Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




      猫と水たまり
      −11−




       白いレースのカーテンが風にふくらむ。高台に建つマンションの最上階は風通しが抜群にいい。葵はダイニングテーブルを挟んで克巳と向かい合っている。
       七月が過ぎて後夜祭のパフォーマンス受付が締め切られ、葵はその内容を検討するために克巳を呼んだのだが、自室に通す気にはなれなかった。母親がかまってくる煩わしさのほうが、まだましだ。
       やっべ、まただ。
      「どうした?」
       克巳が不思議そうに見つめてくる。
      「や、なんでも――つか、申し込みはこれで全部だけど、どうよ?」
      「いいんじゃない、全部受理して。却下するほどのものはないし、時間内に終わるだろう」
       口元をやわらかくほころばせて克巳は視線を落とす。申し込みのあったパフォーマンスの一覧を見つめる。
      「順番を考えなきゃな。タイムロスを最小にして、流れを止めないようにしたほうがいい」
       わずかにうつむく顔に葵は目が惹きつけられる。さっきから、この繰り返しだ。
       だから、ヤバイって。
       花火大会の日に会って以来、克巳はやけに打ち解けた顔をする。とにかく印象が格段にやわらかくなって、ふとした拍子にドキッとしてしまい、そんな自分に葵は戸惑う。
       ……きれいなんだよな、マジで。
       男の顔を見てそう感じる自分が、どうにも疎ましい。確かに克巳は端整な顔立ちだが、きれいと言っていいものか。相原が女子を差し置いて去年のクラスで一番きれいと言われたことを思うが、こんなふうには気にならなかった。何かと一緒にいて見慣れていたからか。だがそれを言うなら、克巳の顔も見慣れたはずだ。
       急に雰囲気が変わったからかな――。
       穏やかでいながらも他人とのあいだに一線を引いていたような硬さがなくなった。自分に気を許したと感じられる克巳は無防備にも見え、うっかり触れてみたくなるくらいだ。
       だからそれがヤバイんだって。
       見つめる先の唇にキスしたなんて、信じられない。どうしてそんなことができたのか。今なら躊躇する。
       だから……あのときは、憎かったって言うか――。
       ひどく暴力的な気持ちになっていた。
      「……葵。最後に全員でやるダンス、具体的に決まったか? このあいだもらった紙には、未定って書いてあったけど」
       戸惑うようにして克巳が目を向けてくる。慌てて口を開いた。
      「――あ、ああ。案は出てるんだけど、時間がまだハッキリしてなかったから」
      「これ全部やるとなると、二、三曲かな」
      「……そうだな」
       歯切れの悪い返答になってしまった。気が乗っていないと思われたかもしれない。
       オレが呼んだのに――。
       案の定、克巳は小さく息をつく。葵は克巳の喉元に目が行ってしまう。今日の克巳は制服みたいな白いシャツを着ていて、だが制服とは違って第三ボタンまで襟を開いていて、もろに鎖骨が覗いて見える。
       うろたえて、葵は先ほど母親が出してくれたアイスティーのグラスを取り上げて視線をそらした。こんな自分は、やっぱり変だ。衝動とはほど遠いところで、克巳に心が動く。
      「明後日、委員会があるから、そのとき決める。その次だと二十日になっちゃうし」
      「そうなのか?」
       克巳もアイスティーを飲んで顔を上げた。
      「明後日、何時から?」
      「朝から。午後だと暑くてタリィし、夏期講習あるヤツもいてさ」
      「昼まで、ってことか。終わってから、少し時間取れる?」
      「いいけど――なんで」
      「柴崎が、衣装用意できたから試着してほしいって言ってきた」
      「……そうなんだ」
       美由の名前を出されて、なんだか暗い気分になった。克巳が美由に頼んだことなのだから、美由から克巳に連絡があって当然のはずが、なんとなく気に入らない。
      「それ、オレもいないとダメなわけ?」
      「あたりまえだ。葵が試着するんだから」
      「――だな」
       つまらないことを言ってしまった。自分にゲンナリする。
      「委員会が終わったら生徒会室に来てくれ」
      「なんで生徒会室」
       これでは、いちいち突っかかっているみたいだ。
