Words & Emotion   Written by 奥杜レイ



      十七歳の頃
      −3−



       三


       玄関を開けると智明は先に上がり、まっすぐに仏間に入った。古い家で、一階には台所や風呂場のほかに、ふすま続きの和室が二部屋あるだけだ。
      「どうする? 今日はオヤジいないから風呂の用意してないんだけど、シャワーでいい?」
       努めてありきたりな言葉を投げかけ、閉め切っていた窓を開けた。昼間の熱を孕んでいた空気と入れ替わり、しめやかな夜気が流れ込んでくる。ふすまも開けて隣の和室に移り、そちらでも同じようにする。
      「あれ? そっち、おまえの部屋?」
       コンビニで買ったものを袋ごと座卓に置き、遼二が覗き込んできた。
      「へえ。二階から移ったんだ」
      「病人がいると、一階のほうが都合いいから」
       遼二に他意はないとわかっていたが、つい突き放した答え方をしてしまった。
       遼二がよく泊まりに来ていた頃は、両親も姉も自分も、二階の三部屋をそれぞれの寝室にしていた。母親が他界しても二階に戻らなかったことに特に理由はない。
      「そうか。この部屋、懐かしいな。泊まり込みで編集するとき、いつもこの部屋だった」
      「――そうだな」
       そう返ってくるとは思わなかった。言われてみれば、母親と共に一階に寝室を移すときにこちらの部屋を選んだ裏には、そんな思いがあったのかもしれない。
       あの頃のことを思い出してばかりいたのも、この部屋のせいかもしれない――。
       押入れのタンスからバスタオルを取り出すが、遼二との思い出が次々と浮かんでくる。
      「これ使って。風呂場とか何も変わってないから先に入ってきてよ。蒲団敷いておくから」
      「うん――おまえ先入れよ」
       部屋に一歩踏み込んできて、差し出されたバスタオルに手を伸ばして遼二は曖昧に笑う。
      「――やだよ」
       その横をすり抜けて仏間に戻り、座卓を隅に寄せながら智明はぶっきらぼうに言う。
      「おまえって俺に先に入れって必ず言うくせに、遅いって文句言って入ってくるんだから」
      「なんだそら」
       ふすまの鴨居に片手をかけて遼二は呆れた顔をした。智明は思わず睨みつける。
      「忘れたのかよ。『おまえ遅すぎ、女じゃねえんだからさ』って、十分セクハラだったよな」
       一瞬きょとんとして、遼二は吹き出した。げらげらと遠慮もなしに笑う。
      「なんだよ――」
      「あったな、そんなこと。つか、よく覚えてるな、十年も前だぞ?」
      「そっちこそ、都合の悪いこと忘れすぎ」
      「忘れすぎって……そんな、あったか?」
      「あったよ」
       智明は、ついムキになってしまう。
      「暑いからアイス買ってきたなんて言って、いきなり俺の口に突っ込んでフェラ顔だって笑っただろ。あれなんて思いきりセクハラ」
      「え……」
       サッと遼二の顔色が変わった。真顔と言うにもあまりに真剣で、智明は大きくうろたえた。それを見て取ったのか、遼二もうろたえたようになる。
      「あー……そんなことも、あったかな。それより、先にお母さんに線香あげたいんだけど」
      「え……う、うん」
       互いにぎくしゃくとして、智明は留守中に閉めていた仏壇を開いた。ろうそくを灯して、遼二に前をあける。
       線香をつけてから、遼二はずいぶんと長く手を合わせた。智明は開け放した窓の濡れ縁まで下がって、その様子を見つめた。
       ほんの今しがたのふざけた雰囲気はすっかり消え、遼二の神妙な面持ちに目が釘づけになった。こういった作法を遼二が心得ているのも社会人になったからに違いなく、今また十年の長さを感じた。
       そう――十年は長い。さまざまな体験を経て、人生の辛酸の片鱗くらいは知って、未練や悔恨から立ち直るにも十分だったはずだ。
       急にマオカラーが息苦しく感じられ、智明は襟元のボタンをはずし、指を入れてぐいとゆるめた。おのずと喉をそらして息を継ぐ。
