Words & Emotion   Written by 奥杜レイ



千のしずく

−4−


 『エンドレス・シャワー』は、いよいよクライマックスに入った。
 リオに親しみを抱いた笙は、リオの姿を探すようになる。ふたりの会話はカタコトの英語のみ、意志を伝えるのに笙は苦労するのだが、言葉がなくても素振りや表情で気持ちが伝わる心地よさを感じていた。
 会話の不都合はありながらも、リオは17歳の高校生で、学校が休みの日は両親が働くホテルの雑用のアルバイトをしているのだと笙は知り得た。
 笙は、知らず、日本の17歳とリオを比べている自分に気づく。日本の17歳に比べれば、すれていない分幼くも見え、また逆に、誠実な態度に大人びた雰囲気をも感じるのだった。
 リオの姿を探し、目で追い、幾度となくつたない英語でリオと話すうちに、笙の中でリオは特別な意味を持ち始める。
 多くの言葉を尽くさなくても互いを感じ取れる相手――気持ちがぴたりと添い、どこかでつながっているようにまで感じられる相手。
 笙の心の隙間に滑り込むようにして、笙の中でリオの存在は大きくなっていった。
 くせの強い巻き毛の黒髪、褐色の肌、伸びやかな肢体、この地の太陽のように明るい笑顔、こまやかな心づかい――そのすべてが笙には好ましく、眩しく目に映る。
 リオを失いたくない。帰国する日が来るのが怖い。自分とリオをつなぐ、もっと確かなきずなが欲しい――笙はそう思うようになる。と同時に、リオの肉体をも欲している自分に気づいて笙は愕然とするのだった。
 それまでの笙に同性愛の経験はなかった。そのかけらさえ、自身の中に見つけたことはなかった。しかし、笙がリオに抱いた感情は、まぎれもなくそれで、そのことに気づいた笙は、そんな自身に戸惑い、情動を抑えようとする理性と情動に流されてしまいたい感情とに引き裂かれる。
 それは、あっと言う間に限界を迎えるのだった。