      「……柴崎からすれば、部活の最中に俺たちに来られたんじゃ困るだろう?」
       察してやれ、と目で言われて溜め息が出る。
       ここまで気後れするのは、美由と別れてからちゃんと話していないせいだ。あのとき誤解されたのかどうか、いずれにしても美由とはあのときのままだった。
       それに、生徒会室で克巳と話してたこと、オレに聞かれたって思ってるよな――。
       逃げるように生徒会室を出ていった美由が思い出された。
      「葵――」
       ひそめて克巳が言う。
      「らしくないんじゃないか?」
       それをどんなつもりで克巳が言ったのか、葵はわからない。ただ、図星を指されたと感じて落ち込んでくる。
      「ワリィ。ちゃんと行くから。たぶん十一時には終わる。つか、終わらせる」
      「わかった、伝えておく。じゃ、プログラムを決めよう」
       克巳はニコッとして、テーブルの上に腕を組んで身を乗り出してきた。葵はまたドキッとするが、気を取り直して、克巳と同じようにしてテーブルの上の紙を覗き込んだ。
       それからはパフォーマンスの順番についてああだこうだと意見を出し合い、一時間近くを費やした。途中で母親が出てきて飲み物を替えていったが、気にも留まらなかった。
      「そうだ、忘れていた」
       終わる頃になって克巳が言う。
      「後夜祭のあと駅までの道に立つっていう話、生徒会でも、いらないんじゃないかって意見だ」
       実行委員会でも同様で、そのことはポストに入れた紙に書いて伝えてあった。
      「なら、決まりだな。ほかに保留になってたこと、ないよな?」
      「ないはず――と言うか」
       克巳は遠慮がちに正面から見つめてくる。
      「今さらだけど、ずっと言いたかったことがあって。生徒総会で後夜祭開催について動議を出したとき、その……あんなふうに賛成してくれて助かった。――ありがとう」
       葵は目をしばたたかせてしまう。本当に、今さらだ。あのときのことを思い出し、急に恥ずかしさに襲われる。全校生徒に向かって賛否を問いかけた克巳に、自分は真っ先に拍手して応えたのだ。それも、立ち上がって。
      「……やめろよ、そういうの」
       顔が赤くなるようで居たたまれない。さりげなく手のひらで口をおおい、顔をそむけた。
      「けど、言っておきたかったから――」
       克巳まで照れたようだとわかるから、視線を泳がせてしまう。
       八月に入り、窓の外には真夏の青空が広がっている。絶え間なく吹き込む風にレースのカーテンが揺れて、午後の陽射しがこげ茶色の床をまぶしく照らしている。
       ここに引っ越してきた五月のあの日、克巳が来ることもあるなんて思うはずもなかった。なのに、克巳は今ここにいて、それを自分はくすぐったく、心地よく感じている。
       ……どうよ、こういうの。
      「ダンスに使う曲も話し合いたい?」
       視線を戻せないまま尋ねた。
      「いや、委員会で決めるなら、それでいいと思う。その場で後夜祭のプログラムを提出できるし、お盆になると、先生来なくなるだろう?」
      「――だな。そうするわ。係分担をどうするかも、こっちで決めていいな?」
      「生徒会役員は手伝う程度でお願いします」
       いきなり改まった口調で言われ、葵は口元がゆるんだ。克巳と目が合い、互いにクスッと笑ってしまう。
       いい顔――。
       文化祭実行委員長になる話を持ちかけられたときから、こんな笑顔を見せられていたらと思う。すべてが、もっとスムーズに進んでいたと思う。
       葵は、そうならなかった理由を思い描き、そうならなかったから今があると思った。
       克巳とは、適当に流すなんてできなかった。何かとぶつかり合い、だけどそうしてきたからこそ、克巳を知ることができたのだと思う。
       ……あんなキスまでして。
       でも、まだだ。本当には、克巳をわかっていない。
       もっと知りたい。
       そんな気持ちが湧いて、じっと克巳を見つめる。じわりと胸が熱くなる。
       克巳は、すっと視線を下げた。頬杖をつき、言いにくそうに口を開いた。
      「葵とできてよかったよ」
       何を言われたのか、すぐにわかった。港の花火を見ていたあのとき、後夜祭は克巳とやりたいんだと言った自分への返事だ。
