Words & Emotion   Written by 奥杜レイ



      十七歳の頃
      −2−



       二

       同窓会は予定どおり二時間でお開きとなり、三階のエレベーター前の小さなロビーに人が溢れた。恩師を引き止めるグループもあれば早々に笑顔で帰っていく者もいて、ほかは、おおよそ二次会の相談で残っている様子だ。
      「マジ、来ないの?」
       上条がつまらなそうに言う。
      「うん、ごめん。こんな人が多いとこに出てきたのって、マジ久しぶりで……疲れた」
       智明は、つい口ごもりながら答えた。
      「はー。おまえ、引きこもってんじゃねえよ。在宅でライターやるにも取材とかあるんじゃねえの? 前のほうが社交的だったよな」
       呆れきったように返され、黙り込んでしまう。実際のところ、母親が他界して家にいなくてはならない理由はない。むしろ、ほかの三人から同情の目を向けられているのが痛い。
      「て言うか、まさか、誰も見てないのか?」
       怪訝そうに口を開いた遼二に、同じく怪訝そうに誰もが顔を向ける。
      「このあいだ、七月の特番で、系列の地方局が制作した短編ドラマの競作みたいなの放映されただろ? ――見てない?」
       智明を除いて一様にきょとんとした顔を見回して、遼二は大げさに驚く。
      「こっちでも放映されたはずだぞ?」
       確かめるように目を合わされ、智明は不本意ながら頷いて返す。
      「マジ、誰も見てないのかよ。元放送部なのに。こっちの局のドラマ、ホンは智明だったんだぞ?」
      「え」
       途端に智明に視線が集まった。智明は居心地が悪く、苦笑してしまう。
      「ホンも演出もよかったんだけどさ、役者がアレで、ものすごく惜しい出来だった。金がないのはわかるけど、だったら、まるっきり無名でももっとマシな役者使えよ――って、智明も思っただろ?」
       そういう話を自分に振らないでほしいと思いつつも、雰囲気的に黙っているわけにはいかず、智明は気の進まないまま答える。
      「スポンサーとか系列他局との力関係で、どうにもならないことがあって――ってことくらい、みんなだって知ってるんだから訊くな」
       結局は、きつく言い返してしまった。あの脚本は自分でも納得の出来で、実際にコンペを勝ち抜いて採用されただけに、ドラマの仕上がりに一番ガッカリさせられたのは自分だと思う。だが、この場でもそこまで言えない。
      「そうか……なんか、ホッとしたよ」
       間をおいて、吉池がポツリと漏らした。
      「うん――一之瀬、がんばってるじゃない。おまえだけだな、俺たちの中で夢を叶えられたのって。書くことを仕事にできたんだしさ」
      「吉池――」
       のんびりと言われ、智明は軽く目を瞠った。胸がじんとなる。自分では、そんなふうには考えていなかった。
      「あーあ。だったら先に言えっての。見たのに。ほら、ケータイ出せよ。メアド教えてけ。したら、帰っていいから。ゆっくり休めよ」
       ぶっきらぼうに言って、上条が携帯電話を取り出す。ほかの三人からも同じようにされ、変更してから教えてなかったメールアドレスを智明はそれぞれと交換した。
      「加々美くんは?」
      「オレはいいの」
       宮坂に訊かれ、遼二はけろっと返した。
      「んじゃ、オレも帰るから。今なら高速バスに間に合うし。またな」
      「えっ」
       あっと言う間にエレベーターに向かった。ちょうど開いたドアの中に消える。
      「なにあれ……」
      「ま、いつものことじゃない? 加々美だし」
      「暴君健在、か。加々美じゃ仕方ねえよな。いつかまた気が向いたら帰ってくるだろ」
       そんなふうに口々に言う声を智明は呆然と聞いていた。遼二があっさり帰っていったことが信じられない。
      『今日までの空白、全部埋めてもらうからな』
       さっきは、あんなこと言ったのに――。
       急に、ずっしりと体が重くなった。結局は、遼二に振り回されただけなのか。
       ……うちに泊まるなんて言って。
      「ちょっと。本当に具合悪そうよ。大丈夫?」
       柳沢が気づかってくれる。のろのろと首を振って平気と答え、別れを告げて智明もその場を離れた。
       ゆっくりと降下していくエレベーターの中で、遼二に抱かれた肩が、今になってやけに熱く感じられた。


       午後八時を過ぎて、外に出ると夜風が心地よく吹いていた。八月も下旬に差しかかり、ひっそりと秋が忍び寄っている。
