Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




      猫と水たまり
      −7−




       翌日の土曜日、葵は午後遅くなって克巳の家の前に立った。深夜にエレベーターで鉢合わせたときに夕方訪ねてきた用件は急ぎではないと克巳は言ったが、どう考えても後夜祭のことに違いなく、それなら急ぎでないはずがなかった。あと一週間もすれば、夏休みだ。
       わかっていて、丸一日放置してしまった。閉ざされた玄関を見つめ、葵は溜め息が出る。相原は正午前に帰っていったのだから、本当ならもっと早く来られたのだ。
       オレ、ホント、しょーもねーよなー……。
       両手ともハーフパンツのポケットに突っ込み、Tシャツの背を丸めて葵はうな垂れる。ここに来てまで、まだ落ち込んでいる自分が情けない。気持ちを切り替えて、積極的に働きかけていこうと決めたはずではなかったか。
       昨夜、相原とあんな話をして、朝になってから気まずかったとか、そういうことはまるでなかった。少なくとも相原にそんな様子は見られず、マンションの前まで見送ったときにも、すっきりとした明るい笑顔だった。
       むしろ自分のほうが昨夜のことを引きずっていたようで、そんな相原にうまく笑い返せなかった。本当に、どうしようもないと思う。
       軽く落ち込んで自宅に戻り、何か飲もうとキッチンに入ったのだが、リビングからいきなり翠に声をかけられた。
      『おまえ、わかってやれよ』
       何のことかと、ぼんやり顔を向けたら呆れたように言われた。
      『タバコやめろって、相原くんは、おまえに言ってほしかったんじゃないのか?』
       ショックだった。あのときの会話を翠に聞かれていたと知ったことよりも、相原をよく知りもしない翠にそう指摘されたということが、ぐさりと胸に突き刺さった。
       それからは自室にこもって、ずっとうだうだしていたのだ。翠に言われなくても気づいていたとか、それでも言えなかったのは相原を否定するようなマネをしたくなかったからだとか、言わなかったことでかえって相原を傷つけたなら言えばよかったとか、とんでもなく落ち込んだ。ついでのように、これまでに克巳に言われたことが渦を巻いて思い出され、自己嫌悪のドツボだった。
       本当は、相原に言いたかったのだ。喫煙はやめろと。自分自身を責めてまで続けることはないと。どうか自分自身を嫌わないでいてほしいと――そう言いたかった。
      「はー……」
       克巳の家の前に来てまで何をやっているんだと、また落ち込んでくる。ちょっとした躊躇が取り返しのつかないことにもなると、身にしみたばかりなのに。
       今さら、相原に喫煙をやめろなんて言えない。いつもドライな相原が、あそこまで内面をさらしたことは昨日までなかったのだ。
      『そうだね。考えとく』
       もう相原は、さらりとそう返して薄く笑うだけだろう。タイミングを逃してしまえば、本当には気持ちは伝わらない。
       ――タイミング。
      「ちっ」
       苦々しく舌打ちして葵はポケットから片手を出した。投げやりに克巳の家の呼び鈴を鳴らす。そうしても、とにかく冷静でいろと自分に言い聞かせた。
      『――葵?』
       インターフォンから返ってきた声は克巳だった。モニターで確認したに違いなく、ややあって玄関ドアが開く。
      「どうした?」
       平然と尋ねられ、なんだか気が抜けた。いつもの克巳だ。ポロシャツにチノパンツといった服装もいつもどおりで、溜め息混じりに見てしまう。
      「どうした、って。昨日、なんでうちに来たわけ?」
      「ああ、あれ」
       さも意外だったように克巳は言う。
      「月曜日に学校で話せばいいと思って」
      「じゃ、なんで昨日来たんだよ」
       葵はつい突っかかってしまう。
      「なんで、って。――あれ? 話がループしてないか?」
      「じゃなくて、おまえが用件言えばいいだけだろっ」
       結局は焦れて、きつく言い放った。
      「またこれか」
       克巳はウンザリした顔になって、ドアを押さえていた手を離す。
      「入って。ちゃんと話すから」
       閉じかかるドアに慌てて、葵は中に入った。
       同じマンションでも自宅とは間取りが違う。玄関から伸びた廊下の左右にドアがいくつか並んでいて、克巳は一番手前の右側のドアを開ける。目で促され、葵は黙って従った。
