四 二学期が始まって最初の金曜日、翌日から二日間に渡って開かれる文化祭の準備で校内は騒然としていた。授業は二時間で終わり、午後の開会式までに、それぞれのクラスや部に割り当てられた会場の設営が進められる。 「あー、もう貼ってある」 葵は、混雑した廊下をどうにか通り抜け、目当てにしていた階段の踊り場に来て呆れてこぼした。 「ポスターは会場設営が終わってから、ってなってんのに。一番いい場所、取りやがって」 「言えないんじゃないですかぁ?」 すかさず隣から突っ込まれて葵は笑った。自分たちもポスターを貼ろうと校内を回っているのだ。実行委員会の書記の女子が一緒に来て、手伝ってくれていた。 「特権じゃん? 委員会は設営ないし」 「文化祭が終わってからですもんね、後夜祭」 葵はポスターを受け取ると、目につきそうな場所を選んで壁に貼った。 「――よし」 満足して眺める。後夜祭のポスターだ。 先日の実行委員会で、自分は後夜祭でジレを着ると話して現物を見せたら、承認を取るだけのつもりがポスターを作ることになってしまった。 《後夜祭 お待ちしてます!》 芸のないキャッチコピーが中央にでかでかと縦書きにされていて、その一文を挟んで、制服にジレを着た自分と克巳が、体を斜めにして向かい合わせに立っている。それを囲んで委員会の役員たちが腕を広げたり笑顔を覗かせたりしていて、やけにハイテンションな出来ばえだ。デジカメで撮影した写真に文字を載せてプリントアウトしただけのものだが、そのときのことを思い出して葵はニヤける。 こんな顔で写っちゃって。 ポスターの中の克巳は、照れてぎこちない笑顔だ。撮影の話を克巳に持ち出すには自分よりも委員会の誰かのほうが効果的と踏んでそうしたのだが、そのとおりで、後日、撮影現場に現れた克巳は不承不承の様子だった。 『委員だけで写せばいいのに』 カメラを向けられてもまだ言っていて、「生徒会と合同開催ですから」と誰からもたしなめられ、克巳らしくないとひそかに驚かれていた。 「生徒会長のこんな顔、初めてでしたよ」 今も隣から言われ、葵はドキッとする。 「緊張なんか、しない人だと思ってました。なんて言うか……意外にかわいい感じ?」 「えっ!」 「え?」 焦って目を向けて、不思議そうに見つめ返されてしまう。 「いや……かわいいとか、オレわかんないから。男だし。つか、浮いてんな、って思って」 「ああ、それありますね。でも誰も、そんな細かいとこまで見ないから無問題ですよ」 実は自分もかわいいと思って見とれていたわけで、適当な言い訳が通ってよかったと葵は胸を撫で下ろす。さっさと次へ回ろうと促して歩き出すが、彼女にも克巳がかわいく見えるのかと内心で焦っていた。 ……やっぱ、オレといたから? 普段見せない顔で克巳が写ってしまったのは、たぶんそういうことだと思う。校内にいても自分の前では自制が効かなくなるみたいで、いっそうニヤけた。 「坂月先輩、二学期になってからなんか楽しそうですね。夏休み、いいことありました?」 さっそく言われてしまった。相原にはしつこく追及されたくらいだ。 「やっと文化祭だからね」 ニッコリと返して、ああ、とウンザリした笑顔でうなずかれる。 「長かったですもんね。やっと終わると思うとホッとします。楽しかったけど」 楽しかったと聞かされて、少しだけ申し訳なく思った。本当は、学校が始まったから何もなくても克巳に会えることがうれしくてたまらないのだ。 帰りは無理でも、朝は一緒に行きたいんだけどなー。 ダメ元で言ってみたら、厳しく却下されてしまった。冗談にもならない、の一言だった。 気持ちは通じ合ったはずなのに甘い雰囲気には一向になりそうにない状況で、あれからキスもしていないし、それどころか、ろくに話せていないありさまだ。 あの日は夏休み最後の日曜日で、翌日から今日まで委員会で忙しくて、克巳も生徒会の文化祭準備に追われていて、校内で顔を合わせてもプライベートな話などできなかった。 またランニングを口実に出てきてくれないかと言いたかったが、そこは我慢した。どう考えても一緒に登校するほうが容易なはずで、それが駄目と言われたのだから仕方ない。 なんつーか……。 こんな調子でちゃんとつきあえるようになるのか不安にもなるが、そんなことないよな、と思う。