中間テストの結果は、なんと総合点で学年十八位だった。自分には快挙だと、葵は廊下に出てからも帰りのホームルームで配られた個別成績票を眺めてにんまりするが、『八』という数字がなんとなく気に入らない。 末広がりで縁起がいいって、ばあちゃんは言ってたけど――。 成績には関係ないとわかってはいるが、あえてそう受け取っておく。何しろ、八番目のカノジョとは一ヶ月も続かなかったのだ。 「へえ、十八位か。葵クン、やっぱ抜かりないじゃない」 いつの間に来ていたのか、背後から相原が覗き込んできて笑った。 「けど、数学は三位って、好き嫌いしてちゃダメじゃん、葵クン」 「キモイって。その『葵クン』ての、いいかげんやめない?」 「照れちゃって。で、俺とつきあっちゃう?」 「なんで」 「今カノジョいないんでしょ?」 「……考えとく」 相原のこの手の冗談には慣れているが、今はこたえた。美由には、結局あの日の夜に別れたいと電話した。いきなりどうして、と美由は焦った声を出したが、高梨のせいね、とすぐに暗くつぶやいた。そうじゃない、つきあっていける自信がなくなっただけだと答えたが、少しの間のあと、同じじゃない、と硬い声で返されて通話を切られた。誤解されたようだったが、構わないと思った。 「ヒマになって勉強しちゃった?」 「まあな」 ここは相原に正直に答えておく。校内では自分と一緒になってふざけてばかりの相原だが、親が医者のせいか、勉強にはシビアだ。 「やっぱ、相原は医学部受けんの?」 「選べないからね」 ぺらっと相原の差し出した成績票を見ると、総合点で五位だ。大したものだと葵は素直に感心する。 高梨は、どうだったんだろう。 ふと思い、どうでもいいと打ち消した。同じマンションに住むようになったけれど顔を合わせることさえほとんどなく、関係は以前と何も変わっていない。会話なんて、まるでないままだ。 「坂月。ちょっといいかな」 なのに、突然その当人に呼ばれて葵は驚く。相原まで驚いた顔になった。 「なに」 振り向いて、葵は頬が強張るのを感じた。相原は背の高いふたりに挟まれ、窮屈そうに顔をしかめる。 「そっちのクラスの文化祭実行委員、まだ決まってないんだけど」 「なんでオレに言うわけ。オレ、クラス委員じゃないんだけど」 「知ってる」 わかりきったことを言うなと、そんな目で克巳は見つめ返してくる。葵はムッとした。 「あー、俺、予備校あるから」 巻き添えを食らってはたまらないとばかりに、そう口走って相原は離れていった。放課後のこの時間、廊下を行く生徒は大勢いて、不必要に視線を浴びる。 あー、めんどくせ。 校内で一、二位を争うモテ男がふたり並んでいるからとわかるから、葵は苛立つ。 『坂月と高梨のどっちがいいか』 美由の声で思い出され、余計に苛立った。 ふざけんな。品評会じゃねえ、ての。 「だったら、そんなことオレに言うな」 フンと顔をそむけて、さっさと帰ろうと歩き出す。だが克巳は追ってきた。 「待てよ、そういう話じゃないんだ」 どういう話でもオレは話す気ないんだよ! 内心で言い捨て、チッと舌打ちする。無視を決めて足を速める。 「坂月! なんで、おまえはそうなんだよ!」 小さく叫ばれてカチンときた。咄嗟に振り返り、鋭く克巳を睨みつける。 「オレがなんだって?」 「そんな、ケンカ腰になるな」 軽く溜め息をつかれて神経が逆撫でられる。 「誰が!」 「まともに話もできない」 やれやれとでも言いたそうに首を振られ、カッとしそうになったがグッとこらえ、声をひそめて凄んで返す。 「オレは、おまえとなんか話したくない」 「だから、なんでそうなんだって……いいよ、場所を変えよう」 「はあっ?」 いきなり腕を捕られた。思いがけない力で強く握られ、有無を言わせない勢いで引かれてしまう。 「女子がうるさくて嫌なんだろう?」 チラッと視線を流してきて口元で笑った。 「なっ……!」 すべてお見通しとでも言うのか。わかったふうに口を利かれ、葵は黙り込む。 やっぱコイツ……見た目どおりの優等生なんかじゃない。 直感で、そう思った。 「入って」 連れて来られたのは生徒会室だ。雑然とした室内には誰もいない。 「おまえ、何か企んでるだろ?」 今さらながら腕を振り払って言えば、胡散臭い笑顔を向けてくる。 「企むって、なに。