Words & Emotion   Written by 奥杜レイ




    プライスレス
    −5−



     五

    「あれ? なにこれ?」
     カツミに左手首を取られた。
    「エクスクルーシヴは?」
     そのうち気づかれると思っていたけれど、カツミは本当に目が早い。二学期が始まって、まだ三日も経っていない。
    「なくした」
     そっぽを向いてジュンは答える。
    「だからって、Gショック?」
     含み笑いにカツミは言う。
    「いいじゃん、べつに!」
     苛立って、カツミの手を振り払った。隠すように左手を机の陰に下ろす。
    「うん。べつにいいけど。でも、なんでGショック?」
     ニヤリとして、カツミはジュンの顔を覗き込んでくる。
     いつもの昼休みだった。それでも一学期に比べれば教室にいる生徒の数は少ない。外部校を受験する者は、今も図書室で受験勉強だ。
    「もらったの?」
    「え?」
    「Gショック」
     どう答えようかとジュンは迷う。
    「――おれに嘘は通じないよ?」
     くしゃっと髪をつかまれた。
     そう……かも。
     カツミは何でもお見通しだ。一緒に遊ぶようになったのは高校に入ってからだけど、中学の頃からジュンを知っていたと言う。
     一年のときに同じクラスになって、二年はクラスが違っても遊んだ。三年になって、また同じクラスになって――。
     迷って、ジュンは正直に話す。
    「……自分で買ったんだ」
    「それなら、またエクスクルーシヴにすればよかったのに。あのボーイズタイプ、ジュンにピッタリだった」
     何も言えなかった。どうしてこの『Gショック』に決めたのか、自分でもわからない。
     耐衝撃構造、完全防水機能、耐低温仕様の『タフソーラー』――ストップウォッチに、マルチアラームの機能まであって、あらゆるスポーツに適応する。
     そう――ダイビングにも。だからユースケは、あの海でも手首にはめていた。
     ジュンはため息を落とす。これを見るたびにユースケを思い出す。早く忘れたいのに。
    「もしかして、足りなかった? 言ってくれれば、おれが出したのに」
    「べつに……お金なら、あるし」
    「――ふうん」
     ジュンの髪の乱れを直し、カツミの手は離れていく。椅子に深く沈むように座り直して、カツミは壁に寄りかかった。横顔で言う。
    「――何かあった?」
     素っ気ない声に、ジュンはドキッとする。
    「夏休みが終わってから、ずっと元気ないし」
    「……そんなこと、ない」
     チラッと、鋭い視線を投げつけられた。
    「ジュン……おれに嘘は通じないんだよ?」
     横顔のまま、カツミは冷ややかに言う。
    「何があった」
     なんだかもう、どうでもいい気分になる。ジュンは顔を上げ、ドカッと背もたれに身を預けると、伸びをするようにして言った。
    「終わった、ってカンジ」
     机の上に左手を置く。『Gショック』が目に入る。
    「終わった、って……」
     カツミがゆっくりと顔を向けてきた。軽く見張った目で、ジュンを見つめる。
    「……セフレだったんだろ?」
    「まあね――」
    「なら、なんでそんなに落ち込んでんだよ!」
    「え?」
    「ジュンは、いくらでもイケるだろ? ほかに見つければいいじゃないか」
     怒ったように言われ、ジュンは、きょとんとカツミを見つめ返してしまった。
    「ふざけんな、っての。セフレひとりいなくなったくらいで、そんな、失恋したみたいに落ち込んでさ――」
     ――え?