       ……え。
       遼二が見ていた。視線が勝ち合い、遼二は気まずそうに目をそらす。
      「んじゃ、オレ先に入ってくるから」
       そそくさと、バスタオルを取り上げて立ち上がった。背を見せてコンビニの袋をあさると、足早に部屋を出ていく。
       なに……今の。
       どうってことないはずなのに気になった。遼二はまるで風呂場に逃げたように見えた。
       なんで――。
       ひとりになり、部屋の静けさに包まれる。流れ込む夜気が冷やりと肌に触れ、窓を閉める前に蒲団を敷いてしまおうと、急いで押入れを開けた。
       どうして急ぐのか自分でわからない。先に仏間に一組敷いて、自分の部屋にも敷いた。
       そうしてから迷い始める。仏間では遼二は落ち着けないだろうか。それなら逆に寝るか。
      「出たぞ。入れよ」
       遼二が戻ってきて、ビクッとした。怪訝そうに目を向けられ、また急いで自分の部屋に行き、着替えを持って風呂場に消える。
       そうだった……遼二はシャワー早いんだ。
       そんなことを思い出して、余計に落ち着けなくなった。
       今夜は、遼二とふたりきりだ。
      「なに、これ――」
       シャワーを済ませて仏間に戻ると、蒲団が消えていた。隣の部屋に二組並んでいる。
      「今夜は積もる話があるって言っただろ。別々の部屋で話せるかよ」
      「って、勝手に」
      「勝手じゃねえし。先に言ってあったし」
       ふてくされたように返され、何も言えなくなる。遼二は座卓を元の位置に戻すまでしていた。ごそごそとコンビニの袋に手を入れる。
      「ほら、ビール。おまえが出るまで待ってたんだから、早く座れよ」
       納得がいかないものの、言われたとおりにした。促されて缶のプルトップを引く。
      「この時期になると、こっちは扇風機もいらなくなるって忘れてたわ。東京なんて、まだ熱帯夜だぞ」
      「へえ」
       ほかに言いようもなく、気のない声を返して智明はビールを飲む。座卓に放っておいたわりには冷えていた。
      「べつに、仏壇があるから嫌だってわけじゃないんだ」
      「――え?」
      「こっちに寝るの」
       つい、まじまじと遼二を見てしまう。視線から逃れるようにビールをあおり、ふう、と大きく息を吐き出した。
      「さっきの……オレって、かなり失礼なヤツだったんだな」
      「……なんだよ、いきなり」
       話を戻されるとは思わなかった。気まずくなって智明もビールをあおる。言葉を選んで口を開いた。
      「あんなこと、遼二には普通だったろ。いつもマイペースで思い切ったことしてくれてさ、放送部のやつらなんて慣れっこだし」
       実際に今日の同窓会でも、遼二が急に帰ると言い出したところで誰も驚かなかった。
       しかし目を向ければ、遼二は顔を曇らせている。遼二なりに傷ついたのかもしれない。
      「て言うか、高校生のときの話じゃないか。遼二があんなだったから、全国大会まで行けたってのもあるんだし」
      「じゃなくてさ」
       フォローしたつもりがぴしゃりと返されてしまった。まっすぐに見つめてくる。
      「ああいうことオレにされて、おまえがどんな気持ちだったか、オレはぜんぜん考えてなかったって言いたいんだ」
      「え――」
      「おまえくらいだよな、オレに平気で合わせてこられたのって」
       ドクンと心臓が跳ねた。遼二から目が離せなくなって、大きく見開いていく。
       それを確かめるように、遼二はじっと見つめてくる。真剣な顔だ。
      「オレはさ。いじりすぎるなって今でも柳沢に言われるくらい、おまえにベタベタしてただろ? スキンシップと言えば聞こえはいいけど、やたら絡んでたよな。あの頃は自覚があったわけじゃないけど、思い出したらそうなんだ」
      「遼二……ちょ――」
      「まあ、聞けよ。オレはトモと話がしたくて、今日の同窓会に来たんだから」