互いに好きなのだから。 ――だよな。 文化祭の二日間が、きっと鍵になる。漠然とそう思った。 その後、一通りポスターを貼り終えて自分のクラスに戻った。三年ともなると慣れたもので、それぞれの係が仕事をわかってくれているから指示を出すほどのこともなく、委員会の仕事も当然ながらこの時間は特になくて、何気に手伝いながら、午後の開会式の段取りを思い返して開会の言葉を考えたりしていた。 昼休みになって、途中まで駄菓子屋になった教室の床に相原と並んで座り込み、弁当を食べ始める。 「なに、あのポスター」 いきなりムスッと言われ、笑ってしまった。 「見たのか」 「見たよ、あちこちに貼ってあるんだから。なに考えてるわけ?」 「何が」 「高梨とペアなんてさ」 ドキッとして相原に顔を向けるが、和紙を切り抜いた花で飾られた背後のすだれまで目に入って、なんだか拍子抜けする。 「そっちか」 「そっち、って。どっちだと思ったわけ?」 フライングしてポスターを貼り回ったことではなかったのかとは、自分からは言えない。 「うーん……『どっち』もないんだけどさ」 「なにそれ」 「美由に頼んだら、ペアになっただけ?」 相原はふと箸を止めて、眉を寄せた顔で見つめてきた。 「マジ? ……どういう神経してんの、坂月も高梨も」 「頼んだのはオレじゃなくて、克……高梨で」 「喜んで着ちゃうんだ? 死ねば?」 「ちょ、相原」 迂闊なことを口走ったと気づくが、後の祭だ。美由に衣装を用意してもらったことを無神経と言われても、相原は事情を知らないのだから仕方ない。 「信じられないよ、ペアなんて」 だが、暗くつぶやいて弁当をかき込む相原を見て、違うことを言われた気がしてくる。 「男でペアなんて、する? ハズイっての」 そっちかよ。 そんなことで相原が気を損ねているなら、むしろ驚きだ。自分と克巳がポスターで悪目立ちしている自覚はあるし、それもわざとだが、男同士のペアなら言うほど珍しくもない。友人が持っているものが気に入って同じものを買ったなんて話はわりと聞く。それもペアと言えなくもないと思う。 ――あ。 「相原、あの店、あれから行った?」 一緒に元町に行った日のことを思い出して訊いてみた。 「いきなり、なに」 「気に入ってたみたいだからさ。これ」 今日もつけている首のチョーカーを指した。 「えっ……」 急に相原はうろたえたようになる。顔を伏せて、無言でまた弁当をかき込んだ。 「まだなら、文化祭終わってから行く?」 文化祭は土日に開催されるから、そのあとの二日間は代休だ。 「――行かない」 硬い声で返されて、やっぱりと思った。 相原は顔を上げて、射すくめるような眼差しで見つめてくる。 「ヘンなとこに気が回るようになったんだ」 葵は大きく目を瞠った。 「そういうの、好きじゃない」 「……悪い」 あとはもう会話が続かず、ひたすらに弁当を食べることになってしまった。相原が何を怒ったのか葵は察しがついたし、そんな自分に戸惑った。 相原には、あんなふうに言っちゃマズイって……なんで先に気がつかないんだよ、オレ。 淋しい気持ちで胸がふさがれた。 文化祭の開会式は体育館に全校生徒を集め、三時から行われた。実行委員長の葵の開催宣言に始まり、お定まりの校長の話があって、それから文化祭の各賞について委員会の役員から説明がされ、続いて、それぞれのクラスと部の展示や催しの内容紹介に移った。 力の入ったプレゼンテーションが行われるたびに場内は沸いて、自然と文化祭への期待が高まっていった。二日間に渡る、全校上げての「祭」の始まりだった。 最後に生徒会長の克巳の話があって、葵はこれまでになく聞き入った。ステージの袖と中央に分かたれた微妙な距離感が、今の自分たちのありようそのものに重なって感じられた。克巳が話す内容は当り障りのないことで、しかしこの文化祭で生徒会長を引退することに触れたとき、葵は思いがけない感慨に胸が染まった。 三年間、クラスは一度も一緒になったことがない。それなのに克巳が目について、いつしかひどく嫌っていた。完璧な人間に見えていた。卒なく、何でもこなせる――。 つか……オレ。 今になって、ばかばかしいことに気づいた。克巳を嫌っていた理由は、もっと単純だ。 ……翠を思い出させるから。 文化祭実行委員長の席としてステージの袖にいながら、葵は深い溜め息が出た。祭気分に浮き立っていた全校生徒をほどほどに静め、さほど堅苦しくもなく、それでも生徒会長としてあたりまえのことをあたりまえに話して、それなりに耳を傾けさせている克巳を熱い思いで見つめる。 カッコいい。凛として、きれいだ。自分が気づかなかっただけで、ずっと憧れていたのだ。目について離れなくなった、あの頃から。 話を終えて克巳が席に戻っていく。葵とは反対側の袖で、パイプ椅子に腰を下ろしかけて葵の視線に気づいた。 あ……。 笑った。葵は胸がじんとする。たったこれだけのことで。そう思ったら、少しも「これだけのこと」ではないと気づいた。 今日一日、見かけることもなかった。克巳はどこにいたのか――自分のクラスで働いていたのか生徒会の仕事をしていたのか、この開会式が始まるまで顔も見られなかったから、こうして今ときめく。 ――なんつーか。 ベタ惚れって、こういうのを言うのかな、と思った。とても幸せな気持ちだ。 翌日の文化祭初日の土曜日は校内公開日で、生徒や保護者など学校関係者が対象のため、混雑もなく、一通り見て回るにはちょうどいい。実行委員会の役員は順番で受付を担当し、葵は開始から二時間ほどそこにいたが、あとは自由だった。翌日の日曜日は一般公開日で多くの人が訪れるから、そうもいかなくなる。 さっそく、手近なところから展示や催しを見て回り始めた。閉会式で発表される各賞は、生徒や一般来訪者のアンケート結果と、教師による投票と、実行委員会の採点で決まるから、すべて見て回ることは葵には半ば義務だ。 相原を誘って回るつもりでいた。だが朝のうちに、あっさり断られてしまった。 『何かあって途中で坂月が行っちゃって、ひとりにされんの、ヤダもん』 校内公開日だからそんな事態は起こりえないと言ってみたが駄目だった。 相原……。 昨日の昼休みにぎくしゃくしてしまい、それからずっと様子がおかしい。今までなら翌日にはけろっとしていたのに、と思う。 誰と回ってんだろ。 たぶんクラスの数人とに違いなく、簡単にそう察しがつくのに気になってしまう。 廊下を行きながら、顔見知りに会うたびに笑顔で声をかけられた。顔見知りでない相手からも何かと視線を感じた。普段とはどこか違っていて、校内で役職を背負えばそれだけでも注目されるということを改めて思った。 克巳に会いたかった。生徒会役員は文化祭で裏方の仕事があると聞かされていたとおりに、これだけ歩いても、克巳に限らず生徒会役員を見かけない。 何やってんだろうなー……。 お化け屋敷が並ぶ階に来て、端から順番に入ってみたが少しも楽しめなかった。去年も一昨年も、能天気に祭気分に浮かれたことを思う。実行委員長の今年は、ぜんぜん視野が違う。 ――あ。 次の階に行こうと、階段を上って踊り場を回ったところで、上の階の廊下を右から歩いてきた克巳が目に飛び込んだ。 唐突に胸が締めつけられる。克巳は生徒会の副会長といる。笑顔だった。校内で見せる、いつもの穏やかで落ち着いた笑顔。 意識せずとも足が止まり、目が追っていた。何度も経験したことだ。体が覚えていた。 あ……。 通り過ぎそうになったそのとき、目が合った。克巳の笑顔が変わる。やわらかく口元がほころび、眼差しが温かく細められた。葵は、パッと明るい笑顔になる。 あ、と、で。 克巳の唇が動いてそう言った。隣にいて何も気づかない副会長は先に行きかけて、振り向いて克巳を呼んだ。 克巳が足早に左に消え、葵は一気に階段を駆け上った。姿勢よく、すらりとした後ろ姿を目に映し、胸がドキドキしてたまらない。 あとで、って……なんだよ。 やっぱり克巳は思わせぶりだ。 余裕、見せやがって。 少し悔しく思いながらも、うれしくて仕方ない。今日は校内公開日だ、昼休みがある。昼休みになったら探してみようと思った。昼休みに克巳を探すなんて、ずっとそうだったじゃないか。この気持ちに気づく前から自分は克巳を追っていた。 それから昼休みまでの短い時間、どの展示も催しも、ひとりでも楽しく回れたのだから、現金な自分を葵は笑った。 「え、屋上?」 