     ギクッとして、カツミを見る目を大きくする。
    「おれをガッカリさせんな」
    「なにそれ!」
     バンッと机に両手をついた。勢いで立ち上がる。カツミを見下ろして、言い放つ。
    「カツミでも許さないよ。ぼくに、そんなふうに言うなんて!」
     くるりと背を向け、足早にカツミから離れる。カツミの声が追ってくる。
    「ジュン!」
     廊下に出たところで捕まった。カツミは、ジュンの肩を抱いて、後ろからかぶさるようにして耳元で言う。
    「ごめん。そんな、怒んないで」
     甘ったるい声が、ひっそりと響く。
    「元気なかったからさ……心配だったんだ。ジュンのことは、おれ、よくわかってるから」
    「……うん」
    「帰り、寄ってくだろ? また、行こうぜ? そうしたら元気になるって」
    「――うん」
     答えても、ため息が出そうだった。カツミに知られないように、ぐっとこらえる。顔を向けて、ニコッと笑って見せた。カツミでもダメなのは、もう、わかっていた。
     カツミは女の子オンリーだから――違う。カツミとしたって、きっと気持ちは晴れない。
     ホテルの部屋に『エクスクルーシヴ』を忘れたのはわかっていたから、あの日の夕方、電話で問い合わせたのだ。保管されているようなら、宅配便で送ってほしいと。
     しかし、忘れ物は何もなかったと返された。それはつまり――ユースケが持ち帰った、ということだ。
     どうしようと思った。返してくれと言えば、ユースケは返してくれると思えた。しかし、顔を合わせるのは嫌だった。だからと言って、宅配便で送ってくれと言うのも嫌で――そうしてしまったら、きっと、本当に、終わってしまいそうで――もう二度と会えなくなりそうで――嫌だった。
     ユースケからは何も言ってこない。あの腕時計がどれほど大切か、知っているのに。
     ジュンでもわかることだった。ユースケは、ジュンからの連絡を待っている。ジュンが、自分から戻るのを――待っている。
     だから……ぼくたちは、何なの――?
     失恋したみたいに落ち込んでいると、カツミに言われたのがショックだった。失恋なんて知らない。本気なんて、知らないのだから。
     みんな、ぼくを欲しがればいいんだ。ユースケも。だけど、ユースケは――。
     どうしても許せなかった。一緒にベッドにいて、自分を強く抱きしめながら、ほかの男の名をユースケは呼んだのだから。
     たとえ無意識でのことでも、いや、無意識であるなら、なおさら許せない。ほかの男を心に住まわせているのが許せない。
     そんな自分が惨めだった。知っていたのに。 目に見えないもの、手で触れられないもの、肌で感じられないものは、存在しないのと同じだ。
     ユースケのものと同じ腕時計を買い求めた自分も嫌だった。ユースケなんて、すぐにも忘れたいと思っていたのに。
     そうだ……すぐに忘れるはずだった。
     夜の街に出て、適当な相手をみつくろって、何度か試した。ユースケでなくても同じだと、確かめたかった。でも、ダメだった。
     何もかもが虚しい。そんなことをする自分が、そんなことをして知ることが、どうしても最後には行き着いてしまう、ユースケを忘れられない、ユースケを知る前の自分には、もう、戻れない。
     ……ユースケでなくちゃ、ダメ。
     この気持ちを本気と呼ぶのなら、本気とは、苦しいだけだ。ユースケが欲しくてたまらない。ほかの誰も代わりにはならなくて、それなのに、ユースケの心には別の男が住み続けている。
     だから、教えてよ。ぼくは、ユースケの何なの――?
