二 形から入るとは、自分でもよく言ったものだと須崎は思う。 あの日、温泉を出た足で、ブラブラと市街を歩いて見つけた店で、ふたりで新しい服を選んで買った。 誰かに服を買ってもらうのはずっとなかったと海老沢は言ったが、須崎にしてみても、誰かと連れ立って服を買うのは、この数年、ずっとなかった。 本音を隠さずとも楽しかった。不釣り合いな男ふたりが、どうにか釣り合いそうなカジュアルショップで、最初は互いに寡黙だったのが、最後はなんだかんだと言い合うまでになって、それぞれに似合いそうな服を見立て合ったのだ。 『須崎さん……。こういうの、すっげー、イケてるじゃん。マジ、男前だ。これじゃもう、オッサンなんて言えねえな』 海老沢は本気で言ったように聞こえ、須崎は照れくさかった。試着室の鏡に向かって髪をいじり、こっそり服装に合わせてみたのは海老沢には内緒だ。 しかし、自分よりも海老沢の変わりように目を見張る思いだった。ジーンズにTシャツといった、ありふれたカジュアルな服装は、むしろ海老沢を引き立てるように感じられた。 いずれにしても、須崎が商品を手にするそばから眉をひそめて口やかましいことを言うような者は、どこにもいなかった。何を買うにもひとりで出かけるようになっていたのは、そんなことが続いたからだと思い当たる。 海老沢にも買ったのに、思った以上に少ない出費で収まった。地方都市の立地よりも、購入した店のせいなのはわかっていた。あのような店には、海老沢の歳の頃でも足が向くことはなかった。 形から入る――。 無意識のうちに口から出たことだが、今までの人生は、本当にそうだったと須崎は思う。 この旅の初めに、大宮のビジネスホテルで、いっそのこと桜前線を追ってみようと決めたのだが、服装まで考えはしなかった。スーツ姿で花見の旅を続けるなど傍目には変だと、すぐに気づいてもおかしくなかったのに――。 こうして海老沢とふたりで服を脱ぎ替えたら、よくわかった。形から入った自分は、『形』から抜け出せなくなっていた――頭では、すっかり捨てたつもりになっていても、感情がついてきていなかった――認めるしかない。 未練など、少しもなかったはずなのに。脱ぎ捨てるどころか、それが当然のように毎朝スーツに袖を通してこられたのは――どこかに未練を残していたのか。 しかし、今はもう違う。着ていたスーツとコートは、新しい服を買った店に処分を頼んだ。店員は快く応じかけ、それからタグを見て驚いたような困ったような顔になったが、最後には応じてくれて、すっきりした。 『捨てんの? マジで?』 海老沢の驚き方がおかしかった。 『欲しいなんて言っても、やらないぞ』 笑い混じりに言ったら、ムッとして返した。 『いらねえよ、そんなオッサンくさい服』 憎まれ口を聞かされても、少しも気にならなかった。 本当だな――。 新しく着替えた須崎は、腹の底から笑った。堅苦しいだけでなく、見栄で自分を縛るようなセレブ気取りのスーツやコートなど、もう二度と着たくないと思った。ジーンズが気持ちを若くする、薄手のブルゾンが心を軽くする――。 「たったの二日で、こんな変わるもんなんだな」 海老沢は、須崎の横で桜を見上げ、ため息をついた。『ベニシダレジゾウザクラ』は満開だ。木のてっぺんから濃い目の色の花が流れ落ちるように咲き、見る者を圧巻する。 「すっげー、きれい……ひとりで見るんじゃなきゃ、そんな――淋しくないんだな」 つぶやいて須崎に向けられた笑顔は、満たされたように輝いていた。須崎は返す言葉もなく、桜と海老沢とを同時に目に焼き付けた。 そこでは『ベニシダレジゾウザクラ』を最後に、二本松へ、福島へ――ふたりになって、旅は続いていく。須崎といて、海老沢は常に明るく笑顔で、いっそ、あどけないほどだ。 本当に、犬みたいなやつだな。 須崎も笑みが絶えなくなった。理由などどうでもいい、海老沢が懐くように慕ってくるのに心が満たされる。 海老沢は、もう何も須崎に問わなかった。須崎も何か問うようなまねはしなかった。 桜の咲き続ける限り、満開を追って、どこまでも北上する旅だ。単純で、とてもわかりやすい。 「明日は、どこへ行く?」 二本松のホテルでベッドに寝転がって、ケータイを眺めながら海老沢は言った。 「ホテルを出たら、すぐに福島へ向かうか? 福島は――」 ベッドに腰を下ろして須崎もケータイを開く。『全国お花見ガイド』――ケータイサイトにアクセスして、開花状況を調べる。 