「あちゃー……」 桜のトンネルを抜けたところで、海老沢が呆れたような声をもらした。 岳温泉の花見の名所『桜坂』は、バスを降りてから歩いてすぐだった。そして『桜坂』を抜けるのも、すぐに終わってしまった。 「ごめんな、須崎さん。オレ、ちっとも考えなかった」 海老沢は、すっかりしょぼくれた顔を向けてくる。そもそも桜が、見ごろには早かった。 「構わないさ。ここじゃ、桜より温泉が目当てだったようなもんだろう?」 「――だな」 それでもせっかく来たのだからと、上ってきた坂を今度は下り始める。温泉街は坂の上だから、宿に入るまでに、さらにもう一度、桜を眺められる。 「あのさ」 ふたりは並んで、だらだらと桜のトンネルを歩きながら、とりとめもなく話す。 「オレ、須崎さんのこと、スーさんって呼んでもいい?」 「ダメだ」 「なんでー」 即刻、須崎に却下され、海老沢は口を尖らせた。 「いつんなっても、須崎さんなんて呼んでると、なんか、知らないオッサンといるみたいで、オレ、やだ」 「だからって、なんでスーさんなんだ」 「なら、リョウさん」 「余計にダメだ!」 また、きっぱりと却下され、海老沢は拗ねたように顔を背けた。行く先を見ながら言う。 「でも、現場じゃ、みんなそうだぞ? オレはエビちゃんで、あとは、タカさん、モトさん、ユキさん――」 指を折って数えるようにする。 「そうそう! ユキさんって幸村って苗字なんだけど、カッコいくね? 忍者みたいでさ」 急に弾んだ声になって、須崎に顔を上げた。須崎は苦笑してしまう。 「それ言うなら、忍者じゃなくて殿様だろう? 戦国時代の武将、真田幸村――」 「そうなのか? スーさん、詳しいな」 すかさず須崎は舌打ちして、海老沢を横目でにらんだ。 「スーさんって呼ぶな、オヤジになった気分だ」 「時代劇が好きなんじゃ、もうオヤジじゃん」 「俺は、時代劇なんか見ないぞ。小説で読んだんだ」 「へえー……」 感心したように海老沢はつぶやき、それから小声になって言う。 「小説は、読まねえな。オレ――高校中退だし」 「え……」 「けど、株の本は、ずいぶん読んだぞ? って――株の話は……ナシだったな」 気遣うようなことを言われては、須崎はますます声が出なくなる。強張ったような口を無理にでも開いた。 「――手堅いところを買って、配当金でもうけるのは、期待できないけど悪い手じゃない。今だったら、預金よりも得だ。おまえ……賢いよ」 言うに事欠いて、余計なことを話したと、苦い気持ちになった。 「賢いって……オレ、高校中退だって」 「勉強ができるのと、賢いのとは違う」 「ふうん……けどあんた、やっぱ株も詳しいんだな……」 海老沢は黙り込む。須崎も何も言えない。沈黙に包まれても変わらない足取りで、ふたりは坂を下っていく。 「――なあ。スーさんはダメでも、オレのことは、エビちゃんって呼んでよ」 須崎は気が抜けた。内心、気まずくなってしまった空気をどうしようと思っていたのに、話はコロリと逆戻りだ。 「無理だ」 「なんでー」 「呼べるか、『エビちゃん』だなんて」 「じゃ、どうすんだよー、今のままなんて、やだ」 なんとなく、海老沢に丸め込まれているような気がしないでもない。それでも須崎は、苦笑をもらしながら言う。 「俺のことは、もう、亮平でいい」 「マジッ?」 「ああ、特別だぞ? ガキに名前で呼ばれるなんて、初めてだ」 「ガキ言うなよー。オレは、自分で稼いだ金で食ってんだからな!」 「わかった、わかった」 須崎は笑ってしまう。海老沢といると、最後には、いつだってこうだ。 須崎は笑顔のうちに、それなら海老沢を『勝太』と呼ぶと言った。だが、途端に海老沢の顔は曇ってしまった。名前で呼び合うならいいように思えたのに、何がいけなかったのか。とりあえず、『勝太』と呼ぶのはやめておくことにした。 下った坂を戻って上りきり、温泉街に入る。『桜坂』同様、こぢんまりとした雰囲気の街並みをそぞろ歩き、みやげ物店を覗いたりしてから宿に入った。 