ざわざわと青葉が揺れている。空はからりと晴れ、爽やかな風が頬を掠めていく。 充流は立ち上がると固まった腰を伸ばした。校舎に沿って並べたプランターから雑草を抜いていたのだが、生物室の前は特に日当たりがよくて、気分転換にも時間を見つけてまめに取り除かないと、すぐにはびこってしまう。 この時期、栽培しているのはペチュニアで、誰からも趣味の園芸と思われているようだが、実は大学のゼミで研究したウイルスフリーの組織培養を今も実験し続けているのだった。 もっとも、企業などの研究機関に従事しているならともかく、一介の高校教諭が片手間に続けている実験など趣味に違いないと充流も思う。自分にも研究員になる選択肢があったはずだが、結果として教職を選んだのは、当時の自分が研究よりも人との関わりに強く惹かれたからだった。 プランターいっぱいに咲く花を目にして、充流は溜め息をつく。皮肉に思えた。学術的興味を満たす機会もあって、高校教諭は適職と思っていたのに、今の自分は人との関わりに疲れて趣味レベルの研究に癒されている。 球技大会の日を境に、穂高はいっそう懐いた印象だった。他の生徒も言うように、自分の何がいいのかわからない。目をかけているならともかく、可能な限り避けているのに。 西沢とは、あの日から何もない。昼休みはこれまでと変わらず食後の喫煙で生物科準備室に来ているが、申し合わせたわけでもないのにキスどころか何の接触もしていない。 自分から誘おうとは少しも思えなかった。もう一度あんなふうに抱かれたなら、確実に何かが変わる気がしてならない。だから西沢にもその気が少しも見られなくて助かっていた。ほぼ一ヶ月、誰にも抱かれていないことになるが、今は人肌が恋しいとも思わない。 「はあ……」 空を見上げて大きく息をつく。こんなことを悠長に思い煩っている暇はなかった。一年の必修生物に三年の選択生物、受け持ちの授業とその準備があるし、そろそろ第一回の進路希望調査をすると同時に、来月の期末考査のあとに三者面談の予定を組まなくてはならない。残りの空き時間を無駄にしないよう、すぐに生物科準備室に戻った。 六時間目の終了を告げるチャイムを聞いて、向かいの校舎にある担任クラスの教室に行く。帰りのホームルームを終えれば、また一日が過ぎていく。教卓に立つ自分に、まっすぐに注がれる穂高の視線を感じて胸がざわめいても、それだけのことだった。生徒全員を捉える視界の中で、穂高ひとりが異彩を放っていても何が起こるわけでもない。 どの生徒とも同じように接する。自分から差をつけるようなことはしない。穂高がどうあろうと、生徒とのあいだに一線を引く自分のスタンスを貫くだけだ。 そうすれば、表向きは平穏でいられるはずだった。 室内が薄暗くなっている。モニターに目を瞬かせ、充流は仕事を切り上げることにした。ノートパソコンを閉じ、帰宅する用意を始める。あと一週間もすれば夏至で、梅雨の合間にすっきりと晴れた一日だった。 生物室の窓を閉めようとして、手が止まった。空の端がオレンジと紫のグラデーションに染まっている。充流はうっとりと目を細め、淡く息を漏らす。自然は、こんなにも美しい。夕暮れの風に髪を揺らされるのも心地よく、そうしてしばらく見とれていた。 ふと、物音がした気がしてそちらに目を向けた。ちょうど校舎の西の角、充流からは右手の先に誰か立ち止まっている。そこにある桜の木の影で顔が見えない。だが、服装から誰なのかわかった。 「穂高か?」 呼びかけると、すらりとしたシルエットが揺れた。しかし動こうとする様子はない。別のサッカー部員かと、気まずくなって窓を閉めかけたら、いきなり駆け寄ってきた。 「先生」 充流の正面に来て、照れくさそうに顔を上げた。頬まで染めているようで、充流のほうが気恥ずかしくなった。 「こんな時間まで部活か」 間が持てず、充流から口を開いた。穂高は言い訳するかのように、ぼそっと答える。 「今度の土日、決勝トーナメントだから」 そう言って思い出したように、充流の目の前にビニールのパックを突き出した。 「これ、大学生のOBが持ってきてくれて。