Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




      猫と水たまり
      −4−




       どうして急に委員長をやると言い出したのか、葵は自分でもわからない。ただあのとき、誰も自分を思いどおりにできない、克巳自身がそう思っていると聞かされて、それなら、克巳に思いどおりにさせてやると言ったらどんな反応をするのか、見てみたいように思えたことは確かだ。
       ……つまんねえこと、やっちまったよなー。
       後悔先に立たずとは、このことだ。偶然以外の何ものでもないとわかってはいるが、あの場で母親と翠の耳に入ってしまったから、どうにも取り返しがつかない。
       ありえねえよ、あんな騒ぐなんてさー。
       たかだが学校行事の委員長を務めるくらいで、母親があそこまで喜ぶとは思わなかった。翠まで少し自分を見直すような素振りを見せ、気持ち悪いくらいだった。
       ……オレは小学生か、つーの。
      「はー」
       放課後の生徒会室に呼び出され、葵は廊下を行きながら思いきり溜め息をつく。このところ、溜め息をついてばかりだ。鞄を肩にかけ直し、夏服でノータイのワイシャツの襟元をゆるめる。
       あれからも少しは食い下がってみたのだ。そもそも根回しで事前に委員長が決まっていては委員会のまとまりがつかないのではないかと、後出しながらも克巳に抗弁した。
      『もちろん、そうだ。だから、民主主義に則って坂月が立候補するんだ』
       そんなのオレのキャラじゃねえと、激しく落ち込まされた。最後のあがきで、対立候補が出てそっちが選ばれたら当然やらないからなと、正当な主張をしたのだが――。
      『選挙になっても坂月が勝つに決まってる。その前に、対立候補なんて出ないから』
       にっこりと笑顔で返され、むしろゾッとした。いったい克巳は、どこまで、どんなふうに手を回しているのか。
       ――ブラックだ、アイツは。
       先週、初めて文化祭実行委員会に招集がかかり、克己も顔を出してその場限りの議長を務めたのだが、あれは委員長選出で自分がちゃんと立候補するか見届けるためだったようなのだ。
       あのときは、克巳は生徒会長だから組織ができる前の舵取りとして来たのだと思った。実際、克己が前に出て委員会を始め、すぐに役員の選出に移った。
       まずは委員長の選出で、克己が言っていたとおりに立候補もなければ推薦もなく、じりじりと時間が過ぎるばかりで、そろそろ限界となったときに克巳に鋭く睨まれ、葵が手を挙げた。途端に拍手を浴びて葵は苦笑するしかなかったが、今はそれも芝居がかっていたように感じられる。
       副委員長以下、書記や会計の選出も大して変わりなく、要した時間の差はあっても選挙にはならなかった。立候補がなければ克巳が何人かに声をかけ、その中から決まった。
       委員会が終わって誰もが席を立ち始めた頃になって、声が聞こえた。生徒会長が来るとは思わなかった、と。それで葵は、生徒会役員なら誰でもよかったようだと気づいた。
       抜け目ない、つーか。
       議長を務めた克巳は、まさに怜悧だった。反論は何も許さないという雰囲気で、冷ややかな声音で議事を進行した。
       あれでモテるんだからなー。
       まあ、わからないでもない。制服、特に紺のブレザーにグレンチェックのスラックス、白いワイシャツにタイをきりっと締めた冬服姿は凛として見える。何しろ、一八三センチの自分と変わらない、すらりとした長身だ。
       その上、適度な長さの黒髪はクセがなく、さらりとして見え、眉は細くきりりとしている。鼻筋も細くて、眼差しは力強い。全体にシャープな印象で、メガネをかけた面立ちは、端正という表現がぴったりはまる。顔も悪くないと認めるほかない。
       しかも、普段は温厚に見えるのだ。笑顔を惜しまないからか、それほど近寄りにくくも感じられないようだ。
       オレは裏があるようにしか思えないけどな。
       本当にカノジョがいるのかどうかは隠しているから確信はもてないが、その手の噂は自然と耳に入ってくる。どっちにしろ女の子たちの目の色や態度から、モテていることは疑いようがない。
       ま、どーでもいいけどなー。
