Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




      猫と水たまり
      −10−



       三


       夏休みに入ると同時に梅雨が明けて、空はすっきりと快晴だが、葵はどんよりしている。
       あれから克巳と、すっかり気まずい。あのとき伝えるはずだったことは伝えなくてはならないことで、気を取り直して翌日にも伝えようとしたが、校内ではさりげなく相手にされなかった。探し当てて話しかけようとすると、すっと逃げるか、近くの誰かと急に話し始めたりして、いっそ子どもじみた避け方に腹も立った。
       克巳があれほどの剣幕を見せたことを思えば当然の仕打ちとも受け取れるが、あんなにも怒ったこと自体が意外だったし、後夜祭の話とわかって耳を貸そうとしないのだから、克巳とは思えないくらいだ。
       オレを押し倒したときも、キスしたときも、あっさり流したくせにさ。オレにされたことは流せないって?
       オレは流してやったのに――そう思うと余計に腹立たしいが、自分がしたことは、克巳にはそれほどのショックだったのだろう。
       なんだよ……感じてたくせに。
       あのときの衝動、あのとき克巳に浴びせた言葉――思い返すと自分が信じられなくなる。
      『おまえは、オレだけ見てればいいんだよ!』
      『ずっとオレを見てたんだろっ!』
       ……なに考えてんだよ、オレ。
       ただ、克巳にも感じさせたかった。克巳にキスされたとき、自分が感じてしまったから。
       バカだよな……。
       あれから、いっそう克巳に頭を占められている。克巳に避けられていることを思い煩い、そのくせ克巳とのキスを思い返して体も胸も熱くして、自分を慰めている――。
       ぎゃあぁぁ〜。
       なんだか、自分はもう終わった気がする。男とキスして興奮して、そのときのことを思い描いて自慰しているのだ。よりによって、克巳で。
       ……バレたら、軽く死ねる。
       顔を合わせたくないのは、むしろ自分だ。しかし後夜祭については放っておくわけにはいかず、仕方なく自宅に克巳を訪ねたのだが、会いたくないとあからさまに拒絶された。インターフォン越しに、いかに急ぎで大切かを訴えたら、紙に書いて寄越せと言ってきた。
       あんまりだと思った。自分が悪かったことは認めるが、後夜祭の開催を目指して、ここまでどうにかふたりでこぎつけたのに、それを台無しにするかのような態度だ。
       ムカつくままレポート用紙に殴り書きしてポストに放り込んだが、このままでは本当に困る。文化祭そのものに支障はないが、後夜祭がどうなるか知れたものではない。
       この際、生徒会との共同開催という部分を無視して実行委員会だけで進めてしまおうかと考えたが、そうなると、不意打ちを食らわせるみたいに委員会の仕事を増やすことになるし、企画書と食い違って、今さらながら開催許可を取り下げられるかもしれない。
       それはマズイって。もう、告知しちゃったんだし。
       一学期の最終日に、委員会でも説明した内容のプリントを全校生徒に配布した。既に後夜祭でのパフォーマンス希望者も出ていて、その締め切りは七月末だ。
       やっぱ、どう考えてもヤバすぎだろ。
       締め切ったら、すぐに克巳と詳細を詰めるつもりでいたのだ。同じマンションに住んでいるのだから、夏休み中でもスムーズに進められると思っていた。
       考えが甘かったか。それ以前に、克巳と決裂することもありうると、まったく思ってなかった自分にビックリだ。
       ……あんなに嫌ってたのに。
       それが今では自慰のネタだ。自暴自棄にも認めてしまう。
       バカすぎる、オレ――。
      「葵、どうするの?」
       ドアを軽くノックされ、廊下から母親の声がした。
      「どうするって、何が」
      「今日、港の花火でしょ。出かけるの?」
