Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




      猫と水たまり
      −15−




      「あー……ヒマ〜。ちょっと、そのへん見てくる」
      「坂月」
       席を立とうとして克巳にきつく止められた。葵は渋々と自分の定位置に戻る。
       一般開放日の今日は朝からのにぎわいで、それは文化祭本部に割り振られたこの教室の窓から校門のあたりがよく見えるから、葵にも十分わかった。しかし葵は暇を持て余している。本部に詰めていなければならないにしても、ほとんどすることがない。
      「もー、なんなわけ」
       朝からしたことと言えば、受付を少々と、落とし物の管理と、実行委員会の中での伝言係と、補充用のゴミ袋がなくなったがほかにないのかという問い合わせに応じたくらいだ。
       せわしなくしているのは他の実行委員たちで、何かと出入りしては葵の指示を仰いでいく。そのほとんどが単なる確認なので、葵は気が入らない。
      「毎年、そんなもんだよ。何かあったとき、委員長を探し回るのが大変だから――軟禁されているようなもんかな?」
      「……わざわざ言わなくたっていいじゃん」
       あっさり克巳に返されて葵は机に突っ伏す。居合わせた生徒会役員にクスッと笑われた。
       克巳もほとんど暇なことに変わりはないが、突発的に訪れる中学生やOBの相手をしている。中学生が来たときに葵も一緒になって学校説明をしようとしたら、たまたまそのときにいた文化祭顧問に止められた。あんまりな話だ。
       OBは何をしに来るのかわからない。生徒会役員を相手に、単に雑談をしに来るとしか思えなかった。
       昼前に、翠が来た。葵は思わずムッとしたが、模擬店でいろいろと買い集めた食べ物を差し入れてきた。
       今日は両親が親戚の結婚式に出席するため早朝に慌しく出かけて、弁当はコンビニで買うように言われていたのに忘れてしまったから本気で助かった。
       だが自分にではなくて本部のみなさんへ、ということで、心底がっかりした。
      「翠、マジ頼むから、弁当買ってきて」
      「……バカすぎて何も言えん」
      「お願い!」
       克巳に見られている恥ずかしさよりも空腹に負けた。翠は呆れたように浅く息をついて、口調を変えて言ってくる。
      「それより、葵。俺もこれから泊まりで出かけることになったから。それ言いに来たんだ。ケータイにメールしたんじゃ、いつ見るかわからないし」
      「マジ? なんで? 明日、仕事だろ?」
       父親は結婚式に出たあと一泊するから休みと聞いたが、翠も休みとは聞いていない。
      「喜ぶなよ? 出張だ」
      「は? 日曜日から?」
      「出張は明日だ、何も聞いてなかったのか? 朝が早いから前泊することになっただけだ」
      「……マジで?」
       なんとなく、嘘っぽい気がする。急にそんなことがあるだろうか。余計な詮索が湧く。
      「いいから、とにかく。家に誰もいないからって、友達呼んでハメはずすなよ?」
      「わかってるって」
       素直に答えておいて、内心でほくそ笑んだ。
       翠、ダメじゃん。そんなふうに言ったら、友達呼んでハメはずせ、って聞こえるって。
       そう思って、ドキッとした。唐突に頭に浮かんだことで顔が熱くなりかける。
      「その前に、弁当! 約束守るから!」
       手を合わせて頼み込み、翠からうまく顔を隠した。仕方ないなとつぶやき、翠が離れたと知って顔を上げた。
       いきなり克巳と目が合う。
       ――って。
       どう見ても頬を淡く染めている。その意味を探るよりも何も、ここでその顔はやめてほしかった。
       オレ以外に見せんじゃねえっての!
