五 「あれ? なにこれ?」 カツミに左手首を取られた。 「エクスクルーシヴは?」 そのうち気づかれると思っていたけれど、カツミは本当に目が早い。二学期が始まって、まだ三日も経っていない。 「なくした」 そっぽを向いてジュンは答える。 「だからって、Gショック?」 含み笑いにカツミは言う。 「いいじゃん、べつに!」 苛立って、カツミの手を振り払った。隠すように左手を机の陰に下ろす。 「うん。べつにいいけど。でも、なんでGショック?」 ニヤリとして、カツミはジュンの顔を覗き込んでくる。 いつもの昼休みだった。それでも一学期に比べれば教室にいる生徒の数は少ない。外部校を受験する者は、今も図書室で受験勉強だ。 「もらったの?」 「え?」 「Gショック」 どう答えようかとジュンは迷う。 「――おれに嘘は通じないよ?」 くしゃっと髪をつかまれた。 そう……かも。 カツミは何でもお見通しだ。一緒に遊ぶようになったのは高校に入ってからだけど、中学の頃からジュンを知っていたと言う。 一年のときに同じクラスになって、二年はクラスが違っても遊んだ。三年になって、また同じクラスになって――。 迷って、ジュンは正直に話す。 「……自分で買ったんだ」 「それなら、またエクスクルーシヴにすればよかったのに。あのボーイズタイプ、ジュンにピッタリだった」 何も言えなかった。どうしてこの『Gショック』に決めたのか、自分でもわからない。 耐衝撃構造、完全防水機能、耐低温仕様の『タフソーラー』――ストップウォッチに、マルチアラームの機能まであって、あらゆるスポーツに適応する。 そう――ダイビングにも。だからユースケは、あの海でも手首にはめていた。 ジュンはため息を落とす。これを見るたびにユースケを思い出す。早く忘れたいのに。 「もしかして、足りなかった? 言ってくれれば、おれが出したのに」 「べつに……お金なら、あるし」 「――ふうん」 ジュンの髪の乱れを直し、カツミの手は離れていく。椅子に深く沈むように座り直して、カツミは壁に寄りかかった。横顔で言う。 「――何かあった?」 素っ気ない声に、ジュンはドキッとする。 「夏休みが終わってから、ずっと元気ないし」 「……そんなこと、ない」 チラッと、鋭い視線を投げつけられた。 「ジュン……おれに嘘は通じないんだよ?」 横顔のまま、カツミは冷ややかに言う。 「何があった」 なんだかもう、どうでもいい気分になる。ジュンは顔を上げ、ドカッと背もたれに身を預けると、伸びをするようにして言った。 「終わった、ってカンジ」 机の上に左手を置く。『Gショック』が目に入る。 「終わった、って……」 カツミがゆっくりと顔を向けてきた。軽く見張った目で、ジュンを見つめる。 「……セフレだったんだろ?」 「まあね――」 「なら、なんでそんなに落ち込んでんだよ!」 「え?」 「ジュンは、いくらでもイケるだろ? ほかに見つければいいじゃないか」 怒ったように言われ、ジュンは、きょとんとカツミを見つめ返してしまった。 「ふざけんな、っての。セフレひとりいなくなったくらいで、そんな、失恋したみたいに落ち込んでさ――」 ――え? ギクッとして、カツミを見る目を大きくする。 「おれをガッカリさせんな」 「なにそれ!」 バンッと机に両手をついた。勢いで立ち上がる。カツミを見下ろして、言い放つ。 「カツミでも許さないよ。ぼくに、そんなふうに言うなんて!」 くるりと背を向け、足早にカツミから離れる。カツミの声が追ってくる。 「ジュン!」 廊下に出たところで捕まった。カツミは、ジュンの肩を抱いて、後ろからかぶさるようにして耳元で言う。 「ごめん。そんな、怒んないで」 甘ったるい声が、ひっそりと響く。 「元気なかったからさ……心配だったんだ。ジュンのことは、おれ、よくわかってるから」 「……うん」 「帰り、寄ってくだろ? また、行こうぜ? そうしたら元気になるって」 「――うん」 答えても、ため息が出そうだった。カツミに知られないように、ぐっとこらえる。顔を向けて、ニコッと笑って見せた。カツミでもダメなのは、もう、わかっていた。 カツミは女の子オンリーだから――違う。カツミとしたって、きっと気持ちは晴れない。 