Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




      猫と水たまり
      −6−



       だからコイツはなんでこうなんだ、つーの。
       克巳を見下ろして葵はムッとする。
      「へえ。がんばったんだ」
       昼休みの生徒会室にいる。昨夜、葵は真剣に後夜祭企画案を立てた。ひとに見せられるようにレポート用紙にまとめた。それを克巳は大して目も通さないうちに机の隅に寄せる。
      「それだけかよ」
       思わず言えば、面倒そうに顔を上げた。
      「開催が決まったことと、生徒会と合同になったこと、委員会に伝えておけよ」
      「じゃなくて〜」
       そんな手はずは、もう打ってあった。今日の放課後に臨時に委員会を開いて、そのときに経過を報告すると委員たちには連絡済だ。
      「見る気もないって? オレの考えることなんて穴だらけだし?」
       すっと克巳は眉をひそめる。メガネを押し上げながら睨みつけてくる。
      「そうは言ってないだろう? むしろ、なにそれ? 的はずれなコンプレックスぶつけてくるくらいなら、もう一度見直したら?」
       う、と声を詰まらせれば、決まり悪そうに目を伏せてボソッと言う。
      「昼休みに、どうしてここにいると思ってるんだよ。見ればわかるだろう? 坂月の意欲はわかったからさ、この話は後にしてもいいじゃない」
       生徒会室にはほかにふたりいて、パソコンの前に座って顔を寄せ合っている。生徒会の仕事をしているのは一目瞭然で、その様子を見やって葵は溜め息をついた。
       だからさ……だったら、先に言えっての。
       早く企画案を見せたくて克巳を探し回った自分がバカみたいだ。いや、みたいではなく事実バカだけど、克巳が教室にいなかった時点であきらめればよかったわけで、しかしせめて今は忙しいから見られなくてごめんくらい言ってくれてもいいじゃないかと思うのだが、それを克巳に期待することからしてバカなのかもしれない。
      「ならさ。ケー番教えろよ。メアドだけでもいいから」
       自分ひとりが空回りしているのでは疲れる。配慮が足りないと言われるなら補うまでだ。
       これからもコレじゃ、まんまオレが使われることになるし。
       悔し紛れに、そう思った。
      「悪いな。ケータイ、持ってないんだ」
       しかし、さらりと返されてぽかんとする。
      「ない? マジで?」
      「必要ないなら持ってなくて当然だろう?」
       机の上からいろいろと書きとめた紙を何枚か取り上げ、克巳は立ち上がる。
      「や、それはそうだろうけど……」
       なら、どうやって連絡取るんだよ? また探し回るのか?
       うろたえる葵に克巳は冷たく言った。
      「坂月。もう戻ってくれないか。昼休み、終わっちゃうから」
       葵の返事も待たずに、パソコンの前にいるふたりのところに行く。葵には背を向けて、まるっきりの拒絶態勢だ。
      「はー……」
       克巳に聞こえそうなほどの溜め息が出た。何も言わずに生徒会室を出る。
       坂月、か。
       騒がしい廊下を教室に戻りながら思う。
       べつに、どっちでもいいけどさ。
       葵が徹底して「克巳」と呼ぶようになっても、克巳は「坂月」と呼ぶときがある。状況に応じて「葵」と呼び分けているにしても、葵にはそのルールがわからない。
       どーでもいいんだけどさっ。
       ただ、克巳と呼ぶようになって自分は克巳に近づいた感じがするのに、克巳はそうではないのかと思った。仲良くしたいとか、そこまでは思っていない。もともとが意地の張り合いで名前を呼び合うようになったのだし。
       ……昨日はかわいかったのに。
       あんな克巳を目の当たりにしたのは、本当に偶然だったのだろう。かつてないほど動揺しておかしくなっていると克巳は説明したが、あれは嘘でも言い逃れでもなかったようだと、かえって納得してしまう。
       また元どおりか。
       昨日のような態度を見せることは、もうないと思える。あれが克巳の本当の姿に感じられたのだが、ならば、なおさら普段に見せることはないはずだ。