       肝心なのは、これからだ。これまでは避けてこられたが、どっぷり克巳と関わっていくことになってしまった。
       生徒会室に着き、葵は気が重いままドアをノックして開ける。
      「坂月」
       克巳はファイルや印刷物の散らばった机の向こうから、普段の穏やかな笑顔を見せた。
      「さっそくだけど、坂月も時間かけたくないだろうし、始めよう」
       今日は、ほかにも生徒がいる。誰も見覚えのある生徒会役員たちだ。葵は克巳に目線で示され、向かい側の席に着いた。ファイルを目の前に何冊か置かれ、眉をひそめる。
      「去年までの実行委員会の活動記録だ」
      「どういうことだよ? オレにこのとおりにやれって?」
       やりたくもない委員長をやらされ、しかもそれが形ばかりで慣例に従わされるのでは、心底うんざりする。
       オレに仕切らせるって言っても、結局こういうことかよ――。
       葵は上目で睨みつけるが、克己は涼しい顔で話を進める。
      「そうは言ってない。何もなくて進めるより楽なはずだから、参考にしたらいいと思う。それに、予算の割り当てとか衛生管理の仕方とか、マニュアルになっているものもあるし」
       克巳は昨年度のファイルを広げ、文化祭で使える学校や生徒会の備品一覧なども示し、当日までの実行委員会の仕事の流れをおおまかに説明する。
      「どんな文化祭になるかは、その年の実行委員会次第だ。いくらでも独自性を出せばいい」
      「――わかった」
       それならそうさせてもらうと、葵は内心で突っぱねて返す。
      「これ、持ち帰っていいか?」
       この場で目を通すには、ほかの生徒たちの視線がうるさかった。
       ――生徒会室でもこうかよ。
       克己はここで、いつも問題なく生徒会長の仕事をこなしているのか。ふと思った。
       だから……オレが気にすることかよ。
      「それなら、このくらいあったほうがいい」
       開いていたファイルを葵が取り上げると、克巳はさらに手渡してきた。全部で五冊、ひとつひとつは厚みもないが過去五年分になる。
      「なんでこんなに――」
      「目を通してみればわかる」
       思わせぶりな言い方に葵はムッとするが、逆らうのも面倒で、言われたままに借り出しの手続きをして五冊のファイルを鞄にしまう。
       生徒会室を出て下駄箱に向かった。途中で同じクラスの男子に出くわし、息を吹き返すような気分で立ち話をして笑った。
       正門を出て帰宅の道を辿る。バス停を過ぎて同じ高校の生徒の姿がほとんど見えなくなったとき、先を行くひとりに気づいた。
       ――高梨? なんで?
       自分のほうが先に生徒会室を出たのに、ずいぶんと前を歩いている。
       アイツ、バスじゃなかったのか?
       これまでの登下校の途中で一度も見かけなかったから、てっきりそうだと思っていた。
       それにしても、マンションに着くまで克巳の後ろをついて行くのかと思うと気が重い。雑談にかまけている間にどこかで越されたに違いなく、さっさと帰ればよかったと思う。
       だが克巳は、葵の視界からすっと消えた。妙に思い、葵は小走りになる。克巳が消えたあたりの住宅の脇に、細い上り坂があった。
       克巳はこの道に入ったとしか思えず、葵もその道にそれる。道なりに角を曲がったところで、先を行く克巳の後ろ姿が見えた。
       この道――。
       マンションまで続いているのか。引っ越してから一ヶ月が過ぎたが、葵は気づきもしなかった。自動車が通るのもやっとな一方通行の道だ。住宅の建ち並ぶ高台をしばらく登り、やがて谷側は雑草の茂る斜面になる。
       あ。
       開けた視界の先、はるか遠くに海が望めた。青空の下、どんよりと霞んで目に映る。そのずっと手前、足元の眼下には、自分がいつも通る道が家々の屋根の合間に覗いていた。
       この道からなら海が見えるんだ。
       顔を戻せば克巳はすぐに見つけられた。少し先の、斜面に突き出るような狭い空き地に立っている。海の望める方へ目を向けていた。
       ……高梨。
       吹き上げた風に、さらりとした黒髪があおられる。鞄を脇に抱え、背筋を伸ばして立つ横顔は、晴れた空を背景に淋しそうに見えた。
