「え? 朝?」 それまで気のない様子でいたのに、克巳は意外そうに目を向けてきた。 「しょうがねえじゃん、オレが一番に話さなきゃ意味なかったんだし」 昼休みに克巳の教室に来て、後ろの戸口で立ち話をしている。それだけでも葵は居心地が悪いのに、加えて克巳のこの反応だ。 週が明けて月曜日の今日、葵は早々に登校して車通勤の文化祭顧問を駐車場で待つという、またしても自分らしからぬことをした。後夜祭の企画内容が自分以外の口から顧問の耳に入る前に説明したくてそうしたのだが、そんな恥ずかしいことを自ら話して克巳に驚かれるのでは、余計に居心地が悪くなる。 「なんでオレがそこまですることになったと思ってんだよ? 先生、まだ知らなくてセーフだったけど『事後報告か?』なんて言われちゃうし。誰かさんが先走ったせいだろ?」 「……それは、謝ったじゃないか」 「ま、いいけどね」 気まずそうに顔をそむける克巳に、溜め息が出そうになった。 土曜日のこと、まだ引きずってるって? でなければ、もっといい反応を見せてくれるはずだ。克巳も文化祭顧問を味方につけたほうがいいと言ったのだから。 「とりあえず、先生には納得してもらった。で、そっちはどうよ? 今日になって何か言われたとか、ない?」 「今は、まだ。一応、放課後まで様子見るつもりでいるけど、あの場で許可下りたんだし、取り消されることはないと思うけど――」 そう話しても克巳は横顔を見せたままだ。 「オレなんて、かなり突っ込まれたけどな。あれで通ったなんて、自分でもビックリだ」 どうしようかと葵は思う。実行委員会の仕事は、係に割り振ってからはそれぞれの部会に任せてある。全体会では進捗状況の報告や今後の打ち合わせに終始していて、そこに後夜祭の企画を持ち出すのは難しく思える。 やっぱ、ある程度内容が固まってから話すか、いっそオレと克巳で決めちゃったほうがいいんだろうな。 今でさえ委員たちは時間を取られて忙しくしているのだから、仕事が増えたら負担に思うだろう。 「克巳とオレで進めるので、いいと思う?」 ひとまず、克巳の意向を訊いてみた。 「ああ。そのつもりだったし――」 そんなふうに返すのに、克巳は目を戻してもこない。 「おまえさー。そんなに気にしてるわけ?」 そう振れば即座に否定してくると思ったのだが、逆に黙り込まれてしまった。これでは、こっちまで気まずくなってくる。 どうすりゃいいのー。 自分をベッドに押し倒したくらい大したことではないと、言えそうでいて言えない。 おまえが流せば済むことなのに〜。 いくら真面目でも、あんなことまで真剣に考えないでほしい。こだわられると、本当は深い意図があってしたことかと勘ぐりそうになって困る。 「もう忘れろって。もっと気楽にやろうぜ」 思わず言っていた。 「オレは今日も委員会だから。とにかく何かあったら、すぐに言いに来いよ?」 「――わかった」 硬い声で返され、今度こそ溜め息が出た。顔を伏せる克巳を残して自分の教室に戻った。 それから放課後まで、葵は落ち着けない気分でいたが結局は何もなかった。委員会が始まる前に顧問にそれとなく訊いてみたが、後夜祭の開催を決定したと朝の職員会議で伝えられたきりのようだった。 「先生のほうは、どうなの? 後夜祭なんて、面倒とか思ってる人がほとんど?」 思い切って言ってみたら、淡く苦笑された。 「そんなふうに思われるようじゃ、俺たちも地に落ちたもんだな」 つまり「その限りではない」という意味だろう。それ以上のことを言わなかった顧問に葵は申し訳ない気持ちになった。すみません、と小声になって返した。 そんなことがあって、委員会でも後夜祭については生徒会と原案を練っている最中だと話すに留めた。当日の運営をどうするか質問が出たが、実行委員だけでやることになるか生徒会役員にも手伝ってもらうことになるか、まだわからないと答えた。 文化祭ポスターの応募数が少ないのでクラスでもう一度声をかけるように指示して散会にした。その後も役員で残り、文化祭当日のタイムテーブルに無理や問題がないか検討し合った。 窓の外に暮れなずむ空を見て、葵は溜め息が出る。他の役員たちと廊下で別れ、ひとり生徒会室に向かった。だが、既に鍵がかけられていた。 もう帰ったのか――。 自分が作成した企画書が通ったとあっては、すぐにも補足説明をして、わざと曖昧にした部分を克巳に知らせたかった。そもそも企画書を渡すときに説明するつもりだったのだ。