Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    プライスレス
    −4−



     四

     車窓に海が開けた。真夏の陽射しを受けて、遠く、水平線がキラキラ光っている。
     ジュンは、まだ信じられない気持ちだ。ユースケと並んでシートにいるのが、本当に不思議でならない。
    『ぼくはいつでもいい』
     旅行の日程の希望を訊かれたから、メールでそう返した。そのときもまだ、ユースケと本当に旅行するとは思っていなかった。
    『どこでもいい。面倒だから決めて』
     だから、行き先も何もかも、すべて任せた。言われた当日、言われた時間に、言われた場所に行って、自分の分だと特急列車のチケットを渡されて、初めて実感が湧いた。
     夏休みは何も予定がなかった。七月中は、補講と銘打った事実上の授業があって、八月になるとカツミは別荘に行ってしまったから、遊び相手もいなかった。
     がらんとした自宅にひとりでいて、することは、勉強と読書とネットと食事の用意だ。たまに映画を見に行って、たまに夜の街に遊びに出て――それだけの夏休みのはずだった。ひとりでいられる開放感を満喫するだけの――夏休みのはずだった。
     海をしばらく眺めていた目を戻すと、ユースケはまぶたを閉じていた。サラリーマンがどれほどのものか、ジュンは知らない。だが、父親を浮かべると、ユースケも相当に疲れがたまっているのだろうと思えた。
     網棚の『ヴィトン』のボストンバッグからポータブルプレーヤーを取り出す。イヤフォンをセットすると、再生ボタンを押した。
     車窓の外に目を向ける。窓枠にもたれ、海を眺める。明るく眩しい、真夏の青い海――。
     どのくらい経ってからだろう。不意に片耳からイヤフォンを抜かれ、驚いてユースケを見た。
    「何、聞いてんだ?」
     アーティスト名を口に上らせる。しかし、ユースケはピンとこないらしく、手にあったイヤフォンの片方を耳に入れる。
    「ああ、これか」
     聞き覚えがあるらしい。
    「――いいな、この曲。フルで聞くのは初めてだ。リプレイしてくれよ」
     イヤフォンのもう片方も渡して、言われたとおりにする。曲に聞き入るユースケの横顔を見つめる。鼻唄でも始めそうな様子だ。
     ――趣味、合うんだ。
     そんなことを思った。
     普段は、どんなの聞いてるんだろう――。
     そんなことまで思った。
     それからは、ジュンのポータブルプレーヤーに入っている曲のことで、なんだかんだと盛り上がった。好みが合ったのは半分程度だ。
     しかし、普段は何を聞いているのかユースケに尋ねられなかったのは、それだけのせいではないようだ。どうってことのない質問なのに言えなかった理由は――わからない。
    「伊豆なんて、やっぱオヤジ」
     落ち着けない気分が、ジュンを反抗的にさせた。行き先はユースケに任せていたのだから、文句はなかったはずだ。
    「何も知らないで、よく言うな、この口は」
     だが、ユースケはそう言って、笑顔でジュンの唇をつまんだりする。大人気ない態度は、この旅行を楽しんでいるように見えた。
    「やめろよ、恥ずかしいな」
     口では怒っても、顔が赤くなる。ジュンは、余計に恥ずかしくなる。
    「着いて驚くなよ。お坊ちゃんでも大満足のところなんだから」
    「それは楽しみだね」
     素っ気なく、わざと返した。そうでもしなければ、楽しそうなユースケの雰囲気に、飲まれてしまいそうだった。
     やがて降車駅に着いた。駅を出たその足で、ユースケはジュンを海辺まで連れて行った。
    「どうだ? 驚いたなら、素直に驚いたって言え」
    「……驚いた」
     素直に言うしかなかった。本当に驚いたのだ。こんなにも美しく落ち着いたところに、連れてこられるとは思わなかった。
     目の前には、白い砂浜と真っ青な海が広がっている。振り向けば、古い街並みにひとつ建つ、宿泊先の白亜のホテルが目に入る。
     行き先は西伊豆と聞かされたとき、元から薄かった期待はすっかり消えた。誘っておきながら、ユースケは手軽に済ますつもりだ、自分は軽くあしらわれている――と思った。
     しかし、考えればそれも当然だろう。自分とユースケは、そもそも一緒に旅行するような関係ではないのだから。
     そう思えば、なおさら何も期待しなかった。ずっと行けなかった旅行に行けるだけだ――だが、来てみれば、こうだ。
     風光の美しさは土地のものだけど、ここをふたりの旅先に選んだユースケを見直した。観光地であると同時に古い港町でもあり、歴史を感じさせる漆喰のなまこ壁が続く道を歩けば、それだけで浮き立つ気分になった。
    「歩くのが好き、てのは、本当だったんだな」
     ユースケに意外そうに言われる。
