三 夏休みが近づいている。なんとなく浮き立つような気分なのは、そのせいだとジュンは思う。 教室は、昼休みでも静かだ。半数近くがいても大概がひとりで、固まっていても多くて三人程度だ。 窓際の自分の席にいて、ジュンはケータイを開く。着信があった。 「メール?」 前の席に来ているカツミが、雑誌から目を上げて振り向いた。 「うん、メール」 表示画面を見つめて答えたジュンに言う。 「このあいだの人?」 「そう」 「そっか」 ぽつりと言われて気になった。ジュンは顔を上げる。 「すっかりセフレだな」 「え?」 言われた意味が、すぐには飲み込めなかった。きょとんとするジュンに、カツミは薄く笑みを浮かべて言う。 「だって、そうだろ? ヤるために会って、メールだって、アポだけなんだろ?」 「う、ん……」 「よかったじゃん、セフレができて。無駄なことしなくて済むし」 「――そうだね」 そうか……セフレって――そうだな。 あれから、ユースケとは三回会っている。これからも続きそうな予感があって、ジュンは不思議な感じを覚えていた。 ひとりの相手と三回以上寝たことは、以前にもある。今までと違うのは、それに三ヶ月近くかかっていることだ。けっこう続いているよな、とジュンは思う。 だから、不思議に感じられてならなかった。ユースケとの関係を、どう捉えたらいいのかわからなかった。 セフレ……か。 最初に連絡を取ったときのことが思い出される。思わず口元から笑みがこぼれた。 初めて会った日から二週間が経っていた。 その間、ユースケからは何もなかった。 連絡先を教えたのに何も寄越されないのはこれが初めてではなかったが、今までなら、そうとは気づかないうちに忘れていた。 しかし、ユースケのことは、ずっと気になっていた。ベッドであれだけのことをさせられた上に、自分でメールアドレスを登録するまでしたのに、すっかり忘れられているようなのが、腹立たしく思えていた。 それで、電話したのだ――メールを送るのではなく。 『もしもーし。ジュンでーす!』 わざとふざけて言ってやった。どんな反応をするかと思うと、おかしくてならなかった。 『おまえ、なんで俺のテル番知ってる!』 開口一番にそう言われて、笑いが止まらなくなった。 『ぼくにケータイ渡したのは失敗だったね』 ユースケが慌てているようなのが楽しい。間をおいて、悔しそうな声が返ってきた。 『――あのときか』 『そう。十一桁の数字なんて、チラ見で暗記できるんだから。ぼくを甘く見ないでよ』 だが、次には強気の声を聞かされた。 『へえ。そりゃスゲェな。で、そんな大したヤツが、また俺に説教されたいわけだ?』 ドキッとした。まさか、そう返されるとは思っていなかった。 『いいぜ。土曜日ならあいている』 どう答えたらいいのか、すぐには何も出てこない。 『また泣かしてやるよ』 そこまで言われて、やっと声が出た。 『泣かせられるならね』 すると、ムッとした声が耳に響いてくる。 『――ったく、生意気なガキだ』 咄嗟に吹き出してしまった。 『オヤジ』 『俺は二十六だぞ!』 怒ったように言うのがなおさらおかしくて、思い切り笑ってしまった。 それから待ち合わせの場所と時間を決めてケータイを切ったのだが――ホッとするような気持ちだった。 忘れられていなかった。 そんなことを思って、どうしてこんなにもうれしくなるのか――考えなかった。 ユースケって、二十六歳なんだ。 なんとなく、それだけを思っていた。 「ジュン、楽しそうだな」 カツミの声にハッとする。慌てて答えた。 「まあね。これでもう、無駄なことしなくて済むわけだし――カツミも言ったじゃん」 「だな。キープがいると面倒がなくていい」 しかし、そうまで言われてしまうと、なんだか言い返したいような気分になる。 ユースケはキープってわけじゃ……。 それなら何なのか――自分ではわからない。 「――ジュン?」 「カツミの言うとおりだよ。そういうこと」 口早に言って、ケータイを閉じた。まるで自分に言い聞かせたみたいだと、頭のどこかで思う。見ていたメールの内容は、カツミにも言えないと――そう思った。 『夏休みが決まった。八月一日から一週間。前後の土日も合わせて九連休だ』 ヘンなヤツだと、今でも思う。ユースケがこんなメールを送ってきた理由は、先週の土曜日にある。その前の週に期末テストがあったので、会うのは三週間ぶりだった。 唐突に言われたのだ。 『おまえの好きなことって、何だ?』 待ち合わせが正午なのにも戸惑いを感じていたのに、会えばいきなりそれだった。 『ヤることだけか?』 つまりユースケは、一緒にランチを取って、そのあとも一緒に何かしようと、そのつもりで待ち合わせを正午にしたのだと――やっと、わかった。 その日までは、会うのは夜で、すぐにホテルに入っていた。そうするほかに何かあるなんて、思うはずもなかった。今までの誰とも、そうすること以外、何もしなかったのだから。 『そっちのほうこそ、何が好きなの?』 質問で返すしかなかった。むしろ、何が好きと問われて、すぐに答えられない自分に動揺していた。 『俺? 俺はスポーツ全般だけど、おまえは――そんなこと、少しもなさそうだな』 笑った顔で全身を眺められて、恥ずかしい気持ちになった。自分の容姿を恥ずかしく感じたのは、初めてだ。 適度にフィットした黒のカットソーは、ジュンの華奢な体型を強調するかのようだった。半袖から覗く腕は、すんなりとしていて白い。タイトなジーンズは、細い腰をより細く見せていた。 一方、ユースケは、ざっくりとした編地の生成りのサマーニットを着ていて、ジーンズはストレートだ。