       あっちのほうが、やりやすいんだけどなー。
       せめて、あの高飛車な態度だけはどうにかしてくれないものかと思う。受け流せば突っかかってくるし、まともに対抗すれば言い負かされるし、克巳に勝てない自分が不甲斐ないとわかっているが、せっかく盛り上がってきても出鼻をくじかれるのでは、今後が思いやられる。
       もう、言いなりになるでも何でもいいから、少しはやさしくしてくれよ。
       でなければ、滅入ってしまいそうだ。いいように担ぎ出された自分の迂闊さを呪いたくなる。
       こんなことしてるはずじゃなかったんだよなー……。
       校長に言われたときはカチンときたが、実際自分は受験生で、卒業と同時に家を出たいなら親を納得させられる理由で自宅から通えない大学に合格しなければならないわけで。
       テキトーな理由じゃ、近くに受験先変えろって言うだろーなー。
       仕方ない。今はまだ親のスネをかじらなければいられない身分だ。いっそ就職も考えたが、進学して、まだ遊んでいたいというのが本音だった。
       翠、大変そうだし……。
      「葵!」
       教室は、もう目の前だった。背後から呼び止められて葵は振り向く。「葵」と呼んだ声で克巳とわかっていた。
      「なに」
       つい、つっけんどんな言い方になる。
      「むちゃくちゃ忙しいんじゃねえの? まだ昼休み残ってるじゃん」
      「同じマンションに住んでるんだから、用があるときはいつだって来ればいい。それだけ言いに来た」
      「――は?」
       硬い顔で口早に言い、克巳はすぐに廊下を戻っていく。
      「葵、ねえ」
       ぽかんとしていると、また背後で声がした。
      「そんなふうに呼んでるんだ。マジで」
      「相原……」
       振り向けば、からかう目で見上げてくる。
      「最近べったり? て感じ? 妬けちゃう」
      「おまえなー」
      「マジでそうじゃん。坂月も克巳って呼んでるんだし」
      「……なに」
       浅く息をついて尋ねた。相原は真顔になって答えてくる。
      「うん。今日も委員会?」
      「まあな。なんで?」
      「それ買った店。連れてってくれるって言ったの、五月だったと思うんだけど」
      「え?」
       喉元を指差されて、一瞬きょとんとした。今日も、あの黒い革紐のチョーカーをしている。しかし、その話をしたことは覚えているが、お愛想程度に言われたくらいにしか思っていなかった。
      「マジだったわけ?」
       うっかり言ってしまう。相原は素っ気なく、視線をはずして返してくる。
      「べつに。その気じゃなかったならいいけど」
      「や。行くし。つか、オレも替えのチェーン買いに行きたかったし」
       それは本当だ。七月にもなると革紐では肌にべたべたして気持ち悪いからチェーンに替えたかったのだが、ちょうど合う長さのものを持ち合わせていなかった。
      「じゃあ、行く?」
      「行く行く行く。委員会あるけど今日はそんなに長くならないから。待っててくれる?」
       相原はふわりとした笑顔になる。そんな表情は小柄な体型とあいまって、葵にも可憐に感じられる。
       マジ、黙って立ってるだけなら女子よりもかわいいのになー。
       ふと思って克巳が浮かび、慌てて打ち消した。相原と同列にしては相原がかわいそうだ。だいたい、克巳には女子のようなかわいげなんてない。それに、似たような嫌味を言うにしても、相原のほうが格段にかわいげがある。
      「あ。雨」
       ふと窓に目を向けて相原が言った。
      「傘、持ってる? 雨じゃ行く気しない?」
      「行くって。なんかもうオレ、限界」
       相原は笑う。どことなく遠い人のような笑顔に感じられ、葵は違和感を覚える。
      「ヘンなんだよ、マジで。坂月が高梨とつるんでるなんてさ……」
       しかしそれをどんな気持ちで相原が言ったのか、葵は思い及ばなかった。本当にそうだと、内心でただ同意するだけだった。


      「雨、やんだじゃん」
       委員会は一時間とかからずに終わり、葵は相原の待つ図書室に行った。さっそく声をかけると、相原は開いていた問題集を面倒そうに閉じて立ち上がる。