    「うん。ひとりで出かけて、よく歩く。人がたくさんいるところも、誰もいないようなところも、歩くのは好きだ」
    「――ひとりで、出かけるのか」
     しんみりとした響きで言われ、ドキッとした。どうしてそんなふうに言われたのかがわからなくて、ユースケをじっと見つめた。
     その頃にはもう、傾きかけた太陽が、海を染め始めていた。ユースケの背後、遠くで輝く海が眩しくて、ジュンは目を細める。
     あたりに人影はない。なまこ壁を背に立つジュンと、ジュンの目の前に立つユースケしかいない。
     海からの風が、ジュンの細い髪を揺らした。ふと近づいてきたユースケの唇に、ジュンは目を閉じる。
     壁に手をついたユースケの腕が、ジュンの耳元をかすめた。大きな体に包まれるようにして、ジュンは温かなキスを受ける。
     何度となく交わしたユースケとのキス――唇の形も厚みも、もう、よく知っている。だが、絡みつく舌のないキスは、初めてだった。ベッドの外でのキスも――初めてだった。
    「……は」
     ジュンの湿った吐息を残して、ユースケの唇は離れていく。それを目で追って、きつく締めつけられるような胸の苦しさに、ジュンは耐えた。喘ぐように言う。
    「ねえ……もう、戻ろう」
     すっと差し出された手を、何も疑わずに取った。一回り大きな手は、熱く湿っていた。その感触の心地よさに――吐息があふれた。


     わからない。何がどう違うのか――。
     その夜も、いつもと何も変わらなかったはずだ。いつもと違うのは、ふたりがいるのは海辺の町で、しかも、ジュンでも満足するホテルであることくらいだった。
     ダイニングでは、テーブルにいても残照に映える海が見晴らせた。
    「悪かったよ、伊豆なんてオヤジくさいって言って」
     夕食にも満足して、素直な気持ちがジュンの口をついた。ユースケは苦笑を浮かべる。
    「来たの初めてだから、知らなかったんだ」
     何気なく言えば、軽く目を見張った。
    「初めて、って……伊豆が初めてなのか?」
    「そう」
    「じゃ、熱海にも下田にも行ったことない?」
    「うん」
     だから「初めて」と言ったのだ。ジュンは問い返す。
    「なんで?」
    「いや……東京の人には伊豆が一番手軽な観光地だと思ったから、何度も来てるかと――」
    「え? それで、ここにしたの?」
    「――まあな」
     それはつまり、行き先をどこにするかで、ユースケは頭を悩ませたとなる。悪い気はしなかった。
    「おまえ――旅行って、今までどんなとこへ行ったんだ?」
    「海ってこと?」
    「そう」
    「小学生のときだけど、サイパンとかグアムとか――」
    「小学生が海外かよ」
     まいったな、とユースケはつぶやく。
    「あ、沖縄も行った」
     慌てて言い足したが、ユースケの苦そうな顔は変わらなかった。
     夕食のあとは、ふたりで温泉に入った。大浴場で、ほかに人がいたのもあったが、互いに目も合わせられなかったのは、それだけの理由ではないようだった。
    「風呂上がりは、浴衣だろ?」
     ホテルの浴衣を着るのを渋るジュンをユースケは笑った。ジュンが浴衣に手間取るのを見ると、笑いながら手伝った。ユースケの大きな手が、ジュンの細い腰に帯を結んだ。
     部屋に戻って、ジュンは、くつろいだ気分に浸る。やっと、いつもと同じだ。ホテルの部屋に、ユースケとふたりきりだ。
     しかし、立ったまま抱き合い、素肌から浴衣を滑り落とされると、それだけでたまらなく感じた。
     だからわからない。何がどう違うのか――。
     その感覚は、ベッドに入ってからも続いた。
    「……どうしたんだよ。今日はずいぶん、おとなしいじゃないか」
    「そう、かな――あ……っ」
     ユースケに触れられるだけで、ひどく昂ぶる。素肌を手のひらで撫でられ、唇で辿られ、厚みのある舌で舐められ――昂ぶりは次第にふくらんでいって、快感のうねりとなって、ジュンを飲み込む。
    「……はぁっ」
     熱い吐息を落とし、顔を背けた。体中の力が抜けていく。耳元で低くささやかれる。
    「マジ、どうしたんだよ。今のおまえ……たまらなく、色っぽい」
    「――知らない」
     頬が熱い――唇が乾く。
    「こんなんで……そんなに感じる?」
    「――うん」
     隠す気にもならなかった。
    「なら……こうしたら?」
    「は、あん!」
     体が跳ね上がった。
    「いいよ、ジュン――たまらない」
     その声が、やさしく響いたから――胸にしみるように、温かく響いたから――。
    「ぼくも……いい、すごく……ユースケ」
    「――ジュン」
    「ユースケ」
     呼び合って、きつく抱き合ったら、達していた。それからはもっと敏感になって、どんなふうにまどろんでいったのか――深い眠りのあとに朝を迎えても、現実の記憶と夢の記憶とに境がつかなかった。