なのに、断りもなく克巳に提出されて、この上さらに勝手に動かれては困るし、それ以前に今週で一学期が終わってしまう。 急ぐのに。 ならば克巳の家に行くしかないだろう。用があるときは自宅に来てもいいと言われた。 思うのに、今日は特にためらわれる。 『……したじゃない』 そう言ったんだよな、あのとき。 その場ではピンと来なかったが相原とキスしたことを言われたのだと、あとから気づいた。しかし、あれは劇の中でのことだ。やり過ぎは認めるが、普段から男にもキスすると思われては困る。 つーか、マジそう思ってんのか? 考えると、なんだか不安になる。校長室に直談判に行った帰りに階段の踊り場であんなことになり、まるでキスする五秒前みたいだと自分も思ったわけで、となると克巳も同じように感じたのかもしれない。 オレが克巳にね。……ねーわ。 しかし自信が持てない。しようと思えば、男にもできることは相原で実証済みだ。 じゃなくて! しようなんて思わないし! やはり相手を選ぶと思い直す。いくら劇の中でのことでも相手が相原だからできたのであって、手近なところで、さっきまで一緒だった副委員長を思い浮かべてみたが絶対に無理だ。柔道部の重量級とキスなんて。 けど、克巳は顔がアレだから……。 思いかけて、そうじゃないだろうと自分に突っ込む。キスしてくれと克巳に言われたわけではない。男にキスするはずがないと自分が言ったから、したじゃないかと返されただけのことだ。 だから気にしてくれるな、つーの。 克巳が引きずっているから自分まで引きずられる。ならば、自分から断ち切ればいい。 思い切って、葵はマンションに着くと帰宅するより先に克巳の家の呼び鈴を鳴らした。 『葵?』 今日もまた克巳がインターフォンに出た。 「後夜祭の企画書のことで話がある」 すぐに玄関が開いた。克巳は以前に見たときと同じようなトレーニングウェアに着替えていた。 ――意外。 ランニングにでも行くつもりだったのか。Tシャツの襟に覗く鎖骨に目が止まり、ドキッとして葵はうろたえる。目を移すにも、短い襟足から肩に続くなだらかな曲線が優美に感じられ、おかしなほど動揺した。 「どうした? 入って」 促されて玄関を上がるが、また克巳の自室に通されそうになって葵は言う。 「リビングで話さない? 突き当たり、そうだろ?」 克巳の返事を待たずに廊下の先を行った。克巳の家族と顔を合わせることになっても、要領よく振る舞うくらい、お手のものだ。 「……留守?」 勝手にドアを開けて克巳に振り向いた。中は薄暗く、レースのカーテンが引かれた窓の端に夕焼けに染まった空が見えた。気づけば、家のどこからも人のいる気配が感じられない。 「うちは共働きだからね」 あきらめたように克巳はつぶやき、葵の横をすり抜けて先に入る。すぐに照明がついた。 葵の自宅のリビングに比べると、かなり狭い。克巳はテレビとソファの合間を横切り、ベランダの窓を半分まで開けて戻ってくる。ダイニングテーブルの上にあった雑誌や新聞をまとめて片隅に寄せた。葵の目の前まで来て、廊下へ続くドアを開いてロックする。窓からの風が、ゆったりと吹き抜けていった。 「共働きって、母親もフルタイム?」 「そう。ふたりとも教師だ」 克巳はキッチンに入っていく。 「――え」 意外に思えたことに葵は戸惑った。 親が先生って……もろ、そんな感じじゃん。 成績優秀で品行方正な克巳だ。意外に思える点はまったくないはずなのに、意外だった。 「座って」 言われて葵はダイニングテーブルに着く。横のカウンター越しにキッチンが見えるのは自宅と同じで、克巳はグラスに麦茶を注ぐとカウンターに置いた。 「エアコン、いらないよな?」 「――うん」 葵は、どうも居心地が悪い。学校で会ったときとは違って、克巳は自然体だ。あれから土曜日のことは吹っ切れたのか。 なら……べつに、いいじゃん。 しかし、そうなると克巳の自室をわざわざ避けたことが後ろめたく思えてくる。勝手にリビングに入って克巳の家庭を覗くようなまねをして、それをまたいつものように高飛車に突っ込まれたら、とんでもなく気まずい。 「どうしたわけ? さっきから」 克巳は正面に座って、まっすぐに見つめてきた。 「なんで、緊張?」 それぞれの前に麦茶を置いて言う。 「じゃなくて、萎縮してる?」 フッと笑った。いつになく砕けた笑顔だ。 ――あ。 またドキッとして葵は焦る。学校で目にする仮面のような笑顔でもなく、嘲笑する顔でもない。