       今また『トモ』と呼ばれ、智明は怯えた。いったい何が始まるのか。ビールを持つ手が座卓に落ちて、両手でぎゅっと缶をつかんだ。
      「オレたち、三年間クラスは別だったけど、放送部でずっと一緒だった。高校のときのことを考えると、真っ先にトモが浮かぶ。卒業前におかしくなって、卒業してからは拒否られっぱなしだったけど、ずっとそうだった」
       淡々と話し、遼二は余裕を感じさせる動作でビールを飲んだ。また目を合わせてくる。
      「おまえは、この十年間いろいろあって、自分のことが後回しになってたみたいだけど、少しはつきあったりしたのか? オレはありがちな大学生やって、編集になってからはめちゃくちゃ忙しいけど、かなり遊んだし、真面目につきあったりもした」
       背筋がゾクッとした。その感覚が駆け下り、腰から力が抜ける。
       智明は、愕然として遼二を見つめ返す。
      「けどさ……ダメなんだ。仕事で疲れた日に限って、家に帰ると高校のときのこと思い出すって――さっきも言ったけどさ。そういうの、センチなノスタルジーって当たってると思う。それでも、あの頃はよかったって思うんだよ。トモとドラマ作ったり、ドキュメンタリー撮ったり、意見合わなくてケンカもしたし、チームが別のときは批評し合ったりしてさ。マジ楽しくて……あそこまで気持ちがピッタリくるのはトモだけだって――」
      「遼二!」
       思うより先に声が飛び出していた。勢いで手に力が入り、ビールの缶がベコッとへこむ。
      「……トモ」
      「そんなふうに、俺を呼ぶな!」
       座卓に向かって、吐き捨てた。
      「今さら、なに言い出すんだよ! そんな話するために、わざわざ東京から来たのかよ!」
       畳みかけるように言葉を投げつけるも遼二を見られない。両手の中で潰れた缶を睨む。
       顔をうつむかせていても遼二が息を詰めたとわかった。何か返されるより先に何か言いたい。これ以上、遼二の話を聞きたくない。遼二を黙らせたい、きれいごとなど口にしてほしくない――。
      「俺が……どんな気持ちでおまえのこと無視してきたか、わかって言ってないだろ! ふざけんなよ……今日だって、会ってから今まで、そんなことぜんぜん話さなかったくせに。俺の家に来た途端、言うのかよ。そんなの、卑怯だ。帰れよ……バスなくたって電車なくたって、俺が知るか!」
       思わず手が出た。だが遼二の腕をつかんで強引に立たせるつもりが、逆に手首を捕らえられてしまう。
      「わかってる! つか、やっとわかったから言うんだ!」
      「うるせっ、放せ!」
       もう片方の手で遼二の手を引きはがそうとするが、その手まで捕らえられてしまった。
       座卓をはさんでそろって腰を浮かせ、じりじりと睨み合う。遼二の力は強くて、智明は振りほどけない。
      「智明……頼むから、聞いてくれ」
       やがて苦しそうに顔を歪め、声を上ずらせて遼二が言った。
      「嫌だ! 聞きたくない。やっと忘れられると思ったのに――」
       智明も喘ぎ、どうにか声を絞り出すが遼二にさえぎられる。
      「やっぱり、ずっと忘れてなかったんだな?」
       それにはカッとなった。
      「おまえは忘れたんじゃないのかよ!」
      「オレが忘れるかって!」
       間髪を入れず勢いよく返され、全身から力が抜ける。両手を遼二に捕らえられたまま、智明はずるずると畳にへたり込んだ。
      「どうして……」
       胸が苦しい、押し潰されそうだ。ついに、遼二は『あのこと』に触れてきた。
       卒業式の日だった。この日を最後に遼二と離れ離れになると思ったら、自分を抑えられなかった。
       ずっと遼二が好きだった――それが恋だと自覚できたときに、失恋したけれど。
       二月のあの日、放送室でキスをしている遼二を見てから、いっそう避けるようになっていた。男に恋した自分が後ろめたくて、女子とキスする遼二に惚れた自分がみじめで、顔を合わせられなかった。
       遼二にしてみれば、避けられる理由が思い当たらなくて、ひどく理不尽に感じられたはずだ。尋ねても何も答えない自分に、苛立ちを隠さなかった。