       ……そうだった。
      「なに? 晩飯?」
      「いらないなら早めに言ってよ」
      「わかってる」
       自室でくすぶっているより出かけたほうがいいかもしれない。こんなときの頼みの綱はやはり相原で、葵はケータイを取り出して電話した。
      『花火? 港の?』
       一緒に行こうと誘ったのだが、気のない声が返ってくる。
      『タリィ。そんなのカノジョと行けよ、って、今いないんだっけ』
       しょせん花火は口実で、会って話をしたかっただけに、がっかりしてしまう。
      『だったら高梨と行けば? マンション同じなんだし、最近べったりだしさ』
       嫌味にも聞こえて、さらに気落ちした。
      「べったりなんかじゃねーよ」
       つい口に出したら、呆れて返される。
      『へぇー、そうなんだ。なら、余計行かない。じゃーねー』
       それで通話を切られた。こんなことなら素直に話をすればよかったと後悔する。遠回しに甘えて、先を読まれた。
       ……相原クン、冷たいから。
       どっちにしろ相原に克巳の話は出せそうにないとわかっただけでもよかったのか。考えてみると、最近やけに克巳のことで突っかかってくるような気がする。文化祭実行委員長を引き受けてからか。
       元町にもなかなか行けなかったし――。
       相原が泊まった日のことが思い出され、チクンと胸が痛んだ。相原には珍しく、甘えてきたことを思った。
       ……本当にはわかってやれなかったけどな。
       うまくいかないな、と思う。相原とも克巳とも――。
      「晩飯、食うから」
       それだけを言いにリビングに顔を出した。海の日で会社が休みだから父親も家にいる。しかし翠が見当たらない。省庁勤めの国家公務員も休日のはずだが、朝に見たきりだ。
      「翠は?」
      「出かけたわよ」
      「デートだろ」
       父親の一言にギョッとしたが、自分が知らないだけのことかもしれない。
       翠にカノジョか――。
       どんな人かと思いかけ、どうでもいいやと思い直した。
       休日の夕食は平日よりも早く、花火大会が始まる頃には家族三人で食べ終えていた。
      「楽しみよねえ。ここに引っ越して、初めてですものね。どうかしら、ベランダから見えるかしら」
       母親は子どもみたいにウキウキとして、リビングからベランダへ出ていく。
      「――あ、始まったわ。ねえちょっと、お父さん! 葵も! 来て、よく見えるから!」
      「そうか?」
       さほど興味なさそうに、そのくせビールを片手に父親もベランダに出た。
      「お、これは期待以上だな。葵、こっち来て見てみろ」
       リビングにいても、高く上がる花火の断片が窓の外に見えた。ベランダの手すりから顔を出せば相当よく見えると想像がつく。
       しかし葵は憮然として言う。
      「いいよ、オレは」
      「どうして」
       何が悲しくて、高校三年生にもなって、家のベランダで両親と花火観賞しなくてはならないのか。
      「ちょっと出てくる」
      「あら、家にいるんじゃなかったの?」
       返事もせずに葵はリビングを離れた。自室に戻ってハーフパンツのポケットに財布を入れ、とりあえず玄関を出る。
       どこへ行くとも宛てなどない。ひとまずコンビニに立ち寄り、少し迷って酒類はやめて、レモン風味の発泡水と緑茶を買った。
       ぶらぶらと歩く通りから花火は見えない。どこからならよく見えるだろうと考え、ふと思い当たった。
       マンションまで戻りかけていた道を手前で折れる。高校への近道、偶然にも克巳に知らされ、今は自分も通学路にしている細い坂道に入った。
       登りきれば、建ち並ぶ住宅が途切れて海が望めるのだから、絶好のロケーションだろう。そう思うと気分が上向いて足取りも軽くなる。
