Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




      猫と水たまり
      −5−


       二

      「トップに就いた者は、下をどう動かせるかがポイントだ。任せられることはすべて任し、自分の雑務を増やさないようにする」
       凛と響く克巳の声が、やたらと耳に痛い。できることなら葵は顔をそむけたいがそうもいかず、ひたすらに耐えて聞いている。
      「トップが大局を見定めていないと、下の者が迷うんだよ。葵は傲慢に思うかもしれないけど、組織が大きくなるほどトップは傲慢なほうが結果としてみんなのためになる。悪評も受け入れる度量を見せないと」
       ご高説は至極もっともで、しかし葵はゲンナリとつぶやいた。
      「それは、おまえのやり方だ」
       おや、とでも言いたそうな顔になって克巳が目を合わせてくる。小さく息をついた。
      「まあ、いいさ。自分のやり方でやればいい」
      「だったら――」
       そこまで言う必要ないじゃないか。
       言いかけて、葵は口をつぐんだ。そう――克巳の言い分はもっともだ。つまらないことでしくじりそうになった自分が悪い。
       期末テストが終わり、文化祭実行委員会が本格的に動き始めることになった昨日の会議で、葵は約二ヶ月に及ぶ今後の仕事の流れを説明し、その分担を各委員に割り振る前に、後夜祭開催の案を出した。
       反響はよく、即座に可決されかけたのだが、同席していた文化祭顧問の教師に待ったをかけられてしまったのだ。
       それは想定内で、クラスに持ち帰って審議するようすぐに指示を出し、だがそれすらも止められてしまったのは誤算だった。
       まさかクラスで審議することも許されないとは考えていなかった。その場で別の方策が浮かばず、結果、後夜祭開催については保留とし、本当なら後夜祭の担当に何人か確保しておきたかったところをすべての委員を例年通りの係に割り振って、解散とした。
       終わってから副委員長たち役員にどうするつもりか訊かれ、何としても開催したいと答えて改めて賛同を得たものの、対策案は誰からも出てこなかった。
       それも仕方なかったと思う。五年前までは恒例にもなっていた後夜祭が廃止された経緯をこのときになって知らされたのでは、戸惑いが先に立って当然だろう。委員会には「後夜祭を開きたい」と単純に持ちかけるのが最善に思えてそうしたのだが、裏目に出てしまった。克巳のように、事前に根回しをしておくべきだったと気づかされた。
       むしろ、委員会で決議しても通らないことがあると委員たちに示した結果になってしまい、下手をすると今後のまとまりを失うかもしれない。
       ……こんなんじゃ、やる気なくすよなあ。
       限られた人数と限られた時間で学校全体を動かしていかなくてはならないのだから、どの委員にも目一杯働いてもらわないことには例年並みの文化祭にもならないだろう。
       それは、絶対に嫌だった。見栄だろうと何だろうと、自分が実行委員長を務める文化祭がショボイなんて言われたら耐えられない。後夜祭は自分が言い出したことだし、委員会のやる気を損なわないためにも、可決されたからには必ず開催する。
       だがこうなってしまっては、助言を求められる相手はひとりしかいなかった。克巳だ。
       ――とことん使ってやるさ。協力するって、アイツが言ったんだ。
       翌日の今日になって、葵は昼休みに克巳を呼び出した。事情を説明するにも廊下での立ち話では無理があって、今は生徒会室に場所を移している。都合よく、誰もいなかった。
       依然として立ち話のまま、葵は一通り説明を終え、しかし何かいい案がないか克巳から聞き出す前に、やり方が甘かったことをいさめられてしまった。
       克巳は、すっかり呆れた顔になっている。
      「葵が癒し系と言われている理由が、やっとわかった気がする。周囲に気をつかいすぎだ」
      「オレが癒し系?」
       また何を唐突なことを言い出すんだと、葵は眉を寄せてしまう。まだ後夜祭の話の途中なのに。