      「高梨、口にケチャップついてんぞ」
       わざと「高梨」と呼んで言ってやった。狙いどおり、克巳は慌てて手を口に当てる。翠の差し入れにアメリカンドッグがあったからそう言ったのだが、まだ食べてないのだからついているわけがなかった。
      「えー、会長、もう食べちゃったんですか」
       誰かが言ったが、そんなことは知らない。
       ……期待させんじゃねえよ。
       自分のほうが、よほどドキドキしていた。まだ無理と何度思い直しても、湧いた期待は消えてくれなかった。
       それからは翠が仏頂面で届けてくれた弁当を席で食べ、相変わらず暇を持て余し、ほかにも差し入れられたものをつまんで、そうこうするうちに服飾部のファッションショーが始まる二時を迎えた。
      「自転車の鍵?」
       そういうときに限って面倒は起こるものなのか。自転車で来た小学生が鍵をなくしたが、どうしたらいいかと駐輪場の係がやってきた。
      「坂月、時間だ。もう行かないと」
       だが、克巳に急き立てられる。
      「そんなの家に電話させろ、家の番号くらい知ってるだろ、スペアあるかもしれないし、先生見つけて職員室に連れて行け、って――克巳!」
       話しながら鞄からジレを取り出し、立ち上がりかけたところで腕を引かれ、足がよろけそうになった。
      「で、ダメだったら、あとは先生に頼め!」
       どうにか言い切ったが、その勢いのまま、ぐんぐん腕を引かれて嫌でも全力で走り出す。
      「ちょ、克巳!」
      「約束は破れないだろっ」
       顔も向けずに言い放たれた。
      「じゃなくて、手、放せ! 走りながら着るから」
      「――そうだな」
       克巳は意図して、一般は立ち入り禁止の区域を選んで走り出したに違いなく、体育館へは遠回りになるけど混雑した廊下を行くよりマシだと、葵は変なところで感心する。
       それにしても息が切れる。思わず言いたくなる。
      「足、速いな」
       ずっと以前からそう思っていたのだ。
      「陸上部だったから」
      「えっ?」
      「中学のとき」
       ――知らなかった。
       また変なところで感心して、まだ知らない克巳がいるのだと、妙にワクワクした。
       ジレを着た後ろ姿を追う。カッコいい。すらりとしたこの体をきつく抱きしめたい――。
      「きゃ〜!」
       体育館に飛び込むときに黄色い歓声が上がった。そろってジレを着て、ふたりで来たのはマズかったと焦るが仕方ない。
       体育館は既に暗幕が引かれていたが照明が半分ほどついていて、さすが文化祭で一番の人気を誇ると感心する混雑で、だが、そんな余裕はない。人をよけて壁際をステージまで一気に走り抜ける。後ろから、次々と上がる黄色い歓声が追ってきた。
      「遅いよ、ふたりとも〜」
       やっとの思いでステージの袖に来て、美由に言われてしまった。
      「ごめん、柴崎。本当に、ごめん」
       克巳が頭を下げて謝るが、葵は息が乱れて声も出ない状態だ。
      「しょうがないな、もう。ほら、タオル。汗拭いて。リハなしの一発勝負なんだから根性で曲に合わせて、ゼッタイ笑顔! テンション高いよ、オープニングの曲は。ノリノリで盛り上げて、頼みます!」
       逆に美由に拝まれて、葵は力強くうなずく。
      「息、整ったし、もう平気」
      「わかってるよね、先まで行ったらポーズ」
      「前、横、後ろ、8カウントずつだろ?」
       葵と克巳のふたりの服装を整えながら、美由が指示を出した。照明がすべて消える。体育館の中が静まり、美由の片手が上がる。ふたりはステージを覆うスクリーンの両脇に分かれて、その陰に入った。
       すっと美由の手が下がり、アップテンポの曲が軽快に鳴り出し、ふたりをそれぞれ照らすスポットライトがついた。それが合図だ。
      「きゃー!」
       スクリーンの前に回った途端、歓声が上がった。静まっていた場内が一瞬で騒然とした。
       だから、ぶち壊しになるって言ったのに。
       毎年、パリコレを模したショーを展開して好評を得てきた服飾部には、あるまじき事態だ。申し訳ない思いが湧いたが、葵は笑顔で消した。向かいの袖から出てきた克巳も笑顔だ。曲に乗って、軽い足取りで歩いてくる。