       葵は戸惑う。克巳に足を止められて、先を行くにもマンションに辿り着けるか疑わしく思えてくる。ならば戻ろうと思うが、一歩を踏み出せない。
       なんで――。
      「坂月」
       呼ばれて焦った。とっくに気づかれていたのか、今気づかれたのか、いずれにしても気まずい状況だ。
      「いつも、ここ通ってんのか?」
       だから、何か言われるより先に声を上げた。
      「この道、マンションまで続いてる?」
      「ああ」
       克巳は気を悪くしたようでもなく、平然と答えてくる。葵は、半ば仕方なく克巳に歩み寄った。克巳はそれを待っていたかのように先を行き始める。自然と肩が並んだ。
       なんで、こんな……。
       これでは一緒に帰るみたいだ。実際そのとおりで、葵は居心地が悪い。
       間もなく道は下り坂になった。また両脇に住宅が連なり始め、眺望は失われる。
       葵は克巳と無言でいることに耐えられない。話題を探し、なのに、口を閉ざす。
      「これから忙しくなるな」
       ぽつりと克巳が言った。
      「六月中はそれほどでもないけど、期末が終わってからはこんな時間に帰れない」
       やはり文化祭の話題しかないのかと、葵はそっと息をついた。
      「……カノジョと会う時間がなくなるな」
       それは自分への嫌味だったのか、どうなのか。判断のつかない、やわらかな声音だった。
       葵は視線を流して克巳の横顔を盗み見る。遠い先を見つめるような目をしていた。
      「オレにカノジョはいない。前に言っただろ」
       カノジョと会う時間がなくなるとは、もしかして克巳自身のことを言ったのかと思って、そう返してみた。
      「俺もいないよ」
       克巳が顔を向けてくる。言葉に詰まった。
      「……柴崎と別れたのか」
       確認とも質問ともつかないことを克巳は言う。柴崎とは、美由のことだ。
      「柴崎、うれしそうだったのに」
       責められたように感じた。大きなお世話だと葵は思う。その「柴崎」を自分より先に、手ひどい言葉でふったのは誰なのか。
      「うまくいかないな。上っ面しか見てもらえないと、本当のことなんて伝わらない」
       ほとんど独り言のように克巳はつぶやいた。じっと葵を見つめ、ふいと顔をそむける。
       どういうことかと思った。上っ面しか見てないと克巳になじられたように美由は言っていたが、今の克巳の言い方だと、意味合いが違う気がする。
      「――柴崎が好きだった?」
       ふと思い当たって、口にしていた。克巳は呆れたように横目で見つめてくる。
      「柴崎は坂月が好きだったよ」
       冷たい声だった。
      「私服だと余計にカッコいいって言ってた」
       ……え?
       すっと背筋が凍るように感じた。
       じゃあ……なに? コイツは――。
       美由が自分を好きと知っていて美由とつきあったと言うのか。美由もまた、自分を好きなのに克巳と――。
      「ちょ、待てよ、おい」
       克巳は急に歩調を速めた。背中に呼びかけた葵に振り向きもしない。
      「おい、待てって!」
       駆け寄って肩をつかみ、強引に克巳を振り向かせれば、唇を引き結び、初めて見るような頑なな表情をしていた。
      「……高梨」
       葵の手を振りほどき、克巳は小走りになる。それを呆然と見送り、葵は言葉もなかった。
       ひとりになって先を行けば、建ち並ぶ家々の合間にちらちらとマンションが見え出した。歩いてきた細道はいつもの道に再び通じて、マンションの裏手から回る近道になっていた。
       美由を連れてきたあの日、途中で見かけなかった克巳と、どうしてエレベーターで一緒になったのか腑に落ちたが、それだけだった。
       胸がもやもやする。いつものように大股でエントランスに入り、無人のエレベーターにずかずかと乗り込み、どかっと壁にもたれるが、何もすっきりしない。
      『うまくいかないな』
       その一言を克巳はどんな気持ちで言ったのか。そもそも、どんなつもりで、あんな話を自分にしてきたのか。
       全部オレが悪いって――?