      「そう。女子にも男子にも言われている。俺は八方美人とも言えると思うけど、委員会のモチベーションを保とうとしたり、今だって俺に言い返したいのを我慢したり」
      「それは――」
      「素直なんだろうな。認めるよ、葵の美徳だ」
      「じゃなくて」
       どうして、そういちいち突っかかる言い方をするのかと声にしそうになって口をつぐみ、これもまた癒し系と言われることに該当するのかと落ち着かない気分になる。
       はー、やりにくい。
      「だから――自分のやりやすいように押し切ればいいのに」
       克巳は探るような目になって見つめてくる。
      「……言いたいことは、わかってる」
      「いや、わかってないね。俺に相談しに来たことから、わかってない。俺になんて相談しなくていいんだ。委員会で意見が出なかったなら、役員にも相談しなくてよかったんだ」
       素っ気なく、視線をそらした。
      「オレは、そんなワンマンなやり方は……」
      「だから、自分のやり方で」
       葵は黙り込む。堂々巡りのやり取りのようだが、実はそうでないことを思った。
      「だったら――」
       自分の考えを口にする。まっすぐに克巳の横顔を見た。
      「後夜祭の開催を全校生徒の総意にしたい。クラス審議が無理なら署名を集めるとか」
      「わかった」
       克巳はすっと顔を向けてくる。薄く笑った。
      「それは生徒会でやろう。気持ちはわかるけど、署名はあまりいい案じゃない」
       なら、先にそれを言えよ!
       喉まで出かかったが葵は飲み込む。飲み込んで、またもや落ち着かない気分になる。
       ……今のも、言ってよかったとか?
      「生徒会でやるって、どうやって」
       しかし出てきた声は別のことを言っていた。
      「それは、任せてくれないかな。こっちにも都合があるので」
       ニッと克巳は笑う。あの胡散臭い笑顔だ。
       何を企んでるんだ、コイツ――。
       それは数日後の生徒総会で明らかになった。
      「以上をもちまして、一学期の生徒総会での議題は終わりますが――」
       体育館に一堂に会した全校生徒を見下ろして、克巳はステージの高い壇にいて、壁際に並ぶ教師をものともせずに朗々と言った。
      「ここで動議を提出したいと思います」
       葵は自分のクラスの列にいて、それまでのお定まりの議事進行に飽き飽きしていた。目の前の男子など、パイプ椅子から落ちそうになって眠りこけている。
      「本年度の文化祭開催に向けて実行委員会が鋭意努力中なことはみなさん承知のとおりで、近年開催が見送られていた後夜祭も、今年度は執り行うことが委員会で可決されました」
       だが、それを聞いて葵は目をむいた。周囲もざわめき出す。
      「生徒会はこれを全面的にバックアップすることを決議し、この生徒総会において、みなさんの総意としたく発案いたします」
       拍手が上がった。しかしところどころからで、大半の生徒は何が始まったのか飲み込めずに戸惑っている様子だ。
       つか、克巳! オレだって聞いてねえぞ!
       後夜祭の話など、クラスで審議することもできなかったから大概の生徒には噂程度にしか伝わっていない。それをいきなり生徒総会にかけるとは、いくら動議でも強引に思える。
      「では、動議を支持する人は、拍手で応えてください」
       ステージ上の生徒会役員全員と、かなりの生徒から拍手が上がった。
      「動議は支持されました。それでは、後夜祭開催に賛成の人、拍手をお願いします」
       くそ、どうにでもなれ!
       葵は思い切って立ち上がる。賛成、と大声で言って拍手した。
       ちくしょー、オレのキャラじゃねえ!
       一瞬しんとしたあと、きゃー、と黄色い声まで飛んで場内は騒然となる。拍手の渦が巻き起こった。
       知らねえからな! ほとんど、おもしろがってるだけだからな!