      「できればいいと思っていた……卒業までに、何か一緒に――」
       それは、独り言のようなつぶやきだった。克巳はいきなり立ち上がる。
      「帰るよ。明後日のこと、よろしく」
       母親に一言あいさつしたいと言われ、葵はなかば戸惑いながら母親を呼ぶ。そんなことをわざわざ言い出してきたことよりも、克巳が最後にもらした言葉に心が乱れていた。
       母親はニコニコと自室から出てきて、克巳を玄関まで送ろうとする。リビングにひとり残るのもおかしいように思え、葵も玄関に出ていく。克巳のすらりとした後ろ姿がドアに消えて溜め息が出た。すぐに自室に入る。
       オレと何かやりたかったなんて――卒業までに、なんて。克巳が……。
       そんなことを克巳はいつから考えていたのか。同じクラスになったことさえないのに。ずいぶんと前から――そう思えてくる。
       だから……ヘンなんだよ、オレたち。
       ずっと嫌っていたのに。克巳は知っていたのに。一年のときから自分を見ていたからと克巳は言った。自分もまた、克巳を見ていたから嫌ったのでないか。でなければ、どんな感情も湧くわけがなかった。
       克巳に担ぎ出されるようにして文化祭実行委員長になったことを思う。何もかも、克巳が願ったからそうなったように感じられた。もしかしたら――キスしたことも。
       顔が熱くなる。鼓動がかすかに速くなる。胸が締めつけられる。
       なぜなのか葵はわからなかったし、理由を探ることが怖いように感じられた。なのに、克巳とのキスがまた頭に浮かび、体は素直に反応する。
       ……やっぱオレ、終わってるよな。
       海と花火を望んだあの場所で、克巳と自分に誓ったはずのことが、ちっともできていなかった。克巳にキスすることは二度とないと今も思うが、あれからも何度も克巳とのキスを思い返して、頭の中で克巳にキスしている。
       息が苦しい。なのに、甘く感じる。
       あのときの克巳の反応、あえかな声、腕をつかんできた力の強さ、弱さ――ほとんど抵抗されなかったことを思ってしまう。最後には舌を絡めて応えてきたことも。
       やっぱ、したかったんじゃねえの?
      『……あんなことされると、つらい。もう、しないでくれ』
       だけど、そう言われたのだ。ハッキリと。
       男とキスして感じたなんて……克巳だって、終わったって思うよな。
       そう結論しながら、何度も思い返している自分は何なのか。克巳を感じさせたいだけでしたことなら、あんな乱暴なやり方ではなく、ことさらに甘く、やさしくキスして、もっと気持ちよく感じさせてやりたかったと思ってしまう。そうできていたなら、克巳につらいと言わせずにいられただろうか。
       そう――つらいと克巳に言わせてしまったことが、自分はつらい。
       克巳を傷つけたいとまでは思ってなかった。なんだか憎くて、それよりも悔しくて、しかしそう感じていた理由すら自分はわからない。
       克巳が先にしてきたことなんだ――。
       キスも、自分をベッドに押し倒したことも。どうして、と思うが、どれもこれもただの偶然のようで、克巳の本心がどこにあるのか、考えてもわからなかった。
       わかるのは――自分にとって、克巳が大切に思えるようになっていることだけだ。
       克巳をもっと知りたかった。本当は何を考えているのか。何を思っているのか。でなければ耐えられない。こんな自分に――克巳のことばかり考えてしまう自分に。


       夏休み中も文化祭実行委員会は活動を休むことなく、七月中にも何度も集まり、文化祭当日の会場配置やタイムスケジュールを決めたり、ポスターやパンフレットの印刷を業者に手配したりしていた。
       八月になってから最初の今日の委員会は、次が二十日ということもあって、開始早々から後夜祭についての熱心な話し合いになった。
       有志によるパフォーマンスは順番も含めて葵が克巳と検討したとおりに決定し、最後のダンスは葵がおもしろがる結果になった。そのことは克巳には伏せておこうと葵は思う。進行は委員会が一手に引き受けることで意見が一致した。
      「じゃあ、係分担もこれでオケ? みんな、クラスや部の出し物でも忙しいのに、サンキュ。次の二十日まで、そっちでがんばって」
       葵は、そんなセリフで締めて解散にした。その場で後夜祭の内容を具体的に記して文化祭顧問に提出する。克巳に約束した十一時に、ぎりぎり間に合った。