ホテルの部屋に『エクスクルーシヴ』を忘れたのはわかっていたから、あの日の夕方、電話で問い合わせたのだ。保管されているようなら、宅配便で送ってほしいと。 しかし、忘れ物は何もなかったと返された。それはつまり――ユースケが持ち帰った、ということだ。 どうしようと思った。返してくれと言えば、ユースケは返してくれると思えた。しかし、顔を合わせるのは嫌だった。だからと言って、宅配便で送ってくれと言うのも嫌で――そうしてしまったら、きっと、本当に、終わってしまいそうで――もう二度と会えなくなりそうで――嫌だった。 ユースケからは何も言ってこない。あの腕時計がどれほど大切か、知っているのに。 ジュンでもわかることだった。ユースケは、ジュンからの連絡を待っている。ジュンが、自分から戻るのを――待っている。 だから……ぼくたちは、何なの――? 失恋したみたいに落ち込んでいると、カツミに言われたのがショックだった。失恋なんて知らない。本気なんて、知らないのだから。 みんな、ぼくを欲しがればいいんだ。ユースケも。だけど、ユースケは――。 どうしても許せなかった。一緒にベッドにいて、自分を強く抱きしめながら、ほかの男の名をユースケは呼んだのだから。 たとえ無意識でのことでも、いや、無意識であるなら、なおさら許せない。ほかの男を心に住まわせているのが許せない。 そんな自分が惨めだった。知っていたのに。 目に見えないもの、手で触れられないもの、肌で感じられないものは、存在しないのと同じだ。 ユースケのものと同じ腕時計を買い求めた自分も嫌だった。ユースケなんて、すぐにも忘れたいと思っていたのに。 そうだ……すぐに忘れるはずだった。 夜の街に出て、適当な相手をみつくろって、何度か試した。ユースケでなくても同じだと、確かめたかった。でも、ダメだった。 何もかもが虚しい。そんなことをする自分が、そんなことをして知ることが、どうしても最後には行き着いてしまう、ユースケを忘れられない、ユースケを知る前の自分には、もう、戻れない。 ……ユースケでなくちゃ、ダメ。 この気持ちを本気と呼ぶのなら、本気とは、苦しいだけだ。ユースケが欲しくてたまらない。ほかの誰も代わりにはならなくて、それなのに、ユースケの心には別の男が住み続けている。 だから、教えてよ。ぼくは、ユースケの何なの――? 会いたい、触れたい、肌で感じたい。でも、そうするのが、恐い。 ユースケに抱きしめられれば、それだけで溶けた。あの心地よさ、あの安堵――自分があの気持ちに浸っていたとき、ユースケは、どうだったのか――知りたいのに、知りたくない。 ぼくの、『エクスクルーシヴ』……。 ユースケが持っているのなら、それでいいと思う。自分の左手には、ユースケのものと同じ腕時計がある。 忘れないで、ぼくを。思い出して、ぼくを。そして……迎えに来て。迎えに来て、教えて。ぼくは、あなたの何なのか――。 沈黙のうちに秋は深まる。真夏の記憶は、かげろうのように薄れ、消え去っていく。 つきあいが悪いとカツミに言われるようになっていた。十月に入っても、沈む気持ちに変わりはない。 ジュンは、ひとりで夜の街をふらつく。人込みに紛れて歩くと落ち着けるのは、中学の頃からだ。 出会いを求めて男が集まるような店には、足が向かなくなっていた。しかし、忘れようもない店の前に来て、ジュンの足は止まる。イベントのない夜は、落ち着いた雰囲気のカフェだ。そのドアを押した。 ひとりでカウンターに座り、ドリンクをオーダーする。初めて会った、あの日のユースケは何を飲んでいたかと、ふと思った。 グラスを放さない手が思い浮かんだ。大きくて、触れると温かかった手――握っていたのは……たぶん、ジントニック。 ジュンは、目の前に置かれたワインクーラーを一口飲む。バーテンダーが訝しそうな目を自分に向けるのが、視界の隅に映る。 あのとき、ユースケは失恋したばかりだと言っていた。今こうしてカウンターにひとりでいて、誰にも興味が向かないのを思うと、あのときのユースケも同じ気持ちだったのかと――そう、思えた。 ――だけど。 あの日、ジュンはユースケに声をかけた。どうしても気になって、そうした。 思い返すと、ユースケは迷惑そうだった。