日に焼けた、たくましく引き締まった体に、よく似合っている。 ジュンの目に、ユースケは眩しく映る。男っぽい色気を感じて、くらみそうになる。 そんな自分にジュンは戸惑う。見とれるのは自分ではなく、ユースケのはずなのに。 『――ユースケって、体育会系なんだ』 咄嗟に口走っていた。言ってから納得した。 『だから、説教が得意なんだ』 嫌味たっぷりに言ったはずなのに、ユースケはケラケラと明るく笑った。 『結局それか。まあ、いいや。とりあえず、食事は何が好きなんだ?』 『――イタリアン』 ムッとして答えたのに、ユースケの笑いは止まらなかった。背を押されるようにして、イタリアン・レストランに連れて行かれた。 ランチを取りながら、いろんなことを話した。寝るだけの相手とあんなに話したのも、初めてだった。 思いがけず、料理がおいしかったのもある。ユースケからよく話してきたのもあった。つい、口が軽くなってしまったのだ。カツミと話しているときのような気持ちになった。 『どうせ、バイトもサークルもやってないんだろ? いつも何してんだ、お坊ちゃん?』 『学生の本分は勉学でしょ。たまに、クラブ行くけど』 『クラブ? あんなとこ、おもしろいか?』 『べつに。カツミが好きだから』 『カツミって……大学のダチ?』 『ダチ? なにそれ? ――ダサ』 『え? 言わないか?』 『知らないよ、オヤジ』 『オヤジって言うな。また泣かせるぞ?』 そこで、ジュンはフォークを止めた。 ペペロンチーノは、オリーブオイルをたっぷり使ってある。ユースケは、ガーリックの匂いを気遣うような相手ではないから、何の気兼ねもなく、好きなメニューを選んでいた。 ユースケを上目遣いに見つめながら、フォークにパスタを絡める。先に口を開いて、舌先を覗かせてから運ぶ。唇についたオイルはぺろりと舐め取った。 ユースケの表情が変わるのが楽しい。口では何を言っても――結局は、そういうことだ。 だから言ってやった。 『どこかに出かけるのは好きだよ』 セックスのほかに好きなことは何もないと、決めつけられたようだったから。 『クラブに行くより、渋谷とか歩いているほうが好き。旅行もいいな、でも、ずっと行ってない――』 ふっと淋しい気持ちが胸を過ぎった。そう言えば、本当に、ずっと旅行していない。 ジュンが中学に入ってから、母親は自分の店を持ち、仕事に夢中になった。父親は、ジュンが物心ついた頃には既に忙しい人だった。 家族旅行は小学生のときに行ったきりだ。今さら家族旅行をしたいとは思わないけれど、ずっと、誰とも、旅行していない。 『海は好きか?』 ユースケの声に顔を上げた。 『おまえ、泳げんの?』 『泳げるよ!』 当然だった。体育は必修授業だ。ジュンは、成績表に傷をつけるようなヘマはしない。 『なら、行くか? 海』 『……マジ?』 『冗談で言うようなことじゃないだろ?』 何も返せなかった。 ランチを終えてレストランを出て――連れ立って、しばらく街を歩いてショップを回って、そうしていながらも――ジュンは、ふわふわとするような気分が続いていた。 楽しいというのでもない。ワクワクするのとも違っていた。 どこか現実味に欠けていて――自分の隣にユースケを見ると、説明できない不思議な気持ちになって――早く、抱かれたいと思った。 ユースケは何を思っていたのか――そんなことはジュンにはわからない。ただでさえ、ジュンにはヘンなヤツに思えてならないのに、初めて会ったときから、ずっと、そう思えてならないのに――まだユースケは、予測しきれない言動をする。 暗くならないうちにホテルに連れて行かれた。部屋に入ると、いきなり抱きしめられた。ユースケの匂いを胸いっぱいに吸い込んで、途端に、鼓動が駆け出した。 ドキドキしてたまらなかった。すっかり慣れていたはずの手順に、すぐに熱くなって、やたらと感じて喘ぎまくった。 『今日はやさしくしてやるよ』 そんなふうに言うユースケはおかしくて、馬になってやると言われたときには、本気で笑ってしまった。 『いいから来い』 仰向けに横たわるユースケに乗った。自分で動けと命じられたわけでもないのに、そうした。薄明かりの中、ユースケの顔を見下ろし続けた。そのときのユースケは、本当にセクシーで、ものすごく興奮した。 『今度は、ぼくが犬になってあげる』 入れ替わってシーツに突っ伏して、腰を高く上げた。こんなポーズを自分からしたのも初めてかもしれない。腰を鷲づかみにされ、強く深く打ちつけられ、のしかかってきた大きな体に背中から押さえつけられ、きつく抱きしめられ――ほぼ同時に達して、仰向けに返された。 満たされた思いだった。ユースケに触れられるだけで、気持ちよかった。触れられた箇所から、全身に快感の波がさざめいていって、足の指の先までしびれた。 見つめ合ってキスをしたときには、ユースケの頭を引き寄せていて――ポロポロ泣いていた。本当に……泣いていた。 『……かわいいよ、ジュン』 耳元でささやく声が甘くやさしいから、涙は少しも引いてくれなくて――悔しかった。 どうして泣いてしまうのかわからなくて、どうして、この男にすがりつきたくなるのかわからなくて――それでも、抱きしめられる心地よさは代えがたいから、いつまでもそうしていてほしいと――頭の隅で願った。 ユースケは、いつも必ず、最後までジュンと一緒にいる。ジュンが身支度を始めるまでベッドを出ていかない。シャワーを使っても、戻ってくる。 そんなユースケが、ジュンには不思議に思えてならない。今までの誰とも違う。 こんなヤツ……初めてだ。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:若奥様工房