       まさに絶景だった。高台の頂近くから見る花火は妨げになるものが何もなく、遠い夜空に次々と花と咲いて目に映る。その下には黒く海が横たわり、光の粒を散りばめた夜景が足元まで広がっていた。
       あたりには思ったより人がいて、斜面を前にところどころ固まって道の端に立っている。この近所の家なら部屋にいながら見えると思うのに、わざわざ出てきたのだろうか。
       やっぱ、夏は花火か。
       何とはなしに見渡し、心臓が跳ね上がった。克巳がいる。自分から少し離れて立つ老夫婦の向こうに、ぽつんとひとりでいる。
       やっべ。
       見慣れているはずの端正な顔を目が捉え、胸が熱くなる。数日ぶりに『夜のオカズ』の実物を見たせいと思うと、後ろめたさに襲われた。それでなくても、会いたくないと言われたきりになっていたのだ。
       どうしようかと思った。この場所は克巳が先に知っていたのだから、今ここで会うのは、偶然と言うより必然かもしれない。
       ……謝りたかった。
       思うより先に足が動いていた。克巳はトレーニングウェアを着ている。ランニングの途中で足を止めているのかもしれない。コンビニの袋から手探りにペットボトルを取り出した。背後から近づき頬に押し当てる。ビクッとして克巳が振り向く。
      「飲む?」
       大きく見開いて自分を見つめる目が、ふとゆるんだ。
      「ああ――ありがと」
       受け取って、克巳はキャップを開ける。半分ほど一気に飲んだ。
      「そっか、お茶だったんだ……」
      「え?」
      「や、テキトーに渡したから」
       葵も残っていたペットボトルを取り出して飲む。さわやかなレモン味が喉で弾ける。
       しばらく花火を見ていた。横に並んで、互いに何も言わなかった。夏の明るい夜空に咲いて、一瞬で消える花。いくつも、いくつも、咲いては消えていく。
      「――ごめんな」
       葵は自分でも気づかないうちに、つぶやいていた。
      「べつに」
       すぐに、素っ気ないほどの声が返ってきた。
      「柴崎とは、衣装のことで話してたんだ」
      「――え?」
      「後夜祭で服装チェックするとき文化祭衣装を着ると言ってたから、服飾部から借りられないか頼んでみた」
       葵は目を丸くして克巳を見た。克巳も目を向けてきて、薄闇の中で視線が絡む。
      「それって、オレが着る――」
      「悪かった。また先走って」
      「そうじゃなくて」
       何か、胸の底にわだかまっていたようなものが、スコンと抜け落ちた気がした。
       ……けど――なんだ?
       文化祭衣装と言うからには、文化祭で実際に着たことが前提になる。服飾部には当日の発表で使う衣装が男女もの取りそろえて何着もあるし、その中になら借りられるものもあるだろうし、だから部長の美由に頼めば話も早く調達できるというのはわかる。
       だけど、何か別のことが引っかかった。
      「ひとつだけ、教えてくれないか?」
       克巳は身構えるように表情を固くする。
      「なに?」
      「オレが前のカノジョと別れたこと、なんで美由に教えたんだ?」
       浮かんだままに言ったら、そんな問いかけになった。克巳は暗い顔になって、すっと目をそらす。
      「言いたくなかったら、言わなくても――」
      「同じこと、柴崎にも訊かれた」
      「いつ?」
       咄嗟に出てきて、そう口にした。
      「それ言ったとき」
       え――。
       もしかして、と思う。それを尋ねたら、また克巳とこじれそうに思えるが、訊かずにいられない。
      「まさかそれで、上っ面しか見てないって、美由に言ったとか?」
       図星だったようだ。克巳はうな垂れて深い吐息をついた。
       てことは、やっぱオレも克巳の上っ面しか見てないって?