       意外――。
       吹き出しそうになって、こらえた。中央まで来て、並んで止まる。ここでも8カウント。
      「……もっと派手にやっちゃおっか」
       こっそり克巳にささやいた。
      「え」
       顔はしっかり正面に向けたまま、克巳が戸惑った声をもらした。
       8カウントを数えた。客席の中ほどに設えられた丸いステージまで、花道を並んで行く。
      「あ、葵……っ」
       着いた瞬間に克巳の手を取って高々と上げた。いっそう歓声に沸き、それにも手を振って応える。正面を向いて、8カウントのポージング。すっかりモデルの気分だ。克巳の手をぎゅっと握ってから放した。背中合わせに横を向いて、また8カウントのポージング。男の声でヤジまで飛んでくる。最後はスクリーンに向いて、ポージング。
       あとは出てきたときと同じように、体育館のステージに戻ったところで客席に向き直って8カウントのポーズを取り、それぞれに分かれて袖に引き返す段取りだった。
       ――え。
       スクリーンの前まで戻ったら、両袖から色とりどりの衣装で、何人もの女子がわっと出てきた。克巳も聞いてなかったようで驚いた顔をする。曲に合わせてステップを踏み、ふたりを取り囲むようにしてから花道へなだれ込んでいった。
      「いいよ、戻って」
       誰かがささやいた。克巳とアイコンタクトを取り、タイミングを合わせて退場する。スクリーンの陰に入ると、美由に音のない拍手で迎えられた。
      「なにあれ、聞いてないって」
      「そのほうがおもしろいって」
      「いいのかよ、これで」
       立て続けに小声で言い合うが、向こうの袖から戻ってきた克巳に気づいて、また音のない拍手で美由が迎えた。
      「高梨も、よかったよ」
      「……心臓が止まるかと思った」
      「だろ?」
      「葵のせいだ」
      「――え」
      「いいよもう、よかったんだから! あとは大丈夫」
       帰れと美由に背中を押された。
      「あ、脱いでいってね。こっそり帰ってよ」
       ジレを脱ぐのは当然としても、あとは保証できないと言い残し、ともかくもこっそりとステージの脇に出た。意外にも誰にも見つからない。体育館は暗く、ショーは続いていて、みんなスポットライトで照らされたステージを見ている。
       やったな。
       目で克巳に言って、小走りに体育館を出た。やっと息がつける。
      「克巳」
       無言で先を行かれ、慌てて呼んだ。しかし克巳は振り向きもしないし、足を止めようともしない。
       ……やっべ。
       怒らせてしまったようだ。すごすごと後について、これから後夜祭なのにどうしようと思うが、気分は高揚していた。
       体育館に向かったときと同じルートで本部へ帰った。手前まで来て克巳が振り返る。
      「後夜祭も成功させよう。な?」
       顔が赤かった。ずっと照れていたのだとわかって、葵まで顔が赤くなる。もう本部なのに、これではまた反則だ。
       三時になって文化祭終了の校内アナウンスが流れた。葵にはここからが正念場で、どのクラスや部よりも早く、実行委員会の撤収作業を終えなくてはならない。後夜祭の開始まで二時間だ。その前にクラスで集合して点呼があるから、うかうかしていられない。
      「ゴミ箱全部回収した? まだ終わってない? 受付の係、駐輪場手伝って。違うって、ライン消すのとかは水曜日でいいから。残ったパンフここにぶち込んで、スリッパ拭くのも水曜日でいい、って言ったじゃん!」
       撤収の済んだ係に残りの係を手伝わせるが、話が通じなくて、てんやわんやだ。
      「体育館、あいた? いいよ服飾部が残ってても、スポットライト、セットしてきて」
       後夜祭のパフォーマンスで使用する機材は自己責任で準備と撤収だが、会場設営が少しばかりあった。
      「オレ、体育館に移るから。何かあったら、そっち来て」
       克巳たち生徒会役員も忙しくしていた。その様子を横目に、残っている委員たちに言い置いて葵は本部を出る。
      「うわ、なにこれ! 一度、全部開けよう」
       体育館は、服飾部のショーのあとで熱気がこもっていた。葵は二階に駆け上がり、暗幕と窓を開けて回りながら、ついでにスポットライトの準備ができているか確認する。