       そんなことは克巳にはわかりきっていたに違いなく、遠い壇上で満面を穏やかな笑みに変え、小さく手を挙げて全校生徒に応える。
      「ありがとうございます。明らかに可決されました。よって、文化祭での後夜祭開催は当校生徒の総意とし、生徒会は今後とも全面的にバックアップしていきます」
       鮮やかとしか言いようがなかった。生徒会顧問の教師がステージに駆け上がろうとしていたが間に合わなかった。そもそも生徒総会の最中に教師が口を挟むことはなく、それを見越して克巳が強行したのは間違いない。
       壁際に並ぶ教師たちは、隣同士で顔を寄せ合っている。校長は渋面で、教頭は唖然とした様子だ。これを克巳がどう収拾つけるのか、葵は不安でもあり、おもしろくも思う。
       どうあっても、巻き込まれた。これが克巳のやり方かと思った。傲慢と言われようと、悪評を受け入れる度量を見せつけてくれた。
      「これで生徒総会を終わります」
       マイクを切った途端、克巳は生徒会顧問の教師に呼ばれて行く。それを目の当たりにして一部の生徒が騒いだが、すぐに教師たちが散ってきて、どのクラスも退場が命じられた。
       葵はおとなしく従いながらも、胸がスッとした気分だった。自分は呼び出されないのかと、少し残念に思ったくらいだ。
      「それで、どうするわけ?」
       その日の放課後になって、また克巳とふたりで話をする。克巳には相談してくるなと言われたが、足並みをそろえるには必要だ。
      「ちゃんと考えてある」
       生徒会顧問には、くどくどと説教されたらしい。生徒総会での緊急動議は、原則として認められてなかったようだ。しかし克巳は、まったくこたえてないようで、いつもの涼しい顔でいる。葵は呆れるより感心した。確かに腹が据わっていると見える。
       廊下での立ち話だった。教室から出てきた相原が気づいて目を瞠る。さりげなく葵の横を過ぎようとして、足を止めた。
      「今日も委員会?」
      「うん」
       答えて、葵はなんとなく歯がゆい。委員会で何かと気忙しくなってから、放課後に相原と話している時間もなくなっていた。
      「今日も予備校?」
       しかし、気まずい思いをごまかすように口にした言葉があだとなる。
      「なんで。何曜日に行くか、知ってるくせに」
       さらりと答え、相原は行ってしまった。身の置き場がない。
      「追わなくていいのか?」
       冷めた口調で克巳が言った。
      「俺は構わないぞ? 俺も、もう行くから」
      「どこへ。つか、相原追う必要ないし」
       少しムッとして言えば、克巳は呆れた目を向けてくる。
      「……意外と鈍いんだな。意外でもないか」
      「オレは、おまえと話の途中なんだよっ」
      「悪いな。俺は校長室に行く」
       克巳はくるりと背を見せた。葵はハッとして隣に並ぶ。
      「校長室って、やっぱ――」
      「まあね」
       歩き出しながら、チラッと視線を寄越して克巳は笑う。
       ――そういうことか。
       克巳の思わせぶりな態度にも、もう慣れた。校長室へ行くと、あえて聞かせてきたあたり、意図が見え見えだ。
      「なら、オレも行く」
      「……話をこじらせるなよ」
       ぽつりと言われて、う、と詰まる。来るなと言われなかった分だけマシと思うことにしておく。


       葵にとって校長とは、いないに等しい存在だった。好感を持つも嫌悪感を持つも、これまで関わりがなかったのだから、論外だ。
       それが今、偉そうな態度で目の前の古びた机の向こうに、でんと座っている。その横には生徒会顧問と文化祭顧問のふたりの教師と、反対側にはなぜか教頭まで立っていた。
       克巳は葵と並んで校長と向き合って立ち、校長室に足を踏み入れた瞬間から変わらず、背筋を正して明瞭に歯切れよく主張を唱えていた。
       実に堂々とした態度だ。ふてぶてしさまで感じられる校長と見比べて、葵は素直に感心する。
      「ですから私は生徒会長として、全校生徒を代表して学校にお願いしているのです。学則と校風を重んじ、それをくつがえそうなんて、まったくありえません」
      「だがね、高梨くん」
       さっきから克巳が何か言うごとに、生徒会顧問が口を出してくるのが葵は気に食わない。ふたりのあいだでの話は終わっていたのではなかったのか。その上で、校長に直談判する許可が下りたのではないのか。
