Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




      猫と水たまり
      −12−




      「あー……わかんね」
       夏期講習の古文のテキストを押しやって、葵は溜め息をつく。とりあえず受験生だし、お盆前の五日間くらい予備校に通おうと決めて、そうしたまではよかったが、講義の選択を誤ったようだ。
       ……実力を知れ、って?
       得意科目が数学だけでは、どうにもならない。次に英語がほどほどできる程度で、これでは国公立志望を担任にあざ笑われても仕方ない状態だ。
       古文なんて標準クラス選んだのに――。
       それも予習ではなくて、復習で音を上げているのだから頭が痛い。基礎クラスを選ぶんだったと後悔する。現代文は苦手ではないところが悩ましい。
       文化祭終わったら予備校行くか。
       高校卒業と同時に家を出るなら両親が納得する大学へ――と思ってきたが、当然ながら現役合格できての話だ。さすがに心細くなる。
       克巳……教えてくれるかな。
       先週、学校で会って一緒に帰宅したきりになっていた。あの日、海を望むあの場所で、あんな会話をしたあと、克巳は急に考え込むようになって先に歩き出した。
      『本心、あばかれるぞ』
      『逃がさないから』
       そんなことを言ったから、また怒らせたかと思ったがそうでもなくて、隣に並んでも目は向けてこなかったものの、結局マンションまで一緒に帰った。
       エレベーターを降りても互いに一言もなく、克巳の家の前まで来て、立て替えてもらった金を返すと断って自宅に帰った。すぐに引き返したのだが、そのときにはもう普段の克巳に戻っていた。
       いきなり家電[いえでん]の番号教えてきたんだよな。
       返した金と引き換えのようにメモを渡され、それに自宅の電話番号が書かれていたのだ。
       あれは……わかんね。
       ケータイを持ってないからだろうけど今さらに思えるし、用があるときは自宅に来いと言っていたのだから、今後は電話で済む用事は電話で済ませろという意味なのか、つまり、家にはなるべく来ないでくれという意味なのか、あるいは――。
       や、それは……。
       相原に電話するみたいに、大した話でなくても気軽にかけていい、という意味には到底思えなかった。何しろ、家の電話だ。
      『急なときに必要かもしれないから』
       克巳はそう言っただけで、渡されたメモに戸惑っている間に、翌日から夏期講習だから訪ねてきてもいないもしれないと言い残して玄関を閉めてしまった。
       ひとまずケータイに登録はしたが、どんな場合に使っていいのか見当がつかない。克巳の真意を読むのは、相変わらず難しい。
       ――じゃなくて。
       やはり家に訪ねてみようと思う。同じマンションの同じ階なのだから、前もって電話するまでもない。
       古文、教えてもらうだけだし。
       そうやって自分は、なんだかんだ理由をつけて、とにかく克巳の顔が見たいわけだ。それを否定する気は、もうなかった。
      『逃がさないから』
      『オレも逃げないから』
       あのときの気持ちが今も胸をざわめかせる。克巳を捕らえたなら、その先に何があるのか知りたかった。
       葵は、さっそく克巳の家の前に立つ。
      『……夏期講習の問題?』
       期待どおりに克巳がインターフォンに出て、ホッとしたのも束の間、誰なの克巳、と女性の尖った声がかすかに聞こえ、ギクッとした。
       やっべ、親いるんだ――。
       何がヤバイんだと咄嗟に自分に突っ込む。
      「そう。教えてくんね?」
       なのに、妙な後ろめたさがつきまとった。
      『隣と間違えたみたい』
       しかし返ってきた声は明らかに自分へではなく、唐突に通話を切られてしまう。
       ……は?
       しばし呆然としてしまった。呼び鈴を見つめ、もう一度押してみようかと思うが留まる。だがすぐに玄関が開いた。克巳が顔を出す。
      「悪い、今日は親がいるから無理だ。と言うか、お盆は教師も学校に行かないって言っただろう? 厳密には、まだお盆前だけど」
       それはそういう意味だったのかと言い返したくなったが葵はこらえる。
      「んじゃ、うちに来いよ。親、いないから」
      「断る」
       それには目が点になった。即答で返されるほどのことを自分は言ったか。
       克巳は気難しそうに顔を歪め、続けて言う。
      「明日はどうなんだ。そっち、親がいるなら行ってもいいけど」
      「はあっ?」
       呆れて声が大きくなってしまったら、シ、と言う素振りで唇に人差し指を立てた。
       やっべ、なにこれ――。
       うっかり葵は顔が熱くなってしまう。よく見れば、克巳も照れた顔になっている。克巳は身をかがめて、ドアからこっそり顔を出すような姿勢でいるから、葵を見上げてくる目線だ。これでは反則だ。不意打ちもいいところだ。克巳がこんな仕草をするなんて、まだ想像もしてなかった。
       エロカッコかわいいから、やめろって!