「畳だー、久しぶりー」 部屋に案内されるなり、海老沢はダイブするように畳に寝転んだ。そこまで喜ぶ海老沢を見てしまうと、須崎も笑みが絶えなくなる。 ふたりで温泉に入ったあとには、部屋に夕食が運ばれてきた。 「なんかもう、『これが旅行!』ってカンジ? ずっとホテルだったから、こういうのって、すっげー、和むー」 座卓に並べられた料理の数々には、須崎も満足だった。ビールを頼んで、海老沢と酌み交わした。 その後、さらに温泉に入って部屋に戻ると、今度は蒲団が敷かれていた。 「あー、もう、シアワセー」 「なら、寝ちゃうか?」 「うん」 掛け蒲団にうつ伏せになって、枕に顔をうずめて、海老沢はニコニコしている。 胸が温かくなる。須崎は海老沢を見下ろしながら、明かりを消した。 静かな夜だ。今までに泊まった、どのホテルよりも静かだった。 ふたつ並べて敷かれた蒲団は、ぴったりとくっついている。手を伸ばせば届くところに海老沢はいて、なかなか寝付けないでいるのが須崎にも伝わってくる。 須崎は、そっと海老沢をうかがった。海老沢は、まだ目を閉じていなかった。仰向けに天井を見つめている。 窓の外で、風が鳴った。障子に映る木の影が揺れ、ふすまでも黒い影がゆらゆらと形を変えた。 「……ごめんな、須崎さん」 薄闇の中、ひっそりとした声が聞こえた。 「オレばっか、亮平とか呼んで」 「気にするな」 海老沢は天井に向かって話している。 「オレさ……自分の名前、嫌いなんだ」 ふうっと、深いため息をついた。 「オヤジがつけたみたいなんだけど……こんな、変な名前……アイツらしい、って言うか……」 口を閉じて、きゅっと唇を噛むのが、須崎の目に映った。 「――オヤジ、変なヤツでさ。会ったことも、あんまないんだ。オレ、ばあちゃんと、ずっとふたりだった」 蒲団の中でもぞもぞと動き、海老沢は、体ごと須崎に顔を向けてくる。 「ばあちゃんは、おでん屋やってて、そこの二階にふたりで住んでたんだ。……店にいるときは愛想笑いしてべらべらしゃべんのに、オレとはしゃべんないババアでさ――けど、思い出すと、悪いバアサンじゃなかった」 須崎を見つめたまま、海老沢は小さく息をついた。須崎は、固まったようになっていた口をこじ開ける。 「おばあさんは……もう、いないのか……?」 かすれた声になった。 「うん――オレが中学に入る前に脳溢血で死んだ。入学式に着る服、買ってあったのに」 「……そうか」 そうとしか言えなかった。 「それでオヤジが帰ってきて……アイツ、ばあちゃんの葬式だってのに、オンナ連れてきてさ……葬式終わったら、オンナ置いて、また出ていった」 須崎は押し黙る。返せる言葉など、どこにもない。 「マジ変なんだよ、オヤジ。オレ、オヤジが何やってたか、今でも知らねえんだ。たまに帰ってきて、金だけどっさり置いてってさ。だから、ばあちゃんとふたりのときも、オヤジの連れてきたオンナとふたりのときも、ビンボーってことはなかったんだけど――」 すっと、海老沢は天井に顔を向ける。障子越しに射す、外からのほのかな明かりに、瞳が光って見える。 「どうせ、ヤバイことやってたんだ。じゃなきゃ、オレに勝太なんて名前、つけるわけねえじゃん? 『海老沢、勝った』なんてさ……ゲンかつぎだか何だか知らねえけど、これじゃギャグだって。滑って笑えねえっての」 そう言って、ククッと喉の奥で笑う。海老沢らしくない笑い方に、須崎は言いようのない気持ちになった。 「中学から、むちゃくちゃだった。ばあちゃん死んでオレがひとりになったからなのか知らねえけど、オヤジ、オンナ置いてってさ、ソイツにオレの世話させんの。そりゃ、メシとかいろいろやってくれんだからオレだってちょっとは助かったけど、そのたんびに、知らねえネエサンと、いきなり、ふたりっきりで住むんだぜ? ありえねえっての」 まくしたてるように言って、海老沢はぎゅっと目を閉じた。ふうっと息を吐き、それから、ゆっくりと目を開く。 