      「今でも柴崎が気にするほどのことを言ったつもりはなかったんだ。つい思ったことが出てしまって……だから失言って言うんだろうけど、俺の失敗はいつも失言だな」
       うっかり葵は笑いそうになってしまった。こういうことを言う克巳はかわいいなと思う。
      「本当は、どう考えてたんだよ?」
       それが失言だと言うなら、本心は別にあったはずだ。
      「柴崎は葵が好きだったから、教えた」
       あきらめたように、克巳は低くつぶやいた。
      「うまくいけばいいと思った」
       ズキッと胸が痛んだ。美由と別れてしまったからと受け流し、葵は続ける。
      「けど……おまえはそれでよかったのか? 美由とつきあってたんだろ?」
       それが理解できなかったのだと思い当たる。ほかに好きな人ができたからと言われてフラれるならともかく、始めから別の人を好きと知っていてつきあう心理も、フラれる前に自分からそう仕向ける心理も理解しがたい。
       そもそも美由が別の人を好きと知っていてつきあっていたのなら、それほどまでに美由が好きだったのではないのか。美由の幸せを願ったにしても、自分自身がないがしろだ。
      「俺が悪かったんだ」
      「なんで。おまえは悪くないだろ?」
       葵は眉をひそめる。美由もそう言っていた。
      『ううん! 高梨はちっとも悪くない』
      「……言いたくない。柴崎はわかってなかった。柴崎を苦しめた」
       そう言われてしまったら、もう何も訊けない。葵は口をつぐんだ。
       花火は続いている。時折まわりから歓声や笑い声が聞こえていた。
       あのとき聞きそびれた、克巳が言ったことの続きが気になる。美由が、今は克巳と普通に話せるようになってよかったと言ったことに、応えた言葉。
      『俺もそう思ってる。俺は、柴崎と――』
       美由と――友達でいたかった?
       ふと、そう思った。克巳もまた、普通に話せるようになってよかったと言ったことは間違いなさそうだ。となると、つきあっていたときも、克巳にとって美由はカノジョではなかったのかもしれない。
       ……始めから友達だった? なら、なんで美由につきあおうなんて言ったんだ?
       しかし、どう考えようと憶測にすぎない。克巳が言いたくないことは確かめようがない。
       オレ……なんで、こんなこだわる?
      「帰るよ」
      「えっ? あ、ああ」
      「お茶、ありがとう」
      「や、べつに――」
       薄闇にいても、克巳の穏やかな笑顔が目に焼きついた。唐突に胸が締めつけられる。
       ……ヤバイだろ、オレ。
      「俺もひとつだけ、いいかな?」
       克巳はまっすぐに目を合わせてきて、そうしてから、すっと下げた。メガネのレンズが鈍く光を映した。
      「……あんなことされると、つらい。もう、しないでくれ」
       葵は驚いて目を瞠る。うつむいた頬が強張り、しかし淡く染まって見えるが気のせいか。夜空の下ではわからない。
      「もうしないよ」
       浅く息をつき、はっきりと答えた。
       もうしない――自分にも誓う。あんなキスをして、克巳を怒らせただけでなく傷つけた。でなければ、克巳はこんなふうに言い出したりしない。
      『できないなら、されるんだろ?』
       どちらかが相手をねじ伏せるなんて、不毛だ。そんなことよりも、もっとやりたいことがある。
       だが克巳は、苦しそうに歪めた顔を上げてきた。ギクッとして、葵は慌てて口を開く。気持ちは言葉にしなければ伝わらない。特に、考え方の違う相手には――。
      「ポストに入れた紙、読んでくれただろ?」
      「ああ」
      「オレと克巳で後夜祭を成功させたい」
       克巳が息を飲んだのがわかった。軽く見開いた目で見つめてくる。
      「オレは克巳とやりたいんだ。後夜祭を成功させて、文化祭を盛り上げよう」
       遠い夜空に上がる花火が視界の端に映っている。花と開いて消えていく美しさ――。
      「葵」
       克巳の声が震えて耳に響いた。
      「俺はもう、それで十分だ」
       言い捨てるようにして身をひるがえした。
      「――え? って、何が!」
       しかし届かなかったようで、克巳はあっという間に駆け出して行ってしまった。
       ま、いいか。
       フッと息をつき、口元がほころぶ。克巳と話せてよかった。後夜祭の心配が消えたからではない。克巳と元に戻れたから――それ以上になれたと感じるから。
       遠い港に目を戻した。何度でも花火は打ち上がり、消えてもすぐに次が花を咲かせて、いつまでも続くように思えた。


      つづく


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