      「あ、明日は……たぶん、母親いるから――」
       しどろもどろに答えた。
      「わかった。じゃ、明日」
      「あ、この時間な! 講習あるから――」
       すぐに克巳は引っ込み、音もなく玄関が閉まる。葵は居たたまれない。急いで自宅に引き返した。自室に入って、やっと息をつけた気分だ。
       なんなわけ、あれ。
       親がいるなら行くけど、いないなら行かないなんて、どこのお嬢様だと言いたくなる。だがそれで、克巳の親が在宅と知ったときの後ろめたさの正体がわかって、一気に全身が熱くなった。
       ……ありえねえだろ、オレ。
       克巳と会うならふたりきりで――どこかでそう考えていたと認めないわけにはいかない。たぶん、そのとおりだ。
       だって……いろいろ話したいし。
       古文の問題を教わるのではなかったのかと、また自分に突っ込んだ。だがそれも、克巳に会うための口実にほかならない。夏期講習の問題なら、講師に質問すればいいのだから。
       ……しょうがねえじゃん。
       克巳に会いたい、この気持ち。会ってどうなるわけでもないし、ろくな会話になりそうもないと思えるのに、なぜか抑えられない。
       用はないけど会いたいから会えないかと、素直に訊いたら、克巳はどう答えるだろう。きっぱり断られるか。親がいるなら家に来てもいいと、また言われるか。
       ……オレ、信用されてない?
       克巳を傷つけるようなことはもうしないと、ハッキリ言ったのに。自分たちには、文化祭のことがなければ何のつながりもないのか。
       ――あんな顔も見せるようになったくせに。
       いきなり頭に浮かんで、顔も胸も熱くなる。上目使いに自分を見つめて、唇に人差し指を立てた克巳の顔――。
       やっぱ……反則。
       股間まで熱くなって、たまらない。だから克巳は、ふたりきりになることを避けたのか。こんな自分に気づいているわけでもなさそうなのに。克巳に触れるでもなく、ふと見せた仕草や表情に興奮するなんて。
       オレ……どうなっちゃってるわけ――。
       克巳にキスしたときの、あのひどく乱暴な気持ちは、あのときだけのものだった。思い出して自慰もしたが、そんなことができたのは、記憶に現実味がなかったからだと思う。強烈に残った体感に流されたのだと思いたい。
       もう克巳に何かするなんてないし、むしろできないし、もっと克巳を知りたくて、大切に思えているくらいだ。
       なのに、なぜ勃ってしまうのか。心と体がバラバラになったみたいに感じる。
       ……せつねえ。
       湿った溜め息が胸の底から湧き上がった。用がなくても会えて、どこか一緒に遊びにも行けるような、克巳とそんな関係になれたらどんなにいいかと思う。しかし、そんな自分たちは想像できなかった。
       翌日、克巳は約束したとおりにやってきた。もう何も考えずにリビングに通し、後夜祭の相談をしたときと同じようにダイニングテーブルを挟んで座った。母親がアイスティーを出してきたことも変わらず、だが勉強を教わると知って輪をかけた愛想のよさだった。
      「ごめんなさいねえ。高梨くんだって、自分の勉強で忙しいでしょうに。葵の相手なんかしてもらっちゃって」
       語尾にハートがついてるぞ、と葵は内心で毒づくが、それもまたいつものことだ。まるで取り合わずに、さっそく克巳に古文を教えてもらう。努めて気持ちを落ち着かせ、意識も視線もテキストから離れないようにした。
      「やー、わかったわ。さすがだな。サンキュ」
       終わってみれば、数学の難問を自力で解いたあとのような、すがすがしい気分になっていた。葵は満面の笑みでアイスティーを口に運び、飲めよと克巳に目で促す。
      「それにしても、どうして古文なんて?」
       少し訝しそうに克巳が尋ねてきた。
      「葵は理系じゃないのか?」
      「あー、それね」
       痛いところを突かれてしまった。口が重くなる。
      「実は、国公立をまだあきらめられないと言う……」
       克巳は意外そうに見つめてくる。テーブルに戻しかけていたグラスが宙で止まった。
      「担任はどう言ってるんだ? 私立に絞ったほうがいいんじゃないか? もったいない」
      「……まったく同じこと言われました。浪人したいのか、って」
      「――だろうな」
       あっさりうなずかれるが葵に反論はない。無謀なことくらい、自分でわかっている。