もしも今、自分が誰かに声をかけられるなら、やっぱり――迷惑だ。 くすっと、自分を笑ってしまう。本当に何もわかってなかったのだと、今になって思う。 ユースケのことだって――。 フルネームすら知らない。「ユースケ」が本名なのかも知らない。知っているのはケータイの番号とメールアドレス、二十六歳でサラリーマンだということ、スポーツ全般が好きだということ――それだけだ。 あとは……とても魅惑的な体をしているのと、艶のある低い声と、少しいじわるで恐くなるくらい――やさしいこと。 やさしかった……とても。 ベッドで溶かされた甘美な記憶がよみがえる。きつく抱きしめられる心地よさが――。 あれは、本物だった。 見て、触れて、肌で感じられるものだけを信じるのなら、十分だったのではないか。 だけど……! 「ジュン」 唐突に呼ばれ、ハッと振り向く。たった今、思い描いていたその人が、そこにいる。 「……ユースケ」 「おまえ、また、こんな店に――」 しかし、ユースケは苦々しそうにつぶやいた。顔を歪め、冷たくジュンを見つめる。 「……結局は、そういうヤツってことか」 呆れたように肩を落とした。 「何も言ってこないわけだ。そうだよな、おまえだったら、『エクスクルーシヴ』なんて、また買えばいいって、そうなんだろ?」 ジュンは声が出ない。聞かされたことに怯え、ただ呆然とユースケを見つめ返す。 「見せてみろよ。今度は、どんなのだ?」 「あ!」 隠す間もなかった。左手首を取られ、袖を引き上げられる。 「おまえ、これ……」 唖然とした目で見られ、ジュンは顔を背けた。説明できることなど、何もない。 わけのわからないうちに涙が滲んでくる。ユースケに握られている腕が熱くなる。握られていない手で、顔をおおう。 「どういうことだ、これ」 きつく、問い詰めるように言われた。 「俺と同じって――」 「それを……ぼくに言わせようっての?」 ひどい、と胸のうちで吐き捨てる。惨めで、みっともなくて、悲しすぎる。 「……自分で買ったのか?」 ぽつりと言われた。無言でいてはいけない――ジュンは、咄嗟にコクリとうなずく。 「ジュン――」 再び名前を呼ばれ、涙が止まらなくなる。こんな場所で、こんなふうに泣いてしまうなんて――。 「……やめてよ」 喘いでジュンは言った。 「ぼくを――泣かせないで」 言って、余計に涙がこぼれる。 左腕を下ろされた。袖を直される。ユースケはジュンの肩に手を置いて、背後から身を屈めてくる。 「あれだけ俺に泣かせろ、って言ったくせに」 艶のある低い声が、耳元で甘くささやいた。 「取りに来い。おまえの大切な『エクスクルーシヴ』――」 もう、訊かなくてもわかった。ユースケが何を言ってくれたのか――。 もっとユースケを知りたい。それが、遅すぎた始まりになった。 どんな会社で働いているのか、いつも何をしているのか、それと――どんな曲が好きなのか――訊きたいと思ったのに、なぜか言えなかったあの質問も、すんなり声に出せた。 ときどきは困ったように、でも大概は笑いながらユースケは答える。 スポーツウェアメーカーの企画部で働いている、どんな仕事かは面倒だから説明しない、忙しくて平日は自宅と会社を往復するだけだ、一番好きな曲は――ヒミツ。 「なんで!」 「おまえにオヤジって言われるのは嫌だ」 「そんなオヤジくさい曲が好きなわけ?」 「だからヒミツだ」 「やっぱオヤジなんだ」 「だから言うなって、言ってるだろ!」 そんな会話が楽しかった。大学に入るのに東京に出てきて今もひとり暮らし――週末は、ユースケの部屋でだらだらと過ごす。 好きなだけ、目で見て、手で触れて、肌で感じて――ジュンはユースケに満たされた。 「ね……したい」 抱きついて、ささやくだけでいい。すぐに大きな体に包まれて、たちまちのうちに溶けていける――。 それだけで、よかったはずだ。それだけで、十分だったはずなのに――。 「ジュン……俺が好きか?」 ユースケは聞きたがる。 「うん」 何度でも。 もう、『エクスクルーシヴ』はいらなかった。ユースケの部屋に取りには行ったけど、持ち帰らなかった。今は、ユースケと同じ『Gショック』が左手首にある。 ね? ぼくは、こんなにもユースケが好きなんだよ? だから、もう訊かなくたっていいと思う。