       見上げた夜空の裾に黒々と広がる山並みに目が止まり、智明は自宅に向かいかけていた足を迷わせ、思いを巡らせる。
       遼二は高速バスで帰ると言っていた。たぶん、今から駅前のバスターミナルに行っても間に合う。東京行きの最終だ。
       だからって……なんで俺が――。
       しかし、今日を逃したら次はない。自分が思っていただけでなく、遼二が言った。
       ――でも。
       十年の空白を今夜埋めさせると、はっきり言っておきながらあっさり帰っていったのは、自分を試しているようにも思う。
       もしそうなら、みすみす乗せられたくない。乗せられたらきっと、この十年を上回る痛みに苦しむことになる。
       だって……そうだろう? あのとき、返事はもらったんだから。
       自分が期待するようには遼二とつきあえない。自分が期待するようにつきあえないなら、遼二なんて忘れてしまいたい。
       そう思い続けて十年も費やしてしまったのだ。いくらほかの旧友たちに会いたかったとしても、やはり同窓会になんか出るんじゃなかったと、後悔が湧いてくる。
       遼二に会いたくなかった。また忘れられなくなるから。でも、会ってしまった。
       まだ遼二が好きだと、わかってしまった。
      「くそっ」
       荒っぽく吐き捨て、智明はバスターミナルへと駆け出す。遼二を引き止めるなら、もう迷っている時間はなかった。
      「トモ!」
       ホテルの角を曲がったときだ。やたら懐かしい呼び名を耳にし、智明は驚いて足を止める。
       既に息が上がっていた。顔をニヤつかせて近づいてくる遼二を唖然として見つめる。
      「遅かったな。賭けに負けたかと思った」
      「なに、言って……」
      「おまえがマジ帰っちゃったら、オレの負け。追いかけてきたら勝ち。――勝ったわ」
       目の前まで来て、遼二は信じられないほどやわらかく笑った。
      「こんなに慌てちゃって。だったら、もっと早く来ればいいのに」
       伸びてきた大きな手が、汗の浮いた智明の額をやさしく拭う。
       本当に、驚いた。これもまた、高校時代に何度もされたことだ。夏の日に――放送室は狭くて熱がこもるから――。
      「ほら、行くぞ」
       その手が智明の手を取った。有無を言わせない勢いで引き、遼二は先に歩き出す。
      「い、行くって。どこへ」
      「決まってんだろ」
       ――決まってる、って。
       それでなくても速まっていた鼓動が一段と跳ね上がった。智明は遼二の歩調に合わせながら息を整えるので、いっぱいいっぱいだ。
      「どう、して……」
       それでも喘いで問いかけた。思ったとおりに試されて乗せられたのなら、この先に何か答えが用意されているのだろうか。
      「おまえに会いに来たって言っただろ。ほかのやつらが消えるの待ってたんだ」
      「消えるって……遼二――」
       相変わらず減らない口だ。そんな言い方で真意を隠すから、いまだに傲慢だの暴君だの言われる。
       さっきは、俺が書いたドラマの話を出して、俺をかばったりしたのに。
       本当には遼二は心やさしい。それを思うと同時に、今さらながら、あのドラマを遼二は見てくれたんだと、その事実が胸に迫った。自分が脚本を書いたと知って見たにしても、そうでなかったにしても、見てくれたことが素直にうれしい。
       火照った頬を撫でる夜気が、さっきよりもずっと心地よく感じられる。日中の暑さから遠ざかって、冷やりと心を落ち着かせる。
      「普通に山が見えるって、いつもビルばかり見てると新鮮だな」
       いささか歩調をゆるめて、独り言のように遼二が言った。しかし夜空を見上げていて、智明に目を寄越すでもない。
      「山が見えないところに住む気はないのか」
       そのくせ、そんなふうに問いかけてくる。
      「フリーライターならどこに住んでもできると思ってるかもしれないけど、まあ、確かにそうだろうけど、伸びしろがあるうちは将来が違ってくる」
       街路樹が落とす黒い陰の中を進み、智明の手を離そうとしない。むしろしっかり握ってくる。
      「都内に住んでいれば取材にも動きやすいし、打ち合わせも対面でできるし、依頼するほうにも依頼しやすくなるから、仕事の幅も量も増える可能性がある」
       遼二の言うことはもっともで、智明はそっと息をついた。
      「一度でも当たったらね」
       なかば自嘲気味につぶやいた途端、顔を向けてくる。
      「恋人がいるのか?」
      「え?」
      「ここを離れたくない理由。――ああ、オヤジさんが心配か」