      「マジに早かったね」
      「もっと勉強してく?」
      「冗談でしょ」
       ふたりで校門を出た。通り雨のあとで、澄んだ青空が広がっている。相原は電車通学で、自宅に戻って着替えて出直すなんてしない。そろって制服のまま並んで、住宅街を抜けてゆるやかに続く下り坂を駅に向かう。
       葵には息抜きだった。引っ越してから、こんなふうに寄り道をして帰ることもなくなった。せいぜい学校に居残ってだらだらと過ごす程度で、カノジョもいない今は、委員会をしてなければ同じような放課後を送っていたはずだ。
      「あ、猫」
       言われて、相原の視線の先に目を向ける。白い猫だ。赤い首輪が目につく。右手から、雨上がりの車道をのんびりと渡ってこちら側に来る。
      「猫ってさ、おかしいと思わない? ああやって水たまりよけて歩いて、濡れると、ほら、あんなふうに足振っちゃって、けど魚好きって、飼い猫じゃなかったら自分で獲るわけ?」
      「そうなんじゃね? つか、飼い猫でも獲るみたいだし。うちのバアサン、近所の猫に金魚獲られたって言って、池に網かけてたから」
      「金魚? 鯉じゃなくて?」
      「ちっせー池なの。つか、猫って鯉獲るか?」
      「知らなーい」
       それこそ取るに足りない会話で笑い合う。話の種にされたと気づいたわけでもないだろうに、猫が振り向いた。視線が合って、ひらりと塀に飛び乗り、その向こうに消えていく。
      「元町行ったら、先に何か食べない? 腹減った」
       隣から相原が見上げてくる。
      「オレ、中華街がいい。ずっと行ってないし」
      「あれか。あそこの――」
      「担担麺」
       担担麺で声が重なって、また笑い合った。
      「それと肉まんね。あ、エビ餃子もいいな」
       ウキウキとして相原が言う。屈託のない笑顔を目に映し、葵は和む気分だ。
       やっぱ、こういうのがいいよなー。
       相原を待たせてしまったけれど、委員会では駆け足で説明してしまったけれど、先延ばしせずに今日出かけることにしてよかったとつくづく思う。やはり自分は疲れていた。
      「あ、これ? 坂月の」
       担担麺のほかに思い思いに点心でも腹を満たし、葵は行きつけのアクセサリーショップに相原を連れて行った。そうは言っても、葵にも久しぶりだ。
      「俺もこれ買っちゃおうかなー」
       手にとって目の前にぶら下げ、相原が言う。
      「それ、微妙にデザイン違いがあるんだ」
       ほら、と相原に葵は見せる。
      「こっちのほうが合うんじゃね? トップが小さいし」
       よく見なければそうとはわからないような、客船のモチーフだ。葵のものは船首と船尾にリングがついていて、その両方に革紐が通っている。相原に見せたものは一回り小さく、モチーフの中央上部にのみリングがある。
      「けど、これだと揺れるんだよな。そういうのイヤじゃないなら」
      「坂月のこだわり?」
       くすっと相原は笑う。
      「や、オレは大きさで選んだんだけど」
       にっこりと笑い返した。相原はかすかに目を瞠り、そっと視線をそらす。
      「あれ、これシルバー? すぐ黒くなりそう」
      「そこはやっぱ手入れしないと」
      「……俺、そこまでマメにできないし」
       暗くつぶやいて、元の場所に戻した。
      「俺には合金とか、むしろゴールドかなー」
       ほかを当たり始め、背を見せて言う。
      「坂月は自分の買い物しちゃってよ」
      「え。あ、ああ」
       何か引っかかる。しかし葵は言われたとおりに自分の買い物を先に済ませる。トップに合わせて、やや太めの銀のチェーンを買った。
      「相原。決まった?」
       チョーカーやペンダントの並ぶ前から離れ、相原はリングの並ぶコーナーにいた。
      「ううん。ごめん、今日はやめとく」
      「え? あ、そうなんだ」
      「店の場所わかったし、サンキュ。また今度、自分で来てみるわ」
       まるで言い捨てるようにして先に店を出て行く。追うように葵も続いた。
       ……なんか、いつもと違くね?
