Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    レタス畑で愛をささやけ
    ‐7‐




     翌日、父親とふたりで昼食のテーブルに着いて純一は落ち着けない。帰ってきてから初めてのことだ。佐伯は、つい先ほどバイクで出かけていった。父親とのあいだで、そういう約束になっていたらしく、盆休みをもらったと言っていた。
    『今日中に帰れるかわからない。食事とか、俺のことは帰るまで忘れてくれていいから』
     その言い方が気に入らなかった。
     忘れてくれていいって、なんだよ……。
     離れの広縁から出かける様子を見ていた自分に、そう言った。バイクに乗るには不釣り合いな黒のスラックスを穿いて、でも裾はちゃんとベルトで止めていて、上に着た長袖のウインドブレーカーも首まできっちり閉じていて、その下は何を着ていたかは知らないけれど、長時間の走行に備えての服装であることは自分にもわかった。
     ……どこまで行くのか、訊けなかった。
     いついなくなってもおかしくないと、父親から聞いた。今日がその日のように思えるのは、だからだろうか。佐伯が部屋を片づけていたわけでもないのに。
    「このあと、石川さんのとこに行ってくるから」
     まるで会話のないうちに昼食を終え、ふと父親が言った。
    「おばさんは、いつ来るの」
     父親の姉のことだ。祖父母が健在のときもそれからも、盆には必ず来ていた。
    「今年は来ない。孫たちと旅行だそうだ」
     来るなら食事を用意しなくてはならないと思ったから訊いただけの話で、来ないならそれでよかった。会話が途切れた気まずさで、なんとなく言ってみる。
    「石川さんのとこには、お盆だから行くわけ?」
    「いや。堆肥[たいひ]の支払いがまだでな。盆前に行くつもりだったんだが――」
    「それ、オレが行くよ」
     石川は乳牛を飼育している酪農家だ。牛糞を使った堆肥も生産していて、父親は畑の土作りの際に買いつけている。しかしそれとは関係なく、純一には石川の家に行く楽しみがあった。
     ヨシエ、どうしてるかな。
     純一は父親について初めて石川の家に行ったときから牛が好きになり、小学生のときは牛を見るためだけに何度も石川の家に行っていたくらいだ。特にヨシエは、純一にはひとしおの思い入れがあった。
     そんなことは父親も当然知っていて、それなら代わりに行ってくれとあっさり純一に頼んだ。
     自転車に乗って昼下がりの農道を行くうちに、純一は懐かしいような気持ちで胸がいっぱいになる。牛を見るために石川の家に通うほどのことをしたのは小学生のときだが、母親が他界したあとにも、ひとりで何度となく行っていた。
     ヨシエは、ちょうどその時期に生まれた。生まれたばかりのヨシエとその母牛を見ていると、母親を亡くした悲しみが癒されるようだった。ヨシエのやわらかな手触りと、つぶらな瞳と、母牛のヨシエを見る温かな眼差しは、今も鮮やかに思い出せる。
     そんなふうに、うきうきと純一は石川の家に行ったのだが、堆肥の支払いを済ませ、牛舎を覗いていくかと先に言われて喜んだのも束の間、いざヨシエに会ったらショックだった。
     ……なんで。
    『なに言ってんの、純ちゃん。お産しなきゃ乳が出ないことくらい、知ってんでしょうが』
     アハハと石川は遠慮もなしに笑い、ヨシエは五月に交配したから出産予定は次の春先だと、訊いてもいないのにそこまで教えてくれた。しかも、出産は次で二度目になると言う。
     生まれたらまた見においでと言われて石川の家を出たが、帰り道は一転してどんよりと気が重かった。乳牛は生後十四ヶ月あたりで最初の交配をして、出産して初めて搾乳[さくにゅう]できるようになることは、石川の家に通っていた小学生のうちに知ったが、そのこととヨシエが結びついていなかった。
     あたりまえ、っちゃ、あたりまえだけど――ヨシエがなー……。
     はあ、と暗い溜め息が出る。生まれてからの数ヶ月間を知っているだけに、あんなにかわいかったのにと、つい思ってしまう。ヨシエがいつまでも子牛でいるわけがないのに。
     五月に種付けしたのか――。
     ちょうど佐伯が来たときと重なるというのも、なんとなく気に食わない。自分が家を離れていたあいだ、何も変わっていなかったのが、今年の五月に急に変わったように思えてしまう。
     ……バカだな、オレ。
     佐伯とヨシエはまったく関係ないし、そもそもヨシエは佐伯が来る前に乳牛になっている。
    「はー……」
     家に着いたら、佐伯は帰っているだろうか。父親ひとりがいるだけか。そんなことを思い、畑が広がる中をのろのろと自転車をこいでいった。
     夜になって、純一はいっそう悶々とする。佐伯が帰ってこない。今日中に帰れるかわからないと聞いたのだから気に病むほどではないのに、気持ちが揺れる。