昼休みになって、もともとの自分の教室に戻って廊下のロッカーから弁当を取り出し、克巳を探そうと歩き出してしばらくしたところで、当の克巳に背後から呼び止められて驚いた。一緒に屋上で弁当を食べようと言う。 「いいけど……文化祭のあいだは立ち入り禁止――」 言いかけたら、シ、と克巳はまた唇に指を立てて、それ以上言うなと止めた。 葵は顔が熱くなる。コイツは本当に自覚なくてこういうことをするのかと、問い詰めたくなった。 「つか、弁当持ってきてんの?」 飲食系の模擬店もずいぶん出ているので、昼休み前後にそこで済ませてしまう生徒もかなりいるのだ。 「そっちこそ。理由は同じだろう?」 「まあな」 生徒会長と文化祭実行委員長の会話だった。思わず笑い合う。 「大丈夫、鍵、ちょっと借りてきたから」 澄まして言って克巳は先に歩き出した。 「少し遅れて来いよ」 肩越しに小声で言った。 葵は足を止めて屋上への階段を上っていく克巳を見る。さりげなく脇にずれて廊下の壁に背でもたれた。深く息を落とす。 克巳といれば嫌でも格段に目立ってしまう。文化祭までは一緒にいても何も不自然ではなかったけど、終わってからもそうなら、むしろ雰囲気が変わったら――それを考えて複雑な気持ちになった。 これまでのカノジョとのつきあいでは、こんなことは考えなかった。突き詰めれば単純で、とても明快な気持ちだ。 つまんねえこと言われて邪魔されたくない。 葵は笑ってしまう。克巳が好きだ。ひとを好きになる気持ちがどれほどのものかをまた思った。 屋上へのドアを開くと、克巳はそこにいた。鍵を閉めて、先に立って歩き出す。 「規律に反したことはしないんじゃなかったのか? 鍵まで盗んできちゃってさ」 ずいぶん前に克巳がそう言っていたことを思い出して葵はからかうが、克巳はどこ吹く風だ。 「たまには規律より優先したいことがある」 葵は笑って後につき、海が見える角まで行くのだなと漠然と思った。 「天気いいな。暑いけど仕方ない」 つぶやいて克巳が腰を下ろす。日陰などあるはずもなく、残暑の陽射しにさらされている。遠い先に、切れ端のような海が見えた。青く輝いている。それを目に映し、葵も腰を下ろした。しばらくは黙って弁当を食べる。克巳と話したい気持ちが募るばかりで、何から話したらいいか、言葉が出なかった。 「明日は、こんな時間も取れないから」 「ああ」 ふと口を開いた克巳に答えて葵は顔を上げた。ようやく克巳の顔を見られた気分だ。 「明日は朝から本部に詰めっぱなしだ。葵もそうだろうけど、俺は中学生の相手もしなくちゃならない」 一般公開日は翌年度の受験志望の中学生も多数来るから、希望に応じて、在校生の立場から克巳たち生徒会役員が学校説明をすることになっている。 そのことは、文化祭本部はひとつの教室なので実行委員会にも知らされていて、もちろん葵も知っていた。明日は丸一日克巳と同じ場所にいることになるが、ほかに生徒会役員も実行委員もいるし、誰でも出入りできるわけで、克巳と悠長に話せることはないと葵も思っていた。 「なんかさ……やっと会えた気分」 「俺もだ」 思わずもらしたら即座に返され、葵はパッとした笑顔になる。 「マジ?」 「……どう思ってたんだ」 克巳は少しムッとして弁当に戻った。 「――余裕かましてるからさ」 「余裕? どこが?」 「だって――」 言いかけて、フッと葵は笑う。自分も弁当に戻ったら、克巳が小さく溜め息をついた。 「なんで来ないんだ? 俺の部屋、玄関の横って知ってるだろう? いつ来てもいいって言ったのに。窓が明るければいるんだから」 プッと葵は吹き出してしまう。そんなことを言われるとは思わなかった。 「オレに窓叩けって? そしたら出てくるって? なら、そっちはどうなのよ? ケータイ持ってるって知ってんだから、かけてこいよ。家からだって、かけんのはできるだろ?」 「それ言うなら番号教えろ」 「えっ?」 葵は咄嗟に目を合わすが、ムスッと言う。 「……そういうことは早く言えよな」 「自分の落ち度は棚上げか」 早々に食べ終えた弁当を片づけながら克巳は澄まして言った。 「しょうがねえだろ、とっくに教えたと思い込んでたんだから」 「迂闊」 いきなり胸元をつかまれた。ぐいと克巳に引き寄せられる。 「ちょっ」 葵は驚いて目を見開く。