      「どうぞ」
       克巳は机の前の椅子を引き、向きを変えて葵に勧める。部屋は窓が通路側にひとつあるだけで、葵の自室よりもかなり狭い。密室のように感じられ、葵は少し戸惑う。
      「座って」
       克巳は机の横のベッドに腰を下ろすのだが、椅子に座った葵と膝がぶつかりそうな近さだ。
      「昨日は、後夜祭の企画書のことで行った」
      「やっぱ、そうなんじゃん。だったら、急ぎじゃないなんてあるかよ」
       克巳が話し始めたことで少しホッとして、葵は平静を取り戻す。それにしても無駄な近さだ。
      「違うんだ。昨日、提出して帰ったから――」
      「ちょ! 提出したって? マジでっ?」
       びっくりした勢いで腰が浮き、やはり膝がぶつかった。
      「まずかったか?」
      「まずかったか、って……」
       葵の鼓動は変に速くなる。聞かされたことにもだが、むきだしの膝がむずむずするみたいで気になった。
      「いや、出しちゃったんなら――」
       もう何を言っても意味がないと思いかけてハッとした。
       そうだった……コイツなんてどうでもいいんだし。
       相手が誰であろうと、言いたいことがあるなら言うタイミングを逃さないと決めたのだ。相原が相手では遠慮もあったかもしれないけど、克巳には遠慮する義理などない。
       つか、オレがコイツを使ってやるんだし。
      「なんで勝手にそういうことするわけ?」
      「え」
       軽く目を瞠って克巳が見つめてくる。相変わらず近すぎる距離だ。
      「俺はあれでベストだと思ったから」
      「にしたって、先に言えよ。おまえって、いつもそうな。先に言え、って思うこと多い」
      「……悪かった」
       克巳はうつむく。それが意外に思え、だがそうでもないと葵は思い直す。以前にも同じようなことがあった。
      「オレはさ。正式に出す前に文化祭の顧問に話通そうと思ったわけ。あの人はわりと好意的、つーか、話せばわかってくれる部分があるから味方にしておきたかったわけよ。それをおまえは、ぶっ壊してくれたわけだ」
       克巳は身の置き場もない様子でメガネを指で押し上げる。
      「どうするよ?」
       話しているうちに葵は本気で怒ってきた。あの企画でよかったなら、なおさら顧問に見せて説明しておきたかった。教師のあいだで検討されるようなことになったら、フォローしてもらうつもりでいたのだ。
      「あのさ……言いにくいんだけど」
      「なに」
       そろそろと目を上げた克巳に葵はつっけんどんになる。
      「また先に言えって言われるな」
      「だから何が」
      「その心配はないって言うか……受理されたんだ」
      「えっ!」
      「だから、あの企画が通ったんだ」
       葵はまじまじと克巳を見てしまう。近すぎる距離に戸惑っている余裕もなかった。
      「……マジで?」
      「マジだ」
      「って、じゃあ後夜祭、決まり?」
      「決まった」
      「く〜……」
       葵はぎゅっと拳を握り、うつむいて肩を震わせ、喜びに舞い上がりそうになる気持ちを抑える。目の前にいるのが相原なら、抱きついているところだ。
      「――意外」
       ぽつりと克巳に言われて顔を上げた。
      「もっと喜ぶと思ったのに」
      「喜んでるじゃん! ケチつけるなよ!」
       葵は熱くなって言うが、克巳は冷静だ。
      「そうなんだ」
      「じゃなくて、だからそういうことは先に言えって――」
      「言おうとしたら葵がさえぎったんだろ」
      「なんだって?」
      「昨日提出して許可下りたって話そうとしたのに、勝手に提出するなって口挟んだんじゃないか」
       葵は返す言葉に詰まる。言われてみれば、そうだった。
      「……悪かったよ」
       今度は自分が謝ることになった。
      「いいよ、べつに。どっちにしても、文化祭顧問には直接話したほうがよさそうだし」
      「今さらかよ……」
      「味方につけられるなら、そうしたほうがいい。コピー、取ってあるし」
       克巳は身を乗り出し、葵の足の横から手を回して机の引き出しを開ける。克巳の頭が葵の目の下に来て、ふわりとシャンプーの香りらしき匂いが甘く漂った。
       ……フローラル?