       美由と別れるとき、きちんと話し合おうとしなかった自分を思う。誤解されたと思っても、それで構わないと流した。
       別れようと電話したのは自分だが、先に美由が切った。すぐにかけ直して、もっと話をしていたら事態は違っていたのか。
       ……同じだ。オレにつきあう気がなくなっていた。
       でも、美由は誤解せずに納得できたかもしれない。切る間際に『同じじゃない』と言い放った、あの硬い声――もしかしてあれは、自分を責めたのではなく、思い切るためだったのかもしれない。自分もまた、美由を誤解したのかもしれない――。
       克巳のことを思った。美由が自分を好きと知っていて美由とつきあう気持ちとは、どれほどのものなのだろう。
       アイツ……そんな、熱いのかよ――。
       ちっとも見えないと、葵はエレベーターの閉ざされた空間の中で暗く笑った。胸の底が、冷たくよどむようだった。


       一年の一学期が終わらないうちにテニス部をやめて以降、葵はどの部にも入らなかった。夏休み前に校内で初めてのカノジョができて、その年の夏休みはカノジョと遊びまくって終わり、そのカノジョとも夏休みが終わると同時に終わった。
       部活もカノジョもない放課後は暇で、部外者なのに友人のいる部室に顔を出したり、時には部活に混ざったり、二年に渡ってよく好き勝手してこられたものだと、自分で感心してしまうくらいだ。
       文化祭やスポーツ祭でも好きに暴れてきた。合唱祭は出る幕もなかったが、そのふたつの学校行事では、とりわけ目立ってきた自覚がある。カノジョのいる時期に重なっていても、変わりなかった。
       ……けどさー。
       昨年度とその前年度の文化祭実行委員会の活動記録に目を通し、葵は自分に呆れた。
      『坂月葵が参加する出し物は、予測を上回る混雑になるため要警戒』
       引き継ぎ事項に、そう書かれている。
       マジかよー……。
       まさかこれが理由で、克巳は自分を委員長にしたのではないかと思えてくる。文化祭の当日、委員長は本部に缶詰状態のようなのだ。
       さすがに恥ずかしくなった。一年のときはクラスの出し物はカレー屋で、ギャルソン姿で校内を宣伝して回ったし、給仕も愛想よくこなして、正午過ぎには早くも完売となった。
       ……けど、オレのせいってわけでもない。
       二年のときは『眠れる森の美女』の王子を演じた。クラスの悪ノリで、オーロラ姫にはクラスで一番美しいと言われた男子が選ばれ、本人も乗り気だったのをいいことに、リハーサルで本当のキスシーンをぶちかました。それが校内で評判になって、文化祭での本番では会場の外まで人が溢れた。
       あれは……やりすぎた。
       オーロラ姫を演じた男子とは、相原だ。気心の知れた仲でもあるし、本番でも遠慮なく唇を重ねた。その瞬間にも相原は笑っていたが、どよめきとも歓声ともつかない騒々しさで観客にはわからなかったようだ。それからしばらくは葵の次のカノジョは相原だと、冗談で噂が立った。だから今でも相原は、「俺とつきあっちゃう?」と冗談で言ってくるのだ。
       まあ、それはいいとして。
       今さら、自分が委員長にさせられた理由を考えても意味はない。既に今年の実行委員会は動き出している。考えなくてはならないのは、自分なら文化祭をどう開くかだ。
       キッチンでは母親が夕食の用意をしている時間、葵は自室にこもって机に向かい、生徒会室から持ち帰ったファイルを次々と開いていく。ところどころ読みふけったり、読み飛ばしたり、知らずに真剣になっていた。
       ついさっきまで頭を占めていた克巳と美由のことは、ファイルを取り出してからすっかり消えていた。数学の問題を解くときと同じように無心になっていく。
       ――え?
       五年前のファイルを開いたときだった。「後夜祭」の文字が目に飛び込んだ。
       後夜祭って。……そんなのあったのか?
       葵は一度も経験していない。興味のアンテナがピンと立つ。
       なんで……? 禁止された?