       気が変わるくらい相原には珍しくもないのだが、普段の相原なら、そうとはっきり言う。気まずそうに取り繕う言い方が気になった。
      「なあ。オレ、なんかマズイこと言った?」
       相原をつかまえて、思わず言ってしまった。
      「なんで?」
       相原はニコッとした顔で振り向いてくる。
      「坂月は何も言ってないじゃん。ヘンなの」
       もう帰ろうと、商店やビルが続くにぎやかな通りを駅の方向へ歩き出す。隣に並んで、葵はどことなく府に落ちない。目に映る相原の横顔が淋しげに感じられる。
      「相原。オレに言いたいことあるなら――」
      「あのさ」
       さえぎってきて、相原は言った。
      「このあと、寄ってもいい?」
      「――え?」
      「引っ越してから、まだ行ったことないし」
      「いいけど――」
      「今日は、親ふたりともいないんだ」
       ボソッと言って、横目で見上げてくる。
      「明日、土曜日だし……泊まってもいい?」
       葵はピンときた。やわらかく笑って返す。
      「なに遠慮してんだよ。前の家のときも何度も泊まりに来てただろ」
      「――いきなりだし」
      「なら、家に電話するから。気にすんなって」
       ぽんと軽く相原の背を叩いた。相原ははにかんでうつむく。葵はさっそくケータイを取り出した。駅へと歩きながら母親に電話する。
      「――うん。え? ちょっと待って」
       相原に振り向いて夕飯はどうするか訊いた。母親に答えてケータイを閉じる。
      「……サンキュ」
       相原の声が弱々しく耳に響いた。
      「おまえ、少しヘンだぞ」
       だから、笑ってそう返した。
      「うん……。なんかさ。さすがに疲れたわ」
       葵は軽く目を瞠る。これまでにも泊まりに来るときには「避難させて」という言い方をしていたが、相原がここまであからさまに沈んだ態度を見せたことはなかった。
       間違いなく、原因は受験のことにあるのだろう。相原の意志とは関係なしに、医学部を受けることが決まっている。
       医者一族かあ……。
       自分はそんな家に生まれなくてよかったとも思うし、自分だったらそんな家に生まれても好きにするとも思うし、しかし実際には、そう簡単にいきそうにないことも想像がつく。
      「なんで坂月まで暗くなるの」
       フッと笑って相原がつぶやく。
      「やさしすぎるって。流されてばっかじゃん」
       顔を伏せたまま、そう言った。
      「なーんて言われて傷ついちゃう坂月、俺は好きだけどね」
       ニヤッとした笑顔で見上げてくる。
      「ホント、も、えげつないったら……」
       返す言葉に詰まって、葵は苦く笑う。相原には慰めも同情もむしろ邪魔とわかるから、少しでもそんな素振りを見せてしまった自分を葵は恥じる。自分が何を言ってやろうとも、相原の抱える問題は解決しないのだ。
       相原のドライなところが好きだった。長くつきあうようになって互いの内面まで見えてくるからこそ、あえてそこには触れない。学校の中でも外でも、自分といるときはいつもへらへらして軽口ばかり叩いて、でも互いに笑顔でいられるように気を配っている。たまに辛らつなことを言ってくるのはわざとで、そうやって自分との距離を測っているのだと思う。信頼を再確認しているとも言えるのかもしれない。
      「坂月さ。もうカノジョ作らないの?」
       金曜日の夕方で、夜が近づくにつれて人出が多くなるようだった。次第に歩きづらくなる通りを駅へと並んで逆行していく。
      「あー、カノジョね……」
       暮れなずむ空を見上げ、葵は溜め息が出た。
      「なんつーかさ。も、いいわ」
      「え? 飽きた?」
       からかう顔になって相原が笑う。
      「そんなんじゃねーよ。つか、そうなのかな。なんか、順番待ちされてるみたいでさ……」