       言えなかった――遼二が好きだ、なんて。同じ大学に進学できなかっただけでなく、遼二が東京へ行ってしまうことが淋しくてならないなんて、絶対に言えなかった。置き去りにされるように感じているなんて――だから今までのようにはもうつきあえない、なんて。
       なのに、卒業式が終わってほとんどの生徒が下校しても遼二と放送室にいた。それまで避けていたことが嘘のように多弁になって、遼二を離さなかった。
       なぜ遼二が快くつきあってくれていたのか、十年経った今もわからない。下校を促す校内放送で教師がやって来たときになって、卒業のクラス会に間に合わなくなるから帰宅すると急に言い出した。
       遼二は自転車通学だったから、駐輪場までついて行った。そこから肩を並べて正門に向かって歩き出したときだ。信じられない焦燥感に襲われた。
       正門を出たら、遼二は自転車に乗って自分とは逆の方向へ行ってしまう。そのときが、遼二との別れだ――。
       遼二を見つめて、足が止まっていた。怪訝そうに見つめ返され、泣きたくなった。
       本当に、好きだったのに。この気持ちに気づくことすらなく、遼二は行ってしまうのか。
       ――そんなの、嫌だ。
       知らず手が伸びていた。制服の襟を鷲づかみ、遼二を強引に引き寄せて伸び上がった。
       唇を重ねた瞬間、せつなさと歓びに全身が震えた。遼二とキスしたかった。遼二が誰かとキスしているのを見てから、ずっと。
       だが、遼二に突き放されて現実に返った。あのときの遼二の顔――あんな顔を見たのは初めてだった。普段の余裕をまったく失い、驚きに強張っていた。
       そして声を出す間もなく、遼二は自転車にまたがり、正門の外へと消えた。
       いったい何が起こったのか――失恋に失恋を重ねたと気づくまで立ち尽くしていた。
       遼二は行ってしまった――目の前で、本当に置き去りにされた。
       じわりと歪んだ視界に桜の木が映っていた。つぼみもつけてない姿に、友人としても遼二と終わったのだと気づかされた。涙が溢れて止まらなかった。
      「――どうして、今ここで話すんだよ。高校で話せばよかっただろ……」
       あの桜の木の前を二度も通ったのだから。そうしたら家に連れてこなかった。あの場で遼二と別れて、今度こそ忘れられた。
      「こんな大事な話、外でしろって言うのかよ」
      「大事って、おまえが言うかよ!」
       あの日のように、また泣いてしまいそうで智明は嫌だった。それを隠して遼二をきつく睨みつけるが、遼二はフッと表情をゆるめる。
      「オレはさ。おまえと話すために今日ここに来たんだぞ? 何度でも言うからな」
      「だから……なんでだよ――」
       あの日から、遼二を忘れたい一心で、遼二からのメールも電話も手紙もすべて無視してきた。自分の気持ちを伝えて拒絶された以上、もう元のようにはつきあえなかった。最後には、携帯電話を変えるまでした。
       みじめだった――そんな自分が。男のくせに遼二に恋して。女子を話題にふたりで盛り上がったこともあったのに。そういったことすら、自覚がなかっただけで、本当は遼二と密接にいられたから楽しかったなんて。
       遼二より先に自分が女子とつきあっていたなら、遼二への恋心に気づかずにいられたのだろうか。
       そんなことまで考え、自己嫌悪に陥った。自分が女子とつきあうなんて、あるはずがなかった。告白されても少しもその気になれなかったのは、遼二といるほうが楽しかったからだ。女子とつきあって遼二といられる時間が減るなら、まったくの無意味だった。
       なのに、自覚できたときには失恋していて、思いを伝えたときには完全に拒絶された。
       大学生のあいだに、一度だけ無茶をした。どんな偶然だったのか、遼二から何も来なくなった頃に自分を好きだと言う男に出会い、何度か抱かれた。遼二を忘れたくてしたことが、彼ではなく遼二に抱かれていると夢想するまでになり、いっそう自分を苦しめた。
       就職してからは出会いもない生活だった。だから、あえてつきあったと言える相手は、大学生のときの彼ひとりだけだ。それすら恋ではなく、結局、自分は――十年ものあいだ、遼二への未練を引きずっていたことになる。