       五年前といえば翠が生徒会長を務めていた年だ。どうしようと思った。その翌年の記録に、行われなくなった経緯は書かれていない。だからと言って、翠に尋ねてみるには気が引ける。しかし、知りたい。
       その後、いつもと同じように母親とふたりの夕食を済ませ、葵は翠の帰宅を待った。翠は帰宅して、ダイニングに葵が居座っていたことに少し驚いたようだ。自室にスーツの上着とバッグを置きに行き、タイを抜いたワイシャツ姿で戻ってきて、しかめ面で食卓に着く。話しかけるタイミングを計って葵に正面から視線を浴びせられる中、食事を始めた。
      「……あのなあ」
       半分も食べないうちに翠から口を開いた。
      「そうやって見られてると、メシの味がわからなくなるんだけど」
       さすが翠だと葵は思う。キッチンに母親のいる前で、「メシがまずくなる」とは決して言わない。
      「俺に用があるなら、さっさと言え。何もないなら、とっとと自分の部屋に消えろ」
      「あら、翠。葵に消えろなんて」
       さすがの翠も本音がぽろりと出てしまったようだ。カウンター越しに母親に聞きとがめられ、いささか気まずい顔になる。
      「で、どっちなんだ?」
       軽く睨まれてしまい、葵は黙っているわけにもいかない。母親の前でもあるし、何を訊いても頭からバカにされることはないだろう。
      「文化祭の後夜祭、翠がいたときはやってたんだよな?」
       まずはそこから尋ねてみた。翠は、かすかに眉を寄せる。
      「なんで、やらなくなったわけ?」
       すっと箸を置いた。まっすぐに見つめてくる。葵はギクッとし、翠がそんな態度を取るようなことを訊いてしまったのかと焦った。
      「後夜祭、な」
       ぼそっと翠はつぶやいた。
      「理由はいろいろあるけど、夜まで騒がしいことで近隣から苦情が出たことが一番の理由かな。終わってからも、帰り道でうるさくしてしまったみたいだし」
       まともに答えられ、少なからずホッとする。
      「ほかは? まだ何かあったんだろ?」
      「一部で合コンになっていた」
       う、と葵は声を詰まらせる。なんとなく、翠がオブラートにくるんで答えたように聞こえた。深く追求できないでいると、翠はうんざりしたように息をつき、再び箸を取った。
      「楽しくなかったなんてことはない。逆に、盛り上がりすぎたことが廃止になった原因だ。その分、面倒だぞ。どんなに注意を呼びかけても、聞かない連中は必ずいると思っていい。キャンプファイヤーもするなら消防署に直火を使う届け出も必要だし、それこそ、近隣の迷惑にならないように気をつけないと、もう二度とできなくなる」
      「――ん」
       淡々と食事を進める翠に葵はうなずいた。
      「翠……ありがとう」
       驚いたように翠が顔を上げる。丸くなった目で葵を見た。
      「オレ、ちょっと考えてみるわ」
       そう言って葵はダイニングを離れた。自室に戻り、ドアを閉じたら溜め息が出る。
       なんだろうな、こういうの――。
       翠と今のような会話をしたのは、ずいぶんと久しぶりだ。面倒そうにしながらも、翠はちゃんと答えてくれた。
       アドバイスまでしてくれちゃって……。
       小学生の頃は、こんなことも多々あったように思う。互いに顔を見れば反発するようになったのは、実はこの数年のことではないか。
      『お父さんも、お母さんも、葵に甘すぎるんだよ! もっと葵のこと考えて、厳しくしなきゃ!』
       うわ……思い出しちゃった。
       居たたまれなくなり、葵はベッドにダイブする。のた打ち回るようにして枕を抱えた。
       確か、中学二年のときだ。風呂を出たら、居間から翠の大声が聞こえてびっくりした。翠が親に怒鳴るなんて、まずありえなかった。
       そうだ――中間テストが悪くて……。
       定期テストの成績通知には親の押印が必要で、夕食のあとに母親に見せたら顔を曇らせていた。へとも思わず、まるで取り合わなかったのだが、翠の怒鳴り声を聞いてそっと覗いた居間では、父親と母親がそれを見ていて、その横に翠が立っていた。
       翠が怒鳴った原因は自分の成績に違いなく、カッとして中に踏み込みそうになったが自室に取って返した。翠に両親がどう答えたかまでは聞こえなかったが、無性に悔しかったのを覚えている。
       そのときも、そのあとも、親からは小言のひとつもなく、むしろ何も言われないことに息苦しさを覚え、翠にだけ何かとバカにされて、結局はそれがきっかけで翠が卒業した高校に入ろうと心に決めた。
       アイツ……何なんだろうな――。
       兄に違いないけど、どこの家でも兄とはこういうものなのか。自分はできるのに弟がバカだと恥ずかしいとか、そんなふうに思われていると思ってきたが、違うのか。
      『もったいないんだよ! どうして八割も実力を出さないんだ?』
       いきなり克巳の声が脳裏に響き、ドキッとした。葵はぎゅっと強く枕を抱く。
       ……買いかぶりすぎだ。
      『うまくいかないな。上っ面しか見てもらえないと、本当のことなんて伝わらない』
       今日の帰り道、克巳はそう言った。あのときは美由とのことを言ったと思ったが、もっと別のことを言われたようにも思えてくる。
       あのときの、アイツの目。
       何か言いたそうに自分をじっと見て、だが何も言わずにふいとそらした。
       オレが、上っ面しか見ていない――?