      「すみません、先生。ここには校長先生からご意見が伺えると聞いて来たのですが」
       克巳はにっこりと制すだけだ。校長は依然として、そのやり取りを黙って眺めている。
       そう、まさしく「眺めている」に等しい。それがまた葵は気に食わなかった。
       言いたいこと言わせて、気が済んだら帰れ、って態度が丸見えだっての。
      「しかし――」
      「後夜祭の開催は、全校生徒の総意ですから。先生も、先ほど目の当たりにされましたよね」
      「だから、それがそもそも――」
       葵は焦れた。話をこじらせるなと克巳に言われたが、そう言われた意図も十分わかっていたが、もう黙っていられなかった。
      「もうマズイよなあ……みんな後夜祭やる気になっちゃってるし」
       ボソッと、独り言のようにもらしてみる。
      「きみ」
       どの教師からか、たしなめる声が聞こえたが、葵はうつむき加減のまま、いかにも困ったように続ける。
      「今さら取りやめなんて言ったら、誰だって、なんでって思うし、許可が下りないからなんて知ったら、文化祭もやる気なくすし」
      「きみ! 坂月くん。教師をおどす気か?」
      「まさかー」
       のろのろと顔を上げ、葵は声をかけてきた生徒会顧問に目を向ける。
      「予測される事態を言ってみただけですよ。いくつか考えられるうちの、一番マズイやつ」
      「だが、その言い方は――」
      「ねえ、先生」
       生徒会顧問の声をさえぎり、葵は文化祭顧問に話しかける。
      「マズイですよね。文化祭は、どの高校でも対外アピールのイベントでもあるのに、それがショボイんじゃイメージダウンになるだけじゃなくて、来年の受験生も減っちゃうかもしれませんよね」
      「きみ! 坂月くん!」
       また生徒会顧問が口を挟んだが、葵はのうのうと文化祭顧問に向かって言う。
      「先生も、オレら文化祭実行委員会も、みんなで楽しむためだけじゃなくて、うちの高校のイメージアップにもなるように盛り上げようとしてるのに、ほかのヤツラがやる気なくしちゃどうにもなりませんよね」
      「言葉を慎みたまえ」
       文化祭顧問は顔をしかめるだけで、生徒会顧問がそう言った。
      「オレは、文化祭実行委員長として、心配に思うことを言っただけです」
       ようやく生徒会顧問に顔を戻し、葵は言った。視線がぶつかり、じりじりと睨み合うようになる。
      「だいたい、なぜきみが委員長なんだ」
      「先生」
       それまで様子を見るように黙っていた克巳が口を開く。
      「失礼ですが、それこそ全校生徒の総意です。各クラスで選出された委員の中から選ばれたのですから」
       思いがけない鋭さで言い放ち、葵が面食らった。食いつくのはそこじゃないだろうと思うが、口に出すわけにはいかない。
      「いずれにしても、今その話を出されるのはどうかと思います。私も坂月くんと同じ危惧を抱いています」
       まっすぐに校長を見据え、克巳は言う。
      「ほとんどの生徒は、後夜祭が開催されなくなった経緯を知りません。ですから私も生徒総会で動議を出す際には、『見送られていた』という言い方をしました。今年もまた一方的に取りやめにされたなら、学校に対する不信が広まるでしょう。何かしら制限を設けられるにしても、後夜祭の開催を認可されたほうが得策に思われます」
      「ちょ、おいっ」
       制限と聞かされて葵は克巳を小突くが、目できつく止められた。
      「制限ねえ」
       やっと校長が口を開いた。
      「その状況は、きみが作ったんだがね。どうだろう、コントロールできるかね?」
       じろりと文化祭顧問に目を向ける。顧問は言葉が出ないようで、葵は内心で舌打ちした。
       コントロールって、生徒の前で言うかよっ。
      「してみせますよ、必ず。お約束します」
       しかし克巳が答えた。葵は驚いて顔を見る。
      「そのための生徒会でもあるわけですから」
       うっすらと笑いさえした。黒いセルフレームのメガネの奥で目を細め、にんまりと。
      「どう考えているか聞かせてもらおうか」
       校長が尋ねてくる。まともに取り合う態度に変わっている。
      「文化祭実行委員会は既に動き出していますから、客観的に見て、今から後夜祭の担当を決めるには無理があると思われます。なので、生徒会との合同開催にしたいと思います」
       そんなこと、聞いてねえぞ!