人聞きが悪いな」 「じゃあ、なんでオレをこんなとこに連れて来てんだよ」 「女子の視線が煩わしかったんだろう?」 「だから、なんでおまえが……もういい」 何を言っても無駄に思えた。はなから克巳と話すことなど何もないのだ。 「うん。それはよかった。話が早くなる」 克巳は腕を組み、同じ高さで目線を合わせてくる。メガネの奥ですっと目を細め、今度はやわらかく笑いかけてきた。 「坂月が実行委員やらない? それで、委員長もやってほしいんだけど」 「はああっ?」 突拍子もない話に、あんぐりと口が開く。コイツは何を言い出すのかと、本気で思った。 「おまえ……正気か?」 「失礼だな。俺は真剣に言っているんだ」 克巳は少しムッとして、メガネのエッジを中指で押し上げる。それを見て、フフンと葵は鼻先で笑った。 「真剣に言って人選間違えてるんじゃ、生徒会長も形無しだな」 余裕を取り戻し、横柄に言って返す。 「オレに文化祭仕切らせて、スムーズにいくと思ってんのかよ」 「思うから言っている」 即答だった。葵は軽く目を瞠る。 「……ほかにいるだろ」 「いないな」 「おまえがやればいいじゃないか」 「生徒会役員は兼任できない。それに、裏方の仕事があるし。だから坂月にやってほしい」 克巳はまっすぐに葵と目を合わせてきた。素っ気ないほど冷静な顔になっている。 「へえ……。じゃあ、オレを口説いてみろよ。オレは、やる気なんてぜんぜんないんだから」 目を眇め、葵は冷ややかに克巳を見て返す。文化祭実行委員、それも委員長なんて、絶対やりたくない。特に三年生はそう思うからこそ、自分のクラスは委員が決まらないのだ。一学期の終わりから夏休みを経て、二学期の始まりまで拘束されるなんて、冗談じゃない。 「口説く? 口説いていいんだ?」 しかし克巳は、不敵にもそう言い返してきた。葵はギクッとする。 「校内一のモテ男の坂月葵を口説けるなんて、光栄だな。どうやって口説こうか」 「おまえ、ヘンに受け取るなよ」 呆れた声が出た。 「あ、動揺した? チャンスはありそうだな」 「……高梨」 どうも口では勝てそうにない。自分で墓穴を掘らないためにも、あえて黙っていたほうが得策に思えてくる。 つか、オレ帰ったらいんじゃね? 思いつき、葵は急に態度を変える。 「あー、じゃあ、またにしてくんね? オレも予備校あるから――」 「嘘つくな。予備校なんて行ってないくせに」 コイツ、いつの間に――。 「同じマンションに住んでいると、その程度の情報は入ってくるんだ。ほかのヤツはだませても、俺はだませないよ」 克巳はあえて手のうちを見せ、葵の退路をふさぐ作戦に出たようだ。 めんどくせ。これじゃ、カノジョと約束あるからって言い訳も通じないな――。 どうせ美由と別れたことも筒抜けだろう。相原も知っているくらいだ。それならこちらもさらに態度を変えて、殊勝に出てみる。 「うん、そうなんだ。予備校行ってないから自分で勉強しなくちゃならなくて――」 「中間で十八位は快挙だったんだろう? なにも今日勉強しなくたっていいじゃないか」 なんで克巳がそこまで知っているんだと、葵は焦りが顔に出てしまう。 まさか、相原と話してたの、聞いてた? 葵の反応を見て、克巳は続ける。 「こっちだって、もっと早く話をつけたかったけど中間が終わるまで待ってたんだ。そのへん、少しは察してくれてもいいと思うんだけど」 知るか! 克巳はチラッと葵の顔色をうかがうように見て、すっと視線を下げた。声まで低くなる。 「たっぷり勉強できて、期待以上の成果を修められて、家族にも鼻が高いんじゃないか? だったら文化祭実行委員長もやって、内申書もよくしたらどう?」 「おまえなあ」 そこまで言われると、もう受け流していられない。葵は猛然とまくし立てる。 「それじゃ嫌味じゃねえか! どうせオレはおまえよりデキねえし、十八位が快挙だよ。けど、家族にも鼻が高いとか、そういうのはカンケーねえだろ! てめえはマンションのオバハンか、ての! オレに委員長やれって話じゃねえのかよ! それだって、予備校行ってなくてカノジョいなくて部活やってない、ヒマそうなヤツってんで、オレにしたんじゃねえの!」 見る間に克巳の目が大きく見開いていった。明らかに呆然として、口が半開きになる。 