       美由にはそうだったかもしれない。翠にもそうかもしれない。もしかしたら、克巳にも。
       ……オレのことは、見透かしてるみたいに言ってさ。
       見透かされていると思う。認めるほかないだろう。現に、克巳に担[かつ]ぎ出されて仕方なく文化祭実行委員長になったのに、自分は真剣に取り組み始めている。こうなることが克巳には予測できていたのではないか。
       オレのほかにいない、なんて言って――。
       自分は悔しいだろうか。悔しいようにも思う。でも、べつに悔しくもないようにも思う。
       ……思ったより、おもしろそうだし。
       もし自分が、一度は廃止になった後夜祭を復活させたらどうだろう。何より、後夜祭が開かれれば、きっと去年よりも一昨年よりも文化祭が盛り上がる。
       それなら、どうやって学校側に承諾させるか。考え始めたら止まらなくなった。ワクワクするこの感じは、葵の大好きなものだった。
       翌日の放課後、葵は借りたファイルを返しに生徒会室に立ち寄った。昨日と同じように生徒会役員たちが詰めていると思っていたのに克巳しかいなくて、急に昨日の帰り道でのことが思い出されて気が引けた。
      「これ、返しに来ただけだから」
       鞄からファイルを取り出し、立ったまま返却の手続きをする。即座に帰ろうとするが、ふと克巳も後夜祭が行われなくなった理由を知っているのではないかと思い、尋ねてみた。
      「後夜祭? やっぱ、そこに食いついたか」
       正面に立ち、克巳は人の悪そうな笑みを浮かべる。葵は気が引けていたこともすっかり忘れ、苦々しく舌打ちした。
      「それも予測の範囲内ってか? 予測したとおりになって、よかったな」
      「そんな、むくれるな」
       ムッとする葵を克巳はとりなすように笑う。
      「なんで五年も前のファイルまで渡されたのか、わかった気がする」
      「べつに、そこまで考えてたわけじゃない。俺に坂月を思いどおりにできるはずないじゃないか」
       困ったように苦笑され、葵はいっそうムッとなる。それを見て、克巳はやわらかな微笑に変えて続けた。
      「もしかして、坂月先輩にも訊いた?」
       もちろん翠を指して、克巳は「坂月先輩」と言ったのだ。
      「ああ」
      「どうだった?」
       葵はムッとしたまま、翠から聞いたことをざっと話す。克巳は耳を傾けるようにして聞き、葵が話し終えると軽く溜め息をついた。
      「それもあるけど、俺が聞いた話は少し違う。その翌年度に今の校長が着任して、後夜祭でトラブルが続いたことを知って、問答無用で廃止にしたそうだ」
       そう言って、机のへりに浅く腰をかける。克巳にしては意外に思える態度を見せられ、葵はかすかに目を瞠った。片手で髪をかき上げ、克巳が見上げてくる。ドキッとした自分に葵は驚いた。
      「で、どうするわけ? 後夜祭、やる?」
      「オレはそのつもりだけど……」
       委員会で可決されなければ何とも言えない、そう返そうとしたのに、続かなかった。
       コイツ――。
       くだけた態度を取る克巳に葵はうろたえる。普段の澄ました態度には、まったく感じられない色気があった。
       ……本当は、こうなのか?