       部会で残っている委員たちをあとに、ひとり生徒会室に向かう。今日も部活や文化祭準備で登校している生徒は多く、校内に活気が感じられるが、校長室や職員室が並ぶ二階は閑散としていた。だが、いっそ開放的な気分になる。一区切りついた達成感に満たされていた。
       生徒会室はドアが開いていて、中を覗くが誰もいない。窓も開いていることに気づき、葵は中で待つことにした。
       克巳がいつも使っている机の上には何もない。今日も生徒会の仕事で来ていたのではないのか。見回せばほかも片づいている様子で、ふと、美由が先に来たらどうしようと思い、ドキッとした。何も考えていない。
      「坂月――」
       まさに美由の声が聞こえ、焦って振り向いた。美由は身構えるようにして見つめてくる。胸に抱えた紙袋が目についた。自分のために用意してくれた衣装と思ったら、何も言わないではいられなくなった。
      「美由……その、部活で忙しいのに、ありがとな」
       美由は目を丸くする。途端に、やわらかく顔を崩した。
      「ううん。簡単にしたから平気。それに、思ったよりいい感じにできたし。坂月にも気に入ってもらえると思うんだ」
       言いながら紙袋の中に手を入れ、歩み寄ってきた。机の上で、中から取り出す。
      「どう?」
       まるで予想してなかったものに葵はきょとんとする。美由が目の前に広げて見せたのは、ジレ一枚だ。
      「えっと……それだけ?」
      「そう。高梨は制服だって聞いたから、だったら上にこれ着たらどうかなって思って」
      「そっか! もしかして――」
      「うん、高梨のもあるよ」
       ほら、と美由はもう一枚を取り出す。先に出したものと、まったく同じだ。濡れ羽色という形容がぴったりはまるような光沢のある黒で、五個連なる金色の小さなボタンがアクセントになっている。スタイリッシュで、すっきりとしたデザイン。葵は気に入った。
      「ちょ、カッコいい! クールじゃん!」
      「でしょ? 夏服だと白シャツにズボンだけだから、これ着たら締まると思って」
      「うんうん! オレも、制服にコレ着るわけね?」
      「いい感じでしょ?」
      「いいよ、すっごくいい!」
       葵は美由から受け取り、さっそく着てみた。サイズもちょうどいい。
      「オレは、やっぱ前開いて、こんな感じ?」
      「うん、それ、いいんじゃないかな」
      「シャツ出したほうが、もっとキマるかも」
       葵はうつむいてシャツの裾を引っ張り出す。ジレの丈とのバランスもいいようだ。
      「美由、すげえじゃん。今すぐ鏡見たい感じ」
       顔を上げてハッとした。克巳が来ていた。戸口に立ち、硬い表情でこちらを見ている。
      「よかった、坂月がそんなに喜んでくれて」
       美由は克巳に気づかない。背を向けているせいだ。
      「克巳、これ」
       わざとらしくも葵は明るく言った。美由が慌てて振り返る。
      「すっげー、カッコいくない? どうよ?」
       克巳は目を合わせてきて、一瞬うろたえた表情になる。だがすぐに、いつも校内で見せる穏やかな顔に戻った。感情が読めなくなる。
      「無理言って、悪かったな柴崎」
      「ううん」
       美由はまた身構えたようになって答えた。
       ぎこちない空気が流れる。葵と美由と克巳とで、三角形を描いて立ち、誰もが次の言葉を探しあぐねるようだった。
      「あの――」
       おどおどと美由が口を開き、手にしていた一枚を克巳に差し出す。
      「高梨のもあるんだよ」
      「え?」
      「夏服じゃパッとしないから、坂月と一緒に着たらいいと思って」
      「――え」
       克巳は息を飲む。かすかに頬を赤くした。
       葵は驚いてそれを見る。克巳が照れている、なんで――そう思った。
      「あ、でも、ちょっとだけ違うんだ。ボタン、よく見て」
       葵も克巳も、場の空気を変えるように、いそいそとそれぞれのジレのボタンを見た。
      「おもしろいでしょ。坂月が猫で、高梨は犬」
       美由の言うとおり、よく見なければわからないが、でこぼこしたボタンの表面は、それぞれ猫と犬の顔の浮き彫りになっていた。
       葵は少し戸惑って言う。
      「おもしろいけど――なんで克巳が犬?」
      「え? だって」
      「俺も、なんか違うように思う。葵は――」