     父親が口を閉ざしていることも気がかりだった。昨日の迎え火に行くように言ったきりで、きっと送り火にも行くように言ってくるとは思えるが、盆なのに、父親はそれでいいのか。
     いまだ仏間には入ってもいない。広縁から見える盆棚[ぼんだな]も、父親がひとりで用意した。
    『せめて母さんを迎えに行ってくれ』
     ……なんだよ。
     深い悲しみが胸に満ちてくる。墓前で手を合わせて浮かんだ思いは、母親への謝罪だった。
     やっぱり家になんて帰ってきたくなかったと思ってしまう。農作業と家事に明け暮れ、それが当然に思えてきているけれど、根底は何も変わっていない。
     佐伯がいて、佐伯と話したりしているときは忘れていても、こうして佐伯がいなければ胸はふさがれる一方だ。
    『お父さんは、畑にいるときが一番カッコイイと思わない?』
     あんな夢を見るのも家に帰ってきたからだろうし、もしかしたら盆に差しかかっていたからかもしれないけれど、思い出すたびに息が苦しくなる。
     まだ三十代だった母親の弾けるような笑顔と、その問いかけに喜々として答えた自分――。
    『うん!』
    「……はー」
     自室のベッドに寝転がり、天井を見上げて純一は深い溜め息を漏らす。静かだった。開いている東の窓から、裏の竹林が夜風に揺れる音がかすかに聞こえるだけだ。
     このところ、夜はときたま佐伯の部屋でテレビを見させてもらう。意外なことに佐伯は連続ドラマが好きと知って笑ったときは追い出されたが、いつも佐伯から声をかけてくれる。それまでは、テレビが見たいなら、今みたいにベッドに寝転がってケータイのワンセグで見ていた。
    『それ、ちゃんと映るのか? そこまでして見たいなら、なんで俺の部屋で見ない?』
     呆れたように笑われて、その場で部屋の中に引っ張り込まれたのが始まりだった。
     佐伯は部屋にほとんどものを置いてなく、北の窓の隅に自分が使っていたときと同じようにテレビがあって、ほかに目につくものは、父親から借りたらしい文机[ふづくえ]の上のノートパソコンと、その横に障子に隠れて置かれた箱状の機械くらいだった。
    『なにこれ』
     家電品であることは見てわかった。壁のコンセントにプラグも差し込まれている。
    『冷風機だ』
     あっさり言われて、きょとんとした。理解して、声が裏返った。
    『な……っ! ちゃっかり、ひとりで涼んでんのかよっ。それって、ずるくねっ?』
     だから暑くて眠れないなら言えと自分に言ってきたのかと、ようやく腑に落ちて癪[しゃく]に障[さわ]った。でも、それなら貸してもらえるのか、それとも佐伯の部屋で一緒に眠れということか、考えてしまって急に恥ずかしくなった。
     とりあえず、暑くて眠れないとは、まだ佐伯に言っていない。戻ってきた直後はそんな夜もあったけど、もともと住んでいた部屋だからか、冷房がなくてもすぐに眠れるようになった。
     風が通るもんな……。
     夏場は夜も広縁の窓を少し開けておく。そうすると、開け放した障子を過ぎて部屋の東の窓へ風が抜けていく。扇風機の風と違って、朝起きたときに体がだるくなくていい。
     今もその風を感じて、純一はゆっくり目を閉じた。胸が重い。だけど佐伯を思うと、温かく染まる。しかしその佐伯は、今夜はいない。
     なんで……。
     いてほしいと思ってしまう。ふすまで隔てられていても、隣の部屋に佐伯がいるのといないのとでは、大きく違う。
     どこへでも連れていってくれるって、言ったのに。
     一緒に行きたいと言ったのなら、今日も連れていってくれたのだろうか。そんな雰囲気は、まったくなかった。
     どこ行ってんだよ――。
     出かける間際の佐伯は、自分の知らない人のように見えた。
     ……知らない。
     そうだ、自分は佐伯を知らない。ここに来る前はどこにいたのか。会社員をしていたと聞かされたが、どんな仕事だったのか。生まれは東京なのか、それは自分の思い込みか。二十七歳と聞いたが、自分と同じように高卒なのか、それとも大学まで出たのか。自分でモテると言うくらいだからカノジョもいたのだろうし、それもきっと一度や二度じゃなくて、でも今は――。
    『問題ない、いないから。こっちで作る気もないし、心配するな』
     思い出して顔が熱くなる。どうしてそんなことを自分に言ったんだろうと思う。
     心配なんて――。
     胸が震えた。こんな夜に自分に嘘はつけない。佐伯が心配だ。泊まりがけになるなんて、盆だから実家に行ったのかもしれないけれど、大切な誰かと会っているのかもしれない。
     カノジョはいないって、言ったけど。
     佐伯に言われたのでは、簡単には信じられない気持ちだった。今はいなくても、その気になればすぐにできそうだ。
     だって……カッコイイし、すごく――やさしい。
     思って、悲しくなる。それでなくても胸がふさがれてならないのに、悲しみが入り混じって、いっぱいになってしまう。
     だから――帰ってきて。もう戻らないなんて……ないよね?