うちの高校が決勝トーナメントまで残るなんて奇跡だって、練習見に来てくれたんだ」 充流はパックをまじまじと見てしまう。 「差し入れか? ……サクランボが?」 「先輩、果物屋でバイトしてるみたいで――」 くすっと笑ってしまった。格安で買えるのか売れ残りをもらったのか知らないが、運動部への差し入れにサクランボはないだろう。 「けど、うまそうだな。甘かったか?」 笑った顔のまま見上げたら、穂高がゴクッと喉を鳴らした。咄嗟に視線をそらそうとした充流に、慌ててサクランボをつまみあげる。 「食べて!」 え、と開いた口に一粒押し込んできた。充流は驚いて口を閉じ、穂高の指まで含んでしまう。 「せ、せんせい……」 サーッと穂高の顔が赤く染まる。穂高の指先が舌に触れ、充流は痺れ上がった。その耳に、遠くからほかの誰かの声が響いてくる。 「カズ、いるかぁ?」 「なあ、もう綾セン帰っちゃっただろー」 近づく足音まで聞こえて、穂高は目に見えて慌てふためき、ふたりの声がした方へ振り向いた。 「い、いるって! つか、すぐ戻るから!」 「はあ? なに焦ってんだよおまえ……って、なにやってんだよ!」 「わ、信じらんね! 食わしてんのかよ!」 校舎の角から姿を現し、その場でゲラゲラと笑い出したふたりとは別に、また遠くから声がした。ふたりが大声で答える。 「えー? いるよ、カズ」 「綾センにチェリー食わしてる!」 「ちょ、おまえら! なに言ってんだよ!」 そう叫んで体をひねった勢いで、穂高の指がずるりと抜けた。一瞬、糸を引く。 「あ」 穂高は目を丸くして濡れた指先を見つめた。その顔で充流に視線を移してくる。いっそう顔を赤らめた。 充流は固まっていた。口の中のサクランボはまだ舌の上にあって、それを咀嚼することも丸呑みすることもできない。全身が甘く痺れていて、指先まで痺れているようで、手は窓にあるのに、閉めて逃げられるはずがそうならない。喘いでいた。濡れた唇が夕暮れの風に乾いていく。 「先生」 ほんの数秒がやけに長く感じられている間に、穂高がゴソッとサクランボを掴み取り、窓際の棚の上に置いた。 「これ、おすそわけ」 身を翻し、近づいてきたふたりを押し戻して立ち去っていく。騒がしい声が遠のいた。 充流は、全身から甘い痺れが引いて消えるまで、本当に動けなかった。どのくらいそうしていたのか、ようやく自分を取り戻して、激しく胸が締めつけられる。口の中に残されたサクランボを噛み砕いたら、甘く酸っぱい味がじわりと広がった。 『綾センにチェリー食わしてる!』 そんな言葉にもあおられた自分が信じられなかった。穂高の指が口にあることが強烈に意識され、いっそ舌を絡めたいほど欲情した。 ……もう、駄目だ。 棚に隠れ、股間で起ち上がっているものが憎らしい。眼鏡の奥で涙が滲みそうになる。 明日はきっと穂高から目が離せない。いや、ずっとそうだったではないか。どんなに避けているつもりでも、視界に入れば知らずに釘づけになっていた。認めるしかない。穂高には、心まで震える。 「サクランボ、うまかったよ」 翌日、充流はタイミングを見計らって穂高に声をかけた。自分からそうとでも言わなければ、平静を装っていけそうになかった。 「あ」 穂高は頬を淡く染めて、気まずそうに目をそらした。それから急に改まって、充流に頭を下げた。 「昨日はすみませんでした。あんなに驚くなんて、俺、ぜんぜん考えてなくて。前に駅で会ったときも、ちょっとぶつかっただけで、ものすごく驚いてたのに――」 すっかりしょぼくれた顔で目を合わせてくる。充流はホッと胸を撫で下ろし、俺もバカみたいに驚いて悪かったよ、と返してやった。それを聞いて安心したように笑う穂高に、気がかりはもう何もない様子だった。 これだけのことだったか。 一抹の淋しさが胸を過ぎり、充流は自分を笑いたかった。ほかにどんなリアクションを期待したと言うのか。穂高には、教師を異様に驚かせてしまった出来事としか受け取れなかったとわかったのだから、むしろ喜ぶべきだ。教え子にいかがわしい思いを抱いている胸中まで読み取られずに済んだのだから。 ……どうして気づかない。 なのに、そう思ってしまう。穂高では無理とわかるのに。ひどくそそられる外見の雰囲気とは違って、内面は他の生徒と比較せずとも幼いほどに純真だ。 けど、俺は――。 穂高に抱かれたがっている。こうなって、はっきり自覚してしまった。自覚してしまえば思いは留まるところを知らずに募っていく。 この渇きを西沢に埋めてもらいたかった。しかし、それはもうできない。この次に抱かれたなら、リアルに危ない橋を渡る羽目になる。そこまで西沢を引き込んではならない。 それからも穂高は、充流が抱える思いになどまるで気づかない様子で、いっそう気安く接してきた。放課後には生物科準備室にまで来て、充流が迷惑そうにしても笑顔でかわす。 「部活はどうした。こんなところでサボってないで、さっさと行け」 「しょうがないじゃん、負けちゃったんだから。三年は、もう引退なの」 「負けた、って。このあいだ言ってた、決勝トーナメントか」 「そう。って、先生なのに知らなかったの? 一回戦でボロ負け。インハイまで行こうなんて思ってなかったけど、ヘコんだ」 「……そうか」 そして、そんなふうについ折れてしまう。こんなことではいけないと充流は躍起になるのだが、効果はなかった。 「けど、ここに来てると教師にべったりだと思われて、まずいんじゃないのか?」 「なんで? みんな帰ったし、じゃなかったら部活だし、誰も知らないんじゃない?」 返す言葉も見つからず、充流の完敗だった。 「部活なくなったから塾行くまで半端に時間あってさ。いいじゃん、ここにいさせてよ」 「図書室か図書館でいいじゃないか」 「何時まで開いてると思ってんの」 「だったら、駅前でハンバーガーでも食って時間つぶせ。どうせ腹すかせてんだろ?」 「そんな金、ないって」 そうまで言われると、もう何も出てこなかった。実際、穂高は準備室に来ると窓際の棚の上に問題集を開いて、生物室から運んできた椅子に座り、きちんと勉強する。机にいる自分とは逆を向いて問題を解いている穂高は、ともすると意識から消えるほど静かで、邪魔にする理由が何もなかった。 そんな時間は穏やかに流れ、ふと穂高に意識が向いたときにだけ、充流は胸を震わせる。勉強にいそしむ横顔をこっそりと盗み見た。穂高が来ると趣味の研究に没頭するわけにもいかず、それでなくとも学期末が近づき仕事が増えているから準備室の机にかじりつきになっているのだが、悪くはなかった。穂高とふたりでこんなふうにいられるとは、まったく予期しなかったことだ。 いつか暴走してしまうのではないかと恐れていた自分が嘘のようだ。流した視線で穂高を捉え、充流は胸のうちでささやく。 ――好きだ。 素直にそう思えた。穂高が好きだ。外見と、その雰囲気に魅せられたことが始まりだったが、今は違う。十八になる年とは思えない純真さも、幼いほどの青さも、何もかもが好ましい。見守って慈しんで、愛し愛されることが許されるなら、どんなにいいかと思う。 なのに、思うそばから充流は打ち消す。絶対に、そうあってはならない。穂高は自分の生徒である前に同性だ。充流の知る限り、穂高に異性との交際は皆無で、つまり何もわかっていないということだ。 そんな者を引き込んではいけない。それは、西沢に対する思いと同じだった。異性と愛を育み、当然の幸福に浸れる可能性を自分が消してしまうのでは耐えられない。 過去がよみがえる。生まれて初めて充流が身も心も捧げた相手は高校の同級生だった。 今となっては彼がどれほどの気持ちだったか測り知れないが、当時は互いに真剣と信じていた。穂高に引けを取らない純真さで、恐る恐る互いを求めた。一度結ばれてからは、自分たちでは止めようもなく急激に気持ちが高まり、それがいつまでも忘れられない痛恨の結末を引き起こした。 彼の家で抱かれ、夢中になっていたのだ。彼の母親が帰宅したことに、そろって気づけなかった。決定的な場面を見られたわけではないが、事後の雰囲気で気づかれてしまった。あのとき、自分がどんな顔をしていたかはわからない。しかし彼の母親と目が合った瞬間に、バレたと確信した。