      「うわ、モテる人は言うことが違うねー」
      「だから! そんなんじゃなくて――コクられてつきあってんじゃ、オレ……うん、おまえの言うとおり、流されてばっかじゃん」
       相原は目を丸くして見つめてくる。
      「それ言う? 俺のせい?」
      「ちげーよ。前から自分に嫌気さしてたの。オレが先に好きになんなきゃ意味ねえ、つか」
       そこまで言って葵は情けなくなる。きっと自分は、とんでもないろくでなしだ。
       来る者拒まず、つか、カノジョになってくれるなら誰でもいい、みたいな……。
      「なんだ、わかってたんだ」
       ぽつりと相原が言った。葵は思わず目を向けるが、相原は正面に顔を戻していた。急に思い出したように言う。
      「あ。俺、何か買っていこう。坂月のお母さんに、おみやげ」
      「いいって、そんなの」
      「うるさいな、坂月に買うんじゃないし。俺、坂月のお母さんのファンなの」
       駅はもう目の前なのに、いきなり足の向きを変えて横のビルに入っていく。葵は呆れかけ、しかし相原らしいなと薄く笑った。相原は母親のファンと言うが、むしろ母親が相原のファンだった。


      「ただいまー……」
       自宅に着いたときにはすっかり夜になっていて、かなりの距離を歩き回ったことにもなり、葵はげっそり疲れていた。でも、体力的な疲れはそれほど悪いものではない。一緒に靴を脱ぎながら和やかな顔でいる相原を見て、なおさらそう思う。
      「お帰りなさい。相原くん、久しぶり」
       ニコニコと出てきた母親は、相原から包みを差し出され、いっそう明るい笑顔になる。
      「あら〜、いいのに〜。ま、フカヒレ饅頭」
       語尾にハートがついて聞こえたぞ、と葵は言いたくなる。チラッと視線を寄越してきた相原にも、この策士め、と言ってやりたい。
      「どうする? ご飯いらないって聞いたけど、あるわよ? お風呂もすぐ入れるし」
      「あ、お構いなく〜」
       卒のない返事をする相原を自室に引きずり込む。室内はエアコンが効いてひんやりと涼しく、既に客布団がベッドの横に積まれていて、葵は苦笑するほかなかった。
      「いいなあ、坂月のお母さん。ドラマに出てくる母親みたいだよね。きれいでやさしくて」
       相原にそんなふうに言われても、葵に返す言葉はない。相原は、母親も医者であることを思った。そして相原は一人っ子だ。
      「へえ。坂月の部屋って外に出られるんだ」
       いち早くルーフバルコニーへ続くドアに気づき、相原は布団をよけて歩み寄っていく。
      「かなり広いじゃん。お、さすが高台のマンションの最上階、すっげー夜景、いい眺め〜」
       ドアを開け、顔を出して言った。
      「ぜいたくしちゃって。玄関の横の部屋でベランダつきなんて、なに考えたわけ? 夏はカノジョと花火とか? 残念だったねー」
       振り向いてきて、二カッと笑う。
      「おまえなー、花火って。港の花火なら、そこからは無理だし。出てみればわかるけど、このマンションが邪魔で見えないから」
       隣は翠の部屋で、リビングを通らないと行けないのだが、同じように翠の部屋のさらに隣に和室があって、海の見える南に向かって自室も含めて三部屋が並んでいる状態だ。
      「そうなの?」
       相原は外に数歩踏み出して戻ってくる。
      「マジだわ。このマンションの角で港見えないって、なに? このベランダ、何のためにあるわけ?」
      「エアコンの室外機置き場じゃね?」
      「どんだけ大きいんだっての」
       ケラケラと笑って相原はベッドにストンと腰を下ろす。
      「なんか飲む?」
       尋ねればすぐに答えてきた。
      「俺は、ウーロン茶か麦茶。さっきの担担麺、やっぱ重かったわ。うまいんだけど」
      「だな。ちょっと待ってて」
       キッチンに入ると、ダイニングテーブルで母親がさっそくフカヒレ饅頭を食べているのが見えて、笑ってしまった。冷蔵庫を開けてウーロン茶を取り出す。グラスも出しかけて、カウンター越しに母親にも飲むかと訊いた。