      「マイク、袖にセットしてー!」
       ステージにいる委員に叫んだ。
      「ついでに、テストー!」
       こんなんでいいですかー、とマイクを通した声が響いた。頭上で、両腕を大きな輪にして応える。
       下をぐるりと見回して、余計なものが置かれてないか確かめた。後夜祭に参加する生徒は下校の用意をして集まることになっている。鞄などの荷物は壁際に寄せて置いてもらい、本人たちは床に体育座りだ。
       時計を見る。もうすぐ四時半だった。
      「おーい! 教室に帰れー。終わったらすぐ戻って来いよー」
       ばらばらと委員たちが体育館を出ていく。葵も自分の教室に戻った。
       それから間もなく、葵は克巳と放送室にいた。後夜祭の案内と、参加に当たっての注意をアナウンスする。下校は制服で、貴重品は各自で管理――。
      「よし、と」
       連れ立って体育館に向かうが、廊下はどこも生徒で溢れていた。文化祭の盛り上がりが尾を引いているのか、後夜祭を前にいっそう高揚しているのか、誰もが笑顔ではしゃいでいる。葵の隣を行く克巳も、温かくほほ笑んでいた。
       体育館に入り、既に来ていた委員たちと、窓と暗幕を閉めて回る。照明を半分にして、スポットライトをつけて動かしてみた。
      「……何をするんだ?」
       克巳が怪訝そうな顔をするが、葵は気にせず準備を進める。参加する生徒たちを体育館の前で足止めしている。急いだ。
      「みんな、聞いてー」
       マイクを使って、体育館に散っている委員たちに呼びかけた。
      「段取り、頭に入ってるな? 準備OK?」
       声は届かなくとも誰もが了承と返してきた。
      「んじゃ、進行係、あとは任せたからな!」
       駆け寄ってきた進行係とすれ違い、葵は克巳を促して体育館の入り口に立った。教師たちは教官室を通って順次入場している。文化祭顧問に一応の確認を取って、ドアを開けた。
       オープニング曲は、なんと校歌だ。最初に入ってきたグループの誰もが一様にギョッとした。
       二列で通り抜けられる程度に開いたドアの外のこちらと向こうで、葵と克巳は顔を見合わせて笑う。それぞれにジレを着て、事前に話したとおりの装いだ。克巳はきちんと着こなし、葵はラフに着くずして、どちらも入ってくる生徒たちの目を引いていた。
       予想以上に制服の生徒が多かった。下校は制服でとアナウンスもしたことだし、帰りに着替えるのを面倒に思ったと見られる。葵は半ば残念に思い、半ばホッとした。
       やたらと視線を感じるのは、狙ったのだから仕方ない。克巳が普段になくいい笑顔で、そのほうが気にかかった。だが後夜祭を開けたことを喜んでいるからと受け取り、こんな笑顔は独占したいと思う気持ちを黙らせた。
       途中、服飾部と軽音部のグループが入場するときに周囲が沸いた。派手な服装で、しかし文化祭衣装に違いなくて、葵と克巳は問題なく通した。ほかには目立ったこともなく、参加する生徒たちの入場は、もう終わりと思い始めていたときだ。
      「――相原」
       後夜祭には出ないと聞いていたから、葵は少し驚いた。相原は制服を着ていて、ムッとして葵の前に立った。
      「どうぞ。入れよ」
       葵は言うが、相原は顔を伏せて動かない。あとから来た生徒が慌しく先に入っていく。
      「葵」
       克巳が中を気にして声をかけてきた。覗いてみれば、ほぼ全員が思い思いに床に座り、かなり騒々しくなっている。
       進行は係に任せてある。葵は、開始の合図を送った。間があって、はつらつとした女子の声がマイクを通して響いてきた。後夜祭の開催が宣言される。
      「どうした?」
       相原に向き直って言った。相原は何か言いたそうにしているのに、言葉が出ない様子だ。
      「葵」
       また克巳が声をかけてきた。俺は中に入るから、と目で言ってくる。うなずいて返したとき、相原が口を開いた。
      「なんだよ、これ」
       葵のジレのボタンを引っ張った。
      「首輪、つけられたんだ?」
       皮肉っぽい笑みを口元に浮かべて見上げてきた。
      「葵、行くから」
       今度は声にして言って、克巳が中に入っていこうとする。相原がそれを止めた。
      「こっちは、何? ――猫!」
       クッと、喉の奥で笑う。