      「……葵?」
      「うん、克巳は猫じゃね?」
      「――克巳は猫」
       復唱するように言って、美由はぼんやりとふたりを見た。
      「なんか、ヘン?」
       葵が言うと、美由は目をそらして答える。
      「……ううん。サイズ同じだから交換できるけど」
       何か考え込むように顔を伏せた。
      「えーと。んじゃ、交換」
       美由の様子を気にしつつも、葵はジレを脱いで克巳に手渡した。
      「着てみろよ」
       言いながら、自分は克巳から受け取ったジレを着る。おのずと向かい合って互いを見た。同じデザインのものを着ているのに、雰囲気がまるで違う。
      「似合ってるじゃん。克巳は全部ボタン留めて、シャツも半袖でいいな。オレは長袖にして、めくったほうがハマる」
       葵は照れくさかった。ジレを着た克巳に見惚れそうになる。一段とストイックに見えるのに、色っぽく感じられるのはなぜなのか。
      「――そういうことなんだ」
       不意に美由がこぼし、何のことかと焦った。
      「なんか、今わかった気がする」
      「柴崎」
       克巳までうろたえたような声を出した。
      「うん、似合ってるよ、ふたりとも。私が作ったんだもんね。で、費用なんだけど」
      「え? 費用?」
       思わず葵が言えば、美由はジトッとした目で見上げてくる。
      「あたりまえでしょ。それ、貸すんじゃなくて作ってあげたんだから」
      「いくら? もちろん払うよ」
       すかさず克巳が言って、美由はニコッとした顔を向ける。
      「これ、レシート。ふたりで三千円」
      「おわっ。ひとり千五百円?」
       予定外の出費に葵は慌ててしまう。
      「でも買うより安いでしょ? しょうがなかったの、布はいい感じで安くなっているもの見つけられたけど、ボタンが高いんだから」
      「……おもしろくないヤツでよかったのに」
       つい言ってしまった。
      「それだって安いほうなの! 金ボタンは、普通に一個三百円くらいするんだから。プラの安物使ってダサくするなんて、嫌だったの」
      「はい、ふたり分」
       その間に克巳は財布を出していて、千円札三枚を美由に渡した。
      「それと、もうひとつ。文化祭の衣装なら、文化祭で着なくちゃ」
      「それはそうだ」
       しかつめらしく克巳が答えた。
      「と言うことで、ふたりには服飾部のショーに出てもらいます」
      「ちょ、美由。聞いてないって」
      「じゃ、どうするつもりだったの?」
       葵は答えられない。服飾部が文化祭で開くファッションショーで、もともと使う衣装を借りられるものと思い込んでいたのだ。
      「……仕方ないな」
       溜め息混じりに克巳が言う。
      「ショーには出るよ。だけどフィナーレまでいるのは無理だ。できれば最初のほうにしてほしいんだけど」
      「克巳、おま――」
      「しょうがないかな。ふたりとも当日は忙しいよね。――わかった。オープニングで、ちょこっとだけ出てくれる?」
      「それで手を打とう」
      「って、オイ! 勝手に話を進めるなって」
       葵は焦りまくるが、克巳はすこぶる冷静だ。
      「でも、ほかに着るタイミングなんてないでしょ? 制作費はタダにしてあげたんだし、いいじゃない、そのくらいで済んで」
      「美由――」
       ツンとして言われ、葵は口をつぐんだ。美由の言うことはもっともで、だけどやっぱり気が引けて口にしてしまう。
      「知らねえぞ。しょっぱなからショーがぶち壊しになっても、文句言うなよ?」
      「むしろ盛り上がるでしょ。坂月と高梨が、ふたりそろって出るんだもん」
      「うわー……」
       それでは、もろに品評会だ。逆手にとって利用しようと言い出したのは自分だが、ヤジと黄色い歓声が聞こえるようでゲンナリする。
      「あきらめろ、葵。俺が頼んだことだ」
      「……だな」
       葵はつぶやいて返した。どっちにしろ自分は手はずを整えようともしなかったわけで、また克巳が先走った結果でも文句は言えない。
       つか、このジレ、マジカッコいいし。
       ショーのことがなかったら、美由には感謝するばかりだ。