葵はニヤリと笑い、意識して低くゆっくりと声を出す。 「無理だな。おまえにオレは口説けない」 身をひるがえして生徒会室を出る。克巳の鼻を明かせたようで、いい気味だった。 「はー」 しかし廊下を行きながら溜め息が出てくる。 あー、ウゼ。 克巳に浴びせられた言葉の数々が胸に渦巻いていた。 くっそぅ。なんでオレが、あそこまで言われなくちゃならないんだよっ。 特に成績のことは、まったくもって大きなお世話だ。家族に鼻が高いとまで言われたことが、取り立てて気に食わなかった。 ったく、オバハンかよ! くだらねえことに頭回してんじゃねえっての。 今日ほど克巳と同じマンションに住んでいることが鬱陶しく思えたことはない。ろくな噂が流れてなくて、すべて克巳の耳に入っているんじゃないかと憶測しそうになる。 あーあ、めんどくせえなあ。 卒業の三月までひたすらに辛抱かと思うと、やるせなくなるほどだ。 しかしその日のうちに、葵は明日にも家を出たくなる。母親とふたりの夕食を済ませて自室でだらだらしていたら、玄関のチャイムが鳴った。 「ちょっと待ってねぇ」 スリッパをパタパタと鳴らし、玄関に駆けつける母親の声が聞こえ、奇妙だと思った。 そもそもこんな時間に来客があること自体、越してきてから初めてだ。それ以上に、来客に対して母親があんな言葉づかいをしたことが変だった。母親は、リビングのモニターで相手を確認しているはずで――。 「葵」 ドアを軽くノックされ、葵は寝転んでいたベッドから跳ね起きた。嫌な予感は大当たり、まさかまさかの――。 「高梨くんよ。葵に用だって」 マジかよ! 「どうする? 部屋に通していい?」 「ちょ、待って!」 慌てて玄関に飛び出る。 「初めてよねえ。同じ高校って聞いてはいたけど、お友だちだったなんて知らなかったわ。葵、リビングに通してあげて。お茶淹れるわ」 何もわかっていない母親は悠長なもので、満面の笑みで克巳を迎え入れようとする。 「お茶なんていいって! ここで話すから! すぐ終わるから!」 自分でも嫌になるくらいムキになって葵は母親を追い払った。何か言いたそうにしながらも母親はリビングに戻っていく。 はー……。 今日何度目になるかわからない溜め息をつき、葵はげっそりとして克巳を見た。克巳は笑っている。と言うか、笑いをこらえている。 「……おまえなー」 地を這うような声が出た。言いたいことは山々だが言葉になって続かない。 「いきなり押しかけてきて悪かったな」 なのに、あっさりと克巳は言う。悪いなんて、少しも思ってなさそうな口ぶりだ。 玄関に立ち、まっすぐに葵を見ている。段差がある分、普段より見上げてくる目線だ。 「いいお母さんだな。やさしそうだ。坂月が、頭が上がらないのもわかる気がする」 「おまえ、そんなこと言いに来たのかよ」 睨んで返すが、克巳はすぐには何も言ってこない。口を閉じ、ただじっと見つめてくる。 ……なんだよ。 「坂月の私服って、そんななんだ」 「は?」 「首のそれ、最近いつもしてるな」 「え? これ?」 「似合ってる」 「はあっ?」 何を言われているのかわからない。中間テストが終わって六月になっていて、着ているものは半袖のTシャツとデニムだ。あえて言うならTシャツはお気に入りショップのオリジナルで、デニムもちょっとしたブランドものだから少しはしゃれて見えるかもしれない。克巳が言った首のそれとは、あの黒い革紐のチョーカーのことで――。 「いや。だから、何しに来たわけ?」 制服と代わり映えのしない白いポロシャツと紺のチノパンツ姿の克巳に言ってやる。 「何って、口説きに来たんだけど」 「えー……」 それで服ほめたのかよ。って、オレは女か? そんなことはないだろう。にしても、まだるっこしい展開だ。 「おまえには無理って言っただろ? つか、どう言われたってオレは委員長なんて――」 「もったいないって、言いたかったんだ」 「……え?」 やはり飲み込めなかった。克巳がどういう筋道で話しているのか、見当がつかない。 あー、めんどくせ。追い帰すか? はっきりきっちり、迷惑なだけだ。校内で済む話をどうして家にまで持ち込むのか。同じマンションの住人という立場を逆手に取られたようで、腹も立つ。 「なに言っても卑怯だとは、思わないわけ?」 卑怯と言われて克巳はうろたえたようだ。