     きっと大丈夫だ。隣の部屋の様子は何も変わってなかった。ノートパソコンも置かれたままだった。自室に入る前にわざわざ覗いた自分に嫌気がさすが、抑えようがなかった。
     純一って、呼ばれたんだ。
     昨日が初めてだった。帰ってきてからも名前で呼ぶのだろうか。それなら自分も佐伯を俊哉と呼んでいいのかもしれない。父親は、そう呼んでいる。
     ――俊哉。
     胸のうちで唱えたら、甘酸っぱい感情が湧き上がった。バイクでしがみついて感じた佐伯の匂いがよみがえる。気持ちが安らぐ。堂々巡りの不安から解放される。
     そうして、純一はようやく眠りに引き込まれた。早く明日になればいいと思いながら。


     佐伯は昼前に帰ってきた。父親は畑に出ていて、純一は離れの広縁に掃除機をかけていた。
     遠くから聞き覚えのあるエンジンの音がしたように思え、手元のスイッチを切ったら、門から佐伯のバイクが入ってきた。
    「俊哉!」
     咄嗟に口から飛び出た自分の声を聞いて、たちまち真っ赤になってしまった。これでは待ち焦がれていたと叫んだようなものだ。エンジンを切ってバイクを降りる佐伯に聞こえたんじゃないかとドキドキしてくる。それでも開いた広縁の窓に手をかけて、ヘルメットを取って納屋にバイクを押していく佐伯を見つめた。
    「おかえり」
     納屋から出てきて佐伯は純一に気づいたようで、広縁の前に歩み寄ってきた。俊哉と呼んだ声には気づかなかったのかと、純一は、ホッとするような、残念なような気持ちだ。
    「おやっさんは?」
    「畑。収穫期のきゅうりは目が離せないから」
    「そうだったな」
     言いながら長袖のウインドブレーカーを脱いだ。純一はギョッとして目をむく。
     佐伯は鮮やかなブルーのドレスシャツを着て、艶のあるチャコールのネクタイを締めていた。それを窮屈そうにゆるめる仕草までが目に焼きつく。
    「どこ……行ってたの?」
     呆然とした声が出た。
    「え? ――ああ、前の仕事でちょっとあってな。片づけてきた」
     気まずそうに目をそらす。それがまた信じられない。
    「ネクタイ取り忘れてたから、汗びっしょりだ。悪いな、ちょっとシャワー浴びる」
     言いわけのように口走って、足早に玄関に回っていった。
     純一は足が動かない。今、目の前にいたのは本当に佐伯なのか。
     前の仕事って――。
     思いたくなくても思ってしまう。目に焼きついた佐伯の姿は、まるでホストだ。
     ……まさか、マジで?
     ふたりでステーキを食べに行ったときに、佐伯ならナンバーワンになれると、うっかり口にした。途端に佐伯は表情を強張らせ、眼差しを鋭くした。
     でも、そんな!