      「ふうん。やっぱり、そうなんだ」
       美由の声が冷めて聞こえ、葵は顔を上げた。克巳も目を向ける。
      「ふたりだけでわかり合っちゃって、なんか、ずるい」
      「美由――」
       唖然とする葵を横目に、美由は続けて言う。
      「私にはわからなかったのに――少しは、わかったと思ったのに。ずるいよ、ふたりとも」
      「……柴崎」
       克巳まで呆然とした声を落とした。
      「これじゃ仲間はずれ。しょうがないよね、私じゃ。つきあっても、ふたりともわからなかったんだもの」
      「やめよう、そういうの」
       克巳が言うが、美由は聞かない。
      「高梨も坂月もずるいよ。そんなに好きじゃなかったなら、つきあうなんて言わないでよ」
      「美由……」
       葵は足元をすくわれたように感じた。美由にそんなふうに言われてショックだ。
      「柴崎、ごめん」
       いきなり克巳が謝って、葵は動転してしまう。
      「そんな、高梨に謝ってもらいたいわけじゃないよ。私のほうがずるかったし」
       これでは、まったく身の置き場がない。
       やっぱ、オレが謝らないと……。
      「坂月も何も言わないで。八つ当たりしてるだけだから。坂月もわかってなかったんだし」
       え……?
      「柴崎、お願いだから、自分をいじめないでくれ」
      「――うん」
       克巳が穏やかに言い、美由はうな垂れて答えた。そっと目を拭うような仕草をする。
      「でも、ふたりが仲良くなるなんて、思わなかった。でも、わかった気がする」
       わかった、って――。
       葵だけでなく、克巳まで言葉が出ないようだった。
      「いいよね、男同士は。普通に仲のいい友達になれて、わかり合えて」
      「……女同士だって、そうだろう?」
       暗くつぶやいた克巳に美由はかすかにうなずく。
      「たぶんね。でも、ふたりは違う。仲良くなれるはずなかったんだもん。でもそれも、私がわかってなかっただけなんだろうな」
       仲良くなれるはずなかった――それが葵の胸に刺さった。言いようのない気持ちになる。
       美由にしたら……元カレ同士だもんな。
      「ちゃんと、好きな子とつきあわなきゃダメだよ。また同じことになるよ」
      「ああ」
       答えた克巳に美由はにっこりと笑う。それが痛々しく目に映り、葵はそっと顔を伏せた。
      「だから今は、普通に話せるようになってよかったって思ってるの。――坂月もね?」
       答えられそうにない。だけど答える。
      「――うん」
      「じゃあ、私はまだ部活あるから」
       そそくさと美由は生徒会室を出ていった。それがまた逃げるように見えて葵はガックリと肩が落ちる。椅子が目に入り、思わず引いて腰を下ろした。
      「はー……」
       抑えようのない溜め息が出てしまった。克巳に気まずくて顔を伏せるが、美由が作ったジレが目に映る。
       なんかもう……オレってサイテー。
       胸にためていたものを一気に吐き出したとしか思えない美由に何も応えてやれなかった。ちゃんと話したい気持ちはあったはずだ。
       克巳がいたからだと思う。克巳の前で美由と腹を割って話すなんてできなかった。
       ……しちゃえばよかったのに。
       克巳も自分と同じような立場と言えなくもなかったのだから。
       だから……ヘンなんだよな。美由の元カレ同士ってのが。
      「言われちゃったな」
       ぽつりと克巳がもらした。
      「柴崎も……もっと早くわかってれば――」
       しかし、言いかけて口をつぐむ。葵はのろのろと克巳を見上げた。苦しそうに強張った横顔が目に飛び込んで、ギクッとする。
      「もう帰るだろう?」
       急に振り向いて、克巳が言った。
      「ここ、鍵閉めなきゃならないから」
       何か腑に落ちないまま葵は立ち上がる。ジレを脱いで鞄にしまい、気づいて克巳に向き直った。
      「さっきの金、悪いけど家まで貸して」
      「……いいよ、べつに」
       ぎくしゃくした雰囲気のうちに、そろって廊下に出た。職員室に差しかかり、生徒会室の鍵を返しに行くという克巳を、葵はなんとなく待った。