      「ありがと。それより、さっき高梨くんが来たんだけど。ごめんなさい、言い忘れてたわ」
      「え? 高梨? ――何時ごろ?」
      「葵から電話あったあと、すぐ」
       葵は内心で舌打ちする。たぶん母親は相原が来ることも克巳に話しただろう。母親に確かめれば済むことだが、言ってはまずかったのかとかどうとか、面倒になるからあえて訊かない。
       用があるならオレが行くんじゃなかったのかよ。オレは来てもいいなんて言ってないぞ。
       用件は後夜祭の企画内容のことに違いなく、重い気分になる。今は思い出したくなかった。
       いいや。あっさりスルーってことで。オレにも忙しいときがあるんだよ、てね。
       部屋に戻ると、相原は学校から持ち帰ったジャージに着替えていて、あまりの周到さに葵は吹き出してしまった。汗くせえ、などと言ってからかい、自分も着替えてウーロン茶を飲みながら取り留めのない話で盛り上がる。
       翠が帰宅したことに気づいても、父親が帰宅したことに気づいても、葵は相原とずっと自室でくつろいでいた。途中でテレビをつけてからは、ところどころふたりで番組を見て、飽きればまた、ただの雑談に戻った。
      「なんか、腹減らない?」
      「うん」
       日付が変わる頃になって葵は再びキッチンに入る。カウンターの向こうにソファにいる翠が見えた。テレビをつけて深夜のニュース番組を流しているのだが、うつむいて書類のようなものに視線を落としている。
       リビングに両親はいなかった。もう寝室で眠っているのかもしれない。冷蔵庫を開けると、夕飯のおかずだったのか冷しゃぶが一皿あった。ラップを取り払って、並んで置いてあったタレを全部かける。カップ麺のたぐいがないのは普段からのことで、炊飯器に白いご飯はあるけど、どうしようかと葵は迷う。
      「葵」
       翠の声が聞こえた。
      「相原くん、来てるんだって?」
      「……うん」
       なんでそんなことを訊くんだと、わずかながらも葵はムッとする。だが翠は、それきり何も言ってこなかった。冷しゃぶと箸だけ持って、自室に戻る。
      「これって、辛い?」
       床に置いた冷しゃぶの皿を挟んで向かい合い、相原が訊いてくる。
      「かなり。辛いの苦手だっけ?」
      「だから、そういうことマジで言うのやめてくれる?」
       言われて、夕方に食べた担担麺も、かなり辛かったことを思い出した。
      「コンビニ行こうか」
       相原は立ち上がる。
      「いいけど……」
       言いよどむ葵を見下ろし、二カッと笑った。
      「替えのパンツないから買うわ。坂月のなんて穿きたくないし。ついでにほかにも、ね?」
       何が「ね?」だ、と葵も笑って立ち上がる。連れ立ってマンションを出て、コンビニに向かった。おにぎりやカップ麺やポテトチップスやチョコレートもカゴに入れて会計を済ませ、外に出てから葵は言う。
      「ほかも、まだいる?」
       ニヤッと笑って相原を見た。
      「わざわざ訊く?」
      「けど、学校ジャージじゃヤバイっしょ」
       う、と声を詰まらせて相原は眉をひそめる。
      「この先に酒置いてるコンビニあるから。オレ、大学生に見えるみたいでスルーだから」
      「……お得意さんですか」
      「まっさかー」
       ケラケラと笑って先を行く。相原は決まり悪そうに、少し離れてついて来た。
       葵は店内に入ると、適当に見繕って早々に会計を済ませる。相原は、ずいぶんと離れた街灯の陰で待っていた。また連れ立ってマンションに戻り、エレベーターに乗り込もうとしてギクッとした。
      「……葵」
       降りてきた克巳が大きく目を瞠る。相原にも気づいたようで、しかし相原には目も向けずに横を抜けていこうとした。
       今、「葵」って……なんで?