     しかしそう思えば、ほかのつじつまも合う。自分からは一言も漏らさなかったのに、佐伯は自分がホストをしていたと気づいた。しかも、顔色が悪かっただけで、酒の飲みすぎで胃腸を弱らせていたことにも気づいていたのだ。それだけではない、新宿の歌舞伎町に詳しいようなことを言っていた。無一文になってからでも食っていける仕事があるとか――そんなことは、自分は知らなかったのに。
     そうだ――前の仕事で稼いだ金が無駄に残ってるなんてことも言ってた……。
     本当に佐伯が以前はホストをしていて実際にナンバーワンだったなら、無駄に残っていると言えるほどの貯蓄があってもおかしくない。
     ……けど。それがなんだっての。
     ここでの佐伯の暮らしぶりは、つつましいくらいなことを思う。早寝早起きの毎日で、農業がやりたいと、口にしたことを裏切らずに農作業に励んで、家の雑事まで率先してやっている。
     それに、ふざけたことを言ったり、からかうようなことを言ったりもするけれど、佐伯には心からの思いやりが感じられる。世話になっている家の息子だからとか、そんな理由で作為的に自分にそうしているとはまったく思えない。腹を割ったつきあいができるようになりたいと、佐伯から言ってきたのだ。
     だから、オレは――。
     佐伯の過去がどうあろうと少しも気にならないと言い切りたかった。今の佐伯が好きだと、はっきり思えるのに、そう思えるからこそ、佐伯が本当にホストをしていたなら心が乱れる。
     あの笑顔を、あのやさしさを、売っていたのか。どこの誰とも知れない、それも数え切れないほどの女性客を楽しませるために。もしかしたら、上客なら無理なわがままにも応じて――。
     そんなの嫌だ! 絶対に!
     激情が込み上がり、そのことに愕然とした。もし佐伯がホストをしていたなら、許せないとまで思えてしまう。
     ――って。オレだって、ホストしてたのに……。
     だけど、どんな仕事かわかるから、佐伯がホストをしていたかもしれないと思うと許せない気持ちになってしまうのだ。金を払えば、誰にでもやさしくして、ドキドキしてならないあの笑顔を見せていたのか。
     だって……オレには違うだろ?
     腹を割ったつきあいをしたいと、佐伯が言ったのだ。それだから、あの笑顔もあのやさしさも自分に向けられたはずで、誰もが金で買えるようなものではないはずで――。
     ……え? オレ、……なに?
     急に胸がドキドキしてきた。顔も熱くなるようで、そんな自分にうろたえる。佐伯の笑顔もやさしさも、誰もが金で買えるようなものではないなら、それは、自分だけの特別なもの――。
     って、なに! なに考えちゃってんの、オレ!
    「――あ」
     声がして、顔を向けた。佐伯と目が合って、心臓が跳び上がった。
    「あ、あんた……」
     シャワーを浴びると聞いた、確かに聞いた。でも――。
    「な、なんでマッパなんだよ!」
     ちょうど母屋から離れの広縁に出てきたところで、佐伯は頭からかぶったバスタオルで髪を拭きながら来たようなのだが、ほかに何も身に着けていない。
    「や、着替え持たないで入っちゃったから――」
    「じゃないだろ! タオル持ってんだから、隠せよ!」
     純一は真っ赤になって食いつくように言うのだが、佐伯はバスタオルの陰で眉をひそめる。
    「は? 誰も見てないだろ? 門まで離れてるんだし、道からも見えない――あ。おやっさん」
     父親の運転する軽トラックが庭に入ってきた。しかし佐伯はバスタオルを腰に巻くでもない。
     ――くっそぅ!