       それはない、と言いそうになった。姉には、父親の心配までしなくていいから好きにしろと言われている。
       なのに、智明はあえて違う方向で返した。
      「なにそれ。俺に恋人がいないのはデフォ?」
      「いるのか?」
       唐突に顔を覗き込まれた。真剣な眼差しで間近から見つめられ、せっかく落ち着いた鼓動がまた乱れる。
      「……いない。つか、いるわけないだろ、ずっと引きこもってたって、知ってて訊くな」
      「そうだな」
       遼二は素っ気ないほど簡単に引いた。前に戻したその顔を智明はそろそろと盗み見る。
       感情の読み取れない顔になっていた。しかし意志の強さが滲んだ男らしい容貌に、そのまま見とれてしまう。
       自分より長身で、自分より腕が太く、それは十年経っても変わらない。あの頃は未完成だった体が完成された分、男としての色気を溢れるほど感じる。
       ……いけない。
       遼二に気づかれないうちに視線を離した。胸の鼓動は、もはやときめきとなって淫らに心を騒がせる。
       遼二が……俺の心配なんかするから――。
       東京に出てくる気はないのかと打診されたとしか思えなかった。そうに違いないにしても、遼二の意図を測りかねる。
       遼二は編集者なんだから……俺との仕事の可能性を考えただけかも――。
       それが余計な考えだった。もしそうならと、夢見がちな子どもみたいに思いを馳せる。
       遼二と、また一緒に何か作れるなら――。
       高校三年生の夏、放送部の引退を前に最後の作品を制作したときのことが思い出された。
       遼二とは一年生のときからよく話していたのだ。三年生になったら自分たちの思い描くとおりの作品を作り、夏の放送コンテストに出品して、全国大会まで行こうと。放送部は文化系ながら体育会の気質で、下級生のうちは上級生とチームを組まされて思いどおりにできないからと。
       短編のテレビドラマだった。二年生の冬から遼二とふたりでアイデアを出し合い、練りに練って、渾身の企画を打ち立てた。脚本は智明が仕上げ、カメラは吉池を口説き落として任せた。
       チームから下級生をあえて排除したことに部内を黙らせ、演劇部で群を抜いたふたりに頭を下げて出演を承諾させた。
       撮影に入ってからも妥協は一切せず、演劇部のふたりまで巻き込んで衝突が絶えなかったが、そこは何度も話し合いをして乗り切り、心から納得のいく作品に仕上げた。
       それが県内選抜で優秀賞を獲得し、本当に全国大会に出品できたのだから、あのときの喜びは言葉では尽くせない。
       あの日々は、本当にきらめいていた。連日のように遅くまで校内に残ったことも、県内選抜の前には智明の家に泊まり込んで何度も編集し直したことも、徹夜明けの目に朝日がしみるのは嘘じゃないと知ったことも、楽しくてならなかった思い出だ。
       全国大会を最後に放送部は引退したけれど、いつかまたふたりで何か制作しようと、遼二と誓い合った。
       ……なのに。
      「おう、母校だ」
       急に遼二が足を止めたから、手が引かれて智明はよろけそうになった。そうなって、まだ握られていたと、改めて気づく。
      「よし、行こう」
       遼二は正門に足を向け、智明は慌てた。
      「待てよ、何時だと思ってるんだ。土曜日だし、それに今はセキュリティだって違うぞ」
      「けど、校舎に電気ついてるし。卒業生なんだから問題ないだろ」
      「ふざけんなよ、俺たちが卒業生って、誰がわかるんだよ。先生だって総入れ替えだろ?」
      「んなの、卒業アルバム出してもらえば済む話だ。職員室か生徒会室に全部あるだろ」
      「マジかよ」
       いっそう強く手を握ってきて、遼二はずかずかと正門に向かっていく。こうなってしまうと智明は面倒なだけだ。渋々ながら従う。
       正門の脇の通用門が開いていて、そこを抜けると、遼二は校舎を回って生徒用の玄関に向かった。その途中にある桜の木の下を過ぎたとき、智明は息が止まりそうになった。遼二が『あのこと』を言い出すんじゃないかと、恐ろしく緊張した。
       しかし遼二はまったくの無言で、生徒用の玄関が閉まっていると見ると、すぐに職員用の玄関に回る。そこで靴を脱ぎ、スリッパも何もないまま上がり込んで、まっすぐ職員室に向かった。躊躇なくドアを開ける。
      「こんばんはー」
       中にいた数人の教師が驚いたのが目に映り、智明は思わずドアの陰に身を隠した。手は、いまだ握られたままだ。
      「卒業生の加々美ですけど、今日、同窓会があって、ちょっと来てみたんですけど――あ、塩原先生!」
       ……塩原?