      「どこ行くんだ?」
       咄嗟に尋ねた自分が葵は信じられない。
      「――ランニング」
       肩越しに振り向いて克巳は言う。言われてみれば、それらしい服装だ。克巳には珍しく、Tシャツを着てロング丈のトレーニングパンツを穿いている。
      「今日、うちに来たって……」
       さらに何を言う気だと葵は自分に突っ込む。
      「ああ、あれ。べつに急ぎじゃないから」
       冷ややかに言ったきり、克巳はマンションを出ていく。呆然と見送り、エレベーターの中から相原に呼ばれて慌てて乗り込んだ。
      「ランニングかあ……」
       ぼんやりと相原がつぶやく。宙を見上げて、視線を向けてはこない。
      「ごめん、相原。言ってなかったよな?」
      「何を? 高梨と同じマンションってこと? そんなの、かなりみんな知ってるし」
      「やっぱ、そうなんだ……」
       むしろ、ヘコんだ。隠していたつもりがない分、こうなると、隠していたみたいで何も言えなくなる。
      「ヘンだよ。そんな、気にすることじゃないじゃん。意識しすぎていて、余計にヘン」
      「相原――」
       深夜ということもあって、どの階にも止まらずに最上階の六階に着く。やけに明るく感じられる廊下を無言で歩き、突き当たりの自宅に着く。気を払って静かに玄関を開け、すぐに自室に滑り込む。
       それからは、克巳が話題に出ることはなかった。ふたりで冷しゃぶを食べ尽くし、それぞれに好みで買ったカップ麺とおにぎりも食べて、ポテトチップスやチョコレートなどのお菓子をつまみながらカクテルやチューハイの缶を空けていった。
       未成年に飲酒が禁じられていることは葵も重々承知している。だから、こんなふうに相原と飲んでいても後ろめたさはあった。あえて悪いことをしている快感、というものかもしれない。飲んでそれなりにおいしいと感じるが、特にこれでなくてもいいように思う。さっきまで飲んでいたウーロン茶で十分だ。
      「坂月。風呂、入ってくれば?」
       いくぶんとろんとした目になって、相原が見上げてきた。
      「そっち、先に入れば? お客さんだし」
       気軽に笑って返したのだが、すっと暗い顔になって視線をそらす。
      「え? どうかしちゃった?」
      「べつに――でも」
       くぐもった声をもらし、相原は学校指定の鞄に片手を突っ込む。
      「って。マジ?」
      「うん……ごめんね」
      「じゃなくて。学校はヤバイだろ」
      「……だよね」
       相原が取り出したものを見て、葵は何とも言いようのない気持ちになる。無言で立ち上がり、ルーフバルコニーに続くドアを開けた。
      「外、出よう?」
      「――うん」
       まるで罪人のような声で答えてきた相原に、うっすらと笑いかける。
      「違うって。さっきコンビニ行ったとき、外のようが気持ちよかったから」
      「――だね」
       ルーフバルコニーはマンションの五階の屋根でもあるわけで、初夏の夜風に絶え間なく吹きさらされていた。葵はそれを心地よく感じ、窓の前に腰を下ろして壁にもたれる。
      「来いって」
       相原を呼んだ。自分の手にはモスコミュールの缶がある。そんなに気にするなと言ってやりたかった。自分も同罪だと――。
      「ん」
       隣に来て相原も腰を下ろす。顔をそむけ、見えないところでタバコに火をつけた。煙の匂いが、かすかにも鼻をつく。相原が吐き出した煙が、背後からの室内の明かりを受けて白く目に映った。
      「……ワリィ。まだ吸ってると思わなくて」
       言い訳のように口にし、葵はそれをモスコミュールで流し込む。
      「呆れた?」
       いっそ素っ気ない声で相原は言う。
      「いや」
       葵はきっぱりと否定した。喫煙など相原の一部にすぎないと、とっくに割り切っていた。
      「タスポできたから。やめたって勝手に思い込んでた」
      「ああ……だよね。俺じゃ対面で買えないし」
       ヘタをすると中学生に間違われることもあると自覚しているのに、なんで、とは思う。
       葵は、相原にタバコは似合わないと思っている。相原の一部と割り切れても、似合うと思うかどうかは別の話だ。
       ……そういう話でもないんだけどさ。
       手の中にある缶をじっと見つめて思った。
      「ね。肩、貸して」
      「え?」
       相原はもたれかかってくる。横顔を見せてタバコを吸う。白い煙が細くたなびいていく。