    「バカ! オレに見えてるっての! んなデカチン、オレに見せんな!」
    「――え?」
    「なんでだよ! なんで見せんだよ!」
     たった今まで、佐伯はホストをしていたのかと頭を悩ませていたのだ。笑顔もやさしさも、自分だけのものではなかったのかと愕然とする自分に驚き、焦りまくっていたところへ全裸を見せられ、もう、自分で何を言っているかもわからない。
    「見せるって。そんなつもりは――」
    「バカバカバカ! んなデカイもん、ぶらさげやがって! ヨシエ孕[はら]ませたのもあんたかよ!」
    「芳枝って、おまえ――」
     だから、佐伯の顔色がサッと変わったことにも気づけなかった。鋭く見据えられてもわからなかった。怒声を浴びせられる。
    「俺が芳枝を孕ませるなんて、あるわけないだろうが! 芳枝は――」
    「ヨシエは牛だろ」
     突然割って入った声に、純一も佐伯もハッとする。広縁の外から父親が呆れ顔で見ていた。
    「純一、佐伯さんは畑やりに来てるんだ。牛の種付けまでさせるか」
    「――牛」
     気が抜けたように佐伯はつぶやき、一瞬の間に爆笑した。腹を抱えてゲラゲラ笑う。
    「……なんだよぅ」
     純一は、そう漏らすので精いっぱいだ。恥ずかしすぎて、とんでもなく居たたまれない。
    「まったく、なんでこんなことで言い争ってるんだ。もう昼だぞ。ウナギ買って帰ったから、台所に来い。話もある」 
    「すんません、おやっさん。服着たら、すぐ行きます」
     溜め息混じりに言い捨てて玄関に回る父親に、佐伯が大声で返した。純一に向き直る。
    「誰が牛を孕ませるって?」
     ニヤッと笑った。そうしても、バスタオルはまだ頭からかぶったままだ。
    「……やめてよ。つい、言っちゃっただけだろ」
     か細い声になって純一は返す。自分の部屋はすぐそこなのに、逃げ込むこともできない。
     フッと、佐伯は口元をゆるめる。やわらかく笑った。
    「お褒めに預かり、光栄です」
     おどけたようでもなく、ごく自然な口調で言って、純一の頭にぽんと手を乗せた。
    「悪かったな。おまえはすぐ照れるってこと、忘れてたわ。でもこれじゃ、温泉行っても一緒に入れないな」
    「べ、べつに……」
     また、カッと顔が熱くなる。佐伯と温泉に入るなんて、どうして思えたことがあろうか。
    「ん? 入れるなら、そのうち行くか? どこでもつきあうって、言ってくれたしな」
    「そ、そんなこと……」
    「言わなかったか?」
    「……言った」
     もうダメだ、恥ずかしくてうな垂れるのに、なおさら佐伯の股間が目に入る。
    「も、いいだろ! いつまでマッパでいんだよ! 夏でも風邪ひくぞ!」
     身をひるがえし、自室に逃げ込もうとした。だが、足元の掃除機につまずいてしまう。
    「おっと!」
     後ろから佐伯に腕を捕られ、転ばずに済んだものの、純一は思いきり佐伯を振り払った。
    「ったく、しょうがねえな、気を許してるからマッパでも平気なんだって、わかんないか!」
     自室に飛び込む背中で聞いた。後ろ手にぴしゃりと障子を閉じ、大きく息をつく。
     ――わかってるよ!
     とんでもなく胸がドキドキしている。顔が熱くて、火がついたみたいに熱くて、頭の芯までカッと熱くなっている。
     ……バカ。
     目を閉じて、深呼吸する。体を巡る熱を感じる。ドキドキする胸が温かい。
     佐伯は今もやさしかった。あんな理不尽な暴言を投げつけたのに、一瞬は怒ったけど、それだってちゃんと聞いていたからで、最後には一緒に温泉に行こうとまで言い出して――。
     なんか、鼻血出そう。
     まぶたの裏に佐伯の裸体がちらつく。服の上から見るより、ずっと引き締まっていた。筋肉がつきすぎてもなく、むしろ、すっきりとした体格だった。
     長身で、脚も長くて、男くさい顔立ちで――すごく、セクシーだ。男だって、あこがれる。
     顔の熱が引かない。いっそう火照るようで、ドキドキする胸も治まってくれない。
    「純一。おーい」
     真後ろから障子越しに呼ばれ、飛び上がりそうになった。
    「服着たから、出てこいって。おやっさん、台所で待ってるぞ」
    「……うん」
     するすると障子を開けて出るも、顔を上げられない。今また純一と呼ばれ、余計に顔が赤くなったように思う。
    「ったく、照れ屋さんはしょうがないな」
     佐伯は呆れて笑っているようで、純一が置き忘れた掃除機を持つと先に歩き出した。
    「ほら、来いよ。ウナギも待ってるみたいだし」
     純一も歩き出し、佐伯の後ろ姿にそっと目を上げる。白いTシャツにワークパンツの姿で、片手に軽々と掃除機をぶらさげて、いつもの佐伯だった。ホッとした、本当に。
    「お、デカイ。ずいぶん肉厚のウナギですね」