       智明には思い出せない名前だった。そんな名前の教師がいた気もするが、遼二とは三年間クラスが違ったから、自分は一度も授業を受けたことのない教師だと思う。
      「なんでいるんですかー。オレが一年の終わりに転出されましたよね?」
       何か言い返されているようだが、智明には聞き取れない。
      「へえ。定年前に舞い戻ってくるなんて、この学校、よっぽど先生に愛されてるんですね」
       数人の笑い声が、はっきり聞こえた。どうやら雲行きは悪くないようだ。
      「はい、わかりました。約束したことは守りますよ。そこんとこは信用してください」
       いや、それほどでもないかもしれない――ドアを閉めた遼二を不安な面持ちで見つめる。
      「帰るときに、また顔出せって。それだけ」
       なんとなく不安が拭いきれず、智明はつい言ってしまう。
      「おまえ、あまり信用なかったんだな」
      「塩原先生には世話かけたからなあ」
       返事ともつかない返事を聞かせ、笑いながら遼二は歩き出した。どこへ向かっているのか智明にはわかる。放送部の根城、放送室だ。
       職員室の横の階段から二階に出ると、廊下の照明はすべて落ちていた。中庭の外灯が窓から射し込んでいて、ほのかには明るい。
      「あー、やっぱ、この時期じゃ誰もいないか」
      「後輩に会うつもりだったのかよ」
      「そういうわけでもないけどさ。ダメだ、鍵かかってる」
       小窓から中を覗くも、暗くて物の判別がつかない。黒いシルエットで機材が見て取れる程度だ。
       ふと、思い出したくない光景が智明の脳裏をよぎった。遼二に釣られたにしても、迂闊だった。さりげなさを装って小窓から離れたら、鋭角を切って、わずかに光が射し込んだ。
      「なんだ、トモが邪魔してたんだ」
      「……悪かったな」
       また『トモ』と呼ばれて、ドクンと鼓動が跳ねる。
      「おい、見ろよ」
       強引に頭を引き戻された。遼二の指し示す先に写真が見えて、すぐに飲み込めた。
      「オレたちって、レジェンド?」
      「おおげさだな」
      「けど、あの写真って、オレたちだよな?」
      「あのときの部員、全員な」
       全国大会で東京の代々木に行ったときに、会場の入り口で撮影した集合写真だ。左半分が淡い光で斜めに切り取られ、そこだけ見て取れる。闇に滲むようだが、記憶に焼きついた写真を見間違えるはずがない。
      「廊下の電気、つけるか」
      「それはやめとこうよ。もういいだろ?」
       遼二に視線を移して、ギクッとした。頭を引き戻されたのだから当然だが、とんでもない至近距離だ。
       智明は慌てて離れようとするが、遼二の手はまだ頭にあって、それを許してくれない。鼻先が触れそうなほど間近から目を覗き込んできて、ささやくように言う。
      「おまえさ……あのとき、見てただろ?」
      「……なんの話だ?」
       智明はとぼけた。思い出したくないことだ。遼二とは、二番目に話したくないことだ。
      「へえ。そんなふうに言うんだ? おまえにさんざん拒否られて、オレなりに過去をほじくり返して、始まりはあのときだったと思い当たったんだけど――ま、いいか」
      「……いいのかよ」
       口をついて自分の声が漏れたと知り、智明は飛び上がった。勢いで遼二の手から逃れ、思わず身を引いてしまう。
       束の間、互いに驚いた目で見つめ合った。だが次の瞬間、遼二は吹き出して笑う。
       がらんとした廊下の端にまで遼二の笑い声が響いたように智明は感じた。いっそ自分のほうが恥ずかしく、顔を背けてしまう。
       いつのまにか、握られていた手はほどけていた。それがひどく心許ないようで、智明は固く拳を握る。
      「おまえも、ぜんぜん変わってないんだな。おとなしそうに見えて気が強い」
       遼二の声が、溜め息混じりに聞こえた。智明に返す言葉はない。
      「――行こうか」
       遼二は歩き出す。廊下を奥へと進み出した。次はどこへ行くつもりなのか智明にはわからない。しかし、職員室に顔を見せたのは遼二だけだから、従うほかない。
       ……違う。
       校内にいて、遼二は常にリーダーだった。それが今も変わらないだけだ。
       それとも、俺が変わらないだけか――?