誰にも絶対に知られてはならないことだったと、そのときになって手ひどく思い知った。 その後、彼から別れを告げられ、理由を聞くまでもなく受け入れた。彼との関係は彼の母親に知られたに留まり、何事もなく日々が過ぎていった。しかし未練を残していたのは自分だけだったと、やがて打ちのめされた。 数ヶ月もしないうちに彼に恋人ができたのだ。女子だった。それも、同級生の――。 彼は元からバイセクシャルだったと思えば少しは慰められる。だが本当にそうだとしても、自分との関係がなかったらストレートでいたかもしれないと思ってしまう。 彼とはあれっきりだから、あの彼女とつきあって以降、どうなったか知りようもない。自分以外の同性ともつきあったのか、わかったとしても苦い思い出が消えるわけではない。思うのは、選択肢を残す者を引き込みたくない、それだけだ。 大学生になってからも恋人と呼べる相手はできたが、自分が望むような関係よりも希薄だった。四年生のときにつきあっていた相手は、当然のように卒業を機に別れを切り出した。別れたくなかったが、あっさり受け入れた。いつもそうだった。引き止めて思い留まってくれる相手なら、別れを言い出したりしない。そう思えてならなかった。他人の感情など、どうにもできるものではない。 そうなのだ。他人の感情どころか、自分の感情すら、どうにもできない。 社会に出てからは投げやりになっていた。自分が望むような関係になれないなら、誰が相手でも同じだ。教員の立場を逆手にとって、学校の長期休暇になると奔放を重ねた。綺麗という言葉が耳にこびりついたのはこの時期だ。しかし長くは続かなかった。当然だった。虚しさと淋しさを増やすばかりだった。 西沢を知るまでの数年は、それなりに平穏だった。特定の相手との短い交際が、何度かあっただけだ。西沢との関係は本当に出来心から生じたもので、まさか一年以上も続くとは思いもしなかった。 だから、未だに戸惑う。罪の気持ちを拭いきれない。しかし、それでいいはずだ。西沢をどれほど頼りにしても、決して溺れるわけにはいかないのだから。 西沢がいなかったら自分はどうなっていたかと思った。今もまだ、短期間で終わる希薄な関係を繰り返していたかもしれない。もしかしたら、とっくに穂高に何かしでかしていたかもしれない。 ゾッとした。穂高とふたりでいて、穏やかな時間をすごすことはなかったかもしれないなんて。生徒として純粋な好意を寄せてくる穂高を踏みにじっていたかもしれないなんて。 俺は、いったい――。 放課後の生物科準備室に穂高とふたりでいて、甘酸っぱい片思い気分を味わっているなんて、どれほどかと思った。身のほど知らずとは、自分のために用意された言葉のようだ。 西沢に合わせる顔がない。だが西沢は、昼休みには変わらずに、喫煙の名目で自分のところにやってくる。どうしようもなかった。 「最近、穂高と仲いいんだって?」 そのうち言われると思っていた。何があってもなくても日は流れ、カレンダーは七月になっている。 この生物科準備室に穂高が入り浸るようになって二週間は過ぎていた。穂高はクラスの誰も知るはずがないと言ったが、生物室の前を通り道にする生徒が依然として何人かいる以上、誰の目にも触れないでいられるはずがなかった。 穂高を知らない生徒でも、誰かが頻繁に来ているという程度には認識できる。生物部はもうないのだから、怪訝に思うかもしれない。あれは誰なのか、あそこで何をしているのか、充流が居残りさせているのか。噂になるほどのことではなくても、暇つぶしの話題にはなる。それを教員が耳にはさんだとしても自然な流れだ。そして生徒たちと同じように、その話が交わされたとしても。 どのような経緯で西沢の耳に入ったのか、訊くまでもなかった。充流は浅く息をつき、あきらめて西沢を見上げる。 「失敗したと思っている」 本音だった。そもそも生徒とのあいだには一線を引いていたはずなのに、それを越えてくることを許してしまったのだ。それも穂高だったからそうなったわけで、その点で二重の失敗だった。 「うん――」 西沢は低く呟き、うつむいてタバコを取り出した。