それからしばらくして、純一は人の声で目を覚ました。昼寝はなるべくやめるつもりでいたのに、つい眠ってしまったらしい。半月ぶりに飲んだビールは思いのほか回って、たまらずにベッドに寝転んだのがいけなかった。 枕元のケータイをたぐり寄せ、そう言えば夢を見なかったなと思いながら時間を確かめる。まだ三時だ。夕方には早い。声は広縁の外から聞こえ、誰か来ているのかと、ぼんやり思う。 「――ったく、無断で庭に車を乗り入れるなんて、あなたらしくて呆れました」 「あら、このへんじゃ車ごと入るのが常識って聞いたけど? ここに着く前に別の鈴木さんの家に行っちゃって、そこで言われたのよ。道が狭いから家の前に停められたら困るって」 「でも、初めての家でしょう? と言うか、俺は居候だって知ってるのに押しかけてきて――」 「あー、この話はやめやめ。もう許可取ったし、さっさと本題に入らないと時間がなくなる」 ぽんぽん飛び交う会話が次第に大きく聞こえてきた。咄嗟に男の声は佐伯と気づき、純一は跳ね起きる。ベッドから首を伸ばすと、スポーツタイプの真っ赤な車が庭に見えた。ギョッとする間もなく、視界に佐伯と女性が入ってくる。 「茶は出しませんから」 「結構よ。だらだら話すほど暇じゃないし、縁側でお茶なんて冗談じゃないわ」 純一は息を飲む。とんでもない美女だ。ツンと澄ました派手な顔立ちに赤い唇があでやかで、黒髪は豊かに波打ってむき出しの肩にかかり、大胆なカットの襟には白く瑞々しい肌が覗いている。ほっそりとした体を包むワンホルダーのワンピースも赤で、ボディラインにフィットし、くびれたウエストと熟した胸を際立たせて純一の目に映した。 「さっそく本題に入りましょ。ヒカルがごねて困るの。戻ってくれないかしら?」 広縁に浅く腰を下ろし、女性は言った。その手前に佐伯も腰を下ろす。 「失敗したと思っているわ。五年の契約が過ぎたからと言われても、手放すんじゃなかった。ユキヒロが使えると思ったんだけど、あの子、あなたがいなくなったらぜんぜんダメで――」 「それは昨日も聞きましたよ」 「うるさいわね。ヒカルがまたごね出したのはあなたのせいじゃない。聞いたわよ、ホテルに置き去りにしたんですってね。朝から電話してきて、やっぱり辞めるだの何だの言って、自分で白状したわ」 「……ったく、あいつ」 「あなたが言う? ヒカルの面倒は見てもらってたけど、枕の相手までしてたなんて、呆れた。客には、枕はしないのが売りだったのにね。ま、昨日あなたを呼んだのは私だし、大きなこと言う気はないけど、まさかヒカルに会うとは思わなかったわ。ああ、偶然だったのよね?」 純一はぽかんとする。ふたりの会話は筒抜けで、なのに、耳にしたことが飲み込めない。 戻ってくれって……昨日って……前の仕事の話? 思い当たって、ゾッとした。だとしたら、聞き耳を立てずにいられない。あの女性は、前の仕事に戻るように佐伯を説得しに来たということか。 佐伯は黙り込んでしまったようで、純一には広い背中が見えるだけで表情もうかがえない。 「――言いすぎたようね。謝るわ、責めに来たんじゃないの。あなたに戻ってほしくて、こんなところまで来たのよ。電話やメールじゃ、これまでの二の舞にしかならないですもの」 「そんな、勝手なこと。来られて、はっきり迷惑です。昨日だって、俺が行ったら逆に面倒になるって、先に言ったじゃないですか。もうあきらめて、ユキヒロで間に合わせてください」 「だから、ユキヒロじゃダメなのよ。昨日のことも、あなただからすぐ片づいたんじゃない。あのまま残ってくれていたら、面倒にならなかったわ」 やっぱ、そうなんだ――しかし佐伯は頑として応じない様子で、それにはホッとした。 「……本当に無茶を言う人だな。俺は辞めたんです。ヒカルにも納得させて辞めました」 「じゃあ、なんであの子に会ったのよ! 偶然だったなら無視すればよかったじゃない。できなかったんでしょ? あなたって、そうよね。情に厚いのか、義理に弱いのか、恩でも感じるのか、辞めたって言っても、呼べば結局は来るんだし」 「……へぇ。そういうことか。――ヒカルも、あなたの差し金だったんだ」 凄みの利いた佐伯の声が低く響いた。それに続く女性の声は聞こえてこない。 どうしようと思う。自分が部屋にいることを佐伯は知っているはずで、なのに、こんな近くで話をして、聞かれてもいいと思っているのか。 ……て言うか。『ヒカル』って、なんなの。 