       葵は隣で憤然とするが、克巳は気がつく素振りも見せない。
      「合同開催ねえ」
      「何も、かつてと同様にする必要はないと思っています。開くか開かないか、問題はそこだけで、開催さえすれば生徒は納得します」
       そういうことだったのかよ!
       克巳は口を閉じ、校長も黙り込む。ほかの教師たちは経過を見守るかのようにしている。
       葵ひとりが苛立っていた。克巳に裏切られた気分でいっぱいだ。しょせん自分は飾り物の実行委員長、どんなにうまいことを言っても本心はそんなものだったのかと失望する。
       失望――自分は克巳に期待していたのかと思った。期待していたのかもしれない。いや、期待していた。やりたいようにやれ、協力を惜しまない、思うとおりにやってほしいから自分を委員長に推した、自分ならやってくれると思うから――そう聞かされてきたのだ。
       克巳を嫌っていた気持ちはいつのまにか薄れ、気づけば同じ目的に向かう連帯感のようなものが芽生えていて、学校を相手取っても後夜祭を復活させることで合意してからは、まるで共犯者のように感じていたのだ。一蓮托生の――。
      「しかし、きみが何をしたいのか測りかねるね。強引に押してきたわりには、制限を設けてもいいと急に譲歩する。そうして開かれる後夜祭の意義とは、何だね?」
       沈黙を破って、呆れたように校長が言った。
      「開催することに意義がある。それでは認められませんか?」
       克巳は即答だった。きっぱりと校長と目を合わせる。
      「――いいだろう。許可する。ただし、詳細な企画案を提出することが条件だ。通らないようなら、あきらめることだな」
       葵は歯噛みする思いだ。体のいい「不認可」ではないか。後夜祭が開催されないなら企画が悪かったせいになり、不満は実行委員会と生徒会に向いてしまう。学校は悪者にされることがなく、少なくとも逃げ道が確保される。
      「だいたい、きみたちは受験生でもあるのだから、こんなことをしている暇はないはずだ。特に高梨くん。きみは期待されているのだからその自覚を持って、つまらない行動は自ら慎むべきじゃないかね?」
      「自重しているつもりです」
      「そうは見えないがね。今回限りであってほしいと思うが……友人に問題があるかな?」
       口元を歪めるようにして笑った校長に、克巳もにっこりと笑って返す。
      「ご心配には及びません。彼は有能です」
       誰を指して「彼」と言ったかは明白で、葵は悔しさから唇を噛む。自分の何を「有能」と言うのか。
       ……思いどおりになんか、絶対ならねえ。オレがおまえを思いどおりに使ってやる。
      「ほら、何してる。終わったんだから、帰りなさい」
       一言も話さなかった教頭が平然と口を開き、追い出されるようにして校長室を後にする。廊下に出た途端、葵は克巳に食ってかかった。
      「克巳! おまえなあ!」
      「ちょ、待ってくれ。今は――」
      「ふざけんな!」
      「だから、ちょっと――」
       克巳は葵の手を握ってきた。いきなりのことに葵は驚くが、その手が震えていると気づき、大きく目を瞠った。
      「え――? なに、おまえ……」
       顔をうつむけた陰から、上目遣いに見上げてきた克巳の眼差しが頼りなく揺れる。
      「――は? マジ?」
      「だから……ちょっと待ってくれ。話せるようになるまで――」
       消え入りそうな声で言う。チッと、葵はあからさまに舌打ちした。
      「来いよ」