       その向こうに見える翠の部屋の窓が暗いことに気づいて、葵はホッとした。目を凝らすと半分ほど開いているとわかったが、室内が暗いのだから翠は不在か、もう眠ったはずだ。
      「やさしいね……坂月」
       ぽつりと相原がもらした。うっとりとしたような声で、そのくせ妙に淋しい響きで。
      「たまに思うんだ。もし俺が女だったら、俺は坂月とつきあってたのかな、て」
      「は?」
       気の抜けた声が出てしまった。相原は見上げてくる。大きな瞳が室内の明かりを映して、濡れたように光る。
      「でも、やっぱ、ないと思う。俺は順番待ちなんて、できない性格だし」
       そう言って、くすっと笑う。つられて笑い、葵はうなずいた。
      「だな。相原は、待つなんてできないな」
      「でしょー?」
       しかし、言いながら相原は視線をそらす。肩を落として息をついた。
      「ねえ。信じられる?」
      「何が?」
      「夜、勉強していて、なんか吸いたくなって、けどタバコ買えなくなっちゃって、仕方ないから何か食べるか飲むかして紛らわせようと思ってキッチンに行くわけ。そしたら、ダイニングテーブルにタスポが置いてあるわけよ。どうぞ、って言うみたいにさ」
       うつむいたまま、自前の携帯灰皿にタバコを軽く叩きつけた。その仕草が手馴れて見え、葵は胸が締め付けられるようだった。
      「ああいうのって、なんだろうね。とっくに知ってたんだ、って思った。黙認するんだ、って思った。父親の名義かと思ったら母親の名義でさ……なんか、涙出た」
      「――うん」
       つぶやいて、葵は相原の肩に腕を回す。かすかな震えが伝わってきて、息苦しかった。
      「そんなに、俺を医学部に行かせたいのかと思ってさ。とにかく入ってくれればいいなんて言って……受験のためなら何でもするって、親でも本人でも聞くけど。これで俺が本当に医者になって、でも間違っても呼吸器科には就けないな、なんて思うわけだ」
      「うん」
       ぎゅっと相原の肩を抱き寄せた。されるがまま、相原は肩に頭を預けてくる。
      「父親は産婦人科で、俺には産婦人科は絶対勧めないなんて言って、母親は内科で、なのに、俺にタバコ吸わせるなんてさ。医者なんて、何だっての。今日だってふたりそろって当直で、生まれてからずっとそうだよ、俺にはやさしい、つーか甘いけど、だからそれが何だって。どれもこれも、俺を医学部入れるため? それだって親の希望じゃないじゃん、親戚中みんな医者とか看護士とか放射線技師で、だからとにかく医学部入ってくれって、挫折してもいいからって、たったそれだけのことでさ!」
      「相原――」
       相原は携帯灰皿にタバコをもみ消す。それがすべての元凶でもあるかのように。
      「はー……」
       相原の深い溜め息が耳を掠めた。葵は相原の肩をただしっかりと抱いた。
      「……俺、みっともない。やめようと思ってたなら、やめられたはずなんだ。高梨みたいにランニングでもするんだった。テーブルにタスポがあったせいじゃない。俺が弱かっただけなんだ」
      「そんな、自分を責めるなって」
       思わず言えば、相原は暗い眼差しを向けてくる。
      「坂月はやさしいね。一緒にいて救われるのがほとんどだけど、やさしすぎて、たまにひどく残酷だ」
       え――。
       言われた意味が、ずしりと胸に響いた。
      「ダメだよ、流されてちゃ。何でも受け入れてくれて、うれしく思うけど、イラッとするときもある。でも俺は、坂月がそんなだから好きなんだけどね」
      「相原――」
       いつになく、一線を越えた物言いをされたと感じた。自分との距離を測って、ドライでいる相原とは違う。
      「なに? そんな見つめないでよ。俺とキスしちゃう?」
       葵はハッとする。何か思い当たったような気がしたが、それに手が届く前に相原にさえぎられた。
      「坂月、笑える〜。酔ってんじゃないの? ほら、風呂入って来いって。俺はもう一本吸うから」
      「けど」
      「……そんなの、見たくないでしょ?」
       もう本当に何も言えなかった。相原の肩から腕をほどき、葵は立ち上がる。室内に戻り、着替えを取り出してバスルームに向かった。
       ただ、無性に悲しかった。自分の無力さを痛感していた。だが、それがどこから来るのか、それはわからなかった。



      つづく


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