       自然と一緒に帰ることになり、葵はむしろ安堵する。マンションに着くまでのあいだでも、今は克巳といたい――不思議と、そんな気持ちになっていた。
       並んで校門を出て、通りをしばらく歩いて細い横道にそれる。坂を登りきれば海を望むあの場所に出て、どちらからともなく足が止まった。それまで一言も交わさないでいたのに、ふと克巳が口を開く。
      「柴崎は、かわいそうだな」
      「――ああ」
       極めて冷静に響いた克巳の声が、葵の胸に温かくしみた。
       よくわかる。克巳は美由を思いやっている。こんなふうにしか言えない克巳が愛しく感じられる。
      『ちゃんと、好きな子とつきあわなきゃダメだよ。また同じことになるよ』
       美由もまた、自分たちを深く思いやってくれた。あれを美由がどんな気持ちで言ったかを思うと、逃げ出してしまいたくなる。
       美由を好きでないなんてことは、決してなかった。つきあってほしいと美由に言われたとき、うれしかった。
       だけど、それじゃダメだったんだ――。
       以前にも思ったことで胸がふさがれる。誰とつきあうにしても気持ちには差があるものなら、つきあう過程で近づいていけなければ破局して当然なのだろう。
      『坂月もわかってなかったんだし』
       美由も気がついたんだな、と思った。自分が美由の上っ面しか見ていなかったことに。
       わかってやれなくて……ごめん。
       どれほど好きでいてくれたのか。自分の何を見てくれていたのか。自分のどこを見せてやればよかったのか。自分は、美由のどこを見てやればよかったのか――。
      「葵は……誰も好きになったことがないんじゃないか?」
      「――え?」
       突然の問いかけに、葵は驚いて克巳を見た。
      「いや――また言い方が悪かったかな。なんとなく思っただけだ、深い意味はないから」
       視線を泳がせて克巳は顔をそむける。ふうっと深い息を吐いた。
      「誰にも思いどおりにされない、誰にもつかまらない、いつも気ままで、がむしゃらに何かするなんてなくて、でも、わりと何でもできて、興味があることには抜群に秀でていて、それが――葵だと思っていた」
       そこまで言って顔を向けてきた。淋しそうな笑顔だ。
      「確かに猫みたいだな。だけど、本当は違うだろう? 興味ないことはどうでもよさそうにしているくせに、人の目が気になる。関わりのある人には嫌われたくない。何とも思ってない相手でも――違うか?」
       葵は呆れて溜め息が出た。言い当てられたショックよりも、それをわざわざ自分に聞かせた克巳に笑ってしまう。
      「だから、なんで言っちゃうわけ? 余計なお世話、って怒らせるだけだぞ。物好きだな」
      「まあ……見逃してくれ」
       自分より克巳のほうが猫みたいだ。誰にでも愛想よくしているようで、本当には誰にもなついていない。うっかり手を出したら噛みつかれる。
      「わがまま」
       思ったことが口に出ていた。葵は克巳の目を覗き込んで言う。
      「卒業までにオレと何かしたかったなんて」
       途端に、克巳はカッと頬を染めた。明らかにうろたえて顔をそむける。
      「言うなよ……失言だ」
      「オレに本気出させたかった?」
      「……そうだ」
      「出してるよ」
      「わかってる」
       葵は遠く海を眺める。海は今日もかすんで、空との境界が曖昧に滲んでいる。
       ただ広い青。黒い点として目に映るのは、船の影か。
      「なんでオレに本気出させようなんて思ったんだ。余計なことしなければ痛い目に合わないで済んだのに」
      「痛い目だなんて――」
       克巳の声が耳元でして、葵は顔を向けた。
      「本心、あばかれるぞ」
       それをどれほどの確信で言ったのか、葵はわかっていなかった。しかし克巳は目に見えて愕然とする。
      「逃がさないから」
       勢いで口走り、葵は納得した。
      「オレも逃げないから」
       真夏の正午の風が吹いていた。克巳の黒髪がなびく。メガネに隠された目の奥に真意を探ろうと、葵はじっと見つめた。どこか頼りなく、儚く感じられたが、それはきっと気のせいではない。
       捉えどころがないのは克巳で、だけど自分はもう、手が届いているはずだ。


      つづく


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