     旅行は二泊だ。中日は海に出て、太陽の下で遊んだ。
     ジュンは本当に泳げるところをユースケに見せつける。ユースケは感心したようでもあったのに、小バカにするようにも笑われたのには、ムッとした。
     海に入って、出て休んで、丸一日でジュンは日焼けした。元は白くても、肌はそれほど弱くない。赤みを残して小麦色になっていく肌をユースケが眩しく見つめるのが、ジュンは眩しかった。
    「ダイビングは、どうなんだ?」
     砂浜に並んで寝転んで、翌日の相談をする。
    「やったことない」
    「シュノーケリングは?」
    「……できない、と思う」
    「なんだよ、その『思う』ってのは」
    「やったけど、できなかったんだよ、沖縄で。あのときは小学生だったから、今はどうだかわからないって、そういうこと!」
     言えば、また笑われると思った。だが、ユースケは真顔で返してくる。
    「もう一度、やってみる気あるか?」
    「なんで」
     遊びに来てまで努力するのは面倒だ。
    「この近くに人気のスポットがあるんだ。シュノーケリングでも、かなり楽しめる」
    「へえ」
     気のない返事をした。
    「沖縄の海にも負けないぞ? ま、見られる魚まで負けないとは言わないけどさ」
    「……そんなに魚がいるわけ?」
    「いるって。漁港なんか、すぐそこだろ?」
    「そうなんだ――」
    「明日、行ってみるか?」
    「――うん」
     楽しそうに笑うユースケを見て、ふと、これは変だとジュンは思ってしまう。どうして、こんなふうになっているのだろう――。
     この旅行が始まってから、まとまったふたり分の支払いは、当然のようにすべてユースケがしている。喉が渇いてちょっと飲み物がほしいとか、暑くてアイスクリームが食べたいとか――そういうときでなければ、ジュンは財布を取り出していない。
     この様子だと、交通費も宿泊費も、ユースケが全額持つつもりなのだろう。誘ったのはユースケなんだからあたりまえ、とも思うのだが――そこまでされる理由がわからない。
     次はどこへ行こうとか、何をしようとか――気がつけば、ユースケに連れ回されるのを心地よく感じている。
     やっぱり、これはヘンだ、おかしい――。
     ユースケのやさしさが――ベッドの外でのやさしさが……恐くなった。
     夜になって、ジュンはそのことを言ってしまう。抱かれてしまえば頭まで溶けて、きっと忘れてしまうから――そうなる前に。
    「はあっ? セフレぇっ?」
     その声にビックリしてジュンは首をすくめる。ユースケのこんな大きな声は初めて聞く。
    「おまえ……」
     大きく見張った目でジュンを見つめ、それから風呂上がりの髪に手をやって肩を落とした。少しの間をおいてから、浴衣姿で腰かけているベッドに両手をつき、ユースケは、あらためてジュンを見上げた。
    「俺のこと、そんなふうに思ってたのか」
     淋しそうに薄く笑う。首を軽く横に振ると、うつむくようにして、片手で額を押さえた。
    「まいった……って言うか、やられたな」
     ジュンは、何か言おうと思うのだが、声が出てこなかった。まさか、ユースケがこんな反応をするとは、予測できていなかった。
     単に言っただけなのだ。自分たちはセフレなんでしょう――と。それなら、ここまでしてもらうのは悪いように思う――と。だから、自分の支払いは自分でする――と。
     旅行の最後にでも清算してもらいたいと、それだけの気持ちだった。
    「わかった。けど、俺にも意地がある。金は受け取らない。俺がこうしたくて、俺が全部決めて、俺が誘ったんだ」
    「それじゃ……」
     乾いて固まってしまったような唇を開いた。
    「ぼくは――どうすれば……」
    「せいぜい笑ってな。せめてもの誠意だろ?」
    「……誠意?」
    「誠意の意味もわからないなんて言うなよ」
     言い捨てるようにして、バタッと仰向けにベッドに倒れた。ごそごそと潜り込みながら、背中でジュンに言う。
    「おまえ、そっちのベッドで寝ろ」
    「え?」
    「俺はこっちでゆっくり寝る」
     言われたことが飲み込めるまで、ジュンはその場に立ち尽くしてしまった。
     ようやく、ひとりでベッドに入る。いつになっても寝つけなかった。かすかに聞こえる波の音が、ずっと耳に響いていた。
     波の音に重なるように、ユースケの穏やかな寝息も聞こえていた。温かく安らかで、胸の奥深くまで、しみいる――。
     暗がりに慣れた目で天井を見つめた。急にじわっと潤んで、歪んだ。
     どうして……。
     そのことだけが繰り返し思える。どうして、今夜は抱かれなかったのか――。
     ぼくたち……セフレなんでしょ?