う、と顔をしかめ、気まずそうに目を伏せる。 「学校の話は学校でしようぜ。じゃ、そういうことで――」 「さっきは悪かった」 葵は玄関を開けようと腕を伸ばしかけたが、途中で止まった。克巳が頭を下げている。 「俺は説得とか、慣れてなくて――」 ……へえー。 なんだか意外だ。まさか、謝ってくるとは思わなかった。うつむいて目を合わせようとしない克巳には、普段の偉そうな雰囲気など微塵も感じられない。 「言葉を選べなくて悪かった。あんなふうに受け取られるとは思わなかったんだ、でも」 しかし次の瞬間には、きっぱりと顔を上げた。語気を強めて言い放ってくる。 「マジに、もったいないんだよ!」 うっかり葵は気圧されてしまう。 「一年のときからずっと思っていた。本当はもっといろいろできるくせに、どうして八割も実力を出さないんだ? 俺には出し惜しみしているようにしか見えない。浮ついた人気だけじゃなくて確かな人望があるのに、なんで応えようとしない」 「おま……なに言ってんの?」 突然そんなことを聞かされ、葵は面食らう。余計なお世話とムカつくより先に呆れた。 高梨にはカンケーねえじゃん――。 「俺を卑怯だって言うなら、坂月だってそうだ。強引か、逃げているかの違いだけだ」 だがそれは聞き捨てならない。 「ちょっ! オレが逃げてるって?」 「そうじゃないか!」 一瞬で睨み合い、ふたりはぐっと口をつぐむ。互いに一歩も引かないかのように見えた。 しかし、先に克巳が緊張を解いた。ふっと息をつき、肩を落とす。静かに目を伏せて、メガネを指先で押し上げる。 「やっぱり、俺には無理なのか――」 あきらめたように葵を見上げた。 「坂月を思いどおりにできるヤツって、どんなだろうな」 「オレが知るか」 葵は短く言い捨てるが居心地が悪く、それとなく視線をそらした。 逃げている――図星を指されたと感じた。克巳と同じクラスになったことは一度もないのに、自分の何をいつ、どんなふうに見てきたと言うのか。 一年のときからずっとなんて……目立ってた自覚はあるけど。 「次々とカノジョが替わって、ひとりと長く続かなくて、そういうことをとやかく言うヤツもいるけど、でもそれって、誰も坂月を思いどおりにできなかったってことだよな」 冷静な声を聞かされ、葵は軽く目を瞠って克巳を見る。そんな捉え方があるとは知らなかった。 「なに……おまえ」 新鮮な驚きだ。 「オレを思いどおりにしたいんだ?」 葵は薄い笑みで口元を歪める。克巳と目を合わせ、一呼吸おいて口を開いた。 「――いいぜ。なってやるよ」 「……え?」 「今年の文化祭実行委員長、やってやるって言ったんだ」 それは、どんな偶然だったのか。 まさにそのとき、ふたりを気にしてか母親がリビングから顔を出し、帰宅した翠が玄関のドアを開けた。 「まあ、葵! そうなの?」 パァッと顔を輝かせて母親が言う。 「翠! 葵が委員長やるんですって!」 「――え?」 自宅の玄関を開けたら他人がいて、焦っていた翠まで、母親の一言に目を瞠った。 「こんばんは。生徒会長の高梨です」 克巳は微笑を浮かべ、卒なく翠に挨拶する。 「え、そうなの? 今はきみが? へえ」 何が「へえ」なのか葵はさっぱりわからないが、取り返しのつかない事態になったことだけは身にしみてわかった。 「すごいわよね、翠。葵が委員長なんて」 「まあ、そうだな。でも何の?」 苦笑して翠はリビングに入っていき、それにまといつくようにして母親も戻っていった。葵は溜め息が出る。 ややこしいことになって――。 「坂月。気が変わったなんて、言うなよ」 「ああ――」 気の抜けた声で答え、葵は克巳に振り向く。黒のセルフレームのメガネをかけた端正な顔が、自信を取り戻していた。葵は冷めて言い渡す。 「その代わり、今年の文化祭がどうなっても文句言うなよ」 「信じている」 またも即答され、葵はじっと克巳の目を見る。揺るぎない視線が返ってきた。 ……売り言葉だって、わかってるくせに。 「――時間取らせて悪かった。じゃ、明日」 克巳は玄関を出ていく。もしかしたら自分は手玉に取られたのかと、このときになって葵は思った。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:君に、