     会いたい、触れたい、肌で感じたい。でも、そうするのが、恐い。
     ユースケに抱きしめられれば、それだけで溶けた。あの心地よさ、あの安堵――自分があの気持ちに浸っていたとき、ユースケは、どうだったのか――知りたいのに、知りたくない。
     ぼくの、『エクスクルーシヴ』……。
     ユースケが持っているのなら、それでいいと思う。自分の左手には、ユースケのものと同じ腕時計がある。
     忘れないで、ぼくを。思い出して、ぼくを。そして……迎えに来て。迎えに来て、教えて。ぼくは、あなたの何なのか――。


     沈黙のうちに秋は深まる。真夏の記憶は、かげろうのように薄れ、消え去っていく。
     つきあいが悪いとカツミに言われるようになっていた。十月に入っても、沈む気持ちに変わりはない。
     ジュンは、ひとりで夜の街をふらつく。人込みに紛れて歩くと落ち着けるのは、中学の頃からだ。
     出会いを求めて男が集まるような店には、足が向かなくなっていた。しかし、忘れようもない店の前に来て、ジュンの足は止まる。イベントのない夜は、落ち着いた雰囲気のカフェだ。そのドアを押した。
     ひとりでカウンターに座り、ドリンクをオーダーする。初めて会った、あの日のユースケは何を飲んでいたかと、ふと思った。
     グラスを放さない手が思い浮かんだ。大きくて、触れると温かかった手――握っていたのは……たぶん、ジントニック。
     ジュンは、目の前に置かれたワインクーラーを一口飲む。バーテンダーが訝しそうな目を自分に向けるのが、視界の隅に映る。
     あのとき、ユースケは失恋したばかりだと言っていた。今こうしてカウンターにひとりでいて、誰にも興味が向かないのを思うと、あのときのユースケも同じ気持ちだったのかと――そう、思えた。
     ――だけど。
     あの日、ジュンはユースケに声をかけた。どうしても気になって、そうした。
     思い返すと、ユースケは迷惑そうだった。もしも今、自分が誰かに声をかけられるなら、やっぱり――迷惑だ。
     くすっと、自分を笑ってしまう。本当に何もわかってなかったのだと、今になって思う。
     ユースケのことだって――。
     フルネームすら知らない。「ユースケ」が本名なのかも知らない。知っているのはケータイの番号とメールアドレス、二十六歳でサラリーマンだということ、スポーツ全般が好きだということ――それだけだ。
     あとは……とても魅惑的な体をしているのと、艶のある低い声と、少しいじわるで恐くなるくらい――やさしいこと。
     やさしかった……とても。
     ベッドで溶かされた甘美な記憶がよみがえる。きつく抱きしめられる心地よさが――。
     あれは、本物だった。
     見て、触れて、肌で感じられるものだけを信じるのなら、十分だったのではないか。
     だけど……!
    「ジュン」
     唐突に呼ばれ、ハッと振り向く。たった今、思い描いていたその人が、そこにいる。
    「……ユースケ」
    「おまえ、また、こんな店に――」
     しかし、ユースケは苦々しそうにつぶやいた。顔を歪め、冷たくジュンを見つめる。
    「……結局は、そういうヤツってことか」
     呆れたように肩を落とした。
    「何も言ってこないわけだ。そうだよな、おまえだったら、『エクスクルーシヴ』なんて、また買えばいいって、そうなんだろ?」
     ジュンは声が出ない。聞かされたことに怯え、ただ呆然とユースケを見つめ返す。
    「見せてみろよ。今度は、どんなのだ?」
    「あ!」
     隠す間もなかった。左手首を取られ、袖を引き上げられる。
    「おまえ、これ……」
     唖然とした目で見られ、ジュンは顔を背けた。説明できることなど、何もない。
     わけのわからないうちに涙が滲んでくる。ユースケに握られている腕が熱くなる。握られていない手で、顔をおおう。
    「どういうことだ、これ」
     きつく、問い詰めるように言われた。
    「俺と同じって――」
    「それを……ぼくに言わせようっての?」
     ひどい、と胸のうちで吐き捨てる。惨めで、みっともなくて、悲しすぎる。
    「……自分で買ったのか?」
     ぽつりと言われた。無言でいてはいけない――ジュンは、咄嗟にコクリとうなずく。
    「ジュン――」
     再び名前を呼ばれ、涙が止まらなくなる。こんな場所で、こんなふうに泣いてしまうなんて――。