佐伯が面倒を見ていたようだが、『枕の相手までしていた』と女性は言った。『枕』と言われたら『枕営業』のこととしか思えず、ホストのあいだでは客の女性と寝ることをそう言った。 佐伯は『ヒカル』と寝たのか。しかし、耳にしたことを思い返すと、『ヒカル』は客ではなさそうだ。それなら――。 「ヘタ打ちましたね。ヒカルをダシに使っても無駄だったのに。こんなとこまで押しかけて、さっさと帰ったらどうですか? マジギレされる前にヒカルの機嫌取らないと、今度は本当に飛びますよ。他店に客ごと取られたら、俺が辞めたことより相当ヤバイんじゃないですか?」 ――え。 背筋がゾクッとするような、気迫に満ちた佐伯の声を聞いて、純一が真っ青になった。 な、に……『ヒカル』って、ホスト? これもまたホストのあいだでの俗語で、『飛ぶ』と言ったら『突然いなくなる』ことだ。客に逃げられることもそう言うが、佐伯は『他店に客ごと取られたら』という言い方をした。 ――って。だったら……。 佐伯は男と寝たと言うのか。 「……嫌になっちゃうわ。食えない男。だから使えたんだけど――帰るわよ」 「あなたが賢くてよかった。二度と来ないでください。メールも電話も、もう着拒にします」 女性が立ち上がるのが見えて、純一は慌てた。自分でもわからない、広縁に飛び出す。 「ちょ、待てよ! 俊哉が『ヒカル』と寝たって言うのかよ、あんた!」 驚いた顔で女性が振り返る。眉をひそめ、じっと見つめてくる。佐伯も純一に目を瞠る。 「答えろよ! 『枕の相手した』って、あんた言ったよなっ?」 「――純一」 佐伯に腕を捕られた。ぎゅっと強く握られる。 「……驚いた。なに、これ。手ぶらで帰らないで、済んじゃった」 美しい顔にゆったりと笑みを刻み、勝ち誇ったように女性が言う。 「あなた……『ハニーディップ』で見たわ。いじられ役で、一ヶ月もいなかったわね。それが、こんなところに佐伯といるなんて。ヒカルに話してみようかしら」 「芳江さん!」 ヨシエ? 佐伯の一言に気を取られそうになったが、純一は食い下がって言う。 「だからなんだってんだよ! オレは俊哉が『ヒカル』と寝たか、訊いてんだ!」 「純一、やめろ」 佐伯に腕を引かれて反射的に払おうとしたが、逆にきつく握り締められた。 「だって! 『ヒカル』ってホストだろ? 男だろ? あんた、男と寝るのか?」 ころころと女性の笑い声が上がる。おもしろそうに純一と佐伯に目を向けてきた。 「そうね、そういうことは佐伯に訊いたらいいわ。佐伯、あなたが好きにしてるんだから、私も好きにしていいわね? ヒカルにみやげ話ができて、よかったわ」 くるりと背を見せて車に向かう女性に、佐伯がきつく言い放った。 「芳江さん! そんなことしたら逆効果だ、マジ、あいつキレますよ!」 「いいじゃない、キレてくれたら、あの子があなたを取り戻してくれるもの」 言いながら車に乗り込み、すぐに発進させて女性は去っていった。 「――純一」 ――あ。 低く呼ばれ、恐々と佐伯に目を向ける。佐伯は握った腕を放さないまま広縁に上がってきた。 「こっち来い」 広縁の突き当たりに押しやられ、壁を背にして、純一は佐伯に前をふさがれた。 「……おまえなあ」 てっきり厳しく叱りつけられると思いビクビクしていたが、佐伯は呆れ返って言う。 「あの女にあんなこと訊いて、どういうつもりだ?」 「どうって……」 答えられなくて困ってしまう。衝動で広縁に飛び出たまでで、何も考えてなどいなかった。 「――ったく、もうっ」 ダン、と後ろの壁に手をつかれ、ビクッと純一は固まる。佐伯が顔を突きつけてくる。 「いいか。よく聞け。ヒカルとは、とっくに切れてる。昨日も寝てない。これで満足か?」 真顔で目を覗き込まれて言われた。返事に詰まり、純一は声を上ずらせる。 「じゃ、じゃあ……やっぱ、男と寝るんだ――」 「おい。だからそれは、どういうつもりかと訊いてんだ」 「どうって……」 同じ質問と回答を繰り返し、佐伯は大きな溜め息をついた。 「あのなあ。『ハニーディップ』にいたなら新宿のことはわかるな? 珍しい話じゃないだろ」 「け、けど! あんたが、そうって……つか、なんでオレが『ハニーディップ』にいたことになってんだよっ」 状況の悪さから、つまらないことで突っかかったと自分でわかる。また呆れられた。 「あの女は、人の顔を覚えるのが恐ろしく得意なんだ。で、ホストクラブを経営していて敵情視察は欠かさない。そういう性格だ。――これでいいか?」 