 午後のひととき、太陽の光は灼熱と化し、海岸線に広がる白い砂浜を焼き、人々をパラソルの下や木陰に追い込む。それは、やがてくるスコールによって拭い去られるのだが、それまでは強い海風しか人々の熱を冷ますものはなかった。
 笙はヤシの木陰に横たわり、かげろうの立ち昇る砂浜を眺めていた。明日には帰国しなくてはならないのを思うと気持ちが沈んでしまうのはどうしようもならない。
 日本に帰ったところで、ここに来る前と何も変わりないのはわかっていた。ここに来て自分が変わったとするなら、それは、おぼろげな死への願望が薄れたことだ。しかしそれも、ここにいるからではないだろうか。ここにはリオがいるから。生き生きとしたリオを目にするだけで、笙は生きる力を分け与えてもらっているように思えた。
 帰国してしまえばリオを目にすることもできない――。
 どうしようもない苛立ちがつのる。こんなにもリオと共にいたいと望む自分がいる。滞在を延長するにも、失業中の身では、自由に使えるのは時間だけで、滞在を延長するに足る金など笙に残されてはいなかった。
 笙の苛立ちなど少しも知らないように、リオはきまぐれに姿を現す。リオに他意がないのはわかっていた。けれど、笙の目には、リオの行動がきまぐれに映ってしまうのだ。
 明るく、くるくるとよく変わる表情――心の奥のひだまでを見せてくれるような表情に、何度ときめいたか知れない。リオのような少年に会ったことなどなかった。
 いや、そうではない。リオのような少年、ではなく、リオのような人物に出会ったことがなかったのだ。
 今までに深く交際したどの相手よりも、恋人となりえた相手よりも、リオは身近に感じられる。ふたりの掛け橋となる言葉が少ない分、気持ちが奥底でつながっているとしか笙には思えなかった。
 失ってしまったら、二度と出会えない。これほどまでに気持ちがつながる相手なんて、ほかに見つけられない。
 色とりどりのパラソルがあちらこちらに広がる中、砂浜を歩く人影は見当たらなかった。この暑さでも海の中で遊ぶ人はちらほらと見えるのだが、その誰もが首だけを海面に出してゆらゆらと浮いているだけだ。
 だから、並ぶパラソルの向こうを歩くリオの姿は、笙には簡単に見つけられた。黒いTシャツに短パンという、いつもの服装だ。なだらかな海岸線の先、突き出た断崖の方へと向かっていく。
「リーオ!」
 大声で呼んでみた。強く吹きつける海風にかき消され、その声が届いたのは周りにいる人たちにだけで、リオは振り返りもせずに遠く歩み去っていく。
 笙は慌てて立ち上がるとリオを追った。熱く乾いた砂に足が取られ、思うようには走れない。地元育ちのリオには簡単には追いつけそうになかった。
 ビーチを離れ、断崖の下、リオの姿は岩場の陰に消えていく。波打ち際の濡れた砂の上に来て、無意識のうちに笙の足は速まる。素肌に羽織った薄手のダンガリーシャツが、強い海風を受けて大きくふくらんだ。不精をして長く伸びた髪が顔にからみついた。
 リオを見失ってしまう。
 髪を払い、笙は駆け出した。岩場に来ても足をゆるめなかった。
 リオの後ろ姿が見えた。次の瞬間、ふっと断崖の中に吸い込まれるように消えた。
 リオが姿を消したその場所まで来てみると、海岸の途切れたそこには洞窟の入り口のような穴が海に向かって小さく開いていた。海水に足をひたし、ためらいなく笙はその中に入る。
 海水はトンネルのように続く穴の先にまで及んでいた。笙は手で岩肌を伝いながら、低い岩に頭をぶつけないように体をかがめ、膝まで濡らして先を急いだ。目指す先は明るく、足をひたす海水は次第に浅くなっていく。
 奥までたどり着くと、笙は息を呑んで立ち止まった。
 そこは、ドーム状に開けた洞窟の中に広がる砂浜になっていた。広さはそれほどない。見上げれば高さがあり、ところどころにコケやシダが生えた岩の天井のほぼ中央に、穴がひとつぽっかりと開いていた。その穴から、太陽の光が洞窟内に降り注いでいるのだった。
 笙には後ろ姿を見せ、リオはその穴の真下に立っていた。頭を後ろにそらし、天井の穴を見上げている。と、片腕を高く伸ばした。まるで、降り注ぐ太陽の光をその手で受け止めるかのようだった。
 その姿に見とれ、笙はしびれたように動けなくなった。
 洞窟内に降り注ぐ太陽の光は、輝く柱のように見える。足首まで海水にひたし、自然の生み出したスポットライトの中にいて、リオには近寄りがたい雰囲気があった。
 全身に太陽の光を浴び、すらりと伸びるリオの肢体は美しい。伸びきったまま少しも動かない姿は、生きた彫像のようにも見えた。
 笙の鼓動はなんの前触れもなく高まった。呼吸が苦しくなるほどに駆け出していく。その時だった。
 もう聞きなれた音が笙の耳に届いた。岩の天井に開いた穴からシャワーが降り注いできたのだ。スコールだ。
 幾千、幾万もの雨粒が、その一粒一粒をきらきらと煌かせながら、勢いよく太陽の光と共にリオの肢体を打った。
 太陽だけではなく、雨の恩恵をも受けるかのように、リオは依然として身動きしなかった。顔を上げて高く腕を伸ばした姿勢のまま、光と雨に流された。
 またたく間にリオの体はぐっしょりと濡れる。高く伸ばされた褐色の腕を雨筋がつたい落ち、くせの強い黒い巻き毛も、黒いTシャツも、細い肢体にしっとりと貼りついた。
 ぴくりと動いたように見えた次の瞬間、リオはおもむろにTシャツを脱ぎ捨てた。すかさず、短パンも何もかも、すべてを脱ぎ捨てる。一糸まとわぬ姿になり、リオは両手を高く上げると、くるりと回った。
 濡れて輝く褐色の裸体――大きくくっきりとした黒曜石の瞳が、笙の目とぴたりと合った。
 リオは、一瞬の羞恥の表情を見せたあと、にっこりと笙に笑いかけたのだ。
 笙の中で何かがはじける。恐る恐る一歩を踏み出せば、あとは無我夢中で、しぶきを上げてリオに駆け寄ると、気づいた時にはきつく抱きしめていた。
『アイラブユー(愛している)』
 抱え込んだ小さな頭に頬を寄せ、笙はリオの耳元でささやいていた。
 伝える言葉が少ないほど、気持ちは端的に表される。
『……ミートゥー(ぼくも)』
 ためらいがちに返されたその声に、笙はリオの頬を両手で包むと、ふっくらとした愛らしい唇を情熱にまかせて奪ったのだった。