窓際の棚にもたれ、そこに腰かけるようにして火をつける。 その横顔が、ひどく男を感じさせた。憂いを知る大人の顔だった。 どうして、この人では駄目なのだろう――。 今さらの疑問を抱いて、充流は西沢を見つめる。窓からの風に西沢の髪が揺れ、タバコの煙が流れていく。甘く穏やかにたゆたう時間は、西沢とのあいだにも確かに存在したことを思った。そのときには、そう感じていなかったとしても。 「……で、おまえは大丈夫なのか?」 チラッと目を向けられて、ズキッと胸が痛んだ。大丈夫と返せない。西沢と二ヶ月近くキスもしていないことを言われたのなら、とっくに大丈夫ではなかった。すっかり渇いている。それを見越して穂高に惑わされているのではないかと問われたのなら、それもまた大丈夫と返せる状態ではなかった。 どっちにしろ、少しも大丈夫ではないのだ。穂高との生徒と教師としての信頼関係を崩さないように、西沢に甘えてこれ以上引き込まないように、そのふたつのことで、ぎりぎりまできている。 そんな自分が笑えてならなかった。自分で自分を慰めても、穂高が浮かんで昂ぶっては慌てて消し払い、代わって西沢が浮かんでくれば胸が苦しくなり、結局は物理的に射精を促すしかなく、達しても虚しさに支配されて渇きは癒えなかった。 自分が招いたことだ。わかっている。 「充流――ひどい顔だ」 うな垂れた充流の視界に西沢の大きな手がぬっと現れる。その指先が、そっと充流の頬に触れた。そうなってみて、その温かさをどれほど待ち望んでいたか、充流は思い知った。涙が滲み、頬を一筋伝う。 「……充流」 自分を呼ぶ西沢の声が甘い。もうすがってはならないと心に決めたはずなのに、西沢の手を取ってしまう。 その途端、引き寄せられて西沢の胸に包まれた。久しぶりに西沢の匂いを感じ、充流の体は芯から疼いた。 唇のやわらかな感触が頬を滑ってくる。濡れた吐息が肌を掠める。充流は自分から唇を開き、西沢のキスを受けた。これでは本当に引き返せなくなると、おののきながら。 「ん――」 ねっとりと熱く、手馴れたキスに舌を絡め捕られる。背筋を強烈な快感が走った。腰がじんと痺れる。膝から力が抜けそうになって、西沢のスーツの襟を掴んでしまった。 「は、あ……ん」 顎を動かされてまで深く貪られ、声が漏れて溢れた唾液が顎に伝い落ちていく。 「……俺では、もう役に立たないか」 ひっそりとささやかれ、充流は西沢の首に絡みついて自分からいっそうキスを深くすることで、激しく否定した。 「充流――」 西沢が熱くなっている。充流の腰に、硬く充実した西沢のものがこすれる。布越しにもその猛々しさを感じ、キスでは終えられない高みにまで充流は追い上げられていく。 「ん、ん、ん――」 半ば強引に西沢に押され、もつれるようにして隅の棚の陰に移った。充流は壁にもたれ、覆い被さってきた西沢を受け止める。胸が重なり、互いの体温に包まれた。キスは続いていて、西沢の手が充流の上を這い回る。 どうにも止まらなかった。充流は西沢の股間をまさぐり、ファスナーを下ろした。布を分け入って、その中で西沢を直に掴んだ。 「く」 西沢の声が漏れ、充流の胸は熱く染まる。どうして西沢では駄目なのだろうと、今また思った。 思っても、しょうがない。西沢は最初から他人のものなのだから――。 そのときだった。声がしたような気がして、充流はビクッと震えた。西沢も聞いたのか、キスを解いた勢いでドアに振り向く。 ふたりして用心深くドアを見守りながら、充流は手を引き戻し、西沢は充流から離れた。 ノックの音がした。続いて、はっきりと声が聞こえた。 「せんせー」 ……穂高。 どうして、と思った。わざわざ昼休みに来なければならない用などあったか。 「いるんでしょー、入っちゃうよー」 西沢はぐっと眉をひそめ、手早くスーツの乱れを直す。窓際に移り、タバコを取り出す。 充流も急いで身なりを整え、眼鏡を直し、一呼吸おいて声を出した。 「入っていいぞ」 「失礼しまーす」 ガラッと引き戸が開き、穂高が顔を見せる。だが、ギョッとした表情になって、その場で止まった。 