       そっちかもしれない。今もまだ、遼二が好きと思えるように。
       放送室に向かったときとは違い、薄暗い廊下を遼二はことのほかゆっくりと歩いていく。その後ろ姿を目に映しながら、無人の教室の前を智明も次々と過ぎていった。
       校舎全体が静まり返っている。お盆のあとの土曜日で、九月の文化祭準備に躍起になるにはまだ早く、登校した生徒がいたにしてもこんな時間まで残っていないだろう。校内にいるのは、職員室の数人の教師だけのようだ。
      「大人になってわかることって、あるよな? 高校生なんて自意識の塊だったと思わねえ? 中学生とは、また違ってさ」
       前を行きながら、遼二が唐突に話しかけてきた。振り向きもしない。
       智明が何も答えないでいると、続けて言う。
      「ヘンなとこでカッコつけて、もったいないとこで意地張って――バカだよな」
       黙っているわけにもいかないように思え、智明は重い口を開く。
      「……そういうのが必要だったんだろ」
      「優等生の答え」
      「……よく言う」
       報道に進む夢があるなら誰もが憧れる大学に遼二は進学した。許されるなら、智明も行きたかった大学へ。
      「大人になったから決断がつくことって――あるよな?」
      「さあ……?」
       遼二は立ち止まる。それを見て智明も足を止めた。
       どういうことか、緊張する。遼二が何も言わず、微動だにしないから、緊張が高まっていく。
       何か言ったほうがいいように思え、智明が口を開きかけたとき、ゆっくりと遼二が振り向いた。
       しかし、その表情は逆光でわからない。
      「おまえ……いつまでとぼける気?」
       ザワッと、背筋が波立った。智明は大きく息を吸い込み、吐き出せなくなる。
      「オレはさ。おまえに会いに来たって、最初から手の内見せただろ? それに応える気もないわけ?」
       ……遼二。
       呼びかけたつもりが声にならない。ゴクッと喉が鳴る。
      「いつからかな……おまえに避けられてるって気づいて……でも受験真っ盛りでほとんどのヤツが少しヘンになってたから、おまえのもそんなモンかと思ったんだよな」
       鼓動は早鐘のようにうるさく、耳の奥で鳴り響く。頭がガンガンしそうで、智明は耳をふさぎたくなる。
       なのに、指先ひとつ動かせない。
      「オレが第一志望を決めたとき、なんでって訊いたよな? オレもおまえに訊いた。高校生なんて、しょせん親のスネかじりで、親の一言でどうにもならないことがあるわけでさ。おまえとは別々になったけど、オレはメールしたり電話したり、挙句に手紙まで書いたのに……全部、無視してくれたよな」
       遼二があからさまに溜め息をついたのが目に映った。きりきりと胸が締めつけられる。
      「最初は避けられるのも仕方ないと思ったんだ。おまえがオレと同じ大学に行きたがってたの、知ってたし。けど、卒業して引っ越してからもそうで、だんだんムカついてきて、メアド変えられた上に着拒されたとわかったときは、もうおまえなんていい、って思った」
       遼二は、細く長く息を吐き出す。せつなく尾を引くそれが、薄闇を揺らしたように智明には感じられた。
      「……就職してしばらくしてからだ。オレもテレビ局に就活したんだけどさ……全部不採用で。出版社でもよかったんだけど、配属が女性ファッション誌ってのは希望と違いすぎてさ――」
       うつむきかけていた顔を遼二はぐっと上げた。まっすぐに視線を向けてくる。逆光の陰で、わずかに瞳が光って見えた。
      「おかしな話で、すっげー疲れて帰った日に限って、高校のときのこと思い出すの。大学の四年間なんてすっ飛ばして、高校時代」
       智明は大きく目を瞠り、息もつけない。
       ……俺と、同じ? なんで、遼二が――。
      「今日、思い知った。十年経っても、少しも色褪せない。なんでだろうな?」
       ここは答えなくてはならないだろう。だが智明は喘ぐばかりで、言葉を見つけられない。
       ただ恐ろしかった。遼二が『あのこと』をいつ言い出すかと――。
       静寂が流れる。時間ばかりが過ぎる。校舎のどこか遠くで、ドアの閉まる音がした。
       ビクッと智明は肩を震わせる。
      「……今日はいじるなって、柳沢に言われたんだっけ」
       落胆した声が耳に流れ込み、勢いで智明は言ってしまう。