      「逆だろ、高梨が犬だ、学校の――」
      「……相原」
       葵はどうしたらいいかわからない。相原が何を考えているかが、わからない。
      「こんなの着て、楽しい?」
       また見上げてきて相原が言う。
      「高梨とペアで」
       苦しそうな笑顔だった。
      「相原――」
      「帰る」
      「ちょ、相原!」
       くるりと背を見せて、相原は体育館の外に出ていく。葵は追えない。後夜祭が始まっている。
      「追うんだ、葵!」
      「克巳……」
      「追ってやれ、追わないとダメになる!」
       肩を押され、勝手に足が駆け出した。体育館を飛び出し、だがすぐに立ち止まる。相原は、そこにいた。体育館を出た、すぐそこに。
      「相原――」
       呼びかけるが言葉が続かない。間があいてしまう。相原は、ふらりと渡り廊下の柱に背でもたれた。
      「……みっともないよね」
      「そんな――」
      「うるさいな、俺に適当に言うな!」
       食いつく勢いで返された。葵は悲しく目を細めて相原を見る。胸が痛んだ。相原は額を押さえてうつむいてしまう。
      「俺たち……こんなじゃなかっただろ?」
       相原が苦しい声をもらす。
      「俺に気を使うなよ。みじめになる」
       ごめん、とも、悪い、とも言えなかった。
      「高梨にまで気を使われてさ……みじめだ」
       相原を追えと言った克巳の声が聞こえたのだろう。克巳に言われるより先に相原を追えなかった自分を葵は激しく後悔する。
      「あのさ」
       うつむいたまま、相原は言う。
      「……流されてない?」
       何を言われたか、葵はわかった。流されるな――泊まりに来たあの夜、相原は自分にそう言った。
      「流されてないよ。どれも、オレの意思だ」
      「……そう」
       つぶやいて、相原はのろのろと顔を上げた。今にも泣きそうな顔に見えて、葵はぎゅっと唇を引き結ぶ。
      「高梨とペアで、楽しい?」
       さっきと同じ質問だ。葵はきっぱり答える。
      「楽しい、つか、うれしい。すっげー、うれしいよオレ」
      「……そうなんだ」
       すっと相原は目を細めた。弱々しい眼差しで、だが、まっすぐに見つめてくる。
      「それ、似合ってる。超カッコいい。高梨も……悔しいくらい」
      「相原」
       こらえきれず、葵は相原の肩に手を置いた。そうして耳元に口を寄せて、精一杯の思いで声を出した。
      「オレ、相原が好きだ。一番の友達だと思ってる」
      「そんなこと言うの、俺に――」
      「だから……タバコ、やめろ」
       ビクッと相原の肩が揺れた。葵は顔を上げられない。背が丸まり、相原の肩に顎が触れそうになって、うつむく。
      「……そんなこと、言うんだ」
       相原は身じろぎ、葵を押し返してきた。
      「もう、やめたに決まってるじゃない」
      「……マジ?」
       そうなっても葵は相原から手を離せず、目だけを向けた。
      「なんてね。嘘だけど。やめるよ、そのうち」
      「きっとだぞ?」
       やけにきっぱり響き、相原が目を丸くする。
      「オレは――」
       うな垂れる葵の肩をぽんぽんと叩いた。
      「戻れよ。俺は帰るけど」
      「……相原」
      「バーカ、なにマジになってんだよ」
       もう、いつもの相原だった。二カッと笑いかけてくる。
      「安心しろって。俺、女だったとしても坂月とつきあう気なんかないって、言っただろ?」
       ズキッと胸が痛む。葵は息を飲んで相原を見つめる。
      「やさしすぎる坂月は嫌いだ。けど、そこが好きなんだけどね」
       するりと相原は葵の手から抜けた。歩き出して、振り向いて言う。
      「電話する。代休、どこか行こう。あの店じゃなくて、別のところ」
       葵はうなずく。相原は中庭に折れて、正門に向かっていった。視界から消えるまで葵はそこにいて、それから体育館に戻った。
      「――克巳」
       入ったところに克巳がいて、葵は目を瞠る。
      「聞いてた……?」