それなのに何度も訊くのは、なぜなのか。 信じられない? ぼくの言うことが? ジュンの胸は、わだかまる。もしも信じられていないのなら、それも仕方ないように思えてしまう。 ユースケに、まだ、嘘をついている。 どこの大学だと訊かれたとき、咄嗟に付属の大学名を上げてしまった。学部のこととか講義の終わる時間とか、そんな細々としたことを尋ねられれば、すぐには声が出なくて――苦しかった。 今さら、本当は高校生だなんて、絶対に言えない。そんなことを聞かせたら、ユースケはどう思うか。進学は決まったのだから、次の春には本当になる。大丈夫だ――。 そう、大丈夫だ。ユースケが好きな気持ちは、嘘ではないのだから。 それなら……なんで、何度も訊くわけ? ――ああ、そうだった。 目に見えないもの、手で触れられないもの、肌で感じられないものは、存在しないのと同じだから。 ひとの気持ちは――確かめきれない。 ほんのささいなことが、きっかけだった。 秋の終わりの金曜日、ユースケのケータイが鳴る。 「え? ――ああ、その話か。それ、さっき決まった。うん、仕事終わってから。そうだ。キタムラが行ってくれるってさ。――だな、助かったよ。それで大丈夫だ、進めてくれ」 ユースケは仕事帰りだった。次の週末は社内旅行で会えないから、この週末は金曜日の夜から泊まりに来いとジュンは言われていた。 ユースケの部屋の合鍵はもらっていない。もらえるものとは、ジュンは思っていない。 ユースケのマンションに近いレストランで待ち合わせた。夕食を済ませ、それから一緒にユースケの部屋に行く予定だった。 レストランには、先にジュンが来ていた。オレンジジュースを飲みながら、ユースケが来るのを待っていた。 少し遅れてやってきたユースケはスーツ姿で――急に胸がドキドキしてきて、ジュンはうろたえた。 サラリーマンなのは知っていたけど、それを目で見て知るのは初めてだった。髪も、いつものラフなスタイルとは違って、きちっと整えられている。ユースケは、自分よりもずっと大人なのだと、それを思った。 向かいの席に座るユースケが眩しかった。雰囲気も、いつもと違う。颯爽として見えて、なんだか誇らしい。 ふたりでメニューを開いて、それぞれにオーダーを済ませたときだった。ユースケのケータイが鳴ったのは――。 「悪かったな。会社のヤツだったからさ」 ケータイをしまいながら、気まずそうな顔でユースケは言った。 「今ごろになって、社員旅行の欠員が出て、代わりに行けるヤツを探さなくちゃならなかったんだ。もう、来週なのに」 訊いてもいないのに話した。それが、気に入らなかった。 目の前にいるのは、ジュンの知らないユースケだ。誇らしく見えたスーツ姿が、忌々しいように感じられる。 「……キタムラが行くんだ」 ふと、口をついて出た。ユースケは、おや、とした顔になって目を向けてくる。 「そうか……キタムラって、まだ同じ会社にいるんだ」 「ジュン?」 「そうだよね、同じ会社のヤツとつきあってた、って――ユースケ、言った」 「ジュン――」 オーダーした料理が運ばれてくる。ジュンは黙って、ナイフとフォークを取る。 「ジュン、その話は、もうやめてくれないか」 もうやめたつもりだったのに、ユースケはそう言った。 「キタムラとは終わっているんだ。俺の過去に妬いたって、しょうがないだろ?」 それを再び聞かされては黙っていられない。上目遣いにユースケをにらみ、ジュンは口を開く。 「そんなこと言ったって、来週、一緒に旅行するんじゃない」 「社員旅行だ。ふたりで行くわけじゃない」 「でも、同じホテルに泊まるんだ」 「しょうがないだろ、社員旅行なんだから」 「キタムラが誘ってきたら、どうすんの?」 一瞬、ユースケは口をつぐむ。ハッとしたような目をジュンからそらした。 「くだらないこと言うな。キタムラは、そんなヤツじゃない」 ユースケは食事に戻る。伏し目がちにして、ジュンと目を合わせない。 なに、これ……。 すっ、と全身が冷える。ユースケが遠い人のように感じられる。 「……教えてよ。それなら、キタムラって、どんなヤツなの?」 驚いたようにユースケは顔を上げた。 