「いい人もいたんだけどな……本物のネエサンみたいだった人もいたけど、でも――」 フッと鼻で笑って、チラッと須崎を見る。顔を向けてきて、歪んだ笑みを浮かべる。 「考えられる? オレ、中二でオンナ教えられて、それからずっとヤりまくり。オヤジのオンナなのわかってたけど、あっちから乗っかってくんだから、信じらんねえよ」 凄むような低い声で続ける。 「前のが出てくと、また新しいのオヤジ連れてきてさ。どうなってたんだか知らねえけど、壊れてたっつーの、オンナも、オヤジも、オレも!」 叫び、うっと声を詰まらせた。海老沢は顔を伏せ、蒲団の中に隠すようにする。 「……やっぱオレ、バカだよ……こんなこと、なんであんたに話すんだろ――」 どうにか聞き取れるほどだった。 部屋は再び静まり返る。障子で影が揺れて、海老沢の潜る蒲団の上でも揺れた。 須崎は、そっと手を伸ばした。蒲団の上から海老沢の頭を包む。 「……お母さんは、知らないのか」 思ったことを口にすれば、くぐもった声が答えた。 「母親なんて、顔も知らない。オレ産んで、すぐ死んだって、ばあちゃんが言ってた」 「……そうか」 つぶやいて、蒲団の中に手を入れる。海老沢の肩に回し、引き寄せる。 「――す、ざき……さん?」 「亮平でいいと言った」 「何、する……」 「こっち来い」 ぐいっと海老沢を抱き寄せた。掛け布団を直し、海老沢を胸に、すっぽりとくるまる。 「甘えたがりのガキには、こうするんだよ」 苦笑して言えば、間近で海老沢が顔を上げた。鼻先が触れそうなほどの距離で、じっと見つめ合う。薄闇の中で、海老沢の瞳が濡れたように光って見える。 ……しょうがないじゃないか。 須崎の胸は、チクリと痛んだ。こんなことをするようでは、自分にどんな言い訳も立たなくなる。なのに、海老沢の体に両腕を回し、いっそう強く抱きしめる。 「りょ……亮平?」 「いいから、甘えてろ」 海老沢は、少しためらってから、胸に顔をうずめてきた。海老沢の吐息が、須崎に温かく伝わってくる。 しばらくそうして、ふたりとも黙っていた。浴衣越しにも、須崎は海老沢の鼓動を感じていた。 「……いいことも、ちょっとはあったんだ」 須崎の腕を枕に、海老沢はささやく。 「オレが親方のとこで働けるの、親方が、ばあちゃんと仲よかったからだし……親方、店の客だったから――」 「そうか」 「トビやる気あんなら来いって言ってくれて。それでオレ、今は親方のアパートにいる。ほかもみんなトビで、けど寮ってほどじゃなくて、つか、すっげー、ボロで……」 「うん」 須崎は吐息混じりに返した。海老沢が話したいのなら、いくらでも聞いていられる。 「――けどさ」 海老沢は須崎の肩でため息を落とす。 「トビやってなきゃ、あそこにはいられないわけでさ。トビやめちゃったら、オレ……」 つぶやいて、須崎にぎゅっと抱きついた。 「どこも行くとこない」 須崎はうろたえる。細く締まった瑞々しい体、間近で香るせっけんの匂い――この状況を作ったのは自分なのに、海老沢から抱きつかれては――複雑な思いが湧く。 ためらう声を出した。 「親方のところに……帰れないのか?」 トビを辞めなくてはならないようなことでもあったのか。それで、いつまでも旅を続けているのか。 「そんなこと、ないけど――」 海老沢は苦しそうな声を出す。 「オレ、まだ半人前で……トビんなって二年だからしょうもねえって親方は言うけど……わかんねえじゃん、先のことなんて――」 そう言って、身をすり寄せてくる。 「みんな、いなくなるんだ。ばあちゃんも、ネエサンたちだって――オヤジも」 「……タカシは? タカシ、だったよな? 仲いいんだろう?」 「タカシはダチだ」 吐き捨てるように言われ、須崎は沈黙した。海老沢が何を思っているのか――わかってしまう。 どうして知り合ったばかりの自分に、こんなにも懐くのかとか――よく知りもしない自分に、そんなに心を開いていいのかとか――思っても――もう、口にはできない。 