       克巳の手を引いて歩き出す。冗談ではなかった。今もまだ裏切られた気分でいっぱいなのだ。怒りは少しも引いてなくて、しかし克巳がこんな調子ではやり場を失う。
      「――ったく。どうするよ? あれじゃダメじゃん。どんな企画出したって、つぶされるに決まってる」
       収まりがつかなくて、ぼそぼそと声にした。
      「……大丈夫だ」
       だが思いがけず安易に答えられ、いっそう苛立って吐き捨てる。
      「なんで。校長が言ったこと、聞いてたんだろ? 緊張しすぎて聞こえてなかったなんてねえよな? ちゃんと返事してたし」
      「葵のおかげだ」
      「――え?」
       足が止まり、克巳に目を向けた。克巳は、まだ顔をうつむけている。
      「だから――もう少し、待って」
      「……しょうがねーなー」
       校長室から職員室の前を経て続く廊下には、放課後をかなり過ぎた時間もあって、生徒の姿は見当たらなかった。今になってそのことに気づき、葵はホッとする。克巳の手を引いて歩いているなんて、女子にでも目撃されたら、また余計なことになる。
       あー、めんどくせ。
       克巳の手はずっと震えていた。あれだけ堂々と校長と渡り合ってこのありさまとは、信じられない。
       つか、手、ほどかないんだよな。
       そのことのほうが、むしろ意外かもしれない。いつも優位にいる克巳が、取り繕う様子もなく自分に情けない面を見せているなんて。
       ――ん?
       もしかして、これも何かの策略なのか。手を震わせることくらい、意識的にできるのではないか。克巳から握ってきたのだし――。
       ふと、葵は立ち止まる。教室に戻ろうと、階段を上って踊り場まで来ていた。
       おもむろに克巳に振り向く。そうして、ぼんやりと顔を上げた克巳の両肩をつかんだ。
      「――へ?」
       変な声が出たのは葵で、克巳は目を大きく見開いて葵を見つめ、さあっと頬を染めた。
      「え? え?」
       克巳の震えが演技ではないか確かめようとしただけのことが、何かおかしくなっている。
      「あ……」
       気づいて、葵まで顔が熱くなりかけた。
       西日の射し始めた放課後の階段、上にも下にも誰も見当たらない踊り場にいて、向かい合って両肩をつかんで、間近に見つめ合っているこの状況。
       キスまで五秒って?
       思って慌てて打ち消すが、克巳の顔から目が離せなくなる。突然のことに驚き、大きく瞠った目、わずかに開いている唇、うっすらと染まった頬――まずい、ドキドキしてくる。
      「いや、ちょ、そうじゃなくて」
       しどろもどろして、葵は何がしたかったのか思い出し、咄嗟に克巳の左胸に手を置くのだが、まったくの逆効果になった。
       夏服のシャツ一枚の下に、トクトクとやけに速い鼓動を感じると同時に、プツッとした感触を捉え、とてつもなくうろたえた。これではもう、克巳の震えが演技だったのかどうかなど、わかるはずもない。
      「あ……ワリィ」
       そっと、葵は両手を離す。
      「や、べつに――」
       克巳は恥じ入るように顔をそむける。
       うわー。
       一転して、青ざめる思いだった。かわいいと感じてしまった。たった今まで克巳を疑い、裏切られたと怒っていたのに。
       西日を受けて克巳の黒髪が光って見える。伏せた横顔の頬がなめらかに目に映る。短い襟足からなだらかな曲線を描く首筋、純白のシャツの中に消えて、その先を思い描かせる。
       じゃなくて! 違うから!