       非常に気まずい。なんでか、気まずい。
      「悪いな。俺……独占欲、強くてさ」
       さらりと返され、心臓が飛び上がった。
      「葵――」
       中へ続くドアは既に閉められている。ドラムが低く響いている。軽快なロックのリズム――プログラムの三番目だ。
       ふわりと克巳の顔が近づいた。葵は大きく息を吸ってキスを受け止めた。耳の奥で鼓動が響いている。聞こえてくるドラムより強く。
      「……行こう」
       克巳がドアを細く開けた。葵も続いて中に滑り込む。進行は、係に任せてあった。入り口の脇の壁にふたり並んでもたれ、ステージで次々と繰り広げられるパフォーマンスをしばらく見ていた。
      「わかってた?」
       克巳がささやいて言う。
      「相原は特別だった。葵は、カノジョがいるときでも相原を優先した」
      「……そんなことまで見てたんだ」
      「見てたよ。俺は、葵から目が離せなかった」
       体の陰で、克巳がぎゅっと手を握ってくる。葵は熱い思いでそれを握り返した。
      『女だったとしても坂月とつきあう気なんかない』
       相原は、そう言った。相原の言うことだから言葉どおりに受け止めていいものか迷うが、言葉どおりに受け止めなければ相原を裏切ることになる。
       ――だったら。
       男でも自分とつきあうと言った、克巳の思いの強さを感じた。自分も同じだ。克巳だから、つきあいたいと思った。自分だけのものにしたいと――。
       オレだけのものに、したい。
       独占欲なら少しも負けない。むしろ勝っていると思う。今も――克巳が欲しい。
       あんなところでキスなんて、するから。
       今になって照れた。誰の目にも触れなくてよかったとホッとする。
      「……たまに、大胆だな」
       つぶやいたら、握っていた手を払われた。照れて顔を赤くしている克巳が目に浮かび、葵はうつむいて笑いをこらえた。
       ふたりがそうしている間にもプログラムは滞りなく進み、場内は盛大に沸いていた。教師たちも楽しんでいるようで、壁際にところどころ並んで見える顔は、みんな笑っている。
      「そろそろ行かないと」
       葵は克巳から離れて、壁に沿ってステージに歩き出した。袖に入って、任せっぱなしだったことをそこにいた委員たちに謝る。笑顔を向けられて、飛びっきりの笑顔を返した。
       最後のパフォーマンスが終わり、弦楽四重奏で和んだ場内に向かって葵はマイクを取る。
      「さて、後夜祭もいよいよラスト! みんな、立ち上がって! フォークダンスだ!」
       えー、とブーイングめいた声と、冷やかしの指笛で騒然とするが葵は構わない。
      「フォークダンスだからね! みんな、同じ振りで踊ってくれなくちゃ、嫌だよ?」
       ドッと笑いが起こった。誰もテンションが高くなっている。少々のことでは滑りそうもない。葵は気をよくして続ける。
      「実行委員会のダンサーズがステージで踊るから、少しは参考にしてくれよ?」
       それを合図に、ダンスの係が両袖から派手に飛び出した。湧き起こったヤジや声援に、ステージからブンブン手を振って応える。
      「練習はないよ! 本番一発だ!」
       一発だってー、エロいだろ坂月〜、などと言う声まで聞こえた。
      「準備はOK?」
       そう言って、二階をぐるりと見渡す。スポットライトの横に待機した委員たちが、一様に手を大きく振って応える。
      「最初の曲は――」
       袖にちらりと目をやった。そちらからも、親指を立てて返される。
      「ジンギスカン!」
       わあっと、一斉に声が上がり、照明がすべて消える。その瞬間、葵はステージの袖に引き返しながら、足元に克巳の姿を捉えた。
       曲が大音量で流れ出し、同時にスポットライトが点灯する。光の輪がみっつ、ステージに固定された。残りのスポットライトはランダムに動いて、場内を光の筋が交差する。
       誰もが踊る、踊っている。ステージの上の委員たちは乗りに乗って、小学校で習ったとおりの振りで、輪になって踊りまくる。
       葵は満足だ。必ず盛り上がると信じていた。最高潮と言える場内をステージの袖から見下ろし、胸がいっぱいになる。