      「嫌だ……こんなの、生殺しだ」
       遼二に両手を捕られたまま、智明は座卓に突っ伏す。涙が滲み、胸が苦しくてならない。
       まだ、好きだなんて……。
       どうして遼二を家に連れてきてしまったのだろう。卒業式の日のことが『なかったこと』になるなら、元の関係に戻れるかもしれないなんて、それこそ都合のいいきれいごとだ。
      「何も聞きたくない……頼むから、もう何も言わないでくれ」
       だが、遼二の声がやわらかく降ってくる。
      「智明。オレはおまえと昔話がしたくて来たんじゃない。あの頃はよかったって話すだけじゃ、本当に、ただのノスタルジーだ」
      「だったら、なんで蒸し返すんだよ! 俺がどんな気持ちだったか、ぜんぜんわかってないじゃないか!」
       顔を上げた勢いで、両手を座卓にしたたか打ちつけた。そうなっても捕らえられたままで、睨み上げた遼二の顔が苦痛に歪む。
      「おまえなんか、好きになるんじゃなかった」
       智明は止まらない。感情が昂ぶり、目から涙が溢れ出す。
      「キモイんだよ、自分が! いつになったら忘れられるんだよ、もう十年だぞ――」
       まくし立てるが声が詰まった。こんな自分が嫌だ。自分が吐き出した言葉に責められる。並べ立てた言葉の裏で、自分はまだ遼二に期待している。
      「……嫌ってくれれば、よかったのに」
       低く漏らし、また座卓に突っ伏した。
       束の間の沈黙に包まれる。遼二が身じろいだとわかる。耳元でささやかれた。
      「嫌いになれたら、よかったんだけどな」
       深い溜め息が湧き上がり、うつぶせた顔の陰で智明は嗚咽をこらえる。
      「一度は、嫌ったかな。一方的に拒否られてさ。けど、あれで智明が本気だってわかった」
       遼二のささやきは続く。智明は動けない。
      「重かったよ……おまえの気持ち。オレも逃げたんだ。一番の親友をなくすのは惜しかったけど、おまえの気持ちには応えられないと思って、オレから連絡するのやめた」
       遼二の溜め息が智明の耳に吹きかかった。それでも智明は嗚咽をこらえて震えている。
      「けどさ――オレも忘れられないんだ。なら、無理に忘れなくたっていいわけでさ。だから逃げるのをやめた。おまえもオレから逃げるの、やめろよ」
       ヒクッと智明は肩を揺らす。遼二を見上げようとして、だがそれができない。座卓の上でいまだ握られている両手に遼二のぬくもりを感じる。
      「オレたち、やり直せないか? オレは、おまえと未来を話したい」
       ドクンと智明の胸は高鳴る。信じがたい言葉に耳を疑い、細い声を漏らした。
      「……未来って」
       遼二と未来があるなんて、一度も考えたことがない。遼二とは卒業式の日に終わった。そうではなかったのか。
      「十年も経つのに――」
       智明はそろそろと顔を上げる。キッと遼二を睨みつけた。
      「どんな未来だよ! 適当なこと、言うな!」
       今また傷ついたなら、今度こそ二度と立ち直れない。自分に都合のいいように、遼二の言葉を受け取っては駄目だ。
       目と鼻の先で遼二の顔が悔しそうに歪む。いきなり怒鳴りつけてきた。
      「ったく、どこまで強情なんだ! オレのせいか? ああ?」
      「逆ギレかよ!」
      「逆ギレもするだろ! 自分だけ不幸な顔してんじゃねえよ、オレのほうが泣きてーよ!」
       智明は、ぐっと唇を引き結ぶ。隠していた泣き顔を遼二にさらしてしまっていた。
      「ってさ、泣くほどオレが好きなんだろ!」
       握っていた両手を遼二は揺さぶってくる。
      「るせ、俺を置き去りにして振ったくせに!」
       逃れようともがきながら智明は言い返した。
      「んな、昔の話してんじゃねえよっ。未来の話だって、言ってんだろーが!」
      「どんな絵空事だよっ」
      「絵空事って、おま――」