やわらく口元がゆるみ、温かく、親しみを感じさせる笑顔で――。 「思いどおりにできないなら思いどおりにされる、思いどおりにされないなら思いどおりにできる。俺たちは、そういう関係だったな」 すっと目を細め、穏やかに言った。何を思ったのか、腰を浮かせてテーブルに身を乗り出してくる。 「えっ」 片手で顎を捕らえられ、葵は仰け反った。だがすぐに引き寄せられて、眼前に迫る克巳の顔を驚いて見つめる。 「ふっ、ん!」 何が起こったのか、簡単には飲み込めなかった。キスされている。テーブルを挟んで、上から被さってきた克巳に。 ――って! 濡れた舌先に唇をこじ開けられ、心臓が跳ね上がった。ぐっと強く顎をつかまれ、歯列が開く。やすやすと侵入を許すことになり、ぬるりと克巳の舌先が自分の舌に触れた。 「ぶ、ぶゎっ……か!」 思わず立ち上がり、葵は突き飛ばす勢いで克巳の肩を押した。唇が離れ、しかし克巳の薄く開いた唇の合間に濡れた舌先が見えて、それが残像のように目に焼きつく。 「いきなり、べろチューかよっ」 自分でも何を言っているのかわからない。心臓はバクバクするし、顔は熱くなる一方だし、無意識のうちに手の甲で唇を拭った。 「――意外」 克巳は涼しい顔で椅子に戻り、葵を見上げてくる。 「顔、赤いよ? なんで?」 「って、おまえなあ!」 「俺にも言っただろう?」 「仕返しかよっ」 「葵、かわいい」 にっこりと笑った。華やぐような笑顔だ。 「おま……っ」 葵は肩で息を継ぎ、いっそう熱くなる顔を伏せる。股間が大変なことになっていた。慌てて座るが、克巳に気づかれなかったかと不安になる。 「つか、なんでいきなり……」 今、克巳に言われたことは、すべて自分が克巳に言ったことと同じだ。しっかり覚えていた。 だからって、なんで仕返し。つか、なんで今――。 「したくなったから」 しれっとした克巳の声が聞こえ、驚いて顔を上げた。 「は? したくなったから?」 「最初に言った。できないなら、されるのが俺たちだ」 「なんだよ、それ!」 それじゃ、オレがしたがってたみたいじゃねえか! 本気でそう思われていたのかと声も出なくなる。それよりも、克巳にキスされて勃ってしまったことのほうが問題だ。 ……あんな、べろチューなんか、すっから。 「後夜祭の話だったな。コピー持ってるなら、出して」 いっそ冷静に言われ、愕然として克巳を見た。冷ややかに目で催促され、足元に置いた鞄から無言で取り出した。 「学校に出すにはこれでベストだったけど、俺も訊きたいことがあったんだ」 テーブルに置かれたコピーに視線を落とし、克巳は平然と話し始める。 「有志参加で会場は体育館。花火もキャンプファイヤーもなし。ずいぶん無難にしたよな。でも、これで通ると思った。だけど、ここ。服装は制服か学校ジャージかクラスTシャツ、もしくは文化祭衣装――ってさ。抜け道にしたのはわかるけど、ひとくくりに文化祭衣装って、ヤバくないか?」 上目使いに見つめられ、葵は返答に詰まる。質問の意味はわかるし、まさに補足説明したかった箇所なのだが、克巳が何を考えているのかまったくわからない。 いきなりキスして、いきなりこうかよ? 「ヤバイって、アレだろ? 劇なんかの衣装はいいけど、バンドとかのだと私服と見分けがつかないって言うんだろ?」 ムッとしながらも返したが、克巳の唇に目が行ってどうしようもなかった。まだ濡れて見えるのは気のせいか。 「そう。対策、考えてある?」 「オレらが入り口で服装チェックすんだよ」 「――え?」 「おまえとオレ。意味わかるだろ? 女子だけじゃなくて、男子だってビビるって」 克巳は大きく目を瞠った。ぽかんと口を開く。相当驚いたのは一目瞭然で、しかし葵は克巳の唇の中に赤い舌先を見ていた。 ……ヤバイって。 「それってつまり、実行委員長と生徒会長だから、という意味ではないよな?」 「あたりまえだ」 「……自分を見せ物にするのか」 つぶやくように言って、克巳は暗く吐息を落とした。 「なにそれ? オレらを見せ物にしてんのは女子だぞ? こんなときくらい利用したっていいじゃん」 克巳と並んでいると、しょっちゅう品評会にされる。それを逆手にとってプレッシャーをかけるつもりだった。女子だけでなく男子も、ふたりで待ち構えて入り口で服装をチェックすると知らされれば、入場を拒まれないように気をつかうと思えた。誰だって、衆目の集まる場所で恥をかきたくないはずだ。 「克巳はゼッタイ制服な? 一番、決まって見えるから。