       ダンスの係は、小学校で習った振りを覚えている者を中心に編成した。もうひとつの曲については、自分も混ざって夏休みの終わりにオリジナルの振りを考えた。簡単で、誰もがすぐに覚えられるようなダンス――。
       最初の曲が終わりに近づく。葵はマイクを取る。曲が切れたそのときに、声を上げた。
      「次はオリジナルだ、みんな、がんばって!」
       もっと気の効いたことを言いたかった。だけど出てきた言葉はそれだけだった。すぐに曲が始まる。古くて、でも一度は耳にしたことがあるはずの曲、「夢の中へ」――。
       ステージでは、乗りに乗ったダンスが始まる。その下では見上げるだけの者もいるし、好きに踊り始める者もいる。最初の曲で適当な輪ができていた。向かい側で踊る者をまねて踊り始める者もいる。葵はステージの袖から下りた。
       ちょっとメロウで、だけど軽快な曲。これを克巳と踊りたかった。人のあいだを縫って葵は克巳を探す。見つけて克巳の手を取った。
      「踊ろう!」
       大音量に負けない声で言った。克巳が驚いて見つめ返してくる。ポイントは手拍子だ。葵は明るく笑って、高く掲げた手を鳴らす。右にターンして、ふたつ。左にターンして、ふたつ。
       近くにいる者が、同じように踊り始めた。それが、どんどん広がっていく。ステージではダンスの係が同じく踊っている。波に飲まれたように、誰もが同じ振りで踊り始めた。
      「ほら!」
       克巳の手を取って、引いて前にステップ、離れて後ろにステップ、引いて前にステップ。それほど長い曲ではない。うかうかしていたら終わってしまう。ターンして手拍子、またターンして手拍子。
       ぐるぐると視界が回った。気分が高揚する。駆け上がって、ぐんぐん駆け上がって、高く、高く、克巳と「夢の中へ」。
       曲が終わりに近づき、葵は克巳の手を引いてステージの横のドアに駆け込んだ。袖に上がる階段の下で、克巳と向き合う。暗くて、階段の上からも見えないことは確かだ。それ以前に、誰もダンスに熱中している。
      「葵っ」
       抗議する口調で、短く呼ばれた。軽く息が乱れている。克巳も踊ったから――。
      「ん」
       唇を奪い、あえかな声を耳が拾って、ときめいた。だが、すぐに離れる。
      「手、放せ」
      「今日はオレと帰る。約束しな」
      「おどすのか」
      「そうだ」
       もう抑え切れなかった。葵はきっぱり言う。
      「嫌だって言うなら、口をふさぐ」
       もちろん、キスでだ。
      「……強引だな」
       克巳が肩を落としたとわかった。暗くて、表情まではわからない。
      「こんなことしなくたって……俺もそのつもりだった」
       その声が、ひどく甘く耳に響いた。葵は、ぎゅっと克巳を抱きしめる。硬く締まった抱き心地に胸を震わせて、名残惜しく放した。
      「待ってて。ゼッタイ」
      「あたりまえだ。片づけは手伝う」
       そういうことを言ってほしかったわけではないが、それで満足した。
       最後の曲が終わった。すぐに体育館の照明がつく。拍手が湧き起こった。
       葵は階段を駆け上り、ステージに飛び出す。横から、慌しくマイクを渡された。
      「みんな!」
       おう、とも、わあ、ともつかない声が、返ってきた。
      「ちゃんと、家に帰れよ!」
       ドッと笑いが湧く。
      「じゃあ……これで、後夜祭を終わります!」
       また拍手の嵐だった。壁際にいた教師たちが中央に進み出てくるが、生徒たちはそれぞれに自分の荷物を取りに、逆に壁際に散っていった。体育館のドアが開けられる。二階では、次々とスポットライトが片づけられた。
      「坂月先輩!」
       ステージにいた委員たちが、いつのまにか葵を取り囲んでいた。
      「お疲れさまです!」
      「大成功ですよね?」
      「楽しかった」
       口々に言われ、葵はうっかり涙が滲んだ。袖にいる克巳に気づく。だが視界がぼやけて、目は向けられなかった。
      「サンキュ、みんな――オレ……すっげー、うれしい」
       言えることは、それだけだった。ほかに言いたいことなんて、なかった。


      つづく


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      素材:君に、