初めて海老沢に声をかけられたあの日まで、どうして行く先々で海老沢を見かけたのか――実は、ふたりそろって『全国お花見ガイド』を見て、次の行き先を決めていたのだ。 それがわかったのは、つい昨日だった。 『え! マジ?』 二本松の駅で降りて、ホームのベンチに並んで座って、何も知らずにふたりして同じケータイサイトを見ていた。 『何が?』 画面を覗き込んできて海老沢が叫んだものだから、須崎は初め何事かと思った。ほら、と次には海老沢のケータイ画面を見せられて、唖然としかけてしまった。 ふたりで声を上げて笑った。それぞれに同じケータイサイトを見てなら、行き先はすぐに決まった。駅の構内の立ち食いそばで昼食を済ませ、浮き立つ気分で霞ヶ城公園に向かった。 それからは、ずっとそんな調子だ。互いに気ままな旅なものだから、それぞれ、サイトのお勧めスポットを上から順に見ていって、そのときの開花状況で行き先を決めてきた。ふたりで旅するようになっても同じだ。 「信夫山公園は、もう終わりだ。花見山公園は、どうだ?」 「満開だって。そこにする?」 「そうだな」 話が早い。まるで、ずっと以前からの友人同士のようだ。いや、そうだとしても、こうはいかないように須崎は思う。 海老沢は、ジーンズのポケットにケータイを押し込みながら、楽しそうに跳ね起きる。その様子を横目に見て、須崎は胸のうちで問いかけた。 おまえとは、どうしてこうなんだろうな――。 素性すら、はっきりしない。聞かされることが真実なのか、確かめようもない。目に映り、共にいて感じられることが、すべてだ。 須崎は『今』の海老沢しか知らない。海老沢も、『今』の須崎しか知らない。 きっと、だからうまくいくんだ。 この心地よさ――虚飾など、どこにもない。見栄も体面も、不要だ。 須崎は深く呼吸する。海老沢といるようになってから、ずっと胸が温かい。たとえ海老沢に騙されているのだとしても――この旅のどこかで裏切られるのだとしても――自分からこの心地よさを手放すのは……到底、できそうにない。 構わなかった――身包みはがされることになっても。東京を出たとき、それまで抱えていた何もかも、捨ててきたのだから――捨て切れなかったものは、海老沢と旅をすると決めたとき、残らず捨てた。 コイツに出会わなかったら……きっと、捨て切れなかった――。 その夜、寝る間際になってから、海老沢がすまなそうに言ってきた。 「明日なんだけど……福島に行くのは明後日にして、岳温泉にしない?」 「構わないぞ?」 「さっき風呂出てロビー通ったとき、ポスター見たら思い出しちゃって。親方のとこのジイサンが、『岳温泉はいいぞー』って、よく言っててさ」 ぼそぼそと話しながら、ベッドに入っていく。 「あの温泉、わりと有名だしな――消すぞ?」 「うん」 真っ暗になった部屋で、ふたつ並ぶベッドにそれぞれ眠る。まだ数えるほどなのに、須崎はこれが日常に思えるようになっている。 目を閉じた闇の中で、海老沢に耳を澄ます。安らかな寝息が聞こえるようになって、須崎は胸を温かくして眠りに落ちていく。 そのとき、ケータイの着信音が、穏やかな闇を裂いた。須崎は跳ね起きる。鳴っているのは、自分のケータイだ。 「……電話?」 「悪い」 ナイトテーブルからケータイを掴み取って、海老沢の寝ぼけた声に謝った。耳に当てて、ドアの外に出る。 『あなた……どこにいるの?』 廊下の明るさに、一瞬、立ち眩んだ。 『口座のあのお金――どうしたの?』 後ろ手に閉じたドアにもたれた。意識して、深く呼吸する。そうでもしなければ、立っていられそうにない。 今ごろになって、電話してくるなんて――。 ケータイの向こうが沈黙する。須崎も何も声を出さない。 『……わかったわ』 妻は、あからさまにため息をついた。 『訊く必要なんて、ないわね。あのお金をどうしたのとか、どういうつもりで入金したのとか――無駄だわ』 「由美子……」 うめくような声を出すので精一杯だった。 『最後まで、あなたはそうなのね。負け組どころか、負け犬じゃない。好きに逃げたらいいわ。だけど、やることをやってからにしてくれない?』 苦い思いがせり上がってくる。悪かったと、それだけは言いたかったのに声にならない。 『年度始めで仕事が忙しいの。わかるでしょう? 区役所になんて何度も行ってられないわ――書類は、あなたが用意して。どこにいるのか知らないけど、どこの市役所でも役場でも、もらえるでしょう? 記入したら郵送してちょうだい。あとは私がするわ』 「……わかった」 喘ぐように、やっとそれだけを言った。 