 その後、笙はその場でリオへの想いを遂げる。洞窟内の浅瀬にリオを横たえ、しなやかな肢体をすみずみまで味わい尽くすのだ。
 我ながら、なかなかロマンティックに書けたと思う。笙のリオへの想いを描く、心情描写が主軸であるため、リオの笙への想いの描写がいくぶん希薄に感じられるが、まあ、これは笙の物語であるわけで、許容範囲だろう。
 最後の1行を書き上げ、俺にできることはすべてやったと言えるまで何度も推敲を重ね、原稿が完成したのは金曜日の午後だった。
 〆切の月曜日まで日はあるけど、これ以上手元に置いていても何もすることはない。ためらいなく、俺は富樫さんに電話した。
 原稿を取りに富樫さんがやってきたのは、その日の午後6時を回る頃だった。弓削くんも一緒だったのは当然だろう。
「富樫です」
 呼び鈴の音に玄関のドアを開けると、目に飛び込んできたのは、白いブラウスに黒いタイトスカート姿の凛とした風情の女性だった。
「あ、美園です――」
 弓削くんの紹介を待たずに名乗った富樫さんに、つられるように俺も答えていた。
「お初にお目にかかります。ごあいさつもなく、今までは電話で大変失礼いたしました」
 富樫さんは深々と頭を下げた。ちょっと困って弓削くんを見れば、弓削くんも引きつったような笑みを口元に浮かべていた。
「でも――」
 長い黒髪をアップにまとめた頭を上げ、富樫さんは俺をじっくりと見る。フレームレスのメガネの奥で瞳を光らせ、こってりと塗られた紅い唇の端をくっと上げた。
「な、なんでしょう……」
 気圧されて、俺は怯んだ。このタイプの女性が、実は一番苦手だ。
 いかにもやり手という雰囲気をまといながらも決してがさつな印象は与えず、失礼ながら言わせえてもらえば、胸は巨乳に分類されるほどの豊かなふくらみを見せている。
 はっきり言って美人だ。メガネと、モノトーンの装いと、手にした黒の大きな皮製のバッグのせいで知的に見えるけど、チャイナドレスなんか装わせれば、濃厚な艶を放つ、女王蜂のようなイメージだ。くびれたウェストが何よりの証拠だ。
 と、頬に片手を当てて、うっとりと富樫さんは言った。
「美園先生……お噂以上にステキですわ」
 ど、どひゃ〜……。
 富樫さんを一番苦手なタイプと認識した途端にコレだ。俺は、助けを求めるように、そろそろと視線を弓削くんに移した。
「では、先生、原稿を――」
 しかつめらしい顔で弓削くんはそれだけを言った。
「あ、そ、そうだったな――」
 部屋に取って返し、俺はほっとする。原稿を入れた茶封筒の中身を確認し、玄関に戻った。
 俺に気づいて、何か話していたふたりは急にかしこまった。弓削くんが富樫さんの態度を注意してくれたのかもしれない。ナイスフォローだ、弓削くん。
「……確かにお預かりします」
 原稿を確認し、富樫さんは俺の渡した茶封筒を大きなバッグにしまった。代わって、中から取り出した封筒を俺に差し出す。
「こちらが先日お願いした質問の一覧です。項目ごとに空白をもうけてありますので、その欄にご回答ください」
「え――あ、わかりました」
「こちらはご記入を終えられましたらファックスで結構ですので、お送りいただけませんか」
「富樫さん」
 たしなめるように弓削くんがさえぎったが、俺はにっこりと応じた。富樫さんとはあまり顔を合わせたくない。
「ええ、そうさせてもらいます」
「では、よろしくお願いします」
 富樫さんと弓削くんは、そろって頭を下げると、それで帰っていった。
 マンションの通路を遠ざかっていくふたりの後ろ姿を見送って、ドアを閉めようとしたときだ。富樫さんと何か話しながら歩いていた弓削くんが振り返り、戻ってくるのに気づいた。
「先生」
 駆け寄ってくると、少しはずんだ息で弓削くんは言う。
「富樫さんに悪気はないので、富樫さんの態度は気にされないでいただけませんか?」
「そんなことを言いに戻ってきたのか?」
 呆れたように言えば、真剣な顔で弓削くんは首を振る。
「なに言ってるんですか、先生がどんな印象を富樫さんに持たれたのか、僕にわからないとでも思うんですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど――」
 思わず、指先で頬をかいてしまった。弓削くんの気づかいが照れくさく、気恥ずかしい。
「先生――僕は、先生と2年間を共に歩んでこられたことをとても誇りに思っています。先生と共に歩めた2年間は、僕にとって大きな意味のある経験になりました」
 そこまでを一息で言うと、弓削くんはためらいを見せ、それを振り切るかのように俺の両手をはっしと握った。
「これからも、僕は、先生を応援していますから。僕は、いつまでも先生の一番の読者ですから。だから、先生も――」