充流は平静を装いながらも背筋が冷たくなっていくのを感じる。穂高が動かないのは、もちろん西沢がいるからだ。穂高の視線が、そう語っている。 「どうした」 声をかけてみたものの、考えれば自分も不自然だった。部屋の中央に立っている。西沢は窓際でタバコをくゆらしていて、西沢との距離がおかしかった。 充流は脚が震えてしまいそうになる。これは、あのときと同じだ。高校の同級生と彼の家で抱き合ったあとと。 自分は今、どんな顔をしているのか。 「穂高。用があるなら、さっさと言え」 背後から西沢の声がした。穂高はハッとして、あわただしく中に入ってくる。 「これ――」 差し出されたプリントを見て、充流は顔をしかめた。 「わざわざ昼休みに来るなんて、急ぎか?」 不平がこぼれ、平静が戻った。意識して、大股で机の前に回る。 「急ぎです。さっき文化祭実行委員に言われて、今日の放課後の委員会で出さなくちゃいけなくて」 椅子に座って引き出しを開ける充流に、机の向こうから穂高が身を乗り出してくる。 「もんじゃ焼きやるなら届け出が必要になるから、担任の承認がないと駄目って――」 「駄菓子販売だけじゃなかったのか?」 「あとから決まったんです。みんなで昼休みに話しているうちに……先生のいないところで決めて、すみませんでした」 消え入るように言って、穂高は下がった。うつむきそうになりながら目を合わせてくる。充流は溜め息を漏らし、渡されたプリントにサインをしてハンコを押した。二学期に開かれる文化祭での、クラスの出し物を承認する書類だった。 「なんで、実行委員に来させない? 峰岸と渡辺だったな?」 「それは――」 充流からプリントを受け取りながら、穂高は口ごもった。 「察してやれ」 西沢の声がして、ビクッとそちらを向く。穂高は一瞬で顔色を変えた。その変化を充流は見逃さなかった。 「穂高」 険しい横顔に向かって、静かに口を開く。 「ほかに用がないなら戻れ。昼休み終わるぞ」 言われてハッとしたように顔を戻してきて、穂高はペコッと頭を下げる。すぐに背を見せて足早に離れていった。ピシャリと引き戸が閉まる。 「……青いな」 ぽつりと漏らした西沢に振り向けば、目を細めてタバコをくゆらしていた。そこに余裕を感じて、充流は胸が苦しくなる。 「真面目すぎるんだ。むしろ、お人よしか」 だが西沢は、軽く目を瞠って見つめ返してきた。 「ん? そうじゃないだろ?」 「どうして。わざわざ昼休みつぶしてまで、ほかの生徒の肩代わりしたのに?」 「へえ」 意外そうに呟かれ、充流こそ意外だった。西沢は続けて何か言いたそうに見えるのだが、口は閉ざしたままだ。中途半端な間が空き、充流は小さく肩を落とした。 「どっちにしろ、知られたんじゃな」 そのつもりはないのに暗く呟いてしまった。 「そうか?」 なのに、西沢はタバコを消しながら気安く返してくる。 「見られてないだろ。雰囲気から察知するにも、穂高じゃ無理だろうし」 「まあ……そうだけど」 充流は曖昧に濁すしかなかった。個人的な経験から穂高に察知されたと確信したとは説明しにくい。それに問題はそこではないのだ。 急に鼓動が速まる。こんな形で、このときを迎えることになるとは皮肉に思えた。 皮肉でもないか……自分で蒔いた種だ。 すっと息を吸い、緊張につぶれそうな胸をなだめようとする。まっすぐ西沢の目を見つめた。せつない思いが込み上げてくる。 「――終わりにしましょう」 声が上ずったのまでは抑えきれなかった。見る間に真顔になった西沢に、きつく胸が締めつけられる。だが、続けなくてはならなかった。 「こうなったら、時間の問題でしかない」 どこか投げやりな言い方になってしまったことを許してほしいと思った。これが精一杯だった。自分にある誠意のすべてをもって、西沢の目をひたすらに見つめ続ける。 「……そうだな」 ぽつりと返事が返ってきた。充流は息まで詰まりそうになる。自分から別れを切り出したのは、これが初めてだった。 「潮時だろう」 うつろな表情になって西沢は言う。 「俺はもう、役に立たないようだし」 「そんなっ……」 充流は慌てるが、西沢は気に止める様子もない。