      「んなの……センチなノスタルジーだろ」
       失言だと、すぐに気づいた。見る間に遼二の目が大きく見開いていく。
      「俺の、話だよっ」
       智明は慌てて言い放った。
      「俺も、高校のときのことばかり思い出してたから……母さんを看取ってから、ずっと」
       たまらずに顔を伏せ、シャツの胸を片手でぎゅっとつかんだ。速まるばかりの鼓動が、少しでも鎮まってくれたらいいと思った。
       しかし遼二からは何も返ってこない。智明は覚悟して言う。
      「俺のは、ノスタルジーだったんだ。あの頃が一番輝いていたから――」
       本当に、どうしようもなく胸が苦しかった。ひたすら耐えて遼二の声を待つが、なかなか返ってこない。
      「……へえ」
       やがて聞こえた声は、しかし気のない響きだった。智明は顔を跳ね上げる。だが予想とは違い、遼二は薄く笑んでいた。手を差し出してくる。
      「――行こう。九時半には帰るって、塩原先生に約束したんだ」
      「……先に言えよ」
       気まずく返して、ハッと気づいた。
      「おまえ、どうすんだよ? もう特急もないんじゃないか?」
      「ないよ」
       さらりと答えられ、二の句が継げなくなる。
       遼二はここに来たときと同じように智明の手を取り、先に歩き出した。
       ……遼二。
       なぜ、こうも何度も手をつないでくるのか智明にはわからない。だが遼二に握られるなら自分からは離せず、今はその手のぬくもりが胸に深くしみる。
       なんだか泣けそうだった。こんなふうに、遼二とふたりで再び母校を訪れることがあるとは、夢にも思っていなかった。
       ……ずるいんだよ。
       同窓会のあと、遼二はホテルの外で自分を待ち受け、追ってきたと知ったとき、行く先は決まっていると言った。
       あれは、母校を言ったのだろうか。そんなふうには聞こえなかった。本当は、母校は通り過ぎるだけで、別のところに行くつもりでいたのではないか。
       ――俺の家へ。
       廊下の端に辿り着き、そこの階段を下りて職員室に戻った。また遼二だけが顔を見せて、ふたりは校舎を出る。
       遼二は、もう何も言わなかった。まっすぐ正門に向かって行くのだが、また智明の手を握ってきた。
       智明は、視界の端に桜の木を捉える。来たときにも目にして、息が止まりそうになった。
       胸がせめぐ。遼二の手を強く握り返す。
       つい先ほど、遼二に言われた。
      『あのとき、見てただろ?』
       ――見ていた。
       受験で自由登校になっていた二月のことだ。合否報告で職員室に顔を出したら宮坂がいて、遼二も来ていると教えてくれた。
       その頃には既に遼二を避けるようになっていたから、来ているなんて知らなかったし、自分からも来ると伝えてなかった。
       そうなんだよな……。
       今だからわかる気持ちだ。遼二が東京の大学を第一志望にしたと知ったとき、自分でも驚くほど嫌な気持ちになった。それは、自分が行きたくても行けない大学を遼二が受けるからではなく、卒業したら遼二に置いていかれると感じたからだ。
       だからあの日も、避けていたくせに遼二を探した。会いたくないけど会いたいという、当時の自分には持て余す気持ちだった。
       遼二の教室には誰もいなくて、すぐに放送室に行った。遼二はそこにいた。だがひとりではなく、誰か女子と――キスをしていた。
       小窓から垣間見た光景が一瞬で脳裏に焼きつき、遼二の広い背中とか、首を伸ばすようにして唇を重ねていたこととか、信じられない衝撃で自分に襲いかかり、それでわかってしまったのだ。
       自分は遼二がとても好きだったけど、ただの『好き』じゃなかった。恋だった。
      「……どうした?」
       言われて、智明は顔を上げる。気づけば、正門を前に立ち止まっていた。
      「遼二――」
       口を開いたら、震えた声が出た。
       智明は迷う。あのキスのことは持ち出してきたのに、なぜ遼二は『あのこと』に触れてこないのだろう。
       わからない。忘れたなんて、ありえない。
       忘れたくても忘れられなくて、何度も繰り返し思い出して、あのときの気持ちに苦しんできたのは自分だけだとしても、遼二も覚えているはずだ。
       『なかったこと』に……したのか?
