「はー……」 特大の溜め息をついて葵は机に突っ伏した。 「わっ! 暗っ」 相原が来たと気づいたが顔を上げられない。教室はざわついている。文化祭の話で帰りのホームルームが長引いたからか、誰も慌しく席を立っていく。 「大変だねー、実行委員長」 前に立って笑い含みに言われ、葵はのろのろと目だけを上げて相原を見た。 「クラスも仕切んなくちゃならなくてさ。ま、駄菓子屋だけどね。でも、もっと楽なはずだったのにねー」 仕入れの係決めに手間取ったことを言われたのだ。葵は、いっそうゲンナリする。会場の飾り付けの係や当日の売り子はわりとすぐに決まったのだが、それも当然で、学校にいるあいだに済ませられる仕事だからだ。放課後や休日を文化祭準備に割いてもらおうなんて、三年ともなると難しい話だった。 しかし、吐息をついて葵は言う。 「むしろ、別のことでヘコんでんですけど」 「あらま」 「今日、予備校なんだろ?」 「うん、もう行かなきゃ」 にっこりと返され、ガクッと肩が落ちる。 「ごめんねー、慰めてあげられなくて」 ズバリと図星を指され、恨めしさたっぷりに相原を見送った。 傷口に塩塗ってくれちゃって……。 相原に気晴らしの相手になってもらおうなんて虫が良すぎた。自業自得だ。甘えすぎた態度を見せれば相原はドライに突き放してくる。わかっていて、そうした自分が嫌になる。 なんで、オレばっか。 この二日間、克巳の唇が頭から消えない。薄く開いた中に覗く舌先が思い出され、克巳が何を話していたにしても淫らに見えていた気がして、たまらなくなる。 克巳は少しもダメージを受けてなさそうなのが悔しかった。自分にキスしたときも、そのあとも、まるっきり冷静で普段の克巳だった。動揺を見せたのは、それよりも前の土曜日だけで――自分をベッドに押し倒したときだけで、しかしあれすらも、過ぎたこととして忘れたようなのだ。 じゃなかったら、キスなんてオレにできるわけねえし。 相手が男だとか、そんなことにはまったく構う様子もなく、単に自分を打ちのめしたくてしたようなのが腹立たしかった。 『できないなら、されるのが俺たちだ』 んなこと、言ってさ。だったら、そっちがしたかったってことじゃん。 実際、『したくなったから』と克巳は言ったわけで、だとしても仕返しの意味合いでだ。それならわざわざキスしないまでも、ほかに方法があっただろうと言ってやりたくなる。 そう思うのだが、実は克巳の思惑など二の次で、克巳にあんなふうにキスされたことを引きずっている自分が一番の問題だった。 ……なんで男にキスされて勃つかなー。 しばらく誰ともしてなかったせいと思い込むにしても、自分が嫌になる。 オレ……マジそうなら、エロすぎだろ。 「はー……」 また深い溜め息が出た。教室にはまだ何人かいたが、葵の目は窓の外に向く。なかなか梅雨が明けなくて、どんよりと曇った空だ。 ……行かなくちゃな。 月曜日に続いて火曜日にも委員会を開き、克巳と検討した後夜祭の概略を説明して意見を聞いた。後夜祭がさらに盛り上がりそうな案も出てきて、前向きで協力的な委員たちにはひたすらに感謝なのだが、そういったことを克巳に報告するとなると気が重かった。 どうしても頭から消えないのだ。克巳の唇のやわらかさとか、ぬるりと舌が触れた感覚とか、頬を掠めた吐息の温かさとか、あとになるほど詳細に思い起こされるようで、なぜだと余計にイラついた。 ま、ヘタクソだったけどな! そう切り捨てて収まりをつけようとするが駄目だった。あのときの克巳の表情――華やぐような笑顔と、揺らめいた眼差し。 「じゃなくて!」 色っぽく見えたなんて、決して認めない。いっそう、わけのわからないことになる。 だから! それはそれ! これはこれ! 思い切って立ち上がった。鞄を手に、すぐにも下校できるようにして、葵は克巳の教室に行く。 ――いねえし。 また生徒会室かと、気の進まないまま足を向けた。できるだけ短い時間で済むように、報告することを歩きながら頭の中でまとめる。 「――ないよ、そんな大きいの」 生徒会室に差しかかり、かすかに響いてきた声に足が止まった。廊下に人影はない。この階には職員室や校長室などのほかにランチルームがあるだけだ。 「みんな、もうモデルさん決めちゃってるし」 生徒会室のドアが開いていた。声は中から聞こえてくる。 「――無理か」 克巳の声だった。 「ううん、どうにかする。簡単なものなら今からでも間に合うし。サイズも大体わかるし」 ――美由。 