「なら、あんたも……ホストだったの?」 ついつい上目遣いに佐伯をうかがってしまう。佐伯の眉が寄る。 「いや。俺は内勤だった」 「けど、客とは枕しないって――」 チッと、横を向いて舌打ちした。ハァ、と肩を落として目を戻してくる。 「そういうとこばかり聞いてたのかよ。ホストはたまにだ、たまに。俺がしてたのはホストを束ねる仕事で、それだって、あの女にスカウトされたからで、戻る気はまったくないってことをだな――て言うか、おまえ、わざと話をそらしてるだろ?」 「えっ」 そんなつもりはない。カァッと顔が熱くなる。 「違うなら、答えろ。俺が男と寝たら、どうなんだ?」 「……嫌」 「どういう『嫌』だ? 気持ち悪くて口をきくのも嫌か?」 「そ、そんなこと、ない!」 思わず叫んで返し、自分でも顔が真っ赤になったとわかった。 「でも、嫌! やっぱ嫌!」 佐伯が男と寝たらなぜ嫌なのか――ダメだ、考えたくない。 「おまえ……そんな顔して、そんな必死になって、言うな」 じっと見つめてきて、低くささやくように言われた。背筋がゾクッとする。だけど怯えからではない。佐伯の表情に目を奪われる。艶めいた眼差しで間近に迫られ、心臓が高鳴る。 「――喰うぞ」 佐伯の壁についていない手が、すっと上がった。純一の顎を捕らえる。 あ……。 それだけでへなへなと力が抜けた。カクッと膝が折れる。 「――おい」 咄嗟に膝の合間に脚を押し込まれ、崩れ落ちる前に止まった。背後の壁にもたれて、純一は浅い息をつく。 「まいったな」 佐伯が照れたようになっている理由がわからない。ただ見上げて、また吐息をつく。 「これじゃ、喰えないだろ」 そんな――いいから、喰って……。 浮かび上がった思いに、純一は自分で驚く。自分がどんな状況にいるのか、改めて気づいてハッとなった。 「だ、ダメ!」 あたふたと立ち上がる。壁にぴったりと背を押しつけて、佐伯との距離を取ろうとする。 「む、ムリ! あんなデカイの!」 言った途端、佐伯は目をむいた。クッと喉を鳴らし、ゲラゲラと笑い出す。 「バカか、いきなりそこまで喰うか」 「で、でも!」 「喰われそうだったか?」 すっと、鼻先が触れそうなほど顔を近づけられた。あ、と思う間もなく、チュッと軽く唇を奪われる。 あ、あ、あ……。 声も出せずにうろたえる純一に、やわらかく目を細めて笑いかけてきた。 「今はこれで我慢してやる。俺におあずけさせたんだから、おまえも、かわいくおねだりできるまでおあずけだ」 「なっ……!」 身を離した佐伯に、思わず一歩踏み出した。違う、そうじゃない、そんなつもりじゃない、あんな子どもみたいなキスだけじゃ、オレのほうが足りない――せつない思いが一息に溢れ、しかしどれも声にできずに、行かないでくれと、純一は佐伯を見つめた。 佐伯もじっと見つめてくる。次の瞬間、ふわりとかぶさってきた。 ――あ。 純一は佐伯の胸に包まれる。やわらかく、やさしく、体に腕を回されただけで、息が止まりそうになった。驚いて見開いた目に、じわりと涙が滲む。佐伯の匂いを胸いっぱいに感じる。 言葉もなく、純一は自分から佐伯にしがみついた。胸に溢れる思いは抑えようがなく、それをわかってほしくて、そっと顔を上げる。 「ん……」 たちまちに唇が降りてきて、しっとりと重なった。欲しかったキスがもらえて、純一は夢中になって貪る。佐伯が、ぎゅっと抱きしめてくれて、舞い上がった。自分から舌を絡ませて、もっと欲しいとねだる。 体中が歓喜に沸いてならない。甘い痺れが指先にまで走る。しがみつく腕から力が抜けた。膝が折れて崩れ、キスが解ける。 「は、あ」 熱く濡れた舌を唇の中に戻すこともできずに、顎を上げて純一は喘ぐ。佐伯の肩に頭を引き寄せられ、うっとりと湿った吐息をついた。 佐伯は何も言わない。純一を抱きしめるばかりで、動こうともしない。純一にも告げる言葉はなく、そうしていられる心地よさに酔う。 こうなって、やっとわかった。いつからか知れない、自分は佐伯とこうなりたかった。 「……足りたか?」 耳元で、低く艶のある声がささやく。唇が髪をかき分け、耳をまさぐる。 「ん――」 今は、いい。佐伯も欲望を硬く起ち上がらせているけど、今はまだいい。 『かわいくおねだりできるまでおあずけだ』 それも佐伯のやさしさと、わかっていた。そんな佐伯のやさしさが、今はうれしかった。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:あんずいろ