チュッ、と唇が重なって離れた。 「な! なにすんだよいきなり!」 「かわいいこと言うからだ」 葵は真っ赤になって照れるのに、克巳は穏やかに言ってやわらかくほほ笑んだ。 「好きだ、葵」 これではたまらない。まっすぐな眼差しで見つめられ、葵は苦しいほど胸が熱くなる。 カッコいいじゃん……。 「どうしたんだよ急に」 うろたえてつぶやいた。 「言ってなかったから」 「――って。いきなり帰ったくせに」 ルーフバルコニーで花火を見たあの日、翠が帰宅したせいもあったけど、克巳はその前に帰ると言い出していたはずだ。 「つまらないケンカなんて、したくなかった。だから帰った」 「……そっか」 葵は言いようのない気持ちになる。一方的に怒って帰ったものと思い込んでいた。 「どうやってつきあっていったらいいか……ずっと考えていた。余裕なんてない」 やっぱり葵はたまらない。克巳がそんなことを考えていたとは思っていなかった。 「ダメだ、オレ。もう一回、キスしたい」 「ダメだ」 また即答で返されて悲しくなる。 「なんでー。そっちが先にしたんじゃん」 「ダメだ、葵は止まらなくなるから」 「は? なにそれ?」 呆れて言ってから、克巳が恥ずかしそうにしていることに気づく。自分まで恥ずかしくなって急いで弁当を片づけた。 風がなくて、じわじわと汗が滲んできた。克巳は遠い海に目を向けている。気づいて、葵も目を移した。 「海を見るとホッとする?」 一学期にも克巳とここに来た。そのときに克巳が自分でそう言った。 「うん――広い場所に憧れる。気持ちが開放されるみたいで、落ち着ける」 克巳は、すっと視線を流してきた。薄く、ほほ笑んで言う。 「魚みたいだと思っていたんだ」 「え?」 「葵のこと」 そう言って、また海の見えるほうへ目を向けた。 「自由で、気ままで、思いどおりに生きているみたいで、うらやましかった。みんなから好かれているのに、そういったこともどうでもいいみたいで、誰にもつかまらなくて……憧れていたんだ」 フッと横顔で笑って、ニヤリとした顔を向けてくる。 「なんてね。今は、それだけじゃないって、もうわかってるけど」 「克巳、おまっ」 「偶然でも、同じマンションに住めることになってよかったと思ってる。引っ越した日は焦ったけど。いろんな葵を知ることができた」 「……オバサンたちの噂でか?」 意地悪く言ってやれば、にこやかに笑った。 「そんなの、大したことじゃない。噂なんて一面的だ。自分で知りたいと思ったよ」 ドクンと葵の鼓動は跳ねる。抑えられるわけがなかった。素早く克巳の頬を手のひらで包み、その唇を盗み取った。 「ん――」 胸が熱い。止まらない。克巳の言うとおりだ。ひとしきり許され、克巳の唇を貪る。 「……だから……ダメだって――」 「好きだ、どうしようもなく」 眉をひそめる克巳を真剣に見つめた。 「オレも、もっと知りたい。全部、欲しい」 「今は、それは――」 「違う、オレたちは始まったばかりだから」 「……葵」 校内アナウンスが響いた。昼休みの終わりを告げ、葵の名前が呼び出される。 「――行こう。急がないと」 立ち上がり、克巳は先に歩き出した。葵は隣に並んで熱心に話しかける。 「帰りは? やっぱ、ダメ?」 「葵のほうがダメだろう? 残って、明日の準備をするんじゃないのか?」 「……そうだった」 一般開放日に向けて、ゴミ箱の設置やら、駐輪場のライン引きやら、いろいろあるのだ。 「なら、夜。行くから」 「……それ、今日は無理だ」 葵は黙り込んでしまう。それを気にしてか、克巳が遠慮がちに顔を向けてきた。 「嫌にならないでくれ。情けないけど、親に勝てないんだ。……信用されてなくてさ」 「どんな親だよ、克巳が信用できないなんて」 克巳は答えない。葵は胸がふさがれる。 「行こう! 文化祭は明日が本番だ」 ぽん、と克巳の背を叩いた。勢いづいて肩を抱こうとしたら、あっさり払われた。 克巳が笑顔を向けてくる。飾り気などどこにもない、明るく弾けた笑顔だ。 葵はうれしくなる。きっと克巳は、自分にしかこんな笑顔を見せない。もう十分、という気持ちが湧いてきそうだった。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:君に、