    「……やめてよ」
     喘いでジュンは言った。
    「ぼくを――泣かせないで」
     言って、余計に涙がこぼれる。
     左腕を下ろされた。袖を直される。ユースケはジュンの肩に手を置いて、背後から身を屈めてくる。
    「あれだけ俺に泣かせろ、って言ったくせに」
     艶のある低い声が、耳元で甘くささやいた。
    「取りに来い。おまえの大切な『エクスクルーシヴ』――」
     もう、訊かなくてもわかった。ユースケが何を言ってくれたのか――。


     もっとユースケを知りたい。それが、遅すぎた始まりになった。
     どんな会社で働いているのか、いつも何をしているのか、それと――どんな曲が好きなのか――訊きたいと思ったのに、なぜか言えなかったあの質問も、すんなり声に出せた。
     ときどきは困ったように、でも大概は笑いながらユースケは答える。
     スポーツウェアメーカーの企画部で働いている、どんな仕事かは面倒だから説明しない、忙しくて平日は自宅と会社を往復するだけだ、一番好きな曲は――ヒミツ。
    「なんで!」
    「おまえにオヤジって言われるのは嫌だ」
    「そんなオヤジくさい曲が好きなわけ?」
    「だからヒミツだ」
    「やっぱオヤジなんだ」
    「だから言うなって、言ってるだろ!」
     そんな会話が楽しかった。大学に入るのに東京に出てきて今もひとり暮らし――週末は、ユースケの部屋でだらだらと過ごす。
     好きなだけ、目で見て、手で触れて、肌で感じて――ジュンはユースケに満たされた。
    「ね……したい」
     抱きついて、ささやくだけでいい。すぐに大きな体に包まれて、たちまちのうちに溶けていける――。
     それだけで、よかったはずだ。それだけで、十分だったはずなのに――。
    「ジュン……俺が好きか?」
     ユースケは聞きたがる。
    「うん」
     何度でも。
     もう、『エクスクルーシヴ』はいらなかった。ユースケの部屋に取りには行ったけど、持ち帰らなかった。今は、ユースケと同じ『Gショック』が左手首にある。
     ね? ぼくは、こんなにもユースケが好きなんだよ?
     だから、もう訊かなくたっていいと思う。それなのに何度も訊くのは、なぜなのか。
     信じられない? ぼくの言うことが?
     ジュンの胸は、わだかまる。もしも信じられていないのなら、それも仕方ないように思えてしまう。
     ユースケに、まだ、嘘をついている。
     どこの大学だと訊かれたとき、咄嗟に付属の大学名を上げてしまった。学部のこととか講義の終わる時間とか、そんな細々としたことを尋ねられれば、すぐには声が出なくて――苦しかった。
     今さら、本当は高校生だなんて、絶対に言えない。そんなことを聞かせたら、ユースケはどう思うか。進学は決まったのだから、次の春には本当になる。大丈夫だ――。
     そう、大丈夫だ。ユースケが好きな気持ちは、嘘ではないのだから。
     それなら……なんで、何度も訊くわけ? ――ああ、そうだった。
     目に見えないもの、手で触れられないもの、肌で感じられないものは、存在しないのと同じだから。
     ひとの気持ちは――確かめきれない。


     ほんのささいなことが、きっかけだった。
     秋の終わりの金曜日、ユースケのケータイが鳴る。
    「え? ――ああ、その話か。それ、さっき決まった。うん、仕事終わってから。そうだ。キタムラが行ってくれるってさ。――だな、助かったよ。それで大丈夫だ、進めてくれ」
     ユースケは仕事帰りだった。次の週末は社内旅行で会えないから、この週末は金曜日の夜から泊まりに来いとジュンは言われていた。
     ユースケの部屋の合鍵はもらっていない。もらえるものとは、ジュンは思っていない。
     ユースケのマンションに近いレストランで待ち合わせた。夕食を済ませ、それから一緒にユースケの部屋に行く予定だった。
     レストランには、先にジュンが来ていた。オレンジジュースを飲みながら、ユースケが来るのを待っていた。
     少し遅れてやってきたユースケはスーツ姿で――急に胸がドキドキしてきて、ジュンはうろたえた。
     サラリーマンなのは知っていたけど、それを目で見て知るのは初めてだった。髪も、いつものラフなスタイルとは違って、きちっと整えられている。ユースケは、自分よりもずっと大人なのだと、それを思った。