 俺の手を握る弓削くんの手はしっとりとあたたかく、包まれた指先から腕をつたって、俺の胸の奥まで、その熱は届いた。
「先生のことは僕がよく知っています。ですから、新しい環境に慣れるまで苦労されることがあっても、ご心配なさらずに執筆に専念されてください」
「ゆ、弓削く……ん?」
 言い終えると俺の手を振り払うようにほどき、くるりと背を向けて駆け去っていった。
 遠く、エレベーターホールで弓削くんを待つ富樫さんの姿が認められる。弓削くんは富樫さんのところまで駆けっぱなしで、たどり着くと、ぺこりと富樫さんに頭を下げた。
 エレベーターが来たらしく、すぐに、ふたりの姿は右手の壁に吸い込まれるように消えていった。
 玄関のドアを閉めて室内に振り返れば、しんと静まり返った空気に押し包まれた。
 ため息が出る。なぜだか、出る。一気に疲れが出てきたのは、原稿を上げた安堵からなのか。
 部屋には戻らず、バスルームに行って風呂に湯を張った。いっぱいになるのを待つあいだに、夕食はそうめんで簡単に済ませた。
 淡々とした日常の営みを機械的にこなしていても、心の底に何かがわだかまっていくのを止められなかった。風呂に入って湯につかり、体を大きく伸ばして、俺は思いをめぐらせる。
 さっきの弓削くんの言動――。
 しゃれたスーツをビシッと着こなし、いつだって一分の隙も見せない彼が走る姿なんて、初めて見た。
 それよりも、帰り際に俺に残した言葉――。まるで、もう二度と会うことがないかのような、そう――別れのあいさつのように聞こえた。
 思い返してみれば、それは今日が初めてのことではない。今回の仕事を俺に持ちかけてきた時点から、弓削くんはどこかおかしくはなかったか。
 そもそも、今回の仕事はどこから出た話なんだ――?
 書けないと嘆く俺に、リハビリだと言って今回の仕事を持ちかけたのは弓削くんだ。ジャンルを変えれば、案外、書けるんじゃないかと言って――。
 書けないと信じて疑わなくなってしまったとき、それでも何かしら書いて完結させられれば自信につながるのは、今回の仕事を通して俺自身が実感したことだ。弓削くんの判断は的確だったと言える。
 けれど、それを仕事として俺に持ちかけるには、弓削くんひとりの力でどうにかできるものではない。
 もしかして、俺は、二度と『月刊お色気小説』では書けないのかも――?
 代替原稿がすぐに用意されたのを考えれば、それはありえる話ではないか。俺はとっくに『月刊お色気小説』から切られていたのかもしれない――。
『僕自身が先生のファンなんですよ』
 お愛想でも何でもなく、本心として何度も語られた弓削くんの言葉が胸の奥に反響した。それと同時に、さっき俺の手を包んだ弓削くんの手のぬくもりが、風呂の湯以上のあたたかさでよみがえってくる。
 あの手を、俺は放してはならなかったのではないか。一度放してしまえば、もう二度とつかむことのできない手ではなかったのか。
 スランプにおちいり、畑違いの作品を書くまでに至った俺だけど、今の俺があるのは弓削くんあってだ。それだけは間違いない。
 弓削くんと歩んだ2年は意義深いものだった。弓削くん自身が俺に語ったのと同様に、俺にも大切な歳月だったのだ。そんなことは、弓削くんの口から聞かされる前から、俺自身が身にしみて感じていたことだ。
 生まれ故郷を離れ、大学進学と同時に俺は上京した。初対面が苦手な上、人付き合いが下手な俺が親しく付き合える相手なんて限られていた。
 就職し、社会人になってからは、ますます交際範囲は狭くなった。それは、執筆に専念するため勤務先の書店を退職してから、さらに拍車がかかった。
 今の俺に、腹を割って話せる相手なんて、弓削くんしかいないじゃないか。どうしてこうなるまで、それに気づかないんだ、俺は!
『不器用なところは、一概に先生の欠点とは言い切れませんよ』
 いつだったか、弓削くんにそう言われたのを思い出した。
『不器用だから、先生は内に秘めた想いを文章につづられるんじゃないですか。口に出して人に伝えられるようなら、小説なんて書いてないんじゃないですか?』
 初めからしっくり行っていたわけじゃない。俺の原稿をめぐって何度も話し、弓削くんが誠実で率直なのがわかったから、俺も次第に心を開けるようになり、やがて多くを語り合わなくてもわかり合える相手になっていた。
 ベストパートナー。
 それは、作家と担当編集者の関係以上のものだったのだ。いつのまにか、弓削くんは俺の心の支えになっていたのだ。
『これからも、僕は、先生を応援していますから。僕は、いつまでも先生の一番の読者ですから』
 はっきりと自覚できていなかった俺の気持ちまで見抜いて、きっと、弓削くんはそれを言ったのだろう。
 弓削くんとは――そういう男なのだ……。

つづく




NEXT   BACK   作品一覧に戻る



素材:Mistiqu