       場違いなことに思考が飛んで、葵は慌てる。ほら、と克巳から差し出されたコピーを目の前でしどろもどろに受け取った。
      「それ使って、顧問に話して……どうした?」
      「いや――」
       葵はまた言いよどみ、また思い直す。
      「おまえ、女物のシャンプー使ってんの?」
      「え? ……ああ、そんなに匂う? うち、ほかはオヤジが使ってるトニックシャンプーしかなくて、そっち合わないから」
      「なら、自分で買えよ」
       思わず言えば、きょとんとした目になって見つめてくる。
      「――そういうもの? 考えたことなかったな……あ、そうか。これも麻衣が買ってるし」
      「麻衣って、だれ?」
      「姉だよ」
       そこでなぜか互いに沈黙してしまう。膝をつき合わせて見つめ合っている状態になった。
       ……なに、これ。
      「相原、もう帰ったのか?」
       妙な雰囲気になっていると克巳も感じているのは明らかで、話題を探した末にそんなことを言い出したのは葵にも伝わった。
      「帰ったよ。って、もう夕方じゃん」
       それにしても、続きそうにない話題を振ってくるあたり、いかにも克巳らしい。コイツの辞書には臨機応変なんて四字熟語は載ってないんだろうなと葵は思う。
      「そういうものなんだ……」
      「ちょ、待てよ。さっきから、おかしくない? つか、誰も泊めたことないのかよ?」
      「ない」
       まさか、そんなふうに即答されるとは思わなかった。さすがに声が出なくなる。
      「相原とは仲いいんだな。知ってたけど、泊まりに来るほどだったなんて、驚いた」
      「そんな、驚くことじゃねえじゃん――」
       泊まったり泊まらせたりするくらい、それほど親しくない相手同士でも聞く話だ。
      「そういうことじゃなくて、葵が相原を泊めるってことが……ほかにもいるのか?」
      「は?」
       なんで、こんな話になっているのかと思う。
      「相原だけに思えるけど。相原が、そこまで葵をつかんでるってことが驚きって言うか」
      「はあっ?」
       克巳は真顔で見つめてくる。やはり、近い。
      「前も言ったけど、葵は誰の思いどおりにもならないと俺は思ってたから――」
      「じゃあ、なに? オレが相原の思いどおりになってるって?」
      「そこまではどうか知らないけど、かなり」
      「――て。それって」
       やけに真剣な克巳の眼差しを受けて、葵はいたずら心がむずむずしてきた。
      『最近べったり? て感じ? 妬けちゃう』
       相原にそう言われたことが急に思い出され、ニヤリとして克巳と目を合わせた。
      「もしかして、妬けちゃう?」
       唐突に克巳の両肩に手を置いた。
      「おまえの思いどおりにならないのに、相原の思いどおりになってるんじゃさ」
       瞬間、克巳は固まった。両手で捕らえた肩に力が入り、丸くなった目がひたりと自分に据えられ、さあっと頬が淡く染まる。
       ――え。
       ドキッとして、むしろ葵がうろたえた。ふざけるなと言って、克巳はすぐに肩から手を払うと思ったのだ。それが、こんな反応を見せられることになるとは思い及ばず、引くに引けなくなってしまう。
       って、あれか! あのときも――。
       校長室で直談判したあとに、階段の踊り場で同じ状況になったことを思い出した。
      「――だから。なんで赤くなんの?」
       あのときは訊けなかったことを言ってみる。
      「これじゃ、なんか――」
       言いかけたとき、克巳がビクッとした。目を細め、キッと睨んできたかと思うと、両肩にある手を同時につかみ、思い切り引っ張って、その勢いで身を返した。
      「え? えっ……うわ! 克巳!」
       葵には、床と天井がぐるっと回ったようにしか見えなかった。気づいたときには、克巳にベッドに押し倒されていた。
      「ななな、なにっ? これっ?」
       手首は両方ともきつく握られ、仰向けになった顔の両脇に押さえつけられている。開いた膝のあいだに克巳は片膝をつき、ベッドに半身を乗り上げている。克巳の腕の長さ分だけ離れた高さから、冷ややかに見下ろしてきた。
      「俺をからかうと、おもしろい?」
       ひぇぇーっ。
       葵は声にならない叫びを上げる。
      「こんなふうにされると、どんな気持ち?」
       こ、怖いです……。
      「キスされそうとか――思う?」
       ――へ?