目を伏せて、ひっそりと続ける。 「俺にはかなわない。それに、おまえだって……奪い取ってまで俺が欲しいわけじゃないんだよな」 「な、んで!」 充流は叫ばずにはいられなかった。そんなことを今さら言い出すなんて、卑怯だ。 「だったら」 どうにか気持ちを抑え、喘いで吐き出す。 「今から奪い取りましょうかっ? 無理を承知で!」 「無理なのは、そっちだけだろ?」 冷ややかに返され、唖然として西沢を見た。西沢に表情はなかった。ただ充流を見ている。 「嘘なんてつくもんじゃない。余計に自分を苦しめるだけだ」 「俺が……何も思ってなかったとでも?」 「ブレーキをかけられるなら、それは別物だ」 返せる言葉がなかった。それでは西沢は、抑えが利かなくなるほど思いが高まっていたと言うのか。 「あ……」 最後に抱かれた夜が思い出された。そして、ほんの今しがた、ここであったことが。 だから――それじゃいつかバレるって……だから別れようって……なのに、奪ってもよかったなんて、こんな、今になって。 「……言ってくれれば」 気持ちを裏切って口から出てしまった言葉を西沢に拾われてしまう。 「言えるか。妻帯者の分際で」 「でも今、奪えって」 「言っても無駄だったろ? 俺を離婚させる気なんて、おまえにはないんだから。俺が言い出したら止めたはずだ」 「そこまでわかっていて、なんで」 こんなときに聞かせるのか。虚しさに負け、勢いで言い放ってしまう。 「なら、あなただって同じでしょう? 俺は、単なる逃避先だったんだから! 情が湧いたのは誤算だったんじゃないですかっ?」 視線が絡み、充流は深く息を呑んだ。西沢の顔が今にも泣きそうに見える。きつく眉が寄り、歪んだ唇がかすかに震えている。 「……おまえの気持ちは、俺にないだろ?」 充流は声が出ない。そのとおりだ。すべて自分が引き起こした。言いすぎたと思っても手遅れだった。引き止めれば思い留まってくれたはずの相手と、ようやく知っても、もう引き止められない。 「終わりにしよう」 その声が、やけにはっきりと耳に響いた。 「きれいに終わらせたい。――禁煙するから」 ぐさりと胸に突き刺さった。ここに西沢は、二度と来ない。 「充流……」 目の前に立ち、今また甘い響きで自分の名を呼んだ男を見上げた。 「きれいに終わらせたいんだ。――キスして、いいか?」 どうして、この人では駄目だったのだろう。 答えの出ない問いを胸のうちで繰り返し、充流はそっと目を閉じる。顎を捕らえた手に、軽く上向かされた。こんなときなのに、キスの予感に胸が震える。そして、予感したとおりのキスを受けた。 やさしく、甘く、穏やかに胸が満たされる。そして今だけは、強烈な痛みをもって胸を締めつける。舌にしみついた、西沢のタバコの味――。 唇が離れ、西沢も離れ、しかし充流は目を開けられなかった。遠ざかる靴音と、ドアが開いて閉まる音を聞いて、やっと目を開けた。 止めていた涙が溢れる。どうして泣くのか、自分でもわからない。泣く資格なんて、自分にはないはずなのに。 西沢を見送らなかったのは最後の甘えだ。キスの代償と受け止められたなら、それでいい。明日からも変わらない態度で接するから。昼休みには、教員室で談笑できるほどに。 その覚悟がなかったなら、始まらなかった関係だったのだから。 ……終わったな。 机に突っ伏し、頬に感じる無機物の冷たさが心地よかった。 終わった。――穂高とも。 西沢と別れた矢先に穂高を思い出せる自分が疎ましい。だから、どれほどなのか、と。 「くっ」 喉の奥で充流は笑う。なんにせよ確かなのは、自分は西沢と穂高の両方を裏切り続けてきたということだ。 『嘘なんてつくもんじゃない』 そうだな――。 『余計に自分を苦しめるだけだ』 ……まったくだ。 頬を伝った涙が乾いていく。肌がひきつる感じがして、胸の奥底から深い吐息が湧き上がった。 終わった……全部。 いっそ清々しいと思えるようになるのは、ずいぶん先かもしれないけれど、それでいいと思った。 もう、罪を重ねずにいられる。 つづく ◆NEXT ◆BACK ◆作品一覧に戻る |