さな石になったように感じた。
     ……そうだよな。農業やめなくても、独立できるようになったら出ていくんだ。
     それも、この土地で独立するとは限らない。佐伯がやりたいと思っていることによっては、ずっと遠くへ行ってしまうこともありえる。
     ……嫌だな。
     ふと湧いた感情に戸惑った。嫌と思ったところで、どうにもできない。車窓の外に畑を眺め、すっと涙が頬を伝う。どうして涙が出るのかわからない。家は、もうすぐだった。  


    つづく


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    素材:あんずいろ