「……会ってみたい」 「待てよ、ジュン」 ムッとした声で言い、にらみつけてくる。 「会わせられるわけ、ないだろ? キタムラの気持ちを考えてみろ」 「なんでぼくが、キタムラの気持ちなんか、考えなくちゃならないんだよ!」 「ジュン、声が大きい」 う、とジュンは息を飲む。呆れたような目で、ユースケが見ている。 「しょうがないな……」 ふうっと、ユースケはため息をついた。目を合わせてきて、諭すように言う。 「キタムラとは終わっているんだ。キタムラは、終わったヤツと蒸し返すようなタイプじゃない。プライドが高いから、みっともないまねは、できないんだ」 そんなふうに聞かされては、ジュンの胸はますます重くなる。 「キタムラのこと……よくわかってるんだ」 「そういうこと言うか?」 つきあってたんだからあたりまえだろ、と、ユースケは不機嫌そうにつぶやく。 「今でも、会ったり――話したり、するんだ」 「そんなの、決まってんだろ? 同じ会社なんだから」 その声が胸に刺さった。思わず、ジュンは言ってしまう。 「お願い、ユースケ、会社変わって!」 「なに言い出すんだよ! できるわけないだろ!」 「そうじゃないと、ぼくは……!」 言いかけて、声を失った。 そうじゃないと……どうなのか――。 「……ジュン」 テーブルを越えてユースケの手が伸びてくる。そっとジュンの頬に触れた。 「俺はおまえがかわいいよ。そんなふうに言われると、たまらないよ。けど……限度ってもんがあるだろ? 俺をあんまり困らせないでくれ」 やさしい声だった。胸にしみる温かな声で――そんなふうに言われるのは、つらかった。 「――うん」 ジュンはうなずく。しかし、胸は重く沈むばかりだった。 ひとの気持ちは、確かめきれない。どうすれば、信じられるのか。 ユースケはジュンを喘がせながら何度でも訊く――俺が好きか。ジュンは、それに答えても自分からは訊けない。 ユースケ、ぼくが好き……? 声にするのが恐い。どんなふうに返されるのか。すんなりと聞けるように答えてくれるのか。それとも――。 ユースケが社員旅行に出かけた土曜日、少しも落ち着けなかった。今ごろ何をしているのか、誰と何を話しているのか――キタムラと――何かしているのか。 社員旅行なんて行かないで、と言えばよかったのか。でも、言っても同じだったと思う。あのときの電話の様子から、そう思える。 ……ずるいよ! 自分は、こんなにも淋しい思いをしているのに。ユースケは、きっと、笑っている。旅行先で――キタムラと。 本当は……どんなヤツなんだろう。 ユースケが言ったとおりなのか。別れた相手に未練を残さない、プライドの高い男――。 会ってみたいと言ったら、キタムラの気持ちを考えろと返された。 なんで――。 ユースケはキタムラの気持ちが大事なのか。ジュンの気持ちよりも。 過去に妬くなとユースケは言う。ユースケの過去に妬くジュンが、かわいいとも言う。 『俺をあんまり困らせないでくれ』 そう言いながら、何度でも訊く――俺が好きか。 本当に、『過去』なの? 初めて会ったときのユースケが思い出される。失恋したと言って、とても淋しそうだった。誰にも気のない様子でカウンターにいたのに、そのあと、ジュンを抱いた。 淋しそうだったのは、キタムラに本気だったから――。 どんなふうに抱き合ったのだろう――ユースケは……キタムラと。キタムラもユースケの胸で溶けたのだろうか――自分のように。 そんなの、嫌だ! 今のユースケは自分だけのもの、それを知りたい、確かめたい、でも、どうやって。 キタムラなんて、忘れてよ――。 ユースケの本気が知りたい。今は、ジュンだけを想っている、と。 落ち着けない気持ちは人込みに紛らわせる。日曜日になって、ジュンは渋谷の街に出た。 CDショップで試聴する。好きなアーティストじゃなくても構わない。むしろ、知らないアーティストのCDのほうが楽しめる。そうやって趣味を広げる。 裏道で雰囲気のいいカフェを見つける。カフェオレを飲みながらポータブルプレーヤーで自分の好きな曲を聞き、しばらく過ごす。向こうのテーブルにいる女の子たちの視線に気づいても何も感じない。窓越しに街の風景を見るのが好きだ。 ショップを回り、ピアスを買った。