     そうではなかったのか。だから、ユースケは怒ったのか。
     そこまではわかる。それなら教えてほしい。自分たちは、いったい、何なのか――。
     ジュンは、もぞもぞとベッドを抜け出す。隣のベッドの横に立ち、ぐっすりと眠るユースケを見下ろす。
     どうしようもなかった。理由も説明もいらない。この感情を抑えきれない。
     ユースケと一緒にいたい――。
     そっと、上掛けをめくる。膝をかけたら、マットレスが沈んだ。ドキッとしてユースケの顔を見る。大丈夫――。
     横を向いて眠るユースケの懐に潜り込んだ。ユースケの腕を上げ、自分の体に巻きつけた。涙の滲む目をぎゅっと閉じた。
     ユースケの寝息が頬をかすめる。ユースケの体温に包まれているのを意識する。気持ちが、落ち着く。
     いつまでもこうして抱いていてほしいと願ったのは……そうだ、海に行こうと誘われた日の夜だった。とても心地よくて、ホッとするようで、だから――そう願った。
     なのに……。
     今のこれは違う。ユースケの意思で、こうされているのではない。
     ぼくが、していること――。
     もう、ユースケは自分を欲しがらないのか。それよりも――もう、いらないのか。
     やっぱり……欲しがっているのは、ぼく。
     でも、どうすればユースケが自分のものになるのかわからない。体は何度もつなげた。それでも自分のものになっていないのだから。
     やがてジュンは眠りにつく。波間に漂う夢を見る。温かな、真夏の海――広くて、大きくて、深くて――ジュンを心地よく揺らす。
     眠りから覚めて、ハッとした。カーテンの隙間からもれる明るい陽射しが、目の前にあるユースケの寝顔を照らしていた。ユースケの腕は、まだ自分に巻きついている。
     どうしよう……。
     無断で潜り込んだのだ。目覚めて気づかれて叱られるのでは、悲しい。
     ――でも。
     もう少しだけ、こうしていたいと思う。浴衣のはだけたユースケの胸に、そっとすがった。なめらかな肌触りに熱い吐息を落とす。
     すると、ぎゅっと抱きしめられた。ジュンの鼓動はドクンと跳ねる。ドキドキしてきて、頬が熱くなる。
    「ユースケ……」
     吐息と共につぶやいた。寝ぼけた声が、それに答えた。
    「……ん……マサト」
     ――え?