       克巳の素肌に目を囚われてしまうなんて、入学して以来、最長のカノジョいない期間のせいだと強く自分に言い聞かせる。
       とにかく歩き出した。このままでいたら、無駄におかしくなりそうだ。
      「え?」
       階段を上りきり、葵は目をしばたたかせる。
      「帰るんじゃないのか?」
       克巳はさらに上に行こうとしていた。この先は屋上だ。
      「ちょっと……頭冷やしてから帰る」
      「なっ」
       足元がふらついて見え、葵は慌てた。校長室を出てから、あまりにも様子が変だ。
      「おまえ、どうなってるわけ?」
       肩を並べ、言わずにはいられなかった。
      「……動揺が消えなくて。自分でも、どうなってるかなんてわからない」
      「それで屋上かよ? マジ、ヤバイって」
       克巳の身に危険まで感じはしないが、無人の場所にひとりで行かせるのは不安に思えた。
      「でも、風に当たりたくて」
      「しょうがねえな。つきあうし。まだ話終わってないんだしさ」
      「……ありがとう」
       葵は耳を疑った。この程度のことで克巳が礼を言ってくるとは、やはり普通ではない。
       屋上へ続くドアを開けると、夕暮れの風に髪を散らされた。空は西をオレンジに染め始め、東の方は紺青に色を深めている。
       克巳はふらふらと先を行く。東側のフェンスに突き当たり、そこに指をかけた。
       葵はその手前まで来て足が止まった。克巳が顔を向ける先に、遠く海が望める。今はもう、空と混ざって暗く沈みかけていた。
      「知ってたんだ、ここ」
       高校の敷地内で唯一、海が見える場所だ。克巳は振り向きもせずに、ポツリと言う。
      「……海を見ると落ち着くんだ」
      「へえ」
       なんで、とは出てこなかった。葵もまた、同じだった。
      「今日は、いろんなことが続けてあって……ものすごく緊張した」
      「そうなんだ」
       マジに緊張してたってことか。
       そんなふうには少しも見えていなかった。生徒総会の最中も、校長室にいたときも、普段の克巳と変わりなく、むしろいつも以上に落ち着き払って感じられたくらいだ。
      「緊張したよ……とんでもなく。終わったと思ったら気がゆるんで……こういうの、嫌いじゃないけど好きでもなくて、少し物足りない達成感があって、でも高揚するみたいで、気持ちがぐらぐらする」
       葵は軽く目を瞠る。こんなことを克巳がすらすらと口にするのを聞いたのは初めてだ。
       マジに、ヘンだって。
      「葵のせいも、あるんだからな」
       振り向いてきて、うっすらと笑った。
      「あんな計算外のことを急に言い出すから、むちゃくちゃ焦った」
      「悪かったよ」
       話をこじらせるなと先に言われていたことを思い、素直に謝った。どうもここまで克巳を混乱させたのは、主に自分のようだ。
       まあ……話の流れをぶち壊したわけだし。
      「違う、感謝したいんだ。さっきも言った。葵のおかげで話が早くなった」
       葵は驚いて克巳を見る。やわらかく笑っている。
      「まさか、文化祭の対外的な面を取り上げてくるとはね。意表を突かれた。実行委員会の立場からのアプローチを考えてなかったこともあるけど、うまい手だと思ったよ」
       ストレートに誉められ、葵は悪い気がするはずもない。だが、結果は満足のいくものではなかったことを思う。
      「けど、企画が通らなければ何にもならねえじゃん。つか、向こうは企画通す気なんて、ぜんぜんないんだし」
      「違う。校長は釘を刺しただけだ。これまでのことがあるから、ほかの先生の手前、ああでも言わなければ体裁を保てなかったんだ」
       ふうん、と葵は曖昧にうなずく。言われてみればそんなふうにも思えてくるが、いまひとつ腑に落ちない。
      「なら、どんな企画でも通る?」
      「それは無理だな。校長は、そのために釘を刺してきたんだし。何かしら制限されることはわかってたから、こっちから先に振ったんだし。もう無駄に時間を使わなくて済むように、一度で通る案を出すことを考えるほうが賢いやり方だと思う」
      「……そうだな」