       ピタリと遼二の動きが止まった。見る間に丸くなった目が、まっすぐに見つめてくる。ぐいと、乱暴に両手を引かれた。
      「なにす――んっ」
       抗議の声は重なった唇に消された。遼二の舌が強引に侵入してくる。またたく間に舌を絡め捕られ、強く吸われた。
      「ふ、……ん」
       抗いようのない感覚が背筋を駆け下り、息が鼻に抜ける。奪われたキスで感じてしまう自分に智明は戸惑う。
       だけど、相手は遼二だ。いや、遼二だからこそ――。
       座卓をはさんだ向こう側から、両手を引かれて執拗に唇を貪られて、否応なしに背がしなる。キスのもたらす快感は甘い毒となって、指先まで痺れさせて全身から力を失わせる。
      「ん、ふ」
       苦しい体勢で、智明は喘いだ。舌を絡ませ合い、ぴちゃっと濡れた音を耳が拾う。そのままゆっくりと立ち上がった遼二に吊るされるようにして、どうにか立ち上がる。
       座卓の角を大股でまたいできた遼二に、腰を強く引き寄せられた。たまらず、ようやく自由になった腕で遼二の首にかじりつく。
       いつ飽きるとも知れない、深く長いキスになった。信じられない思いに揺れながらも、遼二に求められた歓びに智明は酔う。
       やがて遼二はキスを解き、智明の頬を手のひらに包んで、間近から目を覗き込んできた。
      「……どうよ。これが絵空事か? ライターは言うことが違――」
      「絵空事だよ、十分」
       遼二をさえぎり、遼二の肩に額を押し当て、智明は熱い吐息を落とした。まだ胸がドキドキと鳴っている。
      「ったく、強情なんだから。高校のときから、マジ変わってない」
       そんなことを笑い混じりに言うから、また泣きたくなった。
      「じゃなきゃ、オレと渡り合えるわけねえよな。ホントに、オレ泣かせだよ。結局、舞い戻っちまった」
       耳元に唇を寄せて、遼二はゆったりと背を撫で始める。
      「忘れられなかったのは、オレだ。おまえと違って一時は忘れた気になったけどな。でもダメだったんだ」
       低く甘いささやきが、耳の奥に流れ込んだ。
      「この十年、オレにもいろんなことがあった。挫折も知ったし、女とも何人かつきあったし、別れたし。そういったことの先に、おまえしか見えなくなっていた。やっぱ、おまえじゃなきゃダメなんだって、わかるまでこれだけの時間がオレには必要だったんだ」
       智明の胸を痺れさせて、遼二は続ける。
      「虫がいいと自分でも思ってる。なじられるのも覚悟だった。けど、おまえがまだひとりなら、口説き落として連れ帰るつもりで来た」
       智明は大きく胸を上ずらせる。遼二になだめられる心地よさに浸っていた。ゆったりと背中を上下する遼二の手のぬくもりが、全身を満たしていた。
      「……トモ?」
       遼二の声音が不安そうに変わる。
      「まだ、ダメか?」
       クスッと智明は笑ってしまう。傲慢だとか暴君だとか言われる遼二が、このありさまだ。
      「――ヘタレ」
      「え?」
      「俺を置き去りにして逃げたくせに」
      「う――」
       そのくらい言って甘えても、今は許されるように感じた。
      「わがまま、自分勝手。俺を東京に連れていくのかよ」
       遼二が覗き込んでくる。思いきり首を曲げて、横から見上げるようにして。
      「――連れていく」
       目が合った。たまらない至近距離で。遼二は恐ろしく真顔だ。
      「……傲慢」
       今再び、智明の鼓動は駆け出す。急激に高まり、早鐘のように鳴り響く。
      「そういうオレが好きだったんだろ……?」
       遼二の吐息が甘ったるく唇を掠めた。
      「言ってろ」
       智明は歓喜に喘ぐ。
      「ずっと言ってろ、そのとおりなんだから!」
       言い放ち、遼二の唇にむしゃぶりついた。
       きつく抱き合い、キスを貪り合いながら、足をもつれさせて隣の部屋になだれ込んだ。


      つづく


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