     向かいの席に座るユースケが眩しかった。雰囲気も、いつもと違う。颯爽として見えて、なんだか誇らしい。
     ふたりでメニューを開いて、それぞれにオーダーを済ませたときだった。ユースケのケータイが鳴ったのは――。
    「悪かったな。会社のヤツだったからさ」
     ケータイをしまいながら、気まずそうな顔でユースケは言った。
    「今ごろになって、社員旅行の欠員が出て、代わりに行けるヤツを探さなくちゃならなかったんだ。もう、来週なのに」
     訊いてもいないのに話した。それが、気に入らなかった。
     目の前にいるのは、ジュンの知らないユースケだ。誇らしく見えたスーツ姿が、忌々しいように感じられる。
    「……キタムラが行くんだ」
     ふと、口をついて出た。ユースケは、おや、とした顔になって目を向けてくる。
    「そうか……キタムラって、まだ同じ会社にいるんだ」
    「ジュン?」
    「そうだよね、同じ会社のヤツとつきあってた、って――ユースケ、言った」
    「ジュン――」
     オーダーした料理が運ばれてくる。ジュンは黙って、ナイフとフォークを取る。
    「ジュン、その話は、もうやめてくれないか」
     もうやめたつもりだったのに、ユースケはそう言った。
    「キタムラとは終わっているんだ。俺の過去に妬いたって、しょうがないだろ?」
     それを再び聞かされては黙っていられない。上目遣いにユースケをにらみ、ジュンは口を開く。
    「そんなこと言ったって、来週、一緒に旅行するんじゃない」
    「社員旅行だ。ふたりで行くわけじゃない」
    「でも、同じホテルに泊まるんだ」
    「しょうがないだろ、社員旅行なんだから」
    「キタムラが誘ってきたら、どうすんの?」
     一瞬、ユースケは口をつぐむ。ハッとしたような目をジュンからそらした。
    「くだらないこと言うな。キタムラは、そんなヤツじゃない」
     ユースケは食事に戻る。伏し目がちにして、ジュンと目を合わせない。
     なに、これ……。
     すっ、と全身が冷える。ユースケが遠い人のように感じられる。
    「……教えてよ。それなら、キタムラって、どんなヤツなの?」
     驚いたようにユースケは顔を上げた。
    「……会ってみたい」
    「待てよ、ジュン」
     ムッとした声で言い、にらみつけてくる。
    「会わせられるわけ、ないだろ? キタムラの気持ちを考えてみろ」
    「なんでぼくが、キタムラの気持ちなんか、考えなくちゃならないんだよ!」
    「ジュン、声が大きい」
     う、とジュンは息を飲む。呆れたような目で、ユースケが見ている。
    「しょうがないな……」
     ふうっと、ユースケはため息をついた。目を合わせてきて、諭すように言う。
    「キタムラとは終わっているんだ。キタムラは、終わったヤツと蒸し返すようなタイプじゃない。プライドが高いから、みっともないまねは、できないんだ」
     そんなふうに聞かされては、ジュンの胸はますます重くなる。
    「キタムラのこと……よくわかってるんだ」
    「そういうこと言うか?」
     つきあってたんだからあたりまえだろ、と、ユースケは不機嫌そうにつぶやく。
    「今でも、会ったり――話したり、するんだ」
    「そんなの、決まってんだろ? 同じ会社なんだから」
     その声が胸に刺さった。思わず、ジュンは言ってしまう。
    「お願い、ユースケ、会社変わって!」
    「なに言い出すんだよ! できるわけないだろ!」
    「そうじゃないと、ぼくは……!」
     言いかけて、声を失った。
     そうじゃないと……どうなのか――。
    「……ジュン」
     テーブルを越えてユースケの手が伸びてくる。そっとジュンの頬に触れた。
    「俺はおまえがかわいいよ。そんなふうに言われると、たまらないよ。けど……限度ってもんがあるだろ? 俺をあんまり困らせないでくれ」
     やさしい声だった。胸にしみる温かな声で――そんなふうに言われるのは、つらかった。
    「――うん」
     ジュンはうなずく。しかし、胸は重く沈むばかりだった。


     ひとの気持ちは、確かめきれない。どうすれば、信じられるのか。
     ユースケはジュンを喘がせながら何度でも訊く――俺が好きか。ジュンは、それに答えても自分からは訊けない。
     ユースケ、ぼくが好き……?