だから……俺は、何をやっているんだ。 昨夜も同じことを思った。この旅の終わりには、何もないはずだったのに――。 「……亮平」 耳元で海老沢がささやく。 「桜……最後まで、見んの?」 須崎の肩に頬をすり寄せる。 「最後の桜見たら……どうすんの?」 ドクン、と須崎の鼓動が大きく響いた。 「オレ……最後の桜が散るとこなんて……恐くて……きっと、見られない」 須崎の鼓動は速まり、ドクドクと胸を打つ。 「……一緒に帰ろう」 海老沢は顔を上げてくる。 「オレが帰るとき、一緒に帰って」 「なに、を――」 「同じ電車に乗って、お願いだから。じゃなきゃ、あんた……!」 海老沢は、ひどく真剣な顔になって須崎を見ている。大きな瞳で――濡れたように光る黒い瞳で。 「オレのオヤジ――」 ひっそりと声を落とし、海老沢は唇を噛む。須崎から目を逸らし、胸で深く息を継いで続ける。 「――死んだんだ、一昨年……一番、らしくない死に方で……自殺、だった――」 ぎゅっと強く、須崎の浴衣を掴んだ。その手がかすかに震えるのが、須崎にもわかる。 「みんな、いなくなる――あんただって」 パッと上げられた顔は、必死とも取れる表情だ。 「そうなんだろう? あんた、そのつもりなんだろう? あんた残して帰ったら、オレ、きっともう、あんたに会えない!」 須崎の鼓動は静まるどころか、余計に激しくなっていた。ぴったりと体を合わせている海老沢が、気づいていないはずがない。 「――犬を……飼っていたんだ」 須崎は海老沢を見ない。黒い影の揺れる障子に目を向ける。 「飼う気なんてなかったのに、魔が差したって言うか――俺も由美子も仕事でほとんどマンションにいないのに、飼って――死なせた」 海老沢がビクッとしたのがわかった。しかし須崎は、そのまま障子を見つめて続ける。 「かわいがってたんだけどな……かわいかったよ、本当に。チワワだったから、散歩に連れ出すこともあまりなかったけど……俺に懐いて――俺だけに懐いて、同じ部屋で寝た」 そこまでを話し、須崎はふうっと息を吐く。 「……どうして……死んじゃったの」 海老沢のかすれた声が聞こえた。須崎は暗く笑う。 「気づいてやれなかったんだ。外に出すなんて、ほとんどなかったのに……クッションから離れなくなって、でも、俺を見ると尻尾振ってさ。ドッグフード食べ残してたのに……病気だったんだと思う。あの日、帰ったら……冷たくなっていた」 障子に映る影が大きく揺れる。風の鳴る音が、冷たく耳に響く。 「オレ、犬じゃないし」 つぶやいて、海老沢は身じろぐ。 「言いたいことあるなら、言えるし。自分で自分の面倒、見られるし」 須崎の胸に、いっそうしがみついてくる。須崎の耳元で息をつく。 「オレ……生きてるし」 頬をすり寄せてくる海老沢の唇が、須崎の顎に触れた。 たまらない。これでは、知ってしまったぬくもりを手放せなくなる。 「――わかってる」 須崎は喘ぎ、だが、海老沢を強く抱きしめた。海老沢のぬくもりを全身に感じ取る。 「わかってる……だから、今は甘えてろ」 ぎゅっと抱き返されるのすら、いっそ心地よい。目が潤みそうになるのを須崎はどうにもできない。 わかってる――。 海老沢が求めるものを自分でも満たしてやれそうなのが――そうすることで、きっと自分も満たされるのが。 だけど、その先に、何がある? 須崎の脳裏に、ひとつの情景が浮かび上がった。最北の地で、真っ青な空を背景に、今年最後の桜が雨のように花びらを落とす――。 見るのが恐い――か……。 そうかもしれない。満開を追って旅するのは、単に、桜の散る姿を見たくないだけなのかもしれない。 見たく……ない、な。 海老沢を胸に抱いて、須崎の心は引き裂かれるようだった。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |
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