     掃除機を片づけてから佐伯は遅れて台所に入ってきて、純一が角皿に移すウナギのかば焼きにうれしそうな声を上げた。
    「お盆だし、純一が夕べも今朝も飯を炊きすぎたんで、ちょうどいいと思ってな」
    「ああ、それで。へえー」
     意味深に漏らした佐伯の声を背中で聞いて、純一は消えてしまいたいほど、また恥ずかしくなる。父親が言ったとおりに、昨夜も今朝も、佐伯が帰ってきて食べるかもしれないと思ったから普段と同じ量を炊いて、ほぼ三人前を残してしまった。
    「待ってくれてたのに、帰れなくて悪かったな」
     案の定、言われてしまう。それも、耳元で。
     返せる言葉もなく、純一は茶碗に取り分けたごはんをレンジで温めてテーブルに出す。かば焼きに添えられていた即席の吸いものも椀に移して湯を注いだ。
    「たまには飲むか。お盆だしな、買ってきたんだ」
     父親が言って、自分で冷蔵庫を開いてビールを出した。グラスも取り出してテーブルに運ぶ。
    「いいんですか?」
     佐伯が少し驚いたようになる。
    「構わん。今日はもう休みだ。灌水[かんすい]もしたし、夕方見に行ってもすることないだろう」
    「すみません、何もしないで。ごちそうになります」
     そうこうして三人でテーブルに着いた。ビールを酌み交わすのは初めてで、どことなく気恥ずかしいのはお互いさまで、和やかに時間が流れる。ウナギのかば焼きは地元で知られた名店のもので、畑の帰り道に店があるでもなく、父親がわざわざ買ってきたことは疑いようがない。それは佐伯にもわかるのだろう、何度もうまいと言って、笑顔で本当においしそうに食べる。父親も顔がほころんだままで、純一も笑みが消えずに温かな気持ちで食べ尽くした。
    「それで、話なんだが」
     ビールのグラスを片手に、父親が口を開いた。
    「レタスの作付けを増やそうと思う」
     既に、一番遠くの休耕地になっていた畑は土作りを終えたと言う。ほかも耕して、遊ばせていた農地をすべて使って収穫期をずらし、今年の秋はレタス栽培に力を入れたいと話した。
    「純一、やれるか?」
    「うん、やるよ」
     素直に言えた。収穫が終わるまで家を出ていかないか懸念されたように感じたが、栽培計画を生き生きと話して聞かせた父親に反発する気持ちは出てこなかった。
    『お父さんは、畑にいるときが一番カッコイイと思わない?』
     母親のあの笑顔が脳裏を掠める。しかしそれは、次に聞こえた父親の声でかき消された。
    「で、俊哉だが。収穫は十月から十一月の終わりになるが、それまでいられるか?」
     それって――。
     一瞬で純一は凍りつく。佐伯の返事を聞くのが怖い。佐伯は即答する。
    「いられるも何も、いさせてください。一番やりたかったレタスだし、収穫期をずらす栽培もまだやってないし。お願いします」
    「そうか。わかった」
     父親は満面の笑みになった。ぐいと、手にあったグラスをあおる。思わず、純一もグラスをつかんでビールをあおる。深い安堵の溜め息が漏れた。
     ……よかった。
     佐伯が隣から見ていた。気づいて純一が目を向けると、それまで浮かべていた穏やかな微笑を引っ込め、真顔になって言う。
    「そんな飲み方して大丈夫か?」
     きょとんとして、しかし純一は笑ってしまう。うれしくなって言う。
    「平気だって。オレが照れ屋なら、俊哉は心配屋だな」
     ヘヘッと、鼻先を突きつけてやった。軽く目を瞠る佐伯がおかしい。
    「純一。佐伯さんは目上だと、言っただろうが」
     父親に軽くたしなめられたが気にならない。
    「タメ口でいいって、俊哉が言ったんだ。おっさんだって、俊哉って呼んでんだろ」
     わざと俊哉と連呼して、くすぐったいような気分になる。
    「腹を割ったつきあいさせてもらってるんで、いいんですよ」
     父親に佐伯が言った。ふわっと純一は頬が染まる。改めて佐伯に目を向けたら、チラッと横目で返され、フッと口元で笑われた。
     ――だよね……やっぱ、そうだよね!
    「腹を割ったつきあいか」
     父親はつぶやくように漏らし、薄い笑顔でグラスを口に運ぶ。
    「男手三人で畑をやるんだ。――よろしく頼むよ」
    「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
     姿勢を正して頭を下げた佐伯に慌て、純一もペコっと父親に頭を下げた。苦笑する父親と目が合い、気まずく感じられたが、その眼差しがやわらかいことに気づいて、何か救われるような思いだった。


    ※「灌水」(かんすい):水やりのことです

    つづく


    ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る

    素材:あんずいろ