      「どうして国公立狙いなんだ? どこでもいいなら可能性あるだろうけど、私立なら、そこよりレベル高いところに入れるだろう?」
      「……家を出たくて」
      「え」
      「わかってるよ、動機が不純だってんだろ?」
       つい投げやりに言えば、思いがけない返事を聞かされた。
      「いや――俺と同じだから」
      「……え? 克巳も?」
      「なら、なおさら現役で合格しないと。そうなったら、卒業後はまるっきり離れ離れだな」
       やけに明るく克巳は言って、薄くほほ笑んだ。その表情の淋しさに、葵はギクッとする。
       ――考えてなかった。
       全身から血が引くようだった。頭の中が急に凍りついたみたいに感じられ、うろたえてしまう。
      「……克巳は、どこ狙いなんだ?」
       思わず訊いていた。
      「とりあえず国立。浪人は無理だから私立も受けるけど、私立に行くことになったら自宅通学だな。……家を出ても、そんなに遠くへ行くつもりはないし」
       淡々と答えられ、胸まで凍りついた。
       常に学年上位の成績の克巳なら、国立大の現役合格も無理はなさそうだ。教師にも親にも反対されてないだろう。毎年、そんな生徒が何人かはいるのだから。
       卒業したら、まるっきり離れ離れ――。
       自分の進路なんて関係ない。確実に、克巳はこのマンションを出ていく。
       文化祭だって、まだこれからなのに――。
       そう思ったら、たまらなくなった。卒業して会えなくなるより先に、文化祭が終わったら克巳とも終わりなのかもしれない。
      「オレたち、もう友達だよな?」
       気づけば、恥ずかしいことを口走っていた。
      「え……」
       克巳の顔が赤くなる。目に見えてうろたえ、ぎこちなくアイスティーを飲んだ。
      「答えろよ」
       引っ込みがつかなくて、葵は言う。
      「オレのこと、どう思ってんだよ?」
       いっそう克巳が赤くなった。
       よくわからない。今度は急にドキドキしてくる。この状況は、まるで――。
      「……あたりまえだろ。友達じゃないなら、何だって言うんだ」
       ボソッと、顔をそむけて克巳が答えた。葵は、おかしなほどがっかりしてしまう。
      「つまらないこと言うなら、もう帰る」
      「――え?」
      「面倒なんだよ」
       ギョッとして、腰を浮かせてしまった。
      「……いつもいない親が家にいるんだ。勉強にうるさくて、あまり長く家をあけられない」
       そういうことかと、ホッとして椅子に戻る。
      「……大変だな」
       思ったままに言ったら、深い溜め息をついて返された。
      「葵が恵まれているんだ。親に信用されてるだろう?」
       驚いて克巳を見た。克巳は気まずそうに顔をしかめて立ち上がる。
      「そういうことは本人にはわからないだろうけど。それじゃ」
      「克巳――」
      「お盆過ぎれば、もっと時間に都合つくから」
       低く言って、足早にリビングを出ていった。母親にあいさつをする気づかいなど、すっかり忘れたようだった。
       葵はぽかんとして、克巳が消えた先を見つめる。
       ……呼んだら、また来るって?
       そう言ったのだろう。そうとしか思えない。だけど親がいなければ来ないのだろう。
       ヘンなの。
       葵は小さく吹き出してしまう。おかしくてたまらない。笑いがこみ上げてきて抑えられない。ダイニングテーブルにひとり残って、くすくすと笑い続けた。
       ないだろ、親がいなくちゃ家に来ないなんて。普通に友達なら、逆だって。
       まだドキドキするようだった。じわじわと胸が熱くなるみたいで息苦しい。せつなくて、なのに、ホッとするような気持ち――。
      「あら、葵。高梨くん、帰っちゃったの?」
       背後から母親の声がした。葵は振り返りもせずに言う。
      「なあ、オレのこと信用してる?」
      「なあに、急に。あたりまえでしょ、つまらないこと言わないでよ」
       それが照れくさそうに聞こえて、葵は泣きたいような気分になる。
       もしかしなくても、自分は本当に何もわかっていなかった。きっとまだわかっていない。そういったことに、ひとつひとつ気づかせてくれたのは克巳だったことを思う。


      つづく


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