どうして美由が生徒会室にいるのだろうと思った。どうして克巳と話しているのかと。 「今から、って……」 「気にしないで、大丈夫だから。まだ一ヶ月あるし。本当に、簡単にするから。私――」 急に美由の声のトーンが低くなった。葵はギクッとする。 「……ずっと高梨に謝りたかったんだ。でも誤解しないで。だから協力するんじゃなくて、こんなふうに話せるチャンス、なかったから」 間があいた。ふたりがどんなふうに話しているのかを思い、葵は嫌な気分になってくる。 ――なんで。 「高梨……ごめんね。高梨は最初から気がついてたと思うけど、もしかしたら気がついてたから言ったんだと思うけど、私……高梨につきあおうかって言われたとき、なんか……ちょっと自慢だった」 「柴崎……それ、やめよう」 「ごめん、言わせて。私、これ言わなくちゃ、もっと自分が嫌いになる。上っ面しか見てないって言われたの、よくわかったんだ。私、高梨がなに考えてるのか、少しもわかってなかった。私が坂月のこと好きなの知ってたし、坂月のこと話してもぜんぜん気にしなくて、高梨は心が広いんだな、なんて思ってた」 克巳は黙り込んでしまったようだ。どんな顔でいるのか、葵は目に見えるようだった。 「でも、そうじゃなかったんだよね。つきあうって、そんな簡単じゃない。だけど高梨につきあおうって言われて、うれしくない女子なんていないんだよ。私も、そうだった……」 「やめよう、柴崎。そんなふうに思いつめてたなんて、悪かった」 ひそやかに克巳の声が流れてきた。葵は、すっと胸の底が冷えたように感じる。 「ううん! 高梨はちっとも悪くない。坂月がカノジョと別れたって高梨に言われたとき、私、気がつかなきゃいけなかった」 ……なんだって? 耳を疑うが、確かに聞こえた。自分が前のカノジョと別れたことを克巳が美由に教えたなんて――なぜなのか理解できない。 「それなのに坂月とつきあって、でもダメになって、やっとわかったの。私、高梨のことも坂月のことも、何も知らなかったんだよ」 「――柴崎」 美由は涙声のようになっている。 「本当に、ごめんなさい。私……自分のことしか考えてなかった。坂月とダメになってから、高梨とまた普通に話せるようになって、よかったって思ってる。それだけ……聞いてほしかったの」 ――オレと別れてから? 美由と克巳が? 「うん……俺もそう思ってる。俺は、柴崎と――」 葵は耳をそばだてるが聞きそびれた。気がそれていたせいだ。そうなってハッとする。今になって、自分が立ち聞きしていることに気づいた。 「よかった。そんなふうに言ってもらえるなんて……うれしいよ」 ――克巳。 咄嗟に葵は駆け出す。生徒会室に飛び込んだ。途端にぶつかりそうになって、ふたりの視線を浴びる。一様に驚いた顔だ。 美由が手前にいて、克巳は壁際に立っていた。当然のごとく、ほかに誰もいなかった。 「あ……じゃ、高梨。さっきのこと、大丈夫だから」 顔を伏せ、逃げるようにして美由が横をすり抜けていく。葵は克巳を見ていた。後ろ手に、ぴしゃりとドアを閉じる。 「……なんのつもりだ?」 眉をひそめ、克巳がつぶやいた。 「それは、こっちのセリフだ。なんで、美由がここに来てんだよ?」 「服飾部の部長と話してただけだ」 「って! 克巳――」 カッとなって、葵は克巳の前に立ちふさがる。澄まして言われ、悔しさがこみ上げた。 克巳は冷ややかに目を合わせてくる。 「用があって来たんだろう? 先に言え」 「そんな話、できるかよっ」 ダンッと音を上げ、克巳の背後の壁に手をついた。克巳の耳を掠めたが、克巳はまばたきすらしなかった。 「なに考えてんのか、オレもわかんねえっ」 顔を突きつけ、葵は荒っぽく吐き捨てる。 「……聞いてたのか」 「聞こえたんだよっ! ドア開けて話してんじゃねーよ!」 「女子とふたりきりだったのに?」 クスッと目の前で笑われ、葵は思わず鞄を投げ捨てると克巳の胸倉をつかんでいた。どうしてこれほどまでに苛立つのか、自分でもわかっていない。 「職員室は、すぐそこなんだ」 「だから、なんだってんだよ!」 克巳はまっすぐに葵を見つめ、視線をそらさない。葵もまた、食い入るように克巳を見つめる。 「……したくなった、って言ったよな?」 喘いで、葵はつぶやいた。 「その気持ち、わかった」 克巳は、さっと表情を強張らせる。それにも苛立って、葵は言い放った。 「おまえは、オレだけ見てればいいんだよ!」 「んっ!」 それがどんな衝動だったのか、葵はもう何も考えてなかった。