オニキスは、これからの季節の色だ。黒く輝く小さな粒に合わせ、髪の色も少し暗めにしようかと思う。 代々木公園に向かって歩いているときだった。ジャケットのポケットでケータイが鳴った。ユースケからの着信だ。 『今、どこにいる』 「渋谷」 『渋谷か……三十分待てるか?』 「いいよ」 待ち合わせの時間と場所を決めて通話を切った。途端にワクワクしてきた。 社員旅行から帰ったその足で、会いたいと言ってきた。暮れなずむ空が、暖かいように見える。 「高速がすいてたから、予定より早く着いたんだ」 ユースケはジュンに会うとすぐに言った。ジュンは、理由なんてどうでもよかった。会えないと思っていたのが会えたのだ。 「どこへ行く?」 「どこへでも」 笑顔を交わした。さりげなく寄り添って、歩き始める。間近にユースケを感じて、ジュンの胸は温かく満たされていく。 こうして歩いているだけでもいい。ユースケといられるのが、うれしい。 「ジュン!」 呼ぶ声に振り向いた。同時に、背後から肩を抱かれる。 「カツミ……」 驚いた。日曜日のこんな時間に、偶然でもカツミに会うとは思えなかった。 「またひとりで歩いてんのかよ。それなら、おれと――」 言いかけて、カツミはユースケに気づく。ギョッとしたように目を見張った。 「ごめん、ひとりじゃないんだ」 ユースケに視線を流し、ニコッと笑いかける。ユースケは困ったように笑って返す。 「いいよ、カツミなら、少しくらい」 「ジュン!」 ぐいっとカツミに肩を引かれた。ユースケに背を見せるようになって、耳元でカツミにひそひそと言われる。 「どういうことだ? あいつ、おれのこと知ってるみたいじゃん」 「え?」 そんなふうに言われるのは意外だった。 「知ってるって……カツミのこと、たまに話すから」 「はあっ?」 小さく叫んで、カツミはジュンの肩をぐっと抱き寄せる。 「おれのことまで話すのか? あいつと?」 「うん……」 チラッとカツミはユースケに視線を投げた。 「あいつ――だれ?」 「だれって……」 カツミに「ユースケ」と答えても通じない。どう説明するのが適当か、ジュンは考える。 「もしかして――」 ジュンを見るカツミの目が、大きく開かれていく。今にも触れそうなほど唇が近づいてきて、耳元で低く言った。 「終わってたんじゃなかったのか? まだ続いてるって?」 その声が、冷たく耳の奥にまで響いた。ジュンはゾッとする。 「……カツミ?」 横目で捉えたカツミの顔は、歪んだ笑みを浮かべていた。 「おれのことまで話してるなんて……セフレなんて、嘘だな」 言い捨てて、ジュンを突き放した。 「カツミ!」 呼んでも背を見せて雑踏に消えていく。しかし、追うわけにはいかない。不機嫌そうな顔になったユースケが、視界に入ってくる。 「ユースケ……」 何が起こっているのかジュンにはわからない。うろたえた声で呼ぶと、ぎゅっと腰を抱き寄せられた。 「今の、本当にカツミだよな?」 「え? ――そうだよ、決まってんじゃん」 「大学のトモダチなんだろ?」 「そうだけど……」 大学と言われて、チクリと胸が痛んだ。 「ずいぶん、イイ男だな」 「……え?」 「それに――やけに馴れ馴れしかった」 「ユースケ……」 じっと見上げれば、冷ややかな視線で見つめられた。表情も硬い。 な……なに……? 「――妬ける」 ぐいっと強く腰を引かれ、強引に歩き出された。よろめきかけて、ユースケの顔を見る。 「あんな平気な顔で、肩、抱かせるな。顔、近づけすぎなんだよ」 硬い表情のまま、横顔で言われた。 これって……。 腰に回るユースケの腕が、きつい。こんな体勢では歩きにくい。だけど、ジュンは何も言わない。引きずられるように歩いているのに、ユースケの横顔を見つめて胸を熱くする。 うれしい。 初めて覚えるような感情だった。 カツミに妬ける、だって。 カツミとは何もないのに。ただの遊び相手なのに。カツミに肩を抱かれたくらいで、こんなに怒るなんて。 そうか――。 目に見えないものは、こうやって確かめればいい。キタムラに妬くジュンがかわいいと、ユースケも言っている。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
素材:若奥様工房