『――あなたの印鑑はどこ?』 胸の底から冷えていく。 『同じものは使えないでしょうし……あなた、今、持ってないでしょう?』 「俺の寝室の――引き出しにある。パソコンの横だ、机の上の――」 『ああ、サクラの写真の後ろね?』 くすっと笑う声が耳に響いた。 『それで、どうするの? 一度はマンションに戻ってくるんでしょう? あなたのものとか――サクラの写真とか』 皮肉っぽい女の声にしか聞こえなかった。いつから由美子はこうなってしまったのか――最初からこうだったのか――考えたくない。 「マンションはきみのものだ」 『あら。そんな簡単に決めていいの? それとも、とっくに決めていたのかしら?』 結婚が決まったときに、ふたりで探して、ふたりの名義で購入した。 「俺のものは、捨ててくれて構わない」 『サクラの写真も?』 確かに蜜月を過ごしたはずだ。それなのに、五年の歳月を経て、こんなにも凍りついた。 「……書類と一緒に手紙を送る。俺の物の処分は、そこに書いておくから――」 『あなた――まだ、そんなこと言うのね』 もう、須崎は何も言えない。ケータイの向こうで、妻も押し黙る。 『――いいわ』 硬い声が響いてきた。 『あなたにできないなら、私がやるわ。――結局……あなたって、そういう人なのよ』 おやすみなさい、とささやくように聞こえた声は、淋しく、これまでの歳月の重みを持って、須崎の胸に落ちてきた。 須崎も、おやすみと返す。ケータイを切った。 ……おやすみ、由美子。 ドアに背を預け、ケータイを握り締めて、固く目を閉じる。大きく息を吐いた。 どうして今になって、おやすみと交わすのか――もっと前に交わせていたなら、こんな終わりを迎えなかったのか――。 そんなことはない。 ふたりの歯車は、最初から噛み合っていなかった。蜜月は確かにあったが、結婚の見せた幻想にしか思えない。 幻想を見ていた――自分も、由美子も。 勤務先の証券会社で須崎はエリート社員に数えられていた。総合職で採用された由美子も、女性社員の中で際立っていた。 お似合いのふたりと、さんざんもてはやされた。家族にも、同僚にも、上司にも――。 由美子の結婚退職は慣例にならったもので、すぐに再就職した。須崎に異論はなかった。由美子は、まだ二十五歳だった。 元から優秀だったのだ――やがて由美子は経営コンサルタントとして成功した。経済が不況に陥ると、須崎とのあいだに収入の格差が生じた。 『……やだ、あなたより多いなんて』 初めは、はにかんで言っていたのだ。しかし、子どもはもういらないと言い出した。その頃になって、気づいた――由美子は名刺に旧姓を使っていた。 幻想を見ていた。ふたりで違う現実を辿った。 須崎の勤務先で大規模なリストラがあった。須崎は失職を免れたが、それを機に目標もやりがいも失った。 犬の「サクラ」を買うと言い出したのは、由美子だったのか、須崎だったのか――。 あの頃にはもう、深まる一方の溝を互いに認めていた。四回目の結婚記念日だった。ちょうど日曜日で、珍しく、連れ立って外に食事に出た。 その帰りに立ち寄ったショッピングセンターに「サクラ」はいた。犬を飼おうなどと話したことは一度もなかったのに、「サクラ」を買った。 名前を決めたのは由美子だった。ふたりでかわいがった。「サクラ」が溝を埋めてくれるように思えた。なのに、由美子には懐かなかった。 ホテルの廊下はひんやりとしていて、眩しいほど明るい。そのどこにも、須崎のほかに人影はなかった。 ふうっと、須崎はため息をつく。ビニールのスリッパに素足で、冷たくなっている。浴衣姿では、胸元も冷え切っていた。 ドアにもたれ続けている背中だけが暖かい。海老沢は、もう、安らかな寝息をたてているだろう。 あのゆるやかなリズム――あどけないほど幼く見える海老沢の寝顔――須崎は思い浮かべる。それで心を満たす。胸が――温かくなっていく――。 何をやっているんだ、俺は……。 思わずにいられない。満開の桜を追うなんて、名目にすぎない。すべてを捨てる旅だった。 ……それなのに。 わかっている。海老沢は「サクラ」じゃない。帰る場所があり、帰りを待つ人がいる。 胸が苦しい。今までのすべてを捨てても、別の何かを得てしまうのでは――この旅に、意味はない。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
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