       だから、自分に会いに来たのか。
      『大人になったから決断がつくことって――あるよな?』
       ……そういうことかよ。
       智明は深く息を継ぐ。せつなく胸が騒ぐ。
       遼二が好きだ――まだ好きだ、十年も経つのに。忘れようとしてきたけれど、忘れられなかった。なぜこんなに好きでいられるのか、自分でも、もうわからない。
      「おまえさ――今日は、うちに泊まれよ」
      「――いいのか?」
      「そのつもりだったんだろ」
       どんな顔で答えられたのか見たくなくて、目をそらし、わざとつっけんどんに返した。
       それでも、握られている手が離れないように、しっかりと握り直す。
      「なら、オヤジさんに酒でも買ってくか」
       どこかホッとしたように遼二は言った。
      「いいよ、そんなの」
       ためらいがちに智明は答える。
      「……いないから」
      「え?」
      「送り火も済んだから、姉さんたちと旅行に出かけた」
       言い訳がましく、一息でまくしたてた。
      「姉さん、たち?」
       きょとんとした声が返ってきた。
       智明は、小さく肩を落とす。遼二は姉の結婚も知らなくて当然だ。自分が何も知らせないできた。ただ遼二を忘れたくて――遼二は、悪くないのに。
      「とっくに結婚して子どもも三人いる。歳の差婚でダンナさんには両親ともいないから気兼ねなく誘いに乗れるって、孫と温泉に入るんだって、オヤジ、浮かれて出ていった」
      「そうか……」
       遼二の声が耳に温かく響いた。つないでいる手のぬくもりが、今また胸にしみる。
       いいんだ、もう――。
       今夜また、放送部にいて制作で泊まり込みしたあの頃のように過ごせるなら、もうそれでいいと思えた。卒業式の日に、遼二に本当に置き去りにされたこの場所から、手を取り合って母校をあとにできるなら。
       あ……。
       智明は、すっと遼二を見上げる。長年焦がれ続けた男の顔が、やわらかく笑みに崩れ、ひどくやさしい目で見つめ返してきた。
      「ん? 行くか?」
      「……うん」
       せつなくて、いっそ泣けそうだ。これではまるで、卒業式の日のやり直しではないか。遼二は、始めからそのつもりで母校に寄ろうと言い出したのか。自分にも『あのこと』を『なかったこと』にさせるために。
       しかし、そんなことは訊けない。『あのこと』を自分で蒸し返す気持ちには到底なれない。
       遼二が好きで、今も好きで、だけど『あのこと』が『なかったこと』になるなら、親しかっただけの元の関係に戻れるのだろうか。きらきらと輝いていた、十七歳の頃のように。
      「うん――行こう。手ぶらじゃ泊まる用意なんてないんだろ? コンビニ寄ってくか?」
      「ああ、考えてなかったな。そうしてくれ」
       智明は先に歩き出す。遼二の手を引いて、自分から通用門を抜ける。
       元に戻れるにしても戻れないにしても、今は遼二を離したくない。自分がどう思っていようと、明日には東京へ帰ってしまうのだから。また会える日が来るのかどうか――いずれにしても、今夜が遼二への思いを捨て去る最後のチャンスに違いなかった。


      つづく


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