つかんでいた胸倉を引き寄せ、克巳の唇を奪った。克巳は顔をそむけ、キスから逃れようとする。葵はそれを追って、強引に唇を重ねた。 壁に克巳の頭がぶつかり、鈍い音が上がる。葵は少しも構わずに、克巳にされたときよりも、深く、熱っぽく、克巳の唇を貪り始める。 「……ふっ」 息を継ぐ克巳の声が鼻に抜けて、葵の耳をくすぐった。克巳の手がたどたどしく上がり、葵の腕をつかむ。だが抵抗は薄い。葵を押しやるでもなく、ただきつく握るだけだ。 「ん――」 葵は克巳を壁に押さえつけ、何度も向きを変えて、いっそう深く貪った。濡れた音が隠微に響き、胸が情欲に染められていく。克巳を思いどおりにしているような満足が湧いてくるが、苛立っていた気持ちは収まらない。 ……感じろよ、おまえも。 克巳の膝を片脚で開き、ねじ込んだ。腿を押しつけて克巳の反応を知ろうとする。だがそうはならずに、自分の硬い昂ぶりと克巳のそれとが布越しにこすれ合った。 「あ」 克巳の肩が壁をずり落ち、キスが解けそうになる。葵に逃す気などさらさらなく、仰け反った顔にかぶさって、克巳の舌を強く吸う。 「ふ、んっ」 腕をつかむ克巳の手がゆるんだ。葵は克巳の胸倉を放し、その腕で克巳の背を支える。 「ん……」 やめられなかった。克巳のもらす、あえかな声にも感じた。唾液が溢れて、克巳の顎を伝っていく。克巳の口の中で互いの舌が絡み合っている。いつしか克巳は応えていた。 葵は薄く目を開く。近すぎてぼやけた視界に克巳のまつげが映った。メガネの陰で震えている。胸が締めつけられた。 「も、い――」 腕をつかむ克巳の手に力が戻ってくる。 「や、こん……」 離れかけた唇を葵は尚も追った。 「――も、いいだろっ」 顔を横にして、克巳は吐き捨てる。 「もう、放せ!」 背を支えていた葵の腕を払いのけた。壁に身を預け、肩で息を継ぎながら葵を睨みつけてくる。のろのろと手の甲で唇を拭った。 「なんで、こんなキス――」 「できないなら、されるんだろ?」 克巳は大きく目を見開く。それほどまでに意外だったのか、一瞬で固まる。 「おまえが言ったんじゃねーか! したくなったって!」 「な、に――」 「一年のときから、ずっとオレを見てたんだろっ!」 克巳は絶句する。口を半分ほど開いたまま、じっと見つめてくる。 葵は息が詰まりそうだった。何を言っているんだと、自分で思った。克巳の顔が冷たく強張っていく様子をただ見つめる。何か取り返しのつかないことをしたという、たまらない喪失感に襲われた。 「……よく言う」 暗く克巳がつぶやく。 「俺を嫌ってたくせに。そうだよ……ずっと見てたから、わかるんだよっ」 「克巳」 知らず差し出した手をぴしゃりと払われた。 「ふざけんな! 俺を思いどおりにしようって? こんなふうにか? 笑えるな!」 「おまえだって、したじゃねーか!」 どうしようもない気持ちが口をついて飛び出していく。 「先にキスしたのは、おまえだろ!」 「こんなじゃなかった!」 「キスは、キスじゃねーか!」 う、と克巳は息を飲む。苦しそうに、顔をそむけた。 「先に迫ったのは、そっちだ」 「迫ってなんか、ねーよ!」 「うるさい! 葵にあんなふうにされたら、俺だって――」 言いかけて、ハッとしたように顔を戻してくる。見るからにうろたえていた。葵は目が丸くなる。 「帰れ!」 いきなり、両手で突き飛ばされた。 「用も言えないなら、来るな!」 克巳は荒々しくドアを開き、葵の鞄を廊下に放り出す。克巳とは思えない剣幕に驚いている間に、葵も廊下に押し出された。 きっちり閉ざされるドアを葵は呆然と見つめる。まるで頭が働かない。 これはいったい、どんな結末なのか。本当に結末なのか。自分は何をしたのか。 こうなっても萎えきっていない股間の熱に気づく。すべては、これのせいだと思う。 克巳が、エロいから――。 ドアの中を覗きたい衝動に駆られた。克巳もまた自分と同じ状態でいるなら、ひとりになって何をするのかと思った。 ……ねえな。克巳じゃ。 鞄を拾い、葵は歩き出す。確かめなくても、生徒会室のドアは鍵がかけられたに違いなかった。片手をスラックスのポケットに突っ込む。そうしてカムフラージュして、自分はどこへ行くのかと思う。どうしてもトイレに向かいそうで、もう笑うしかなかった。いっそのこと、泣けるならいいと思った。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:君に、