       なまじ端正な顔をしているものだから、なおさら色っぽく感じられるのか。黒髪をかき上げて半袖から伸びる腕とか、メガネの奥から上目遣いに見つめてくる瞳とか、薄く開いた唇とか、男らしくもあるのに妙になまめかしい。
      「――どうした?」
       腕を下ろし、克巳は改めて顔を上げてきた。ニヤリと口元で笑う。
      「校長が相手じゃ、歯が立ちそうにない?」
      「そうじゃない」
       咄嗟に答え、葵は気を取り直す。克巳は、もういつもの克巳だ。
      「て言うか、おまえはやる気なのか?」
       そう言われているような流れだ。確かめるように克巳を見た。
      「決めるのは実行委員会だ。俺じゃないし、生徒会でもない」
      「おまっ――」
      「最初に言った。坂月の思うようにすればいい。俺は信じている。協力も惜しまない」
       ぐっと強く見つめ返され、葵は出かかっていた声を飲み込む。
       なんで――。
       今さらの疑問が大きく湧き上がった。
      「どうして、そこまで言える? どう思ったっておまえの勝手だけど、マジにオレは好きにやるぞ?」
      「構わない」
       またも即答だ。葵の克巳を見る目が訝しげになる。克巳は続けた。
      「と言うか、そうしてほしい」
      「なんで」
      「文化祭は学校行事の中で一番、生徒の自主性に任されてきた。それが、この数年は規制される傾向になっている。坂月はどう感じているか知らないけど、俺は嫌なんだ。俺が生徒会長のあいだに元に戻したい。そのために俺は生徒会長になったと言ってもいい」
       きっぱりと言い切った克巳の眼差しは強く、揺るぎなかった。
       気圧されて、葵は言葉を失う。あまりにも意外だった。本性はどうであろうと、克巳が表立って学校や教師にたてつくことはないと思っていた。これまでの優等生ぶりは、このための布石だったとでも言いそうな素振りだ。
       聞かされた内容はともかくとしても、意志の強さをむき出しにされ、葵は初めて克巳をカッコいいと思った。
      「坂月なら、やってくれると思った。だから、頼んだ」
      「けど、おまえが思ったようにはオレは動かないかもしれないぞ? つか、そう思ってたなら、生徒会長じゃなくて文化祭実行委員長になればよかったじゃないか」
       すっと克巳は目を伏せる。肩を落とした。
      「それじゃダメなんだ。生徒会のバックアップが保証されなければ無理だ」
       そのあたりのことは葵には見当がつかない。浮かんできたことを口にする。
      「まあ、いいけどね。おまえがどう考えたって、オレはやりたいようにやるし」
      「そうしてくれ」
       やっぱ、おもしれえ。
       これからの自分の行動によっては、克巳を振り回すことになるのかもしれない。克巳の思いを聞かされたが、克巳の手駒になる気は毛頭ない。自分がどう動いても克巳は協力すると言うのだから、校長が相手でも後夜祭を敢行できるかもしれない。
      「やるよ、後夜祭」
       ニヤリと笑って、葵は言い切る。
      「委員会の可決くらい、軽く取ってやる」
      「いいんじゃない?」
       克巳も不遜な笑みを浮かべて返してくる。
      「オレを思いどおりにできて満足か?」
       あえて、そう言ってやった。
      「思いどおりにできたなんて思ってない」
      「そうか」
       答えて、ふと思った。葵はまっすぐに克巳を見下ろし、口を開く。
      「おまえがオレに思いどおりにされるってのは、どう?」
      「え――」
       驚いた目になって克巳は見上げてきた。瞳を大きく開き、じっと葵を見る。
      「それって、かなり気分いいかも」
       葵は身をかがめ、顔を近づけて克巳の目を覗き込んだ。かなりの至近距離だ。
      「――克巳。そう呼んでやる。おまえを名前で呼び捨てにするヤツなんて、いないからな」
       フッと、克巳は笑った。華やぐような笑顔だった。目を細め、顎を軽く突き出して言う。
      「いいよ。それが『葵』にできるなら」
       クスッと笑いをこぼし、葵を見つめて眼差しを揺らめかせた。
       コイツ――。
       ドキッとした自分に葵はうろたえる。男らしさの中に滲み出るような克巳の色気を感じ、跳ね上がった鼓動を悟られまいと、ひたすらに平静を保った。


      つづく


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      素材:君に、