       こうして改めて説明されれば、裏切られたと感じたことにも納得がいく。それでも自分としては不満が残りそうだが、現状から考えて克巳の意見が最善の手立てだろう。
      「企画なんてさ。どんなふうにも書けるわけで。実際にはどうなるかなんて、蓋を開けてみなければわからないと思わない?」
      「克巳、おまえ――」
       葵は目を丸くする。そんなことをさらりと言ってのけ、克巳はひっそりと笑っていた。顔を軽くうつむけ、メガネの奥から上目遣いに自分を見つめて。
       やっぱ、コイツって――。
       葵は口元がゆるむ。ニヤリと共犯者の笑みが浮かぶ。
      「なあ。オレが何も言わなかったら、どうするつもりだったんだよ?」
       克巳の隣に行き、ガシャンとフェンスを鳴らして背でもたれた。克巳はそっと息をつき、答えてくる。
      「花を持てますよ、って言うつもりだった」
      「え?」
      「校長、来年の春で定年退職なんだ。そこを突いて、最後の年を全校生徒から感謝されて見送られたらいいじゃないですか、って言うつもりだった」
      「はあっ?」
       葵は目をむいてしまう。まじまじと克巳を見た。克巳も目を合わせてくる。
      「……なんか、まずかったか?」
      「て言うか――」
       心外そうな顔をする克巳が、葵には心外だ。
      「それ、マジに言ってるんだよな?」
      「ああ」
      「前にも思ったけど……それじゃ嫌味だって、自分じゃわかってない?」
      「え」
       驚かれて葵が驚いた。
       コイツ……天然かよ。
      「なんつーか……よくわかったわ。おまえ、説得とかマジにヘタだな。計算して交渉するのはうまいくせにさ。どうやって女口説いてきたわけ?」
       克巳は、すっと視線をそらす。
      「口説くって――あのことか」
      「そう。オレを説得しようとして、逆にキレさせただろ? ついて行って正解だったわ。あの校長にそんなこと言ってみろ、取り返しつかなくなってたって」
       克巳は何も言わない。肩を落とし、静かに目を伏せる。
      「おまえって、バカみたいに真面目なんだな。余裕かましてるように見えるけど、すっげー、いろいろ考えてんだな。で、考えすぎて自爆するタイプな。不器用だわ」
      「……悪かったな」
       低くもらし、克巳はわずかに顔をそむける。
      「怒るなって。けなしてんじゃなくて、カワイイとこあるって言ってんだから」
      「そ、そんなふうに言うな!」
       急に顔を上げてきて、言い放った。
      「かわいいとか、そんな――」
       そうしてまた、すぐに顔をそむける。
       ……え?
       葵は戸惑う。てっきり怒らせたと焦ったが、克巳はどうも照れているようだ。
       ウソ。……マジ?
      「帰る」
       いきなり身をひるがえし、足早に離れていく。追って隣に並んでは申し訳ない気がして、葵は海の見える方へ目を向けた。しかしすぐに呼ばれる。
      「バカ! もう校舎閉まる時間だからな! 締め出し食らっても、俺は知らないからな!」
       なんだよそれ。
       葵はぽかんとしてしまう。はるか先で克巳とは思えない荒っぽさでドアを閉めて消えた姿が目に焼きつき、笑い出してしまった。
       ウソだろ。マジ、カワイイじゃん。
       笑いは少しも収まりそうにない。せっかくの忠告を無駄にしないためにも葵は歩き出す。
       おかしなヤツ。
       なんだかワクワクしてくる。きっと、克巳とふたりで後夜祭の企画を練ることになるのだろう。生徒会と合同の開催というのも悪くないように思える。
       もういいじゃん、それで。
       開催することに意義があると克巳は言った。そのとおりだろう。どんな後夜祭になるかは自分たちの考えひとつで決まるにしても、開催を望む気持ちは、もうみんなのものだ。
       うん……いいんじゃねーの。盛り上げてやるし。
       暮れなずむ空を背に、葵も屋上を後にした。


      つづく


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