      「……俺がどんな気持ちだったか、わかったならいい」
      「克巳――?」
       克巳は葵の両手首を放してベッドから下りていく。葵はわけがわからなかった。ただ、やたら胸がバクバクしていて、本当にキスされるんじゃないかと――確かにそう思った。
      「……どういうこと?」
       恐る恐る、克巳の背中に訊いてみる。
      「オレにもキスされるって思ったわけ?」
       言ってから思い出した。階段の踊り場にいたとき、自分もそう感じたのではないか。
      「って、男同士だぜ? マジかよ」
       吐き捨てるように言って、無理にも笑った。万一にも本気にされたら冗談ではない。
      「……したじゃない」
      「は?」
      「――なんでもない」
       思考がこんがらがる。ここに何をしに来たんだっけ、と思った。
      「あ――」
       もう話は終わっていたのだ。自分の立てたあの企画で万事オーケーと聞かされたのだから、それ以上のことは何もないわけで――。
      「オレ、帰るわ」
       ふらふらと葵は起き上がった。まだ背を見せている克巳に言う。
      「これ、コピー。借りてくから。この先の打ち合わせは……学校でしようぜ」
      「――わかった」
       返ってきた声は弱々しく、葵は何とも言えない気持ちになる。目に映る背中が抱きしめてくれと言っているような錯覚に陥り、慌てて打ち消した。
       克巳が落ち込むことかよ……。
       行き過ぎたことをしたと猛烈に反省しているのかもしれない。あるいは、何かがっかりしたとか。
       じゃなくて!
      「じゃ、学校で」
       身をひるがえし、葵は克巳の部屋を出た。急いで自宅に戻り、逃げ込むように自分の部屋に入った。
       しかし鼓動は少しも静まらず、むしろ速くなったような気がして、なかば走って帰ってきたせいだと思い込むことにする。
       でなければ……おかしくなりそうだった。自分を押し倒し、冷ややかに見下ろしてきた克巳の顔。いつもと変わらず端整なのはあたりまえで、しかし身がすくむほどの迫力があった。何をされるかわからないと、本気で怯えたのだ。
       マジ……キスくらい、楽勝でされてたって。
       そうすることに意味があるのか、そんなことを克巳が本気で考えていたのかわからないが、とにかく――ドキドキしたのだ。
      「はー……」
       自室のドアに背でもたれ、葵はずるずると下がっていく。床にへたり込み、ようやく息が継げた気がした。
       あれはヤバイわ、マジで。
       女子ならイチコロだろうなと、ぼんやり思う。あんなふうに克巳に迫られたら、女子はたまったもんじゃないだろう。なんと言っても、あのときの克巳は――。
       めちゃくちゃエロカッコよかった。
      「うわ、オレ、なに思っちゃってるわけ〜」
       しかし思い出したら、なかなか消えてくれない。さらりと額に散った黒髪とか、メガネの奥から冷ややかに見つめてくる眼差しとか、両手首を捕らえた思いがけない力とか。
       あー……でも、姉ちゃんのシャンプー使ってるから髪サラサラなんだなー。
       無理にも頭を切り替えて、そう思ってみるしかなかった。サラツヤの黒髪。女子なら好きなタイプだ。


      つづく


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