     声にするのが恐い。どんなふうに返されるのか。すんなりと聞けるように答えてくれるのか。それとも――。
     ユースケが社員旅行に出かけた土曜日、少しも落ち着けなかった。今ごろ何をしているのか、誰と何を話しているのか――キタムラと――何かしているのか。
     社員旅行なんて行かないで、と言えばよかったのか。でも、言っても同じだったと思う。あのときの電話の様子から、そう思える。
     ……ずるいよ!
     自分は、こんなにも淋しい思いをしているのに。ユースケは、きっと、笑っている。旅行先で――キタムラと。
     本当は……どんなヤツなんだろう。
     ユースケが言ったとおりなのか。別れた相手に未練を残さない、プライドの高い男――。
     会ってみたいと言ったら、キタムラの気持ちを考えろと返された。
     なんで――。
     ユースケはキタムラの気持ちが大事なのか。ジュンの気持ちよりも。
     過去に妬くなとユースケは言う。ユースケの過去に妬くジュンが、かわいいとも言う。
    『俺をあんまり困らせないでくれ』
     そう言いながら、何度でも訊く――俺が好きか。
     本当に、『過去』なの?
     初めて会ったときのユースケが思い出される。失恋したと言って、とても淋しそうだった。誰にも気のない様子でカウンターにいたのに、そのあと、ジュンを抱いた。
     淋しそうだったのは、キタムラに本気だったから――。
     どんなふうに抱き合ったのだろう――ユースケは……キタムラと。キタムラもユースケの胸で溶けたのだろうか――自分のように。
     そんなの、嫌だ!
     今のユースケは自分だけのもの、それを知りたい、確かめたい、でも、どうやって。
     キタムラなんて、忘れてよ――。
     ユースケの本気が知りたい。今は、ジュンだけを想っている、と。
     落ち着けない気持ちは人込みに紛らわせる。日曜日になって、ジュンは渋谷の街に出た。
     CDショップで試聴する。好きなアーティストじゃなくても構わない。むしろ、知らないアーティストのCDのほうが楽しめる。そうやって趣味を広げる。
     裏道で雰囲気のいいカフェを見つける。カフェオレを飲みながらポータブルプレーヤーで自分の好きな曲を聞き、しばらく過ごす。向こうのテーブルにいる女の子たちの視線に気づいても何も感じない。窓越しに街の風景を見るのが好きだ。
     ショップを回り、ピアスを買った。オニキスは、これからの季節の色だ。黒く輝く小さな粒に合わせ、髪の色も少し暗めにしようかと思う。
     代々木公園に向かって歩いているときだった。ジャケットのポケットでケータイが鳴った。ユースケからの着信だ。
    『今、どこにいる』
    「渋谷」
    『渋谷か……三十分待てるか?』
    「いいよ」
     待ち合わせの時間と場所を決めて通話を切った。途端にワクワクしてきた。
     社員旅行から帰ったその足で、会いたいと言ってきた。暮れなずむ空が、暖かいように見える。
    「高速がすいてたから、予定より早く着いたんだ」
     ユースケはジュンに会うとすぐに言った。ジュンは、理由なんてどうでもよかった。会えないと思っていたのが会えたのだ。
    「どこへ行く?」
    「どこへでも」
     笑顔を交わした。さりげなく寄り添って、歩き始める。間近にユースケを感じて、ジュンの胸は温かく満たされていく。
     こうして歩いているだけでもいい。ユースケといられるのが、うれしい。
    「ジュン!」
     呼ぶ声に振り向いた。同時に、背後から肩を抱かれる。
    「カツミ……」