オレはチャラいカッコのほうがハマるから、それで文化祭衣装なわけ」 「葵……もしかして、女子が嫌いか?」 克巳は呆然としたように顔を上げてくる。 「べつに。そういうわけでもない」 そのあたりの心情は、自分でも説明がつかない。ただ、値踏みされるみたいに見られるのは嫌いだ。相手の男女にかかわらず。 「よくわからないな。女子に見られてうるさそうにしてるけど、モテることが自慢なんだと思ってた」 葵は顔をしかめる。克巳を睨みつけて言う。 「おまえはどうなのよ? 自分がモテてるの、わかってんだろ? 自慢か?」 「まさか。俺にはどうでもいいことだ」 気がなさそうに克巳は言い切った。 「――話がそれた。次、行こう」 すっと視線を下げ、コピーに目を向ける。 「内容は有志によるパフォーマンス――これはどうするんだ、何でもアリなのか?」 そこも補足説明したかった箇所だ。おのずと葵も真剣になる。 「基本、何でもアリだけど、大がかりなものは対応できないし、申し込みを募って事前にチェックする。飛び込みは禁止だ」 「決まった時点で、学校側にも知らせたほうがいいな……」 「あたりまえだ。それ、顧問にも言われたけど、後夜祭の途中でゴタゴタしたらダサすぎ」 克巳はテーブルの上に腕を組んで、前のめりになる。 「時間は五時から七時までの二時間で、最後はフォークダンス――。これも訊きたかったんだ。マジに、フォークダンス?」 怪訝そうに見上げられ、葵はがっくりと肩が落ちた。 「おまえまで、オクラホマミキサーとか言うわけ?」 一瞬だが、克巳はギクッとしたようだ。さりげなく視線をそらした。 「顧問とおんなじかよー。なわけ、ねえって。つか、マジそう思ってて、これでベストだと思ったわけ? そっちのほうが信じらんね」 葵は背もたれに身を投げ出し、軽く溜め息をついた。 「ジンギスカン、小学校で踊らされただろ?」 視線を戻してきた克巳に、ニヤリと笑う。 「あれを元歌じゃなくて、カバーでやるわけ」 「それじゃ――」 「そ。習ったときはフォークダンスだったかもしれないけど、今はどうだろーねー?」 「全部、カバー曲でやるのか」 「最近は、カバーが多くていいね。フォークでもダンスできて」 フッと口元で笑って見せれば、克巳も澄まして笑った。 「なかなかの悪党だな」 「悪党って、なに」 葵は吹き出しそうになって言い返す。 「それ言うなら、そっちだろ? オレは策士って言ってくれない?」 「俺は悪党じゃない。規律に反したことはしないからな」 「……やっぱ悪党じゃん」 克巳は黙ってコピーを取り上げた。それを読み上げるように言う。 「解散後は速やかに帰り、下校中は騒がしくしない。近隣への配慮を忘れないように」 「それ、どうする? 駅までの道で立ちんぼするか?」 「そこまでする必要あるかな」 「けど、先生にされちゃったらシラけるし」 「委員会の意見を聞こう。生徒会でも検討してみる」 克巳はコピーを置き、まっすぐに目を合わせてきた。始めに見せた笑顔になっている。やわらかく、温かな――やけに親しみを感じさせる――。 葵はドキッとして、またもやうろたえた。先ほどの出来事が急に頭を占める。知らずに身構えていた。克巳の唇に目が行く。 「……なに考えてる」 目に映る唇が、ゆっくりと動いて言った。目に見えない手が伸びてきて、そっと胸の底を引っかいたようだった。 葵は声を引き出される。言うつもりは少しもなかった言葉を口にする。 「おまえ……エロいよ」 目に捉えていた唇が、フッと笑った。ハッとして克巳の目を見る。 オレ、なに言って――。 ガタッと椅子を鳴らし、葵は立ち上がった。そうなっても自分から離れない眼差しに息が詰まりそうになる。なぜか艶めいて目に映る、メガネの奥からじっと注がれる眼差し――。 「今日は、ここまででいいな?」 冷静を装って言うが、動揺を隠し切れない。それも克巳に見透かされているとわかるから、居ても立ってもいられなくなる。 「そうだな」 すっと克巳も立ち上がった。 「あ、そうだ。麦茶、飲んでいったら? 喉、渇いただろう?」 いとも簡単に言われ、葵はカッとなった。 ……こいつぅ〜。 グラスをつかみ、一気に飲み干した。タン、と音を立ててテーブルに置き、足元から鞄を取り上げて大股に廊下に向かった。 「また明日」 笑いの滲んだ声を背中で聞き、葵は克巳の家を後にした。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:君に、