     ジュンは凍りつく。サッと顔を上げて、ユースケの顔を見る。ユースケの目は、まだ閉じている。
    「……ユースケ?」
     強張りそうな唇で呼びかけた。
    「――ん」
     ユースケは寝返りを打ち、仰向けになる。ジュンの体に巻きついていた腕が離れていく。
    「……だれ? マサト――って?」
     眠たそうにユースケは目をこすった。面倒そうに答える。
    「キタムラだろ……マサト、って言ったら」
     ユースケを見るジュンの目は険しくなる。ガバッと起き上がり、きつくにらみ下ろす。
    「誰だよ! キタムラって!」
    「――え?」
     ユースケは、やっとジュンを目で捉えた。きょとんとした顔で見つめ、それからギョッとした顔になった。
    「ジュン――」
    「だから誰なんだよ、キタムラってさ!」
     わからない。どうして、こんなにも感情が昂ぶるのか。抑えられなくなる。
     ジュンは枕をつかむと、ユースケに叩きつけた。何度も繰り返す。
    「ま、待てって、ジュン!」
    「うるさいうるさい!」
    「悪かった、俺が悪かったから!」
    「ヤダ!」
     跳ね起きたユースケに、すぐに取り押さえられてしまう。ベッドの上で、きつく抱きしめられてしまう。
    「ヤダ、こんなの、もう嫌だ!」
     こんなことで泣く自分が嫌だ。ジュンは両手で顔をおおい、嗚咽に震える。ユースケの胸にうずもれて――。
     こんなに悲しいのに、抱きしめられているのが心地いいなんて。
     自分がわからない。こんなことで怒って、暴れて、泣いて――少しも、わからない。
    「ごめんな」
     ユースケの声が耳元で聞こえる。
    「本当に悪かった。おまえといるのに、ほかのヤツの名前出して――」
     がっくりと気落ちした、深いため息が聞こえた。ジュンは震える声を出す。
    「……誰なんだよ、キタムラって」
    「ええ?」
    「言えよ、悪かったって、思うんだろ!」
    「ジュン――」
     きつく見上げれば、困りきったユースケの顔があった。あきらめるような吐息を落とし、ユースケは言う。
    「同じ会社のヤツだ。前、つきあってた――おまえに初めて会ったとき、失恋したって、言っただろ? その相手だ」
     ジュンは、すーっと血が引いていくような気分を覚えた。なんだか頭がぼうっとする。思考が、うまく働かない。
    「……本気……だったの?」
    「本気? ――そうだな」
     目を泳がせて、ユースケは顔をそむける。
    「今でも……そうなの?」
    「いや?」
     ユースケの目は、すぐに戻ってきた。真顔になって言う。
    「もう、別れて何ヶ月も経つんだ。いつまでも引きずったりしない」
    「じゃあ、なんで!」
     思わず、ジュンは叫んだ。
    「待ってくれよ。俺だって驚いてるんだ。まさか、こんなこと――」
     うろたえたように言う。
     それが――たまらなかった、我慢できなかった。ジュンは吐き捨てて言った。
    「嘘だ!」
    「え?」
    「キタムラのこと、まだ忘れてないんだ!」
    「おい、ジュン!」
    「こんなの、もうヤダ、帰る!」
    「待てよ!」
     引きとめようとするユースケの腕から、無理にでも逃げた。クローゼットを開け、すばやく着替え始める。
    「……ジュン」
     戸惑う声で呼ばれても振り向かない。もう、一瞬でもユースケと一緒にいたくない。ほかの誰かを胸に抱いているユースケとは――。
    「おまえさ――」
     ベッドの上から、呆れたようにユースケは言う。
    「そこまで怒るなら、なんで俺にあんなこと言ったんだ?」
     ジュンは、何も答えない。
    「俺は、おまえのセフレなんだろ? それなら、怒るなんておかしいじゃないか」
     振り向きもせずに荷物をまとめる。
    「キタムラとは、とっくに終わってるんだ。俺の過去に妬いたって、仕方ないだろ?」
     それにはギクッとした。
     ぼくが、妬いている?
     何を言い出すんだ、と思う。ユースケの過去に妬くなんて――。
     ズキン、と胸が痛んだ。鼓動が激しくなる。息が――苦しくなる。
    「妬くくらいなら、もうちょっと俺の気持ちを考えたらどうだ?」
     ユースケの気持ちを考える――?
    「おまえにセフレだなんて言われて……俺が、どんな気持ちだったか――考えろよ!」
     険しく言い放たれた。
     ビクッと身を震わせ、そろそろとジュンは振り向く。ユースケと目を合わせた。
     息が詰まる。ユースケの真剣な眼差しに耐えられなくなる。咄嗟に言い放つ。
    「なら……セフレじゃないなら、ぼくたち、何なんだよ!」
     ユースケは、大きく目を見張った。じっくりとジュンを見つめる。
    「おまえ……マジに――わからないのか」
    「わかんないよ、どれも、みんな!」
     叫び、バッグをつかんだ。部屋を飛び出す。
     本当に、わかっていなかった。ユースケが何を言っているのか――それよりも、こんな自分が一番わからなかった。
     駅についてチケットを取り出す。ユースケから渡されたものなど使えないと、破り捨てようとする。だが、できなくて、唇をかんで思い留まる。
     次の列車の時刻を確かめた。駅の時計を見上げて――気がついた。
     ぼくの……『エクスクルーシヴ』。
     部屋に忘れてきてしまった。ベッドサイドのテーブルに置いたままだ。
     でも――。
     今さら取りに戻れないと思う。ユースケと顔を合わせるのは嫌だ。ユースケの顔なんて、もう、見たくない――。
     涙が滲む。抑えようがなくて改札を抜けた。ホームの端まで歩いて、そこで、はらはらと涙をこぼした。
     遠く見える青い海は、どこまでも広がっている。きらめく水平線が滲んだ。

    つづく


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    素材:若奥様工房