     驚いた。日曜日のこんな時間に、偶然でもカツミに会うとは思えなかった。
    「またひとりで歩いてんのかよ。それなら、おれと――」
     言いかけて、カツミはユースケに気づく。ギョッとしたように目を見張った。
    「ごめん、ひとりじゃないんだ」
     ユースケに視線を流し、ニコッと笑いかける。ユースケは困ったように笑って返す。
    「いいよ、カツミなら、少しくらい」
    「ジュン!」
     ぐいっとカツミに肩を引かれた。ユースケに背を見せるようになって、耳元でカツミにひそひそと言われる。
    「どういうことだ? あいつ、おれのこと知ってるみたいじゃん」
    「え?」
     そんなふうに言われるのは意外だった。
    「知ってるって……カツミのこと、たまに話すから」
    「はあっ?」
     小さく叫んで、カツミはジュンの肩をぐっと抱き寄せる。
    「おれのことまで話すのか? あいつと?」
    「うん……」
     チラッとカツミはユースケに視線を投げた。
    「あいつ――だれ?」
    「だれって……」
     カツミに「ユースケ」と答えても通じない。どう説明するのが適当か、ジュンは考える。
    「もしかして――」
     ジュンを見るカツミの目が、大きく開かれていく。今にも触れそうなほど唇が近づいてきて、耳元で低く言った。
    「終わってたんじゃなかったのか? まだ続いてるって?」
     その声が、冷たく耳の奥にまで響いた。ジュンはゾッとする。
    「……カツミ?」
     横目で捉えたカツミの顔は、歪んだ笑みを浮かべていた。
    「おれのことまで話してるなんて……セフレなんて、嘘だな」
     言い捨てて、ジュンを突き放した。
    「カツミ!」
     呼んでも背を見せて雑踏に消えていく。しかし、追うわけにはいかない。不機嫌そうな顔になったユースケが、視界に入ってくる。
    「ユースケ……」
     何が起こっているのかジュンにはわからない。うろたえた声で呼ぶと、ぎゅっと腰を抱き寄せられた。
    「今の、本当にカツミだよな?」
    「え? ――そうだよ、決まってんじゃん」
    「大学のトモダチなんだろ?」
    「そうだけど……」
     大学と言われて、チクリと胸が痛んだ。
    「ずいぶん、イイ男だな」
    「……え?」
    「それに――やけに馴れ馴れしかった」
    「ユースケ……」
     じっと見上げれば、冷ややかな視線で見つめられた。表情も硬い。
     な……なに……?
    「――妬ける」
     ぐいっと強く腰を引かれ、強引に歩き出された。よろめきかけて、ユースケの顔を見る。
    「あんな平気な顔で、肩、抱かせるな。顔、近づけすぎなんだよ」
     硬い表情のまま、横顔で言われた。
     これって……。
     腰に回るユースケの腕が、きつい。こんな体勢では歩きにくい。だけど、ジュンは何も言わない。引きずられるように歩いているのに、ユースケの横顔を見つめて胸を熱くする。
     うれしい。
     初めて覚えるような感情だった。
     カツミに妬ける、だって。
     カツミとは何もないのに。ただの遊び相手なのに。カツミに肩を抱かれたくらいで、こんなに怒るなんて。
     そうか――。
     目に見えないものは、こうやって確かめればいい。